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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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03月16日(月)

温故知新

ただ振り向けばそこに、どこまでも静かにたたずんでいる。

この間、ささやかながら心のこもったアート展を拝見しました。 アート展といっても、会場はギャラリーや美術館ではなく、中京にある老舗の帯屋さんで、かつては名だたる問屋が軒をつらねていたであろう室町界隈も、和装業界が衰退する一方の今日では、さすがに周囲は四角いビルディングやマンション等に建て替わってしまい、世間で京町家というと、どこかしゃなりと華奢な印象があるかもしれませんが、先祖代々受け継がれた、てこでも動かない、骨太のがっちりとした、堂々たる伝統の店構えは、着物とは無縁の人間なぞが、おいそれと足を踏み入れる余地などあろうはずもないけれど、それでもたった四日間だけ、現代アートをこの目で見たいと願う人なら誰にだって、あのことのほか重い のれん をくぐることが許されたのでした。

表屋造り と呼ばれる、通りに面した店舗部分とその奥の座敷部分が別棟になっている(※ 更にその奥には、庭を挟んで蔵や離れがあります。)、大店の町家に特有の、ほの暗い通り土間の先にぽっかり開いた玄関土間から靴を脱いで上がった先が板張りの広間になっていて、もともとは畳敷きの座敷か何かであったところを、新製品を馴染み客に披露する内覧会にでも使う目的で幾分現代風に改装されたと思しき空間がアート展の会場として選ばれ、ここに、ある個人の方が所有するコンセプチュアル・アートの代表的作家 河原温(On Kawara) と、ミニマル・アートを代表する作家 ドナルド・ジャッド(Donald Judd) の作品が展示されるという、日本の伝統的空間に現代アートを融合させることで、とかく難解そうな印象のつきまとう現代アート作品を、一見すると対極にあるかのように思われる空間に置いて、その隠された魅力をすっかりひき出してしまおうという意図があったのではないかと解釈しています。 つまり、温故知新、古きをたずねて新しきを知る というやつです。

自分を少しでも良くみせよう、とにかく目立とうとあせる、抜け目のない人たちで世のなかあふれ返っているのに、今やどちらも故人となってしまった、河原温もドナルド・ジャッドも、いたずらに自身をひけらかそうとはしない、決して目障りではない、きよらかで物静かな作品をつくってきた人たちです。
そのため、通常の作品展示のように、真っ白い、無機質な空間に端から順番に陳列したとしても、その素顔をうかがい知ることはとても難しいでしょう。 そこは高名な芸術家の作品ですから、確かに有り難いには違いないけれど、心の底から共感はできないはずです。 きっと、作品を人間にたとえると 人見知りする性格 なのです。 ところが、老舗の帯屋さんの会場では、世間にありがちなペイントされた壁でも、かの悪名高いビニルクロス貼りでもありません。 何もかもが木と紙と土で出来上がって呼吸しているせいか、作品も、それから鑑賞者もいつもと同じ、素のままの自分でい続けることができるのですから。
作品の多くは河原温による 「日付絵画(デイトペインティング)」 と呼ばれる一連の平面作品で、広間の壁面をはじめ床の間、それから奥の庭越しにも鑑賞できるよう、半屋外に置かれている作品までありました。 さすがに雨露はかからない場所に設置されてはいましたが、四日間とはいえ、作品のコンディションのことを考えると、美術館では絶対にあり得ない展示スタイルで、それでもあえてこうすることが、作品の魅力を過たず鑑賞者に伝えることができる最善の方法なのだと、主催者側は判断したのではないでしょうか。

広間に隣接して、フスマで仕切られた八畳か十畳くらいでしょうか。 やはり板張りの、おそらく普段はソファやテーブル等が置かれて、商談や接客のために使われていると思しき部屋があって、ここに二点、ドナルド・ジャッドの作品が展示してありました。

温故知新 On Kawara & Donald Judd

ジャッドの創造する立体作品は、彼自身が直接制作しているのではなく、その道の職人たちの手に委ねられています。 (一部の)作家や芸術家と呼ばれる人たちの作品にとかく見え隠れしがちな、ある種 いやらしさ の原因は、自身で自由に創作できるがゆえに気持ちや感情が制御できず、ほとばしってしまったり、あるいは自己満足的な表現に陥ったりというかたちで、図らずも露呈してしまっているからなのだと思うのです。 しかし、誇り高い職人にそのような類いの仕事など到底頼めるはずもなく、彼らが納得するくらいの揺るぎない信念でもなければ成り立たないはずです。 だからこそ、つくり手も一切の雑念を捨てて、ただただ純粋に、芸術家から託された想いをカタチにすることができたのでしょう。
15cmの倍数を基準に構成された単純極まりない箱は、作品とはいえ、アルミニウムの板を折り曲げ、塗装されたものにすぎず、それらはむき出しのボルトで規則正しくつなぎ合わされています。 一歩間違えると、どこかの工場で大量生産されていそうな、安価なシステム収納家具かと見紛う作品はしかし、職人の手作業によって、あらん限りの心血と技術を注いで生み出された紛れもない一点もので、お世辞にも高価そうにはみえない(※ 実際は大変高価です。)、ありふれた工業素材の集合には微塵の隙もないばかりか、かえって贅を尽くした素材以上に美しくもなり得るのだと証明することは、むしろ芸術家として自然な行為であるといえるでしょう。
そのためには作品にふさわしい空間と、何よりもそこに身を置き鑑賞する人が不可欠となり、今回のアート展の企画に結びついているのだろうと想像するのです。

作品の背後には老舗にふさわしく、相応に年月を経たであろう 京唐紙(きょうからかみ) が貼られてあります。 京唐紙は、主に 鳥の子 と呼ばれる上質な手漉き和紙に、版木に彫り込まれた文様に顔料を載せて手摺りで転写する、木版画に似た技法で、もともとは唐の国より伝来した美術紙の一種です。 ただし、京唐紙は、木版画(錦絵)のようにカラフルな多色摺りではなく、多くが単色で、文様も比較的単純。 あくまでも空間の背景としてフスマ紙や壁紙として用いられる、大変に上質な内装仕上げ材として知られています。
青海波(せいがは) という名の、江戸時代から幾多もの大火を逃れ、京の匠たちの手で連綿と受け継がれてきた、洗練に洗練を重ねたいにしえの文様を背に、つやつやとした原色のエナメル塗装が施されたぺらぺらのアムミニウム製のこじんまりとした作品が、かつて美術館の無機質な空間でみた時とはまるで別もののように、不思議なくらいにきらきらと輝いて目に映るのはどうしてなのでしょう。
かつて茶人と呼ばれていた人たちは、今日のように伝統を守り伝える立場とは程遠い、時代の先端を駆け抜ける前衛芸術家であったはずです。 名作と誉れ高い茶室はどれも、身近にある、ありふれた材料を吟味するに足る茶人の非凡な審美眼と、彼らの創造力をしっくりと理解し共感することのできる、優れた棟梁(職人)の力なくしては実現できなかったに違いありません。 アメリカ人であるジャッドの作品に、どこか茶人にも似たある種の におい を感じるのは、その創作スタイルに共通点が見い出せるからだと解釈すれば、 時代も、国境も、素材の違いも、何もかもことごとく乗り越えて、双方の仕事に唯一共通するであろう、カタチや色や空間に対するつくり手たちの向き合う 誇り高い姿勢 が研ぎ澄まされ、こんなにも美しくシンクロしてしまったのは、ごくごく自然な結果なのかもしれません。
 

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