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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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01月05日(木)

日本橋の家

こんなこというと叱られるかもしれませんが、利便性を追求しただけの住まいに起居することが本当の幸せとは限らないのではないか と、ふと考えてしまいます。
住まいとしての機能を満たすため、ごてごてと取りついていた余計な附属物が取り払われた時にこそ空間の本質がつまびらかになる。 何よりも、美しい空間に身を置き暮らす幸せに漠然と憧れる自分がどこかにいて、こういうのも一種の芸術なのでしょうか。

食事やショッピングを楽しむために、世界中の人々が押し寄せ、ごった返す。 雑然さを極めた感さえする大阪・ミナミの目抜き通りから一筋だけ横道それた、相も変わらずまとまりのない街並みの、ビルとビルとの狭間にようよう膝をいるるの席を見出したかのような、つくづく目立たない建物の主な用途が住宅であったなら、さすがに一筋縄では参りそうにはありません。 けれども、手掛けた建築家が安藤忠雄であれば話は別です。
ウナギの寝床 と揶揄される京町家どころではありません。 間口にしてせいぜい3.5m!といったところののっぴきならない敷地環境ゆえ、人並みな価値観をどこかで振り切らねば到底太刀打ちできない極限の状況下において、住まいにひろがりを生み出す方法はたぶんひとつだけ。 いにしえの茶人が極小空間に用いたにじり口のように、あえて窮屈な空間を強いることで本来狭かったはずの空間に無限の宇宙を創造し、天空へと立体的に展開させる。 しかも、差し迫った状況下で伝統の素材に一切頼らず、コンクリートや鉄、ガラスといったありふれた近代建築の共通言語だけで具現化してしまったところに最大の功績があります。

安藤建築に普通のマンションやハウスメーカーの提供する住宅のような快適さを要求するのは論外として、大規模な商業施設や公共施設とはおよそ対極にある、こじんまりとした住宅は意外にもしっとりとしたやさしさと、ひどく人間的なスケール感とに満ち満ちていて、目先にちらつく便利さよりも、そこはかとなく漂う四季のうつろいを全身で感じていたい。 この偽らざる気持ちを、世間では誰も分かってくれない。 そんな、繊細な感性に応えてくれる稀有な存在 とでも申しましょうか。

日本橋の家

1994年に竣工した 日本橋の家 は、ただただ途方に暮れるしかない間口の狭さゆえ、1mmたりとも疎かにはできない厳しい選択を余儀なくされるなか、それでもあきらめず、地道な設計の過程を経て実現にこぎ着けているはず。
並みの建築家であれば怖くて腰が引ける、相当な勇気を持って決断したに違いない、1階から3階につながるメイン階段からして既に人が利用するぎりぎりの寸法が吟味され、けれども歩む先には明るい希望があるのだと予感できるから、しかも、どんなに狭くてもちゃんと住居になっているのはさすがというほかなく、一段、また一段、踏みしめるように奥へ奥へと進む遥か上方には本当にささやかな中庭がぽっかりと天空に開けていて、(設計時にはなかったであろう)開閉式のガラス屋根でもって雨天時の移動に配慮しているところなんか、 雨の日に濡れるのもまた一興 と、この場に居合わせた誰もが納得するだけの成果が証明されているにもかかわらず、 それでは大変だから との人情味あふれる気配りに、つくづく親切だなあと感心することしきりです。

「そんなの知ってるよ」 と、初期安藤建築の代表作に数えられる極小住宅・ 住吉の長屋 をご存知の方はしたり顔でおっしゃるやもしれません。 そこで、屋外に計画された 中庭という名の余白 とは別に、屋内に計画された もうひとつの余白 についてお話することにいたしましょう。

京町家の精神を正統に受け継ぐ、現代の都市型高密度住宅と評しても過言ではない日本橋の家には家族が集う場として、天井高さにしてわずか225cmのこじんまりとした居間に加え、隣接して天井高さ701cmを誇る三層吹き抜けの(こちらも)居間空間が抜かりなく用意され、双方の居室が階をずらしながらメイン階段とは別にデザインされた秘蔵の専用階段によって中空で結ばれ、外部からはとても想像できない壮大な立体構成を展開しているものですから、訪れる者はついつい我を忘れ、階段を上り下りして意図された空間の妙を体感しないわけにはゆきません。
ところが、ぐるぐると何度行ったり来たりを繰り返してはみても、どうも意図するところが判然としません。 第一、個人の暮らしを受け止める住宅にダイナミックな空間構成なんて本当に必要なのだろうか? という至極真っ当な疑問をそろそろ抱き始めた頃合い、そういえば、ちいさな居間空間の片隅に造り付けられた細長いコンクリート製のベンチがあったことに気づき、かつて作品集で幾度か目にしたことのある、ぴしっと角が立った、あたたかな血の通った人間を真っ向から拒絶するような、さも冷たそうなベンチに座りたい人がいるのか前々から甚だ疑問だったこともあり、ついでに頭も冷やそうかと、渋々ながらも試しにちょっと座ってみることにしたのです。

するとどうでしょう。 これまで窮屈だっただけの空間が、すーっと体に馴染むような心地と共に音もなく転換して、コンクリートの壁にうがたれたガラス窓の向こうにひろがる吹き抜け空間とをつなぐ秘蔵っ子の階段が、実は階段の名をかたる真の美術作品であるかのように、あれほど騒々しかったミナミの街からガラス一枚隔てた吹き抜け空間が、現代アートを鑑賞するために特別に用意されたガラスケースであるかのような、いえ、空間そのものが現代アートの領域に到達している。
一切の不純物がろ過され、やわらかな自然光にくるまれて辺り一面、限りなく静謐な光景に様変わりしておりました。 まるで、時の流れすらも静止してしまったかのように。

かつて、ありふれた材料でもって創造された、限りなく単純な、どこまでも静かにこころ安らぐ ドナルド・ジャッド(Donald Judd) の作品に、それが鑑賞を前提とした純粋な現代アートであるにもかかわらず、どこかで草庵茶室にも通じる無限の奥深さを察し、ジャッドが紡ぎ出す空間のなかに身をゆだねることができたら… などと、ありもしない夢物語みたいなことを空想していたおぼろげな感覚が、日本橋の家のベンチに腰下ろした途端に不思議とぴたり一致して。
そうか、やみくもに動き回るよりも、静かに身をゆだねる接し方がこの建物に対する誠の作法なのだと悟り、移動する「動」ではなく、たたずむ「静」の空間こそが安藤建築の本質だったと、ようやく気づいたのでした。
 

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