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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
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11月05日(日)

平成知新館

はなはだ私的な意見ではありますが、その美しさや凛としたたたずまい、匠の技などから推察するに、京の都の建造物は江戸時代の初期から中期にかけて(1600年代)を頂点に、緩やかに下降し続けているのではないだろうかと考えていて、実際、洗練に洗練を重ねた昔の町家(といっても、現存するのはいずれも明治以降に建てられたもの。)がある日突然取り壊されて、つるぴかの近代的なビルディングなぞに建て替えられることはあっても、結局どれもこれも、ひどくがっかりさせられる出来だったりするものですから、たとえ少々不便であっても、古くてもよいものはいつまでも大切に接してほしいと願う次第です。
けれども、建築家 谷口吉生(たにぐち よしお) の設計で、京都国立博物館の常設展示館が建て替えられると知った時は、さすがに期待に胸躍らせずにはいられませんでした。

京都国立博物館は、庭園中央の噴水やロダンの 「考える人」 を背景に、しっかと腰の据わった風格を漂わせる明治の重厚かつ優美な様式建築である特別展示館に対して、もともと隣接していた昭和の常設展示館は、当時としては模範的ともいえる、かっちりとした、合理的で無駄のない設計だったのでしょうが、肝心の展示品が主に鎌倉時代から江戸時代にかけての文化財クラスの美術品ゆえ、作品も鑑賞者も(おそらく学芸員も)、どこかしっくりしない違和感があったのもまた事実に相違ありません。
建て替えの理由は耐震上の問題であったそうですが、もしかすると数値に表すことのできない、もやもやっとした違和感を払拭したい という心理的な要因も影響していたのかもしれません。

谷口吉生は押しが強いわけでも、いたずらに個性を売りにするタイプの建築家でもありませんから、彼が紡ぎだす建築は、いくら写真を眺めたところで埒が明かないというある種の 分かり難さ がある反面、一度でもその場に身を置けば、理屈抜きに分かりあえる という不可思議な特徴があります。
かつて訪れた谷口の設計による山形県酒田市の土門拳記念館や、香川県丸亀市の猪熊弦一郎現代美術館も、洗練された居心地のよさもさることながら、建物が程よく周囲に溶け込みながら、その存在が地域の魅力を引き出すきっかけになっていて、はるばるその美術館を訪れるためだけに大切な人生のひとときを捧げたとしても、後悔することはないでしょう。
「いつだって私は、あなたの期待を裏切ることはありませんからね」 という、作者とも、作品とも、建物とも、美の女神ともつかない声なき声がどこかで聞こえたような気さえする…。
この先どれ程バーチャルの技術が発達しようとも、この足で美術館を訪ね、そこに身をゆだねて、この目で、いえ、全身で作品と向かい合うことがいかに大切か。 そのことを知っている建築家にのみ、単なる 箱もの ではなく、作品にふさわしい本当の器をつくる資格を手にすることが許されるはずなのですから。

京都国立博物館は、辺りを名だたる寺院に囲まれているだけでなく、敷地そのものが、かつて豊臣秀吉によって建立された方広寺の広大な境内地にあり、現存する建物である明治古都館(※ 以前は 本館 と呼ばれていた、特別展のための建物で、現在は免振改修のため閉館中。)や正門はいずれも重要文化財に指定されている歴史的建造物ですし、双方の間に設置されたロダン作の彫刻 「考える人」 は、芸術に疎くても知らない者はいないというくらいの名作です。 その一角に、国宝を含む文化財を常設展示する施設として2014年に開館した 平成知新館 は、やはり写真でみただけでは到底理解はできないでしょう。
明治以降、一体どれだけの建造物が京の街につくられたのか知る由もありませんが、そのなかでも 最も京都らしい現代建築である! と断言したくなる、そのくらい 「つくづく京都だなぁ」 と思わせる美学、すなわち、本物だけが持ち得る品格をこの建物は確かに所有しているようなのでした。

平成知新館に足を踏み入れてみて、驚かされることがあります。 三層に積み上げられた展示空間を巡り、作品を鑑賞した後で回想できることといえば作品のことだけで、展示室の内装がどのようになっていたのか、さっぱり思い出せません。 いえ、(肝心の)作品のみに集中していたので、(肝心ではない)内装などみていなかったと説明するほうが正しいのかもしれません。
どのような展示空間であれ、作品の周りのものも人間の視野に入るのが普通ですから、何とかして作品に意識を集中させようとして、余計な神経を使うはめになり疲れてしまいます。 だから、展示数の多い作品展には極力足を運ばないようにするか、もしくは直感で興味深い作品を絞り込み、気力や体力と相談しながら限られた作品のみじっくりと対峙するといった工夫をしなければならなかったのに、ここではそのような心配など皆無、杞憂にすぎません。

建築家は、格好よい展示空間にしようとか、展示作品に引けをとらない上質な仕上げや装飾で応じなければ… といった気持ちをきれいさっぱりかなぐり捨てて、ただただ作品と鑑賞者が二人っきりになれる環境をつくることに、これまで培ってきた技術と情熱と才能のすべてをこめて、気配を抑えた空間を創出することが何よりも大切なのだと、谷口は考えていたのではないでしょうか。
加えて説明すれば、美術館(あるいは博物館)には本来二つの顔があって、ひとつは作品を鑑賞するための領域。 そしてもうひとつは、鑑賞の余韻に浸るための領域。 平成知新館は紛れもなく、このふたつの顔を持って生まれてきたといえそうです。

