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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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09月01日(火)

俵屋旅館(19番目の客室)

美しいプランに出会いました。
それは、建築家の吉村順三によって作成されたもので、一枚の方眼紙にフリーハンドで描かれた、比較的初期段階のスタディのようでした。 きちんとアイデアがまとまって、熟考を重ねに重ねた末にたどり着く最終段階の設計図面と違い、アイデアが生まれようとする瞬間に描きとめられた初期スタディは、偽らざるつくり手の姿を映し出す 「誠の鏡」 といっても過言ではありません。 だからこそ、かえって純粋に、みる者のこころの深いところにすーっと届くのではないかと、僕は考えています。
方眼紙の右隅には 「6月5日 1976」 と記されており、俵屋旅館の客室用に作成された計画案のようでした。 ただ、現在18室ある俵屋のどの客室とも似て非なるプラン。 つまり、実現されなかった 幻の案 ということになりますが、これがまた実によくできているのです。 全国でも屈指の名旅館と、誰もが認め賞賛する俵屋の、実在するどの部屋よりもよいのではないかというくらいに。

俵屋を京の都に創業したのが永宝年間(1704~1710年)と伝えられておりますので、実に300年余りもの長い歴史を有していることになります。 しかし、創業から160年ほど後の大火によって、周辺の社寺や民家とともに消失という憂うべき事態に逢着し、再建されたのが幕末から明治初期にかけての時代。 その当時の姿はいわゆる 書院づくり と呼ばれる最も格式の高い建築様式だったそうです。 かつては大名が宿泊していたのですから、当然といえば当然。 真・行・草でいうところの 真 に該当します。
このかっちりとした屋台骨の建物が、昭和のはじめ頃に茶人でもあった十代目の当主によって 数奇屋づくり による旅館へと改修され、現在 本館 と称される俵屋の基本形となるわけです。 こちらは、真・行・草でいうところの 行 でしょうか。 この時点での客室数は8室でした(木造2階建て)。
その頃から、伝統的な日本旅館は外国人旅行者の宿泊にも利用されるようになり、東京→箱根→京都とめぐるコースが好まれたこともあって、老舗の俵屋も国際的な観光拠点として重要な位置を占める存在となっていたようです。 時代の流れか、あるいは畳での暮らしに不慣れな外国人に配慮してか、管轄していた当時の運輸省が新たな設置基準をつくり、主だった旅館に対し、これを満たすよう条例を定めました。
基準の内容は、客室入り口の施錠やトイレの設置等、いろいろありましたが、客室数が10室以上であること。 加えて、日本間の座敷の外側に奥行き四尺五寸(約136cm)の縁側を設けて、椅子のセットを置かなければならない と、こう指導するわけです。 ところが、伝統的な日本の座敷は畳の床に座ってしっくりと落ち着くように、天井の高さから部屋のプロポーション、庭の構成にいたるまで、重心の低さにすべての美の基準が定められているのですから、椅子に座って目線が高くなるとせっかくの美学が台無しになってしまいます。 当然ながら、歴史ある老舗旅館としてはとても承服できません。
伝統と国の基準という、相反する重責を担うことになった十一代目(になったばかり)の当主は、ある雑誌で不思議にあたたかな印象の個人住宅を目にし、この建築家であれば想いを託せるのではないかと考えて、東京にあるその人の自宅を訪ね、直接会った上で設計の依頼を決めたそうです。 その建築家が吉村順三、当主(女性です)はまだ学校を出たばかりの23歳でした。

