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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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04月25日(水)

本願寺伝道院の石像

京の街の知られざる魅力を堪能いただく方法を、ひとつ披露することにいたしましょう。

観光地とは無縁の、さして広くはない油小路通を北から南へと縦断してみるのも一興 ということで、 かつては畑や野原が一面にひろがっていたであろう、いかにも家庭的で堅実なサラリーマンが好みそうな、昭和初期に造成されたであろう閑静な住宅地を抜けると程なく、何かの拍子で一筋東の小川通に吸収される頃合いに、茶の心得のない者にはいささか肩身の狭い、伝統を重んじる裏千家のお屋敷が発する厳格で底知れぬ奥行きに少々おののきつつも、いつの間にやら異世界から再び現実世界(油小路通)へと合流し、こちらも450年もの歴史を有する樂焼の窯元が代々住まいとする樂家の醸し出す、機転の利いた洒脱さにほっと一息き着きながら、ぽつぽつと庶民的な町家が点在するまにまに、オモテの大通りからでは到底うかがい知ることなどできない、ウラの通用口越しにちらちら垣間見る旧堀川会館のひどく洗練されたたたずまいから村野(藤吾)建築の真髄に触れ、かつては職住が理想的に調和した商いの中心地であり、現在は住み手の気配すらも感じられない(表面だけ)ゴージャスなマンションに埋め尽くされた感のある絶望的な四条通界隈からは、それでもいにしえの美学を頑ななまでに伝承する秦家や野口家といった第一級の京町家が、分かる人には分かる本物の輝きを発し続けていたりします。

さらに南へと歩みをすすめれば、次第に庶民的な町家と 「地域に親しまれているな」 と直感するに十分な愛情に満たされた、昔ながらの小学校と幼稚園とが織り成す情景から、お世辞にもゴージャスとはいい難い質素で棘のない下町ならではの飾らぬ素顔に出会うことも夢物語ではありません。 ところが、五条通を過ぎる頃合いになると下町情緒はそのままに、得もいわれぬマイナーな空気感を漂わせるようになり、なんの予備知識もなく通りがかると、いえ、たとえ十分な知識をもって精神鍛錬を怠らず、万全の態勢で通りがかったとしても驚嘆しないわけにはゆかない事態に直面することでありましょう。

西本願寺の総門へとつながる、仏具店が軒を連ねるいかにも門前町といった風情にあふれた正面通と、くだんの油小路通とが交差する角地に100年以上も前のある日、忽然と姿を現した としか表現しようのない ただならぬ光景 は、本願寺関係の由緒正しい建物であろうことは重々承知のうえでも、奇抜で斬新な建物がそこらじゅうにあふれかえっている21世紀の現代においても際立って個性的かつ孤高の存在として君臨し、それにしては異国の香りと(意外にも)お線香の香りが妙にしっくりと似合う、もともとは真宗信徒生命保険会社の社屋として生を受け、 本願寺伝道院 の名でおなじみの歴史的建造物なのでした。

実際、この世に二つと現存しない前代未聞の仏教関連施設を前にすると、どうにもへんてこな印象を抱かないわけにはゆきません。 それは、本願寺伝道院を語る際にしばしば用いられる西洋と(中東辺りまでを含む)東洋の様式をミックスした不可思議さだけではなく、ある種独特のスケール感の方にこそ、むしろ摩訶不思議な空気がみなぎっている と表現しても過言ではありますまい。

写真をご覧になっただけではなかなか伝わりにくいかもしれませんが、京の伝統的な街並みにふさわしくこじんまりとした通りのスケールに対し、伝道院は眼前に立ちはだかる巨大な壁のような印象を否めないのがその理由で。 そうか、これは都市計画的な視点から通りの向こう側にある西本願寺の境内から眺めた時のバランスで決定したのかと思いきや、建物のシンボルともいえるドーム屋根の塔屋が変に大きく重々しくて、やっぱり足元から見上げた時のバランスから求められたような気はするのだけれど、人間の目線からでは建物の窓下の(重厚なレンガ造なのにわざわざ表面に薄っぺらなレンガ風タイルを貼っている)壁や床下通気口しか視界に入らず、周囲に手彫りの石材をめぐらせた縦長の窓も、凝った装飾が施されたテラコッタ製の屋根飾りも遥か頭上にあるわけですから、普通の人間 というよりも身長が優に4mくらいはありそうな巨人の視点から計画された とでも説明しなければ到底合点がゆかない出来栄えで、その証拠に、きちんとした書籍に掲載されている一流のカメラマンの手による美しい写真を注意深く観察すれば、おしなべて近くの建物の2階あるいはそれ以上の階(つまり、人間よりもずっと高い視点)から工夫して撮影されてあるはずです。

