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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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10月05日(木)

京都大学 吉田寮

吉田寮の存在を知ったのは、ずっと以前のこと。 実際に住んでいる方がいらっして、その方は京都大学の学生ではありませんでしたが、ご主人が大学の関係者なので入寮資格を満たしている(らしい)上に、家族も一緒に住めてしまう(らしい)懐の深さがあって、しかも、木造の相当古い建物でほの暗く、とっても良いところなのだそうです。
といっても、通りから随分と奥まった立地も手伝って、イチョウ並木の向こう側は、部外者にとって気軽に近づけるとはお世辞にもいい難い、独特な雰囲気を醸し出しているものですから、ある種孤高のベールに包まれたまま、時代も流行も何もかも超越し、いつまでもそこに在り続けるものとばかり思っておりました。

ところが、ここ数年のうちに周囲がこざっぱりとした建物に刷新されつつある様子をみるにつけ、学問にどっぷりと浸るにいかにもふさわしい環境を象徴するイチョウの巨木ですら見るも無残に剪定され、せいぜい建物のアクセサリー程度にしか扱わないかのような冷徹さから察するに、本丸を責めるにはまずは外堀を埋めてから… との不吉な筋書きがふいに脳裏をよぎり、さすがに輝かしい歴史を有する吉田寮とてこの先安泰ではないかもしれぬ と、イベント参加にかこつけ、けれどもそこは生活の場ですから、節度をわきまえ、ご迷惑とならない範囲で知られざる空間の本質をこの身に刻み込むことにいたした次第です。

吉田寮は1913(大正2)年の開設以来、建物そのものは大学の所有ではあるものの、寮の管理・運営には直接関与しておらず、自由闊達な学風にふさわしく、寮生が加入する自治会にすべての権限が委ねられていると同時に、大学の福利厚生施設として、経済的に厳しい状況下にある学生たちが等しく学業に専念できる環境を保証する役割を担っています。
ただ、世間一般の吉田寮に対するイメージといえば、乱雑で廃墟かと見紛うような、退廃的でひどく混沌とした様子を想い描かれるやもしれません。 けれども実際足を運んでみれば、どっちが建物でどっちが寮生なのか、にわかには判然としないくらいしっくりと溶け合って、そこここにあふれ返っている暮らしの道具たちは乱雑に散らかっているわけではなく、一定のルールのなかで規則正しく散らかっているように思えてならず、そもそも掃除が行き届かないのは寮生のほとんどが親元を離れ、はじめての共同生活だと解釈すれば、多少の差こそあれ、どこだって似たようなものなのかもしれません。

もともと、寮内には事務員のほか調理員や守衛、小使い といった人々が常駐し、不慣れな寮生たちの暮らしをサポートする手厚い体制が整えられていた、エリート学生が起居する京都帝国大学寄宿舎の名に恥じぬ内容であったものが、どこでどうボタンを掛け違えてしまったのか、本来、信頼関係にあるべき大学当局との歯車が次第にかみ合わなくなり、空回りするかのように、身のまわりの世話をする職員の確保すらままならず、草木はあたり一面伸び放題、建物は手入れされないまま朽ちるに任せるような状況がなかば常態化し、目にみえる、あるいはみえない埃が数十年もの間に堆積、物事の本質を曇らせる一種の ベールと化す にいたったのでしょうか。

クラッシックからモダンへと劇的に転換する建築界の狭間で産声上げた、現代の法規や技術では実現することさえ困難な歴史的建造物は、日照や通風に配慮された片廊下・南向きの寮室がワンフロアあたり20室(一部は19室)、2階建ての長大な住居棟が計三棟、毛利元就による 「三矢の教え」 の逸話を彷彿とさせる、緑ゆたかな中庭を存分に取り込みながらゆったりとその身を横たえ、それぞれの矢(住居棟)をはっしと束ねる平屋建ての瀟洒な管理棟には玄関や事務室のほか、文化、情報、親睦を深めるための諸室が万事滞りなく収まり、周囲には土間の渡り廊下を介して洗面所、トイレ、食堂、六基もの竈を備えた賄所(厨房)、浴室が水平方向へと澱みなくひろがる機能的かつ衛生的な配置計画は、古来より伝承されてきた木造建築の作法にのっとったもので、その糸を注意深くたどれば平安時代の寝殿造りにまで遡ることができます。

