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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
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10月01日(火)

旧清友園幼稚園(ハイド記念館)

誰もが夢見た理想の幼稚園が、滋賀県の近江八幡にあることをご存知でしょうか。
もし、 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrel Vories) が生み出す西洋建築を、他の建築家と同じように形式だけで理解しようとしたなら、かなり難解に思われるかもしれません。 でも、その建物からにじみ出るつくり手の人柄を感じ取る素直なこころをお持ちでしたら、ちっとも難しくないことに気づくはずです。 住む人や用途、使命によっておのずと姿は異なること。 そのかわり、隅々にまでヴォーリズその人の気持ちが行き渡っていることに。

1931年(昭和6年)、近江八幡の地に建てられた 「清友園幼稚園」 は、当時最も優れた園舎として高い評価を得られたと聞いています。 それが単に設備的な意味で最新であったというのであれば、21世紀の今日までほぼ当時の姿をとどめるまでに愛され慈しまれてはいなかったのではないでしょうか。 実際、ほんの10年ほど前まで現役の園舎として70年以上にわたって使われ続け、そして、その後も 「ハイド記念館」 と名称を改め、一部は近江兄弟社学園(※ 清友園幼稚園だけでなく、小、中、高等学校を併設する学校法人となるまでに成長)の生徒たちによって日常的に使われながら、大切に保存されているのですから。

古くから商人の街として栄えた近江八幡には、今でも伝統的な町家建築が軒を連ねています。 そんななかにぽつぽつと顔みせるヴォーリズ建築は、確かに西洋館のはずなのに、割合しっくりと街並みに溶け込んでしまっているどころか、むしろお互いがお互いを引き立てながら、いっそう魅了を増しているようにさえ思われるのです。
これは、ヴォーリズが西欧の伝統的な様式だけに縛られることなく、日本の良いところは尊重しつつ、より幸せな暮らしの営みのために役立つよう、西欧の優れた点を掬い取ってひとつのカタチへと導いていたからなのでしょう。
とりわけ近代的な幼稚園の実現は、この街でもはじめての試みであり、ヴォーリズ夫人である満喜子の理想でもあったはずです(※ 彼女はアメリカに留学し、当時最新の幼児教育を学んでいます)。 加えて園舎の建設を、家庭薬メンソレータムの発明者として知られるハイド夫妻の助力によっていることから、単に贅を尽くした建物に終始するのではなく、安全性と快適性には惜しみない情熱を注ぎながらも、余計な装飾には一円も無駄遣いされることなく、見事に実を結んでいるのです。

旧清友園幼稚園

木造2階建ての園舎は、 教育のための施設 といった上から目線でつくられているわけでも、テーマパークめいた安直な幼児趣味に陥っているわけでもありません。 日本の伝統工法に適所合理的なアメリカの工法を取り込んだであろう、ヴォーリズならではの穏やかな建ち姿は、頼もしくもあり、愛らしくもあり、この先何十年経とうとも色褪せることのない永遠の魅力を宿している。 「やはり幼稚園はこうでなくっちゃ」 と、つぶやきたくなる独特の安心感があるのです。

今はバスケットボール用のコートとして活用されている南側の運動場には、かつては一面芝生が綺麗に刈り込まれて、やわらかい緑の大地をそよ風のように、いつまでも、どこまでも駆け抜けたであろう園児たちの姿が目に浮かぶ。 お約束の遊具は運動場にはなく、芝生のなか、円形に張り出した サンポーチ と呼ばれるとっておきのスペースに収められていたそうです(※ サンポーチは現存していません。 ただし、将来復元される計画があります)
ヴォーリズが好んで設けた、三方に開かれたどっしりとしたアーチをくぐるとそこが玄関になっていて、その先にはまるで空気のように、本当に目立たず、けれども肝心な場所に木製の階段がそっと待ち構えていてくれて、これもちっとも目立たないのだけれど、段板一枚一枚の角という角が念入りに丸みを与えられて、子どもの目線はこういうところに注がれることを誰よりも熟知していたつくり手の気持ちを、園児たちらは無意識のうちにも理解して、きっと我が家以上にこころ安らいだことでしょう。

