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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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06月25日(火)

太田喜二郎邸

太田喜二郎邸ほど、物静かで気配を消した建物は、世の中にそうはたんとはありますまい。
といっても、人里離れた山の中にあるわけでも、路地奥の分かりにくい場所にあるわけでもありません。 京都でも名の知れた、大きな通りに ででん と面している。
ここにあるぞ と、余程意識していても知らず知らず、いつの間にやら通り過ぎてしまう。 藤井厚二の作品なのだ と、厳しく言い聞かせても、気づいたら通り過ぎていた。 そのくらい、つくづく目立たない存在なのです。

あらためて、建築家・藤井厚二の残した住宅のプランを振り返ってみると、どれも随分ぼこでこしていて、一つとして整形にまとまった試しがありません。
たぶんそれは、その土地の環境、あるいは地形であったり、陽の差し込み具合や風の流れ といった、固有の要素を注意深く読み取りながら、そこで立ち働く女中を含めた家族皆の幸せのために、外側(表層)からではなく内側(本質)から、あくまでも合理的に、偽りなく素直にカタチにしているからなのだと気づきます。
要領が悪い というよりも、生来、胡麻化すのが嫌いな性分なのでしょう。

材料は、基本的にその土地で当たり前に手に入るもの。 たとえば、屋根材であれば瓦や銅板、壁材であればしっくいや板材といった具合に。
実は、材料の選択は断熱性能の実験データに基づいていたり、目につかない部材同士の収まりに工夫が凝らされていたり、慎重には慎重を重ね、くれぐれも環境との調和を乱さぬよう、細心の注意を払ったうえで信頼に足る棟梁の手へと託され、入念に施工されている。 ぼこでこしていたって、ちっとも構わない。 公共建築と違い、個人の住まいである住宅が、殊更に人目を引く必要などないのですから。

洋画家である太田喜二郎が、自邸兼アトリエの設計を藤井厚二に依頼した理由。 それは、双方が同じ職場で働いていたから。
京都帝国大学に建築学科が新設されたのが1920(大正9)年。 建築の専門家である藤井が建築学科の講師へと着任し、後進の育成に携わっていた同じ学び舎で、太田もまた絵画教育に携わっていた。 しかも、同じ建築学科の学生に対してです。
定規や製図台を使った工学系の実習と並行して、芸術的な素養を身に着ける目的からフリーハンドによるデッサンや油彩画の実習が行われていた都合上、お互い顔見知りとなったのがきっかけとなり、その後、職場を離れても家族ぐるみで付き合うほど仲の良い間柄に発展したとのこと。

おそらく、設計を依頼した当初は、職場の同僚だし年齢も近いから… といった、ごくごくありふれた理由だったものと思われます。そこはお互い、分野は違えど創作の世界を生業とする身ですから、建築のことは万事、藤井に任せる方針でプロジェクトが始まったのでしょう。
第一期工事では、将来の増築も視野に入れながら(肝心の)住居空間に加え、仕事場となる必要最小限の画室、そして双方をつなぐように接客スペースを組み込んだ、慎ましいながらも椅子座と床座が仲睦まじく融合する、西欧の模倣ではない、日本人のためのモダンで快適な建物が姿を現します。 ちなみに、画家のアトリエを手掛けたのは、藤井のキャリアの中でも太田喜二郎邸が最初で最後の機会だったそうです。

藤井が最初に設計した画室は、三方向に窓が設けられた、自然採光や通風に優れる、すこぶる居心地よい空間で、庭への眺望から視覚的な広がりを、隣接する応接間との間の建具を開放すれば空間的な広がりをも得られる。 それはそれは非の打ち所のない、秀逸な出来栄えだったものと推察されます。
これも単なる推測にすぎませんが、実際出来上がった建物に暮らし始めて以降、施主と建築家という立場を超え、創作者同士が腹を割った、今でいうところのコラボレーションが繰り広げられる、本当の意味での創造的な出発点に立ったのではなかろうか と。

