07月16日(水)
若王子
背後の山からこんこんと湧き出でる水が、ほんにささやかな流れとなって現れた小川のせせらぎの向こう側に、ちいさなちいさな神社があります。
熊野若王子(にゃくおうじ)神社 は、南禅寺や永観堂に程近い東山の傾斜地にあるものですから、多少なりとも平らな土地を得るために、石垣を積み、土を盛って土手をつくり、境内としているわけです。 ただそうすると、小川を隔てた参道と境内との間には、人の背丈を優に超えるくらいの段差ができてしまいます。
伊勢神宮の、五十鈴川に架かるひのきづくりの宇治橋に代表されるように、日常世界と神聖な世界とをつなぐ橋の意味は思いのほか深い。 その役割の大切さを誰よりも理解していたであろう、信心深く、その上何事に対しても手間隙厭わない若王子の里の石工たちは、この場所のために、石段と反り橋をミックスした独自の誘導システムを生み出したに違いない と、いつものように僕は、勝手な想いを描いてしまうのでした。
お世辞にも決してひろくはない、むしろ窮屈ともいえる参道と境内から、自ずと生まれた幅の狭い、だからこそ人間のスケールにしっくりと馴染んだ架け橋は、まず、とんとんとんと数段の石段を上って何とか高さを確保しておいて、そこで石の反り橋を渡します。 ほっと一息ついた後、さらに数段の石段を上ったところで石の鳥居をくぐると、知らず知らずのうちに境内に到着しているという仕組み。
延々と石段だけ上ると何だか少々疲れたり、どうしても唐突感があったりするものですが、その間に 橋を架けて小川を渡る という、お年寄りにやさしく、子どもたちは目を輝かせ、乙女心すらくすぐる、ちょっと素敵な方法でつかの間、夢心地を味わうことが許されます。
石橋のまわりには石段も、石の鳥居もありますから、これ以上 石だらけ にならないよう、そこはバランスを考え、ここだけ石垣はやめて土のまま急勾配の土手にしておいて、ただし、それだけでは土手が崩れてしまうため、一本のカエデと種々の草花を植えてあります。 そのカエデが、今や立派に成長して枝葉を伸ばし、橋との高低差がこの時ばかりは幸いして、普通は遥か頭上にひろがる、あの赤ちゃんの手のひらのような可愛らしいカエデの葉が数え切れないくらい、ちょうど目の前に両手ひろげている按配なもので、橋を渡る というよりも、小鳥になってひらり樹間を飛んでいるような、他所では体験できない不思議な浮遊感があるのです。
参拝する人も、カエデの木も、小鳥も、上へ上へと上昇しているなかで、小川のせせらぎだけは地形と重力の関係から自ずと下へ下へと流れてゆきますから、橋のまわりはますます複雑に、それでいて広大な神苑にも劣らぬ魅力ある風景を垣間見せてくれます。
ことに梅雨の季節には、橋のたもとから小川へ石の段々を下りると、昔は里の皆さんがとれたての野菜でも洗っていたのか、そこだけ石畳の底がくぼんだ 洗い場 のようになっていて、もちろん境内にはきちんと手水もあるのですが、どちらも山からの恵みの水には違いないからと、ひんやり清らかな小川のせせらぎに指先撫でられつつ、土手にぽつぽつ咲くアジサイ眺めているのんきな僕がいて、そばの土手で草引きしながら気さくに声かけてくださる、僕に劣らずのんきそうで親切そうなおじいさんが、実はここの宮司様であったりするのも、これまたのどかでよいものです。
そうこうしていると、がさがさと土手の草むらからひょっこりとタヌキが顔出して…。 たぶん、小川に水でも飲みにやって来たのでしょう。 そう、きっと、この小川の向こう側のちいさな境内は背後の東山の森につながっていて、里の人たちばかりでなく、森の動物たちもまるごと見守ってくれているのでしょうね。

「若王子」 ペン、水彩
熊野若王子(にゃくおうじ)神社 は、南禅寺や永観堂に程近い東山の傾斜地にあるものですから、多少なりとも平らな土地を得るために、石垣を積み、土を盛って土手をつくり、境内としているわけです。 ただそうすると、小川を隔てた参道と境内との間には、人の背丈を優に超えるくらいの段差ができてしまいます。
伊勢神宮の、五十鈴川に架かるひのきづくりの宇治橋に代表されるように、日常世界と神聖な世界とをつなぐ橋の意味は思いのほか深い。 その役割の大切さを誰よりも理解していたであろう、信心深く、その上何事に対しても手間隙厭わない若王子の里の石工たちは、この場所のために、石段と反り橋をミックスした独自の誘導システムを生み出したに違いない と、いつものように僕は、勝手な想いを描いてしまうのでした。
お世辞にも決してひろくはない、むしろ窮屈ともいえる参道と境内から、自ずと生まれた幅の狭い、だからこそ人間のスケールにしっくりと馴染んだ架け橋は、まず、とんとんとんと数段の石段を上って何とか高さを確保しておいて、そこで石の反り橋を渡します。 ほっと一息ついた後、さらに数段の石段を上ったところで石の鳥居をくぐると、知らず知らずのうちに境内に到着しているという仕組み。
延々と石段だけ上ると何だか少々疲れたり、どうしても唐突感があったりするものですが、その間に 橋を架けて小川を渡る という、お年寄りにやさしく、子どもたちは目を輝かせ、乙女心すらくすぐる、ちょっと素敵な方法でつかの間、夢心地を味わうことが許されます。
石橋のまわりには石段も、石の鳥居もありますから、これ以上 石だらけ にならないよう、そこはバランスを考え、ここだけ石垣はやめて土のまま急勾配の土手にしておいて、ただし、それだけでは土手が崩れてしまうため、一本のカエデと種々の草花を植えてあります。 そのカエデが、今や立派に成長して枝葉を伸ばし、橋との高低差がこの時ばかりは幸いして、普通は遥か頭上にひろがる、あの赤ちゃんの手のひらのような可愛らしいカエデの葉が数え切れないくらい、ちょうど目の前に両手ひろげている按配なもので、橋を渡る というよりも、小鳥になってひらり樹間を飛んでいるような、他所では体験できない不思議な浮遊感があるのです。
参拝する人も、カエデの木も、小鳥も、上へ上へと上昇しているなかで、小川のせせらぎだけは地形と重力の関係から自ずと下へ下へと流れてゆきますから、橋のまわりはますます複雑に、それでいて広大な神苑にも劣らぬ魅力ある風景を垣間見せてくれます。
ことに梅雨の季節には、橋のたもとから小川へ石の段々を下りると、昔は里の皆さんがとれたての野菜でも洗っていたのか、そこだけ石畳の底がくぼんだ 洗い場 のようになっていて、もちろん境内にはきちんと手水もあるのですが、どちらも山からの恵みの水には違いないからと、ひんやり清らかな小川のせせらぎに指先撫でられつつ、土手にぽつぽつ咲くアジサイ眺めているのんきな僕がいて、そばの土手で草引きしながら気さくに声かけてくださる、僕に劣らずのんきそうで親切そうなおじいさんが、実はここの宮司様であったりするのも、これまたのどかでよいものです。
そうこうしていると、がさがさと土手の草むらからひょっこりとタヌキが顔出して…。 たぶん、小川に水でも飲みにやって来たのでしょう。 そう、きっと、この小川の向こう側のちいさな境内は背後の東山の森につながっていて、里の人たちばかりでなく、森の動物たちもまるごと見守ってくれているのでしょうね。

「若王子」 ペン、水彩