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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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02月01日(土)

萬來舎

その家具に出会った日のことは今でも強く印象に残っていて、とても忘れることができません。
戦後を代表する、ある日本人プロダクトデザイナーの回顧展を拝見したのです。 ずらり並んだ家具たちや大小さまざまな製品たちに紛れた、ちっぽけなテーブルとスツールの前に立った刹那、まわりのすべてを吹き飛ばしてしまうくらいの圧倒的な、しかし物静かなオーラを感じ取り、その前から動くことができなくなってしまいました。
でもそれは、希少な材料を惜しげもなく使っているわけでもなく、まして、人間国宝級の職人が技巧の限りを尽くしたわけでもありません。 どこにでもあるようなありふれた木材でもって、職人さんが当たり前にきちんと手をかけてつくったモノたちです。 ただ、すっかり飴色になって、ところどころ傷ついた家具たちが、ほかとちょっとだけ違うのは イサム・ノグチ がデザインしているところで、どうやら、日本人プロダクトデザイナーが制作にかかわっていた縁から、会場に展示されていたようなのです。

粗末といってしまえばそれまでの、みる人によっては別に何てことないような一台きりのテーブルと四台だけのスツールは、家具を手がけるデザイナーや職人とは仕事をスタートする根本からすっかり違っていて、第一、脚の取り付き方からして随分と突飛なのです。
尋常ではない構造や形態の脚は、それでも絶妙なバランスで用を成していて、不思議と納得してしまうのです。 それどころか、とことこ歩き出してしまいそうな彼らは、芸術家の作品たちにありがちな、どこか妙にお高くとまった素振りもなく、椅子はどこか座ってほしそうな、テーブルは何か載せてほしそうな印象を抱かせてくれる。 そんな気兼ねのない魅力に満ち満ちている。 それなのに、20世紀を代表する 偉大な芸術家の作品 という理由で、彼らと僕との間は一本の柵で否応なく隔てられて、手を伸ばせば届きそうなくらい近くにいるのに、やさしく触れることも、座ることも許されない。
では、この家具を生み出したイサム・ノグチは、このような 作品的扱い を望んでいたのでしょうか。 それは、イサムが誰のために、どのような経緯でこのモノたちを生み出すにいたったかを、まずはお話するべきでしょう。

イサムは戦後間もない1950年、19年ぶりに父の故郷日本を訪ねた折、かつて父が教鞭をとった東京・三田にある慶応義塾の丘に立ちます。 そこで彼は、戦災によって消失した校舎の再建に加わる機会を得たのです。
慶応義塾の創設者である 福澤諭吉 は、学生たちが団欒し互いの交流を深める場を設け、その建物を 「萬來舎(ばんらいしゃ)」 と名付けたそうです。 千客萬來(せんきゃくばんらい) にあやかってのことでしょう。 誰もが魂の拠り所を求めていたあの時代、(明治より脈々と受け継がれてきた)萬來舎の再建にたずさわっていた建築家 谷口吉郎 の前に、さながら風のように現れたのがイサム・ノグチであったというわけです。 その時点で 新「萬來舎」 の設計は、すでに終盤にさしかかっていたそうです。
このため、谷口とイサムが萬來舎のデザインのために互いの意見を交わし、制作に集中できたのは、わずか5週間ほどであったそうですが、相当に濃密な期間であったことは想像に難くありません。 イサムは東京での作品展も視野に入れて、テラコッタ作品の制作と、萬來舎のための彫刻、家具等のデザインに没頭します。 そこで生まれたのが、あのテーブルとスツールだったのです。

萬來舎

再建された萬來舎は鉄筋コンクリート造2階建てで、教授たちの研究室が中廊下に沿って規則正しく並んでいる、谷口らしい、端正で美しい、まさに近代建築のお手本のような建物であるといえるでしょう。 その1階の玄関ホールのそば、西向きの眺めのよい丘につながるテラス付きの一室が 「談話室」 として用意されていました(※後に ノグチ・ルーム と呼ばれるようになります)。 教授たちだけでなく、学生たちにも解放された、皆が集う、福澤諭吉の想いを受け継ぐ大切な空間です。
おそらく、当初の谷口の設計による談話室は、テーブルや椅子、ソファなどが機能的に配された、軽やかで明るくモダンなイメージだったのではないでしょうか。 規則正しい直線を基調とし、ガラスや金属などの素材を多用した近代建築らしいデザインです。 ところが、イサムが談話室の共同設計者となってからは、機能性や合理性だけでは推し量ることのできない、純粋な 創造の世界の扉 を開いたのだろうと想像するのです。