あたたかな障子窓から漏れ入る、やわらかな光に満たされた画室空間を見事に実現してみせた、光線こそが精神的な安らぎの源と主張する藤井に対し、光そのものに意味を見出し、色彩に置き換えようと試みる太田との二人三脚による、新画室棟のための第二期増築計画が始まるべくして始まり、その道を究めようとするプロ同士、お互いを尊重しながらも更なる高みに到達しようとしのぎを削る… 。 苦しいながらも、さぞや充実した、夢のようなひと時であったに違いありません。

太田喜二郎邸

太田が望んだのは、天井高さが4mを超える空間にたった一か所、北向きの腰高なガラス窓から音もなく光が降り注ぐ、どこまでも静謐に、ピンと張りつめた空気を孕んだアトリエ。
そのアイデアを、藤井が最大級の敬意をもって嘘偽りなく具現化し、その背後に、あたかも二人の友情を記念するかのように、庭に面しておおらかに開かれた、しごく暢気で肩ひじ張らぬ茶室を併設することで、ささやかなプロジェクトに自ら終止符を打ったのではないでしょうか。

吹き抜けというほど仰々しくはない。 切妻屋根によって切り取られた天井の高い新画室棟は、平屋建てよりは幾分上背はあるけれど、二階建てには及ばない。 図らずも、伝統的な京町家でいうところの厨子(つし)二階の背丈。
ちょうど、日本人が最も心安らぐ絶妙なスケール感を授かり、大半がしっくい壁と板壁とに覆われた無愛想さ加減が功を奏して、しみじみと心地よいくらいに目立たない。 いえ、きっとこんなのを 端正 とでもいうのでしょう。
だから、太田喜二郎邸ほど、物静かで気配を消した建物は、この世の中にそうはたんとはありますまい。
 
05月25日(土)

牛島別邸

1986年、建築家の宮脇檀が50歳の折に手掛けたちいさな別荘があるらしい と知ったのは、つい最近のこと。 ドローイングに焦点を当てた巡回展でみつけた、さらさらっと描かれた数枚のスケッチからでした。

常時20件近くのプロジェクトを抱え、文才にも恵まれて数々の著作を発表、大学で後進の育成にも携わる。 まばゆいほどに輝かしい経歴の円熟期に産声を上げた仕事にしては、本当に地味で目立たない。
「牛島別邸」 と題された、平面図に加えラフな断面図と外観透視図、それから、家具類や住まい手の姿までが描き込まれた内観透視図は、いずれも短時間で作成されたものに違いなく、代表作に名を連ねる作品のように高度で目を瞠るような空間構成もなければ、とりたててスタイリッシュというわけでもない。 実際に建てられてはいるようだけれど情報が乏しく、果たして現存するのか、そもそもどこにあるのかさえも定かではありません。
それなのに、なぜかひどく心を惹きつけられる、不思議な魅力にあふれているように思えて仕方がなかったのです。

職業柄、インテリアに造詣が深く、椅子のコレクターとして知られるだけでなく、家事全般もソツなくこなし、とりわけ食に関しては、どんなに忙しくても自らキッチンに立ち、家族とともに食卓を囲む時間を大切にする。 せっかくの人生なのだから前向きに、暮らしを楽しみたい。 そんな、日々の生活に対するちいさな眼差しと、街並みや風景としての住まいに対するおおきな眼差しの両方を持ち合わせた稀有な建築家。
失礼ながら、つくづく地味で写真映えしない牛島別邸は、お世辞にもメディア受けする類の作品ではないため、おそらく世間で注目されることはこの先もないのでしょうが、建築家としてはむろん、一人の人間として、父親としての宮脇檀が、気負わず素直な自身のまま到達した 理想の住まい に相違ないと、確信している次第です。