吉村は若い頃、しばしば京都を訪れて茶室の実測をしていましたし、師である建築家のアントニン・レーモンド(Antonin Raymond)が好んで俵屋に宿泊していた経緯もあり、そのお供をしていたであろう吉村にとって、俵屋はある種 憧れの建築 であったともいえます。 そのため、聖域である玄関には手をつけないこと、日本の風情といった歴史を尊重した上での改修とすること等、年若い依頼者の要望にも快く応じたのでしょう。
まず、改修にあたって解決しなければならない問題はふたつ。 10室以上の客室を確保すること。 床座による座敷と椅子座による縁側を違和感なく両立させることです。 これは想像ですが、もともと敷地の南側には街なかとしては十分なひろさの庭があって、主だった客室はそこに面していたものを、庭に 離れ を加えるような心持ちで、木造平屋建ての客室を二室、南側に増築したのではないでしょうか。 これにより、庭そのものは狭くなりますが、都市型高密度住宅の結晶ともいえる京町家を生み出した土地柄ゆえ、ほんのわずかな面積の庭であっても驚くほど豊かなスペースへと変貌させる術を、庭師たちは持ち合わせているのですから、何ら問題はありません。
世界最高水準の技術に裏打ちされた庭と、第一級の腕前と洗練された感性を兼ね備える棟梁が丹精こめてつくり上げた座敷との間に、応接セット的なものが介在するなどもってのほか。 彼らのプライドが傷つきかねません。 そこで吉村は、伝統の座敷はそのままに、隣室にカーペット敷きの小部屋をつくってソファとコンパクトなテーブルを置き、双方の部屋から床座と椅子座、それぞれの目線で庭の眺めを楽しめるような方法を考案しました。
吉村事務所の所員は、この案の実現のために何度も運輸省に足を運び、許可を得たのだそうです。 1958年、国の基準を満たした上に、木製の湯舟から庭を眺めながら入浴が楽しめる浴室といった、快適な水まわりを備えた本館の増築は、俵屋らしい風情とホテルに匹敵する質を両立する旅館として高い評価を得たと聞いております。

その後、本館の北側に隣接する100坪の空き地に、(やはり 離れ のような位置づけで)鉄筋コンクリート造3階建ての 新館 が、同じく吉村の設計により増築されました。
構造は堅固で耐火性に優れる鉄筋コンクリート造ですが、その内部に 伝統的な木造の部屋をつくる という妥協のない工法で俵屋の伝統を守り、本館や隣地との間に生じるちょっとしたスペースを巧みに活用して中庭や坪庭を設け、本館と同様すべての客室と浴室が庭とのつながりを保有し、訪れるたびに、季節ごと、客室ごとに部屋のしつらいや庭の眺めが異なるという趣向。 しかも、調度品も接客も俵屋の名に恥じぬ内容とあれば、もういうことはありません。
1965年の新館完成により、客室数は全部で18室となり、それをベースに50年を経た今日まで絶え間なく、手を加え質を高めながら、俵屋は少しずつ少しずつ変化しています。 なぜならば、宿は時代にそって変わってゆかなければならない(特に設備は)から。 何時も、一般生活よりも高い質をもって宿泊客に応えるためには、時には新しい技術も取入れつつ、それでも毎日毎日こころをこめて、当たり前に手入れする姿勢だけは変えず、積み重ねる気持ちを怠ることはない。
当主は 「吉村だったら、今こうするのではないか」 と、いつも自問しながら手を加えるのだそうです。 そうすると、ちゃんとそれに耐えうるよう、前もって考えらていたかのように建物がつくられているのだと。 そのくらいに、建物ともてなす側、宿泊客との良好な関係が保たれ続けているのです。
では、18室で何ら過不足ないはずの俵屋に、なぜ19番目の客室が計画されていたのでしょうか。

俵屋旅館 19番目の客室

もともと俵屋には宴会場がなかったため、既存の平屋建物の上に増築できないだろうかと、1970年代に吉村に打診があったらしいのです。 思うに、その当時は大変景気もよく、宿泊よりも宴会としての需要が重視されるような気運にあったのでしょうか。 実際、宿泊客からそういった要望が当主の耳に届いていたのかもしれません。 今ではちょっと考えられませんが、あの俵屋ですら、そのように思案しなければならないような状況にあったとすれば、景気がよいばかりが幸せとはいえないような気がしてきます。