本願寺伝道院を設計したのは伊東忠太という人物です。 彼は辰野金吾(※ 東京駅の設計を手掛けた建築家です)を師とする近代建築の黎明期を支えた日本人建築家の第二世代に相当し、日本人としては初めてとなる建築史家であり、かつ大学教授と実務をこなすプロフェッサーアーキテクトでもあり、西欧のアーキテクチュア(architecture)という概念を輸入した際に 「建築」 という言葉(※ それ以前は「造家」という言葉をあてていたそうです)を用いるよう提唱した学者としての横顔からもお分かりのように、当時最新の西欧建築にとどまらず日本の伝統建築にも造詣の深い稀有な才能の持ち主でしたから、まだ20代の若さで 「平安遷都千百年記念祭」 の目玉事業である大内裏の復元プロジェクトに設計者として抜擢される、目もくらむような華々しい経歴をスタートさせました。
ただ、古都京都の威信をかけて取り組んだ大内裏の復元事業(※ 後に平安神宮の社殿となりました)も、用地取得や予算の関係から本来の平面計画を8分の5に縮小せざるを得ない現実社会の厳しい洗礼と机上の学問とのギャップが彼にとっていか程のものであったのか。 若き日の苦い経験がしこりとなって無意識のうちにも、後々手掛ける作品に対するスケール感に何らかの影響を及ぼしたのかもしれません。

裏千家の(良い意味での)厳格さがあるからこそ、樂家の洒脱さがこころの奥底に染み入るように、人間のちっぽけさを痛感しないわけにはゆかない伝道院の巨大なスケール感があるからこそ、つくり手の細やかな愛情がひしひしと伝わってくるのもなのか。 とにかく伊東忠太の功績を語るには、ちっぽけな人間の目線よりももっと低い場所で、テコでも動きそうにない小山のような建造物をしっかと護るように配された空想動物たちの存在を抜きにしてはいけないような気がするのです。

本願寺伝道院の石像

柵もしくは車止めのようなあんばいで、通りとの境界近くに てん てん てん と規則正しく並んだ子どもの背丈ほどの石柱のてっぺんには、これまた子どもの顔くらいの大きさの空想動物が彫られていて、秋祭りの獅子舞みたく子どもが泣き出してしまうような いかめしさ などこれっぽっちも所有しない、随分と親しみやすいユーモラスな姿をしています。

翼の生えた象や舌を出した狛犬、東南アジアあたりの神話にでも登場しそうな鳥もいれば 「となりのトトロ」 ばりにひどく歯並びのよい鳥がいる といった具合に、愛嬌あふれる空想動物をデザインしたのは、他ならぬ建物の設計者である伊東忠太その人で、もともと彼は画家を志していたものの、家族の反対によって(芸術に近い)建築の道に進んだ稀代の逸材は、単に機能をカタチにするにとどまらず、幼い頃から好きで好きで仕方がなかった妖怪(聖獣)たちの姿を想像し、その道の職人たちの力を借りることではじめて創造できる 建築 という手法でもって具現化する術に、歩むべき活路と使命を見出したからなのではないでしょうか。

下町の暮らしに相応しいヒューマンスケールの通りに面して、忠太の頭のなかで存分に想い描いた動物たちが建物を仏敵から護り、道行く人々の安全と幸せを100年以上にわたって静かに見守ってきたに違いありません。 その証拠に、買い物帰りのおばあさんが石柱のそばにちょこんと座って一休みしている姿をたびたび見かけますし、ちいさな子どもと前を通ろうものなら、まず間違いなく彼らとおんなじ目線に並んだ妖怪たちが気になって気になって仕方がなく、それはそれは熱心に会話してしまうものですから、お母さん方は時間に十分な余裕を持って出かけなければならなかったりもします。
では、どうしてこのような拠り所が成り立っているかというと… 、そう、建物のスケールを大きくすることで足元に人々がこころ許せる 隙 を生み出していたからなのです。
夢見るこころを失わない一流の建築家と、それをカタチにする術を身に着けた腕利きの職人とが心血注いでつくり上げた本願寺伝道院は、時間という名の試練を乗り越え、僕たちの心配などいとも軽々と吹き飛ばして、これからもこの街をしっかと見守り続けることでしょう。
 

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