宮脇の描いた平面図(兼配置図)を見る限り、牛島別邸の敷地は、樹々がすくすくと生い茂る南向きの斜面地。 別荘地として知られる軽井沢、あるいは蓼科あたりでしょうか。
街なかの敷地であれば自ら積極的に、能動的に景観をつくってゆくところを、ここではあえて自然の景観に逆らわないよう控え目に、あくまでも受動的に、樹々のまにまに膝を入るるの席を見出すくらいの謙虚さでもって、ちょこんと配されています。
平坦な場所など、これっぽっちも見出せない土地に建物を計画する際、天然自然の大地がなるべく痛くないように敷地を読み取ってみたら、なるほど確かにこうなるよな と、誰もが共感するような…。 スター建築家としての名声も、大学教授としての肩書もきれいさっぱり捨て去って、しばし俗世間を離れ、ただただ首を垂れ、耳を澄ましたらこうなりました というような…。
どこかしら、生まれるべくして生まれた農村集落の在りようにも共通する、現代の日本人が失ってしまった 大地との声なき対話 が聞こえてくるような気さえする。

これまで数々の住宅作品を通して、日本人離れした立体的な空間構成を欲しいままに展開してきた宮脇が、ありふれた木造平屋の建物で、敷地の高低差に沿うように、しかも、無造作にただ くるりん と弧を描くようにアプローチを迂回させるだけで、あたかも桂離宮を彷彿とさせる悠久の物語を紡ぎ出しているその驚くべき手腕には、スケッチを前に呆然と立ち尽くすほかありません。

牛島別邸

一つ屋根の下、限られた空間のなかで、いかに豊かな暮らしを営むことができるかが問われる仕事。 しかも、別邸という用途ゆえに戸締りへの配慮をクリアしつつ、四季折々の彩りを満喫するために宮脇檀が導き出した答えはというと… 。 建物の四隅を閉じ、個々のための巣にこもるような心地の良いコーナーをつくる一方で、目いっぱい解放された建物中央部が、家族皆が集う拠り所になる というアイデアでした。
視界は南北方向へとつつがなく抜け、建物内に日差しを取り込むとともに風が自由に通り抜ける。 敷地の高低差により中空に放たれた南面はテラスとなり、地面に接する北面は出入り口となる。 現代の定石に従えば、出入り口が玄関やホール空間になりそうなところですが、牛島別邸にはそのような面積的余裕はありません。
そこには、誰もがふらりと立ち寄れる、農家でいうところの 縁側的空間 に。 これまた農家でいうところの 囲炉裏端 とでもいうべき土間の食事室が用意されていたのでした。

事実、食卓には炉(※ 正確には調理用のコンロ)が誂えてあり、火を囲んで食事が楽しめる趣向になっています。
宮脇自身の言葉によると、火を通す過程が調理の最終工程となり、火が絡むと蒸気や熱気、湯気や匂い、音や炎といった要素が 「おいしい食事がはじまる」 という期待感を盛り上げてくれる とのこと。 さらに、火のある場所は 「ハレ」 の雰囲気をつくる とも述べています(※ 新潮社刊 「父たちよ家へ帰れ」 より引用)
つまり、住まいの中心に火があることで、誰いうでもなく自然と家族が集まってくる 理想の拠り所が成立する というわけです。
宮脇は、建物を南北に貫く中心軸上に食事室の炉と暖炉を据え、暖炉は室内側だけでなく屋外のテラス側からも利用できるよう工夫の上、テラスを 第二の居間 に置き換えることで内外を別つ境界線を曖昧にし、限られた空間に無限のひろがりを生み出す 「借景」 の応用化を試みています。
たとえ、どんなにささやかな住まいであっても、豊かな暮らしが営めるのだということを証明したかったのではないでしょうか。

おしまいに、平面(配置)スケッチのなかに、後から宮脇自身による、明らかにふと思いついたような筆跡で、建物北側の敷地内に、石で畳んだテラスをつくる別メニュー(将来案)が描き加えてあったことを記しておきましょう。
おそらくは、誰に頼まれたわけではないけれど、南のテラスと対になるように、まだ見ぬ 北側のテラス をいつか実現してみたい。
自然のなかのテラスが使える季節は限られているから、実現の可能性は低いかもしれません。 けれども、陽のあたる方向に花を咲かせる植物の習性を熟知していたであろう建築家は、南向きの庭だけが持つ魅力や可能性を期待せずにはいられなかったはずです。

樹々の間からあちらこちら、斜面地に差し込む木漏れ日に無邪気な顔見せる、名もなき草花に囲まれたもう一つの食事室。 家族が笑顔で過ごすささやかなアウトドアダイニングの情景を、楽しそうに想い描いていた宮脇檀の姿を今、しんみりと想像しています。
 