これに対し、吉村が提案したプランが最初にお話した客室案だったのです。
初期のスタディということもあって詳細は分かりかねますが、 平屋建物の上に増築 というのであれば、1958年に吉村によって設計された 本館の増築部 と想定してみるのが妥当かもしれません。 ここはちょっとした 離れ 的な場所ですから、旅館の本体からは一旦切り離されて、なるほど宴会場としては好都合です。
このプラン、一見したところ普通の客室のようではありますが、よくみると、主室である一の間(10帖)と隣接する次の間(6帖)、さらに双方の部屋にアクセス可能な前室(1.5帖)の三室の間を仕切るフスマを取り払う(一部は引き込む)と、あわせて17.5帖の ひと間つづきの座敷空間 として利用できるように考えられているではありませんか。 宴会場にしては随分こじんまりとしているかもしれませんが、俵屋のスケールとしては適切といえますし、主室である一の間の向こう側にはゆったりとした土間の縁側があり、反対側の次の間の手前側にも坪庭があるために、思いのほか水平に視線が抜けて、体感的には決して窮屈ではなく、かえって心地よいはずです。
ゆったりとしたトイレや洗面台、坪庭に面した浴室といった水まわりも、もちろん 俵屋グレード です。 女性が化粧直しできるコーナーもソツなく用意されているところなど、隅々にまで行き届いた気配りも見事というほかありません。

それにしてもこの空間、宴会場にしておくには惜しいくらいの素晴らしさで、むしろ 客室として利用してもらうためにつくられたプラン と解釈したほうが自然のようにも思われます。 景気がこの先どこまでもよいとは限らないので、宴会場としての機能にこだわるよりも、俵屋の本業である 宿泊を通してのもてなし を優先して、いつでも客室として利用できるよう、長いスパンで考えられていたのではないだろうかと…。
吉村は平面だけでなく、室内の見え方を含めた断面の検討もあわせておこなっていて(※ つまり平面的ではなく、立体的に思考されていたということです。)、一の間や次の間といった母屋にあたる部分と、それに付随する洗面室、トイレ、浴室といった水まわりを下屋(げや)と呼ばれる部分にまとめるという具合に、まるで一軒の住宅を設計するかのように、構造的にも用途的にも明確な区分けがされているのです。
母屋はきちんと手入れをすれば、100年あるいは200年と使い続けることができますが、水まわりは設備の占める比率か高いので、随時刷新してあげる必要がありますし、湿気に加え水漏れといった弊害も想定されますから、母屋よりも短いスパンで修繕できるよう、そのあたりの事情をあらかじめ考えてつくられているのでしょう。 加えて吉村の設計では、浴室部分だけが他の水まわりから更に分節されている、といった念の入れようです (※ 浴室は湿気が強く、特に傷みやすいから。)
このような手法は、伝統的な民家では普通におこなわれていましたが、住宅も含めて建築家の手がける現代の建築では大変珍しいのではないでしょうか。
一方で、2階部分に庭をつくって植栽を施すといった方法は、リスクが大きく、これも慎重派の吉村には珍しい試みといえますが、こと俵屋に関しては庭師も大工も第一級の信頼するに足る腕前を持つ人たちですし、日ごろより頻繁に出入りして、何かしら手入れ可能な環境にあることを重々周知した上での判断であったものと推察できます。

これほどのアイデアが盛り込まれた魅力的な内容でありながら、この案が実現されることはありませんでした。
ひょっとしたら、吉村は19番目の客室を実現させるよりも、むしろ、宴会場を断念させるためにこのような提案をしたのかな と、ふいに思うことがあります。 彼はひとりの建築家として、適切でないと判断したならば、どのような(大きな)仕事であれ、はっきりと断ることもやぶさかではない性格であると、何かの本で読んだような記憶があります。
宴会場の件も、いつもの吉村であれば打診を受けた時点で理由を説明し、辞退してもおかしくなかったはずです。 それでも、この旅館の人たちは、くる日もくる日もこころをこめて建物を手入れしてくれている。 建築家として、これ程うれしいことはありません。
この街では、いにしえの人々がつくり出した建築から多くを学んだことも、決して忘れはしなかったでしょう。 ならば、彼らの智恵をきちんと咀嚼して、自分にしか成し得ない最高の仕事で応じようという、京都に対する吉村流の粋な 恩返し だったのかもしれませんね。
 

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