歴史と伝統に裏付けられた、由緒正しい血統を垣間見せる一方で、西欧の香り漂うハイカラな文化を偏見なくすんなりと受け入れ、融合させてしまうしなやかさもこの街は有していて、それが表層的なものではなく、本質的な解釈に基づいているところに吉田寮の本当の魅力が隠されているように思えてなりません。

京都大学吉田寮 北寮の空間構成

これ見よがしに豪華さや腕前を披露するような行為は慎むのが美徳 とでも諭すように、京町家で培った柱としっくい壁の織り成す構造美と、京町家最大の弱点と認めざるを得ない急勾配の梯子段なる代物から、その華奢さ加減は頑なに継承しながらも、余計な装飾を抑え、ゆるやかにたおやかに進化を遂げた階段室が奏でる機能美が違和感なく同居するという、途方もない次元の仕事を涼しい顔してさらりとやってのけてしまう、いにしえの匠たちからの置き土産である文化財クラスの空間を、かけがえのない4年間、日常の何てことない暮らしを通してしみじみ体感できるこの幸せ。

すべての寮室が南面し、日照と通風をこころゆくまで享受できる片廊下プランも、その規模が膨れ上がれば上がるほど、退屈なくらい単調でスケールを逸脱した非人間的な環境へと寮生を陥れる過ちを犯しかねないのが実情です。 幸い 「住まいと庭は一体のもの」 という共通認識が、この時代には浸透していましたから、(今では鎮守の森かと見紛うような)のびのびと枝葉をひろげた中庭の樹木へと意識を誘うことで、建物だけが独り歩きしないよう配慮されています。
加えて、三棟ある住居棟のなかで北寮のみ、中庭との間にバルコニーを挿入して…。 いえ、バルコニーというよりも、当時、親密な陽だまり空間として不動の人気を誇っていた縁側を二層、80メートルあまり延々と、立体的に展開させて、破綻することなく双方の折り合いをつけている点に注目しないわけには参りません。

このような情景が、当時の学生たちの目にどのように映っていたのか、知る由もありませんが、今みると古典をやすやすと超越し、モダンな雰囲気すら漂わせています。 しかも、ずっと身を置いていても疲れないばかりか、何だかひどく安心してしまいます。
表の通りに面して新設され、表層的なデザインのみ踏襲した西寮のバルコニーと比較してみると、どなたもその違いに気づき 「これ程なのか?」 と、驚嘆されることでありましょう。

こころを込めて磨けば再び輝きを取り戻す素性の良い建物が、本来玄関で上足に履き替えて利用する設計だったはずなのに、土足のまま酷使され続け、古き良き繕いの精神さえも途絶えて久しいなか、所有者である大学当局が偉大な先達たちの残した尊い遺産を、現代に蔓延する安直なリフォーム作業で辱める行為に疑問を抱き、修繕を躊躇したからなのか、あるいは老朽化を盾に手っ取り早く建て替えてしまうもくろみなのか、分かろうはずもありません。
それでも一部の寮生たちは、埃にまみれ傷ついた建物を次代に遺すため、今できることを考え実行しているはずです。 吉田寮と彼らとがシンクロして見分けがつかないように、いつの日か、かみ合わなくなった歯車が元に戻る日が来ることを願って。
 
08月06日(日)

千本釈迦堂

鎌倉時代初期に建立され、応仁の乱をはじめ、数多の大火にも焼け落ちることなく、奇跡的に創建当時の姿をとどめる洛中最古の建造物。 もちろん国宝です。 この夢のようなお寺があるのは、きぬかけの路でも、哲学の道でも、ねねの道でもありません。
五辻(いつつじ)通り という、西陣と呼ばれる地域の、ごくごくありふれたつましい街並みの間を分け入ったか細い参道の奥にぽっかりと開く、ほんにささやかな境内のいちばん奥に、これまたひっそりと静かにたたずむ本堂がそうだよ といわれても、大胆でも、荘厳でも、きらびやかでもないその姿に 「なあんだ」 と、さしものあなたも拍子抜けして、妙にしゃちこばっていた肩の力がすっかり抜け、いつもの素直なあなたのまま、洛中最古のこじんまりした 素顔のお寺さん に接することができるでしょう。 千本釈迦堂は、そんな気負いのないお寺なのですから。