04月25日(木)

高桐院

うららかな春の日和に誘われて、ふらり高桐院を訪ねました。 高桐院は大徳寺塔頭のひとつで、一般にもひろく門戸が開かれております。

普段は表門から内玄関に至るまでの、竹林とカエデの木々に覆われた、苔むすなかに敷かれたか細い石畳の参道をそぞろ歩くにとどめることも少なくありませんが、今の季節、それではもったいないと、幾年かぶりで式台前にきちんと靴脱いで揃えたものの、その先の春風抜ける畳の間のガラス窓の向こうはがらんとして、しばらく待っても誰も来ない模様。
そうか、受付のお嬢さんは所要でしばしおでかけなのかな と思い直し、とてもとても禅寺とは思えない、不思議と安らぎすら感じる客殿に、やや遠慮がちにお邪魔してみると、そこには当のご本人がいらっして 「ちょっと庭をみていたのです」 と、実におっとりとした様子。
なるほど、確かにそうだろうなぁ と、妙に納得してしまうような、そんな、ゆるーい空気がここには流れているようです。

この国の建物は、限りなく開け放たれた座敷と庭とが知らず知らずつながって、一体どこまでが座敷で、どこまでが庭なのか、判然としないくらい融和してしまう、ある種神秘的ともいえる空間感覚を確かに所有しているように思えてならず、ひょっとすると、その理想の姿こそが高桐院といえるのかもしれません。
ここでは、客殿中央にいらっしゃる仏様も、座敷や縁にいる僕たちも、等しく 庭を眺めている という一体感があります。
それが、禅というものと何か関係があるものなのか否か、実のところさっぱり分からないものの、ここ来る人は誰も、いかにも名高い禅寺らしい他の塔頭を訪れて、しゃきっと伸びていた背筋も、幾分ゆるんで丸みを帯びたような…。
もちろん、だらけているわけでもなく、気品も失っているわけではないけれど、ちょっぴり余分な 力み がとれて本来の自分を取り戻したかのような、どこか我が家に戻ってきたような安らぎを感じる。 そんな肩ひじ張らない心地よさを、あなたも発見することができるはずです。

大徳寺は禅寺ですから、塔頭の主庭は、どこも白砂を敷き詰めた枯山水であるにもかかわらず、なぜか高桐院だけは、ありとあらゆる場所がふかふかの苔に覆われています。
これは、久しく以前、何かの本に書かれてあったのを読んだおぼろげな記憶によると、実は高桐院の庭も、もともとは白砂敷きだったらしいのです。 そこにご住職が苔を植えようといろいろ試みるわけですが、とことん相性が悪いのか、どうしても根付いてくれなかったそうです。
ところが、ある日境内のどこかに自然にあった苔をみつけて移してみたところ、すっかり馴染んで、今日のように緑の絨毯を敷き詰めたかのような、しっとりとした庭に生まれ変わった というお話です。

白砂敷きの庭は、太陽からの光を細かい粒子に分散させて、軒の深い、日本の建物の奥の奥までろ過された拡散光を届ける役目があり、十分な照明器具のなかった時代、目にやさしい、やわらかい自然光をやんわり取り込むという、先人たちによる実用的で洗練された生活の知恵でした。
そもそも、昔のお寺は学問の場でもあったわけですから、なぜ枯山水の庭園が必要だったのか、背筋がしゃきっとする意味にもそれ相応の理由があったのでありましょう。