幼稚園は日中に限って使われる建物ですから、室内にいかに自然光を取り込むかが、建築家の腕の見せ所であるといえます。 人工照明の進歩した現代ではこのあたりの感覚が麻痺してしまっていますが、ぽつんと電球が灯っていた程度の当時の暮らしでは、自然の恩恵から得られる部分が、今よりもずっとずっと多かったはずです。
ヴォーリズはこの大切な開口部を、西洋式の縦長の開き窓としています。 引き戸は用いず、出入り口の扉などもすべて開き戸です。
園舎の構造は柱と梁による、いわゆる 軸組み構造 ですから、日本の伝統にならって柱と柱の間をぜんぶ窓にすることも技術的には可能だったはずです。 ところが彼は、(他の建物でもそうですが)あえて壁面を残して必要な箇所にだけ、慎重に吟味して縦長の開き窓を取り付けています。 これは、日本の伝統建築が蒸し暑い夏場での快適さを重視し、冬の寒さには著しく不向きなつくりであったことを、ヴォーリズはこの地での生活を通して、身をもって知っていたからに違いありません。
当時のガラス窓はぺらぺらの頼りないもので、気密性と断熱性に劣るため、厳しい寒さから身をまもり暖かい室内環境を得るためには、窓の大きさを出来るだけ抑えながら、いかに自然の光を取り込むかが重要だったというわけです。
そこまで必要に迫られ、考えに考えて生み出された窓からの明かりは、遥か頭上から部屋の奥深くまであまねく差し込んで、すべての園児たちをやさしく包み込んでくれる。

旧清友園幼稚園

実は、ヴォーリズが用意してくれた明かりが、もうひとつあります。 それは 暖炉の炎 です。
彼は暖炉に馴染みのない人たちに対し、日本の床の間にたとえて実用的な面だけでなく、こころの拠り所となる精神的な意味での役割も重視していたようなのです。 だから、ヴォーリズの設計した多くの住宅の肝心な場所には、必ずといってもよいくらい、そこにふさわしいしつらえの暖炉が据えられています。
それにしたって、ここは幼稚園で、しかも暖炉があるのは園児たちが一日の大半を過ごす保育室なのですから驚きです。 ヴォーリズの設計では、南向きの、日当たりも眺めもよいとっておきの場所の各階それぞれに保育室が充てられています。 もちろん、貴重な暖炉があるのは保育室のみ。 ちなみに園長室は、北向きの保健室のそのまた奥のちいさな部屋で、暖炉などありません(※ 満喜子夫人が最初の園長先生でした)。 誰のための園舎なのか、ヴォーリズも夫人も決して忘れることはなかったのです。

ところで、保育室の暖炉は実際に使われていたのでしょうか。
当の保育士や園児たちが日常的に暖炉を使う姿は、なかなか想像できません。 結局はヴォーリズの苦労も水の泡で、皆遠巻きに眺めているだけといった具合に、無用の長物と化したとしても仕方のないことだったのでしょうか。 そのような疑問を、当時を知る卒園生の方に投げかけると、 「実際に使っていた」 とのこと。
琵琶湖からの冷たい風が容赦なく吹きつける冬の日。 頑丈な壁と堅実な窓によってまもられた保育室の正面には暖かな暖炉の炎がゆらめき、その上の白い漆喰壁には絵が掛かり、両脇にはアーチの飾り棚がしつらえてある。 そのまわりでちいさな園児たちが輪になって、歌うたったり、お昼ご飯食べたり、昼寝したり…。 まるでおとぎ話のような日々の営みが、この場所で静かに繰り返されていたのでしょう。
当時の昼食のようすを撮影した写真をみると、園児たちの背後の暖炉にさり気なく、花が活けてあることに気づきました。 どうやら、暖炉を使わない季節でも工夫して、この素敵な空間を日常的に使いこなしていたらしいのです。 この街の人たちは、ヴォーリズの気持ちを理解して、建物とひとつになっていたのかもしれませんね。
 

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