お寺の象徴である堂塔に威厳をもたせ、立派にみせるためには、やはり、何を差し置いても 屋根を強調させる必要がある といわなくてはなりません。
おおきな建物であれば尚のこと、当然ながら、前に立つ人の目線は随分と低い位置から見上げる格好になります。 そこで、かなり急勾配の巨大な屋根をどっしりと重石のように載せることで、てこでも動かないような安定感と、深い軒の水平ラインによる陰影が得もいわれぬ安心感を与え、それでも無骨になってしまっては元も子もありゃしませんから、おしまい、入念に てり・むくり と呼ばれる微妙な曲面を授けることでようやく、森林に恵まれ、しっとりしたこの国の気候風土にぴったり適した、荘厳な木造のお堂が成立する というわけです。

ところが、千本釈迦堂の本堂ときたら、平安時代の貴族たちの住宅を髣髴とさせる和様建築を伝える、とことん洗練された様式美ゆえ、 「威厳なんて、わたくしどもには関係ございません」 とでもいい出しかねないくらい、それはそれは優雅な物腰で、しかも桧皮葺きの屋根勾配が殊のほかゆるやかに、おまけに端っこが上品に ちょん と跳ね上がっているために、本当は随分と立派な建物のはずなのに、肝心の屋根がほとんど視界に入らず、これっぽっちも威張った感じがしません。
本来ならば、足元にたたえる池を鏡にみたて、その麗しき姿を映してこそしかるべき装い。 にもかかわらず、池はもとより、入念に刈り込まれた庭木も、苔も、飛び石すらもなく、ちいさな山門から伸びるたった一本の石畳と砂利を敷いただけの気取らない境内の奥にもったいぶらず、ふわり本堂が降り立っているのは、拝観料に頼らず、どなたも気軽に訪れてほしいからなのでしょう。
だからこそ僕も、あえてマイバッグ片手に近くのスーパーマーケットに買い物行くくらいの気さくさで、ふらりこの場所を訪ねるのを常とする。

すっかり擦り切れ、からだに馴染んだジーンズとスニーカー履いて、足取りも軽やかに訪ねる千本釈迦堂は、山門のある南側の参道からではなく、あえて遠回りしてでも、西側のちいさな町家たちが仲睦まじく肩寄せ合って居並ぶなかをそーっと抜け、決まってムクノキの大樹のそばの、何てことない通用門からお邪魔することにさせていただいております。
砂利敷きの境内で、しかも山門すら潜らないなんて、何だかつまらないように思われるかもしれませんが、正面からでは気づかず見落としてしまう、本堂の横顔ごしに眺める釈迦堂の境内ほど不思議な調和を保った景色は、これに代わるものがないくらい、どんな名勝庭園にも劣らぬ魅力に満ち満ちていたりするものなのです。

千本釈迦堂

千本釈迦堂の白眉 と断言しても差し支えない阿亀(おかめ)多福像は、わが国古来から美人の定義には欠かせない、ふっくらした頬の瓜実顔に、伏目がちに静かな微笑み浮かべていて、そんな慎み深い阿亀さんを、阿亀桜の深い深い緑の葉が涼しげな木陰をつくりつつ、さながらお姫さま隠す御簾(みす)のように、おしとやかに枝垂れ覆ってくださる。
その隣には、石塔やちいさなお堂が適度に朽ちながら、それでもしっかと大地に腰据えて、色とりどりの地味な木々たちに紛れつつ、阿亀さんとおんなじように出しゃばらず、伏目がちに静かな微笑み浮かべて、行儀よく並んでいらっしゃる。

当代随一の庭師が作庭したとは到底思えない、てんでんばらばらな 阿亀さんたちの行列 は、愚直と嘲笑せられても弁解の余地もない一直線な石畳からちょっとだけ退いて、めいめいそれとなく居心地よい席を見い出している姿が、国宝の本堂にも負けないくらいほんわかとした空気をつくり出しています。 実際、阿亀像は、どんなに素敵な観音さまよりもこころ清らかな微笑み届けてくれ、阿亀桜は、どんなに名高い桜の木よりもあたたかで、包み込まれるような心地よさを届けてくれるかのようです。
だから、通用門から幾分引き気味に本堂の横顔眺めると、阿亀桜の向こうにお姫さまみたく阿亀さんがいて、さらにその横にお堂やら石塔やら雑多な木々たちが、ただ一列にのっぺりと居並ぶさまが、たぶん 世界中でここだけ のような気がして、じんわりとほのかな幸せ感じるのです。