高桐院
「高桐院」 ペン、水彩


高桐院の庭の光は、そのほとんどを苔に吸い取られてしまって、もはや座敷の奥まで十分な明かりは届きません。
大切な光は苔が育つためにご住職が捧げてしまったので、僕たちは背筋を幾分ゆるめて、カエデの葉っぱを透過して淡い緑色に染められた光が、そのまた下の苔によって気化された、緑色にかすむ空気をただただぼんやりと眺めるほかないのです。 そこには何も難しい理屈や説教はなく、視覚よりもむしろ、頬で風を感じ、葉ずれの音を聴き、苔の香を嗅ぐ。
難しい問答はできないかもしれないけれど、そのかわり、ここに腰下ろすと詩が生まれ、画が描けそうな気さえする。
それは、決して思い上がりでも、単なる気のせいではなく、この静かなお寺が細川忠興によって建立されたことに、どこかで関係しているように思えてなりません。 忠興が信長、秀吉、家康に仕えた稀代の武将であっただけでなく、利休の高弟として茶道の奥義を究め、詩歌に通じる人物であったことを考えると、後年苔を植えたご住職もまた、詩を解し、画を愛する人物なのだろうか などと、勝手な想像を巡らせてしまいます。

本来、お寺というものは象徴的な存在であり、学問や文化の中心であったと思うのです。 したがって、仏様は神々しく近寄りがたく、伽藍は威厳を保つ必要があったのでしょう。
その証拠に、伽藍は人間のスケールではなく、もっと大きな仏様のスケールでつくられているのが通例です。 それに比べ高桐院は、あえて象徴性から離れて仏様は人のそばに歩み寄り、人と同じ目線でつくられたお寺は限りなく人の住まう住宅に近い存在になっている と、個人的に解釈しております。
か細い石畳の参道の突き当たりに正玄関の門があり、通常の出入りには用いられないこの扉は、常に閉じられていることもあってあまり目立ちませんが、いささかも仰々しい感じはなく、周囲のカエデや竹林に溶け込んで、しっくりと馴染んでしまっています。
人のスケールにも樹木のスケールにも見事に適応していて、この門があることで、背後の客殿の大屋根がちっとも気にならないのです。

居心地のよさは、適切なスケール感だけでなく 「どこかに誰かの居場所が必ずある」 ということも大切です。 こと高桐院においては、居心地のよい場所には不自由しないため、一旦靴を脱いで揃えてしまうと、だいたい4・5時間くらい靴は並んだまま なんてことも、左程珍しくありません。
ありがたいことに、客殿の西側にある庭は、専用の外履きに履き替えて散策できるようになっていて、青々とした苔のなかに点々と打たれた飛び石をわたってカエデの木々のなか、緑色のエーテルに身をゆだねることが許される稀有な場所。 とりわけ、苔の庭はデリケートで傷みやすいため、自由に散策できる寺院となると、僕の知る限りここだけです。

実は、この庭の奥に細川忠興とガラシャ夫人のお墓(※ 利休が愛用した石灯篭がお墓です)をはじめとした歴代細川家の墓所になっていて、こちらの門はついぞ閉じられたことはありません。
この門は本当にちいさく可愛らしいけれど、よくよく見れば、四脚門と呼ばれる格式の高い正玄関とほぼ同じつくり。 つまり、ことさら主張するような派手さはないかわり、控えめななかにも気品が漂って、さぞやつくり手は腕の立つ職人で、どれほどこころを込めていたであろうかと、察するに余りあるくらいの出来栄えなのです。

驚くほどに華奢な柱梁は、実に心許ないはずなのに、可憐な花びらの透かし彫りを施した板材が、隅っこでさり気なく補強され、いささかも傾く気配はありません。
ただし、どうしても傷みやすい柱の足元は、20cmばかり新材に交換され根継ぎが施され、京の町家と同じように風雪に耐え続け、一見するとかさかさに風化したかのような柱も、実のところ中身はまだしっかりと生きていて、そっと触れる手に、ほんのりとしたあたたかさを感じ取ることができるでしょう。
屋根瓦は、このあまりにもちいさな屋根に普通の材料では忍びないと、自分の気持ちに正直な職人が、愛情注いで焼き上げたであろう渾身の一枚一枚は、信じられないくらいに薄く繊細なのに、何百年もの間雨や嵐から守り続けています。

そこそこ上背のある男性であれば、うっかり頭でもぶつけそうなくらい、そのくらいちいさな墓所の門の扉がなぜ開け放たれているのか。 僕には白砂敷きの枯山水の庭にひとり苔を植え続けたご住職が、故人にもこの庭を眺め続けてほしいと願っているように思えて仕方がありません。

高桐院