本来は、靴のままの出入りを想定したであろうフラットな床は、イサムの発案で 三つのレベル に分けられました。
・ひとつは 「歩くための一番低いレベルの床」。 ここは、西向きのテラスとほぼ同じ高さに抑えて石貼りとする。 椅子やテーブルが置かれる。
・ふたつめは、もう少し高い位置に床を設けた 「歩くためと座るための両方の使い方を前提とした床」。 ここは板張りとする。 床に直接座ってもよい。
・みっつめは 「座るための床」。 伝統的な日本の畳の間に近い位置づけで、最も高いレベルとなる。 ここは作法を重視せず、くつろいで使ってもらう という意図もあり、畳敷きではなく籐むしろが敷かれる。 石貼りの床に置かれた椅子に腰掛けると、同じ目線で対話できる仕組み。

すっきりフラットではない、当時では(今でも)なかなか理解しがたい、複雑なレベル設定と素朴な材料の選択は、教室のなかの講義では得られない、教授も学生も肩書きなど気にすることなく、誰もが思い思いに利用し、集い、それぞれの居場所を見つけ出すことを期待して、…籐貼りの床に腰掛けたり、あるいは石貼りの床に置かれたスツールに座って対話してみたり、暖炉を中心に車座になって団欒したり…。 一見したところまとまりがないようでも、なんとなくその場を共有している 一体感 みたいなものがある。 無理して均質に平面化するよりも、個性をそのまま表現してもよいのだよ というイサムの声なのだろうと思うのです。
実際、それぞれの床の仕上げの境目も、暖炉や長椅子やスツールの位置も、正確に揃っていたり対称形になっているわけではありません。 斜めに引かれた直線のところもあれば、曲線や曲面のところもあり、それらの曲率もまちまちです。 それでもちぐはぐな感じがないのは、談話室という一室空間だけで閉じていないからに違いありません。 床に座っていても、スツールに腰掛けていても、なんとなく皆、西側に開かれたテラスの向こう側、小高い丘の見晴らしのよい庭に視界が開くようになっている。 イサムは、室だけでなく西側の庭ごと ひとつの場 としてデザインしていたのです。

庭といっても、そんなに広大なものではなく、せいぜい10歩も歩くと、じきだらだらと傾斜して、周囲の民家に飲み込まれてしまうような、ささやかなスペースなのです。 それでも昔ながらの雑木林の傾斜地の向こうには、どこまでもどこまでも視線が抜けて、真っ赤な夕日が沈んでゆく。
イサムが床のレベルを三段階に分けたのは、人の立ち座りの関係からだけではなく、談話室と庭との境目を曖昧にぼかしてしまって、学生たちが庭からそよ風みたいに自由に出入りできるように、教授と学生との間の敷居を取り払いたかったからなのではないでしょうか。 それは、近代建築の合理性や機能性からは決して導くことはできない。 昔から日本人が接してきた、自然とのかかわり方に他ならず、イサムはそれを京都の比叡山麓の詩仙堂や、大徳寺の塔頭などから学んだのだろうと想像するのです。
イサムは限られた日本での滞在期間、灯籠をつくりたいと考えたらしいのです。 灯籠といっても、その形態を模倣しようとしたのではなく、その存在理由に着目したところにこそ、彼の非凡な才能が発揮されたのです。
イサムの灯籠は、大地からにょきっと生えてきたかのようなどっしりとした胴体に、輪っかになりきれない角のようなものがくっついた、誰にも真似できないカタチをしていました。

「無」 と名づけられた石灯籠は、木々の緑と、そのまた向こうの夕日を背景にすっくと立っていて、談話室のどこからも眺めることができる アイ・ストップ としての役割を担っています。 この灯籠があることで、てんでんばらばらな談話室の様相が、不思議とひとつにまとまるような気がする。 それがイサム流の 「人々が集う場」 だったのです。
そんな彼の想いとは裏腹に、実際の萬來舎は、管理上の都合か、高名な美術家の作品としての保存を優先させたのか、あるいは誰も使いこなすことができなかったのか、特別な機会でもない限りドアにも窓にも鍵がかけられ、学生もそよ風も、かの部屋を行き来することは叶わなかった。
やがて時が流れ、キャンパスの再整備にともない萬來舎は解体せられ、その後、安住の地を失ったテーブルとスツールは各地をめぐり、京都の回顧展で僕に出会い、今は建て替えられた新校舎の3階に、一部が移設され、部分的に復元されて、施錠されたガラス窓の向こう側に安置されてしまいました。 でも、彼らはそこに触れて、腰掛けて、夕日を背景に、あの石灯籠を眺めてほしがっているように僕には思えるのです。 そして、天国のイサムはそれを願っていたのでしょうか。
 

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