ややもすると見落としてしまいそうなくらい木陰にひっそりと建つ、本堂からちょっと離れた、ちいさなお堂の古びたガラス窓の向こうには、あのこころ安らぐ、阿亀さんのお面をあしらった 御幣(ごへい) がずらり並んで微笑んでいる光景に出会います。
ご存知ない方もおられるかもしれませんが、関西あたりでは住宅を上棟する際、家も、そこで暮らし営む家族も、末永く 幸あれかし との願いを込めて、屋根裏に御幣をお祀りする慣習があり、その流れをさかのぼってゆくと、800年近くも昔、千本釈迦堂の本堂を手がけた棟梁と、その細君の阿亀さんに行き着くのでした。
もはや伝説となってしまった 「阿亀さんの物語」 を、今さらしたり顔でお話しするよりも、先日訪ねた折の千本釈迦堂でのささやかな出来事を、ひとつ披露してみたいと存じます。

実はその時、ちいさな山門の向こうからやって来た地元の方にお会いしました。 ジーンズにTシャツという、気取りのない出で立ちでしたが、腰の据わった隙のない姿勢から、明らかに腕の立つ職人と思しき御仁。
この石畳とおなじように 「曲がったことを許さない性格」 といい切ってみても、まず間違いないであろう、いかにも頑固そうな初老の男性が、これまでの輝かしい職人としての人生をたどるかのように、迷いなく、振り返ることなく真っ直ぐに歩いて、いよいよどんつきとなる本堂の正面で、丁寧にお辞儀をされました。 たぶん、いつもそうしているように。 それから次に、あの桜の木の向こうの、阿亀さんの像の前に立ち止まり、深々とお辞儀をされたのです。 国宝として誉れ高い本堂よりもずっと丁寧に、こころを込めて。
 
07月03日(月)

大阪女学院 ヘールチャペル

あれ程までに騒々しく、人混みであふれ返っていた大阪の街も、てくてくと歩くうちにゆっくりとよそ行きの仮面ははがれ、存外おっとりとした素顔を垣間見せる頃合い、静かな通りになかば開かれるようにして、巷にある公園とはちょっと違うし天然自然の森でもない、周囲を浄化するかのような、豊かな樹々に包まれた学校があります。

これ程道行く人を拒絶しない学び舎もそうはたんとはあるまいと、誰しもが認める大阪女学院のそれはそれは美しい校庭が、70数年前には一面焼け野原だったなんて、今ではとてもとても信じられません。
人類は、一瞬のうちに街そのものを粉々に破壊することもできるけれど、逆に、美しい街や環境をつくることだってできてしまう。 ただし、そのためには少なくとも数十年の歳月が必要で、理想の学び舎を本当の意味で完成させるのはひとりの著名な建築家ではなく、樹木の成長にも似て、学院に関わるありとあらゆる人々の力を借りながら時間をかけてゆっくりと育まれるもの。
「大切なのは、未来を信じて託すことなのですよ」 と、設計に携わったヴォーリズ(William Merrell Vories)は、微笑みながら答えるのではないでしょうか。

大阪城もほど近い市街地ゆえ、決して潤沢な敷地があるわけではありません。
都市のスケールからすればほんの猫の額くらいのささやかな校庭はしかし、無限のひろがりを予感させる。 この世界の中心の、キャンパスの中心にはすっかり成長した樹々に抱かれるようにして、全校生徒が集う毎朝の礼拝にはじまり、季節ごとに開催される様々な学院の行事、時には地域に開放されたイベントホールとしても機能する(※ 娯楽の少なかった時代には、映画の上映会も催されていたそうです)、 ヘールチャペル(HAIL CHAPEL) と呼ばれる建物があります。

ヘールチャペルは、1945(昭和20)年の大阪大空襲によって瓦礫と化したキャンパスに、1951(昭和26)年、戦後の復興を象徴するかのようにモダンな姿をまとって誕生しました。

モダンスタイルの近代建築 と聞くと、なんだか取り澄まして、しれっと冷酷そうなイメージを抱かれるやもしれませんが、ひとたびヴォーリズの手にかかると 「こんなに慈愛に満ちたやさしいモダン建築があったのか!」 と、ぱちぱち何度も瞬きしたり、ごしごし目をこすったり、しきりに頬っぺたをつねったりする方々が続出したとしても何ら不思議ではありますまい。
けれども、過度な装飾や高価な素材を好まない建築家にはもともと モダンな一面を持ち合わせていた という見方もできるわけで、余計な要素をそぎ落としながら、まだまだ物資も乏しいなか、単純な形態と限られた素材でもっていかにデザインするかが問われたものと想像されます。