博物館の使命として、優れた文化財を最良の状態で後世に伝える必要があり、収蔵庫はむろんのこと、展示室においても、劣化の要因となる自然光を遮断し、常に一定の湿度に維持された環境下におかねばなりません。 したがって、展示室は必然的に、外気から隔離された窓のない、閉じられた非日常の空間として位置づけられることになります。
テーマごとに三層に、有機的に積み重ねられたほの暗い展示室をひとたび後にすれば、視線の先にはきらきらときらめく お日様のおすそ分け が、微笑みながらあなたをあたたかく出迎えてくれることでしょう。 そして、微笑んでいるようにみえたのは、深い軒の出によって制御された太陽光が、一旦窓外の水盤に反射して館内の壁や天井をほんのり照らしていたからで、薄く水の張られた水盤はそよそよとした目にみえない風を拾ってさざなみとなり、ガラスを透かしてようよう届いた光がゆらゆらとゆらめいていたからだと気づきます。
そこには透明感にあふれる階段があって、うつろいゆく光につつまれながら上り下りできる。 その階段が緩やかでちっとも苦にならないばかりか、どこまでも軽やかに、身体が移動する楽しさと喜びに満たされるのですから不思議なものです。

平成知新館 1階ロビー

直感的に居心地よい場所を見つけ出すのは、犬や猫に限らず人間も同じとみえて、自然と吸い寄せられるかのように導かれるのがエントランスの向こうに続くコリドール(※ corridor : 回廊といった意味)のような1階ロビーです。
二層吹き抜けの細長いロビーは、ぽつ ぽつ ぽつ とベンチが置かれているだけのからっぽな空間。 照明器具すら巧妙に隠されて、それでも豊かさに満ち満ちているのは、建物のあらゆる部分がうやむやにされることなく、徹底して突き詰められているからに他ならず、熟考に熟考を重ねた末にたどり着く先は、気配を抑えたそれはそれは静謐な世界なのでした。 にもかかわらずストイックさが皆無なのは、つくり手の人柄ゆえか、鑑賞した作品の余韻に浸りながら何時間でも居続けたくなる独特の心地よさは、ちょっと他所では体感できそうにありません。

ロビー内は、基本的にグレーのトーンでまとめられています。 たとえば、床は黒い石張り、窓まわりの金属製フレームは明るいグレー、天井も金属製で、こちらは濃いグレーという具合にです。
そこに北側背面の壁は床から天井まで一面ベージュの石張りが加わるという仕様になっていますが、正面となる南側の窓が、その多くを乳白色のガラスである程度視界を遮りつつ、天井際と、床から2mあまりの中央あたりだけを透明ガラスに絞り込むことで、ガラスそのものの存在を希薄にし、床と天井がすう-っと外につながって庭や空とひとつになるよう、工夫が凝らされています。
天井は深い庇となって陽射しをコントロールし、床は水辺のテラスとなって次第に水盤へと消えてゆき、その向こうには明治古都館からロダンの彫刻、噴水、正門と、葵祭の行列さながらに、古式ゆかしい優雅な景色が絵巻物のように水平にひろがり、背後の木々の緑の上には、ただただ青い空と白い雲があるばかり。

乳白色のガラスではせっかくの景色を遮られ、何もみえないからつまらない と、思われるかもしれませんが、ガラスは細かいドット模様が描かれた繊細なつくりで、窓外の水盤のさざなみに屈折した太陽の光を過たず投影して、ややもすると見落としがちな季節の表情(うつろい)を垣間見せてくれます。 あえて室内の配色をグレーやベージュに抑えることによってみえてくる窓外の物言わぬ風景が、館内の静謐さにさり気なく自然の彩りを添える という趣向。
ガラスや金属といった近代建築のありふれた材料のみ用いて、硬質でモダンな(はずの)空間をまるで住宅の縁側のような陽だまりに変えてしまう。 それが緩くなりすぎず、どこやらしゃんと背筋の通った華奢さ加減が 京の建築の本来あるべき姿 を体現しているように思えてなりません。

おしまいに、平成知新館にはメインの出入り口のほかに、ちょうど住宅でいうところの勝手口のような、飾り気のない、しかし、決して手を抜くことなく突き詰められたディテールのガラス戸が、実は2箇所も用意されてあります。 常識的に運営側の立場から考えると、出入り口を1箇所だけにしておいて、そこだけ管理していれば万事好都合のはずなのに、それを承知の上で、建築家は来館者の気持ちになって、館内から庭園へとぐるぐる回遊できる楽しさを、そして、何よりも自由な空気の大切さを決して忘れることはなかったのです。
庭園へとつながる、端っこのちいさなガラス戸を出てふと振り返ると、水盤の向こうの乳白色のガラス窓に薄ぼんやりと京の街の景色が映し出されて、それは、実際の風景よりもずっとずっと美しい、夢のような姿をしておりました。
 

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