冷たさとは無縁の、むしろ知的で洗練された印象を感じさせる。 なのに何だか不思議とほっとする。 ちっともいばらない。 戦前期に手掛けた一連の学校建築とは姿こそ違えど、新時代の幕開けを象徴する伝統校のチャペルはやはり、目には見えない ヴォーリズ色 に染まっているのでした。

人の手から生み出される建造物、特につるりと四角いモダン建築は、時を経るに従い数十年程度で朽ちてしまうのに対し、母なる大地から生み出される樹木が数十年をかけて成長し、遥かその数倍あるいはそれ以上の時を生き続ける。 つまり、ようやく樹木がその樹形を整えはじめた頃合いに建造物が取り壊される矛盾と背中合わせにある といえるでしょう。
このような、誰が考えたっておかしな矛盾を解消するには、人の手をかけ建造物を繕いながら愛情持って共生するのが人としての作法であり、実をいうと身近な植物たちも里山の例しかり、人が手を入れながら自然との微妙な均衡を保っているのですから。
もちろん、大阪女学院のヘールチャペルとて例外ではなく、戦地から帰還した職人たちが存分に腕を振るい、丹精込めてつくられた名建築にもあちらこちらほころびが生じ、(近・現代建築に不可欠な)設備の更新も差し迫っていたであろう背景から、学院創立100周年の節目にあたる1984(昭和59)年に全面的な改修工事がおこなわれました。

21世紀の今日ですら、安直な破壊行為や誠実さに欠けるリノベーションがそこらじゅうで繰り返されるご時世に、まだまだ環境問題が世間一般に浸透していなかった1980年代のある意味能天気なこの国で、これまで建物に接してきた数えきれないくらい多くの生徒や関係者の気持ちにしっくりと寄り添いながら、これからのあるべき道筋を暗示する。
曇りのない視点から、愛情にあふれるきめ細やかな改修がなされ、変わることなく大切に使い続けている姿に共感しないわけにはまいりません。

大阪女学院 ヘールチャペル

モダン建築だけでは冷たい、かといって樹木だけでも物足らない。 どちらが欠けても成り立たたない、相思相愛のむつまじい関係を絵に描いたようなヘールチャペルの懐に踏み入れば、あふれんばかりの緑から一転、そこは白やグレーで塗り籠められた無彩色の世界がひろがっていました。
色彩を捧げた代償として授かったものは、限られた直線とわずかな曲線、窓から漏れ入る自然光と照明器具による間接光。 それから、もうひとつありました。 館内にそこはかとなく漂う、学院を愛し大切に接している人たちがつくり出す 目にみえない空気感 です。

ヘールチャペルの改修にあたってはとりわけ、おおきな変更点がふたつあります。 ひとつは、主要な採光窓となる両側面のステンドグラス、もうひとつはステージと客席との関係です。
シンプルな縦長の窓枠は当時一般的に用いられていたスチール製で、傷みが激しく交換することになりましたが、その際耐候性に優れるコールテン鋼製とし、頂部はアーチ状に変更されました。 デザインは現存する神戸女学院 講堂の窓を参考にしたものと思われます。
正面のステージは、これも一般的な直線主体の、垂直に腰壁が立ち上がり、両端部にちいさな階段が取りついたものから、頭上に架かるプロセニアムと同じような、ゆるやかな弧を描くアーチ状の全面階段へと刷新する、どちらもかなり思い切った変更内容であったといえるでしょう。
改修を担当した設計者のお話によると、窓については人の顔でたとえれば目に相当する箇所ですし、ステージについては客席とのつながりを大切にしたかったので、自由でのびのびとした女学院の学風に似合うよう、(こころのなかで)ヴォーリズに相談して了承を得、変更を決めたのだそうです。

「神は細部に宿る」 などと伝説のように語り継がれておりますが、市井に暮らす職人たちの誠実な手仕事に支えられ、神より選ばれし建物にのみ許された(であろう)美しい光を宿した清らかな箱に身を置けば、派手さもなく劇的でもないけれど空虚ではない。 空間全体がきらきらと輝き、こころがふんわり解き放たれるような心地よさ。
夕暮れ時、ほんのりヴォーリズ色に染まった校舎を振り向き振り向き後にする。 素顔の大阪にこそふさわしい、平和な風景は豊かな樹々の向こう側にありました。