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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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01月25日(金)

祈りの部屋

「祈りの部屋」 と呼ばれる小部屋に通された時は、本当に運がよかった。 案内に立った方がついうっかりしていたのか、それとも、単に電気代を節約したかったのか、あるいは、たぐい稀な審美眼を持ち合わせていたのか。
親切心で後から天井に取り付けられた蛍光灯に照らされるはずだった10畳くらいの居室はほの暗いまま、奥につながる4畳ほどのささやかなスペースを、北向きの窓から忍び入るおだやかな自然光のなかで目の当たりにすることができたのですから。
そこには、ちょっと経験したことのない、濃密な空気が流れていました。

滋賀県近江八幡の、伝統的な町家が建ち並ぶ狭い通りをふらふらさまよっていると、十字路の角っこに、からりとした表情の教会がいい按配で街並みに溶け込んで、その隣に木造二階建ての西洋館が、控えめな容姿で静かにたたずんでいる様子に気づくことでしょう。
この西洋館は 「アンドリュース記念館」 と呼ばれ、通りをはさんで向かいに建つ、これまた物静かな牧師館ともども、 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories) によって昭和初期に設計されたと伝え聞いております。
ところが、アンドリュ-ス記念館の解説にはしばしば、1907(明治40)年に竣工した ヴォーリズ建築第一号 といった紹介がされているのです。 教会のそばに、YMCA(基督教青年)会館があったということは知っています。 確か、ヴォーリズに関する書籍に記された年譜では、現存しないことになっているのに…。
これはもう、普段からヴォーリズさん、ヴォーリズさんと呼び親しんでいる地元の皆さんに聞くしかないな ということで、実際そうしてみました。 すると、訳あって、もともとあった建物を東の方向に移動しているが、移築にあわせて、ヴォーリズさんによっていろいろと手が加えられたのではないか。 火災で失われたという話もあるようだが、大した火事ではなく、当時の部材は残されている。 最初のヴォーリズ建築というのは確か とのことでした。 これでひと安心です。

館内を拝見したところ、日当たりのよい南半分を集会のためのスペース(※ 1階は板張りの西洋間、2階は畳敷きの日本間)に、北半分は1・2階とも個室に充て、中央の階段室とホールを介してつながっているという、用途と機能に応じて明快な部屋割りが成されています。 ただし、完全に当時の姿をとどめているのは、1階の北東角にあるひと間続きの居室と小部屋のみのようです。
ここは、ヴォーリズが建設当初から7年間を過ごし、まだ来日間もないヴォーリズと、彼の活動に共感する人たちが祈りを捧げた思い出深い場所なのだそうです。

残された資料によると、一番最初の平面プランと現在の平面プランではかなり様変わりしていて、まったく同じ状態なのは、記念室として保存されている前述の二部屋のみのようです。 しかも、その二部屋はもともとは2階の東北角にあったものを、なにもかも、そっくりそのまま1階に移設しているらしいのです。
変更点は平面プランだけにとどまらず、仕上げにまで及んでいます。 ちなみに、はじめ1階は集会場として外部にひろく解放され、親しみやすい雰囲気とし、逆に2階は、ヴォーリズの住まいと寄宿生たちの部屋が設けられたプライベートな空間として設計されており、眺めのよい窓が踊り場に顔みせる、あのゆったりとした階段室も影を潜めているようでした。

また、当時の記録によると、外部は柱、梁をむき出しにしっくい壁で塗りこめた、いわゆる 真壁造 で、地面に近い腰まわりのみ羽目板が張られている、当時の一般的な住宅の仕様にならっていること。 屋根は、入母屋のゆるやかな瓦葺きでやはり伝統に従い、レンガ積みの煙突が立ち上がっているのと一部西洋風の開き窓があることを除けば、ヴォーリズ建築でお馴染みの西洋館スタイルには、まだまだ程遠いように見受けられます。
内部も、柱をそのまま現しに土壁で仕上げた伝統の仕様ながら、使い方は完全に西欧スタイルで、床は板張りに、出入り口のドアは開き戸に統一されていたものと想像されます。
これは、仲間の建築技師たちとともに建築事務所を設立する2年あまり前の、建築家への夢よりもキリスト教の伝道者としての道を選び、商業学校の英語教師として来日した(建築界では)アマチュアとしての時代に、ヴォーリズと町家大工との二人三脚で成し遂げた、まだまだ 手探りの段階 であったことを物語っています。

事実、1935(昭和10)年、建築家としてのキャリアを積み、既に自身のスタイルを確立していたヴォーリズは、移築にあわせて、残された資材を再利用しながらも、プランや内外の仕様に大幅な変更を加えて、アンドリュース記念館に 第二の命 を吹き込みました。 ゆえに、年譜によっては、新たな作品として記録されていたとしても別段おかしくはなかったのでしょう。
ある意味、未熟な仕事でもあったアマチュア時代の作品を、その気になれば完全に修正させることも可能であったはずなのに、ヴォーリズはわざわざ1階に移設までして、部分的ではあっても当時のままの部屋を隠さず残そうとした。 その気持ち、人工照明の灯らない 「祈りの部屋」 の前に立ってみると、なんだか分かり合えるような気がします。

もともと、建築家としての素養は持ち合わせていたにしろ、なぜ一英語教師の身で、会館の建設に情熱を注いだのでしょうか。
資料によると、記念館名にもなっている ハーバート・アンドリュース という方は、ヴォーリズの学生時代からの親友であり、彼に導かれてキリスト教に入信した人物であったそうです。 しかし、若くして命を失い、愛する家族から託された資金に自らの財産を捧げて、近江八幡の若者たちが集い、学ぶ場所(YMCA会館)をつくりたいと願った という経緯があったからなのでした。
この建物は、後に建築設計や伝道活動にとどまらず、医薬品の輸入販売、医療福祉施設、教育施設を運営するために創設された近江兄弟社の出発点であり、夢の第一歩でした。 だから、わずか数名の創設者たちが祈りを捧げた部屋だけは、当時のまま、ありのままの姿で残したかったのでしょう。

祈りの部屋

祈りの部屋に身を置けば、建築の専門教育を受けていなかった26歳の青年ヴォーリズが、どのようにしてこの空間をつくり上げたのか、想像せずにはいられません。
専門教育を受けなかったことは、決して不幸でも、不利でもありません。 時として、勝手に植えつけられた知識はかえって邪魔にすらなるもので、本質が伴わないのに表面ばかり取り繕った、理屈っぽい建築ほど無意味でつまらないものはありません。 だから、知識や理屈に縛られず、ありのままの自分として建築に接し、アイデアを素直にカタチにできる人はとても幸せなのです。

わずか4畳ほどの小部屋は、当時どこでも目にするような、特別高価というわけでもない、ごくごく一般的な杉材の柱と、同じく杉板の棹縁天井、建具の上部に揃えて通された付け鴨居といった、典型的な日本間の仕様になっています。
これは、普請を請け負ったのが町家大工ということもあったのでしょうが、まだヴォーリズ自身、頭のなかで想い描いた空間のイメージを、具体的に伝える術を知らなかったということが、その理由として考えられます(※ ヴォーリズは後に、帰米の折に建築を視察し、専門書を取り寄せ独学することで、これを克服しています)
ただ、いくら床が板張りで暖炉が設けられていたにしても、ちゃんと西欧スタイルになっているのはさすがとしかいいようがありません。 そのわけは、建具の背の高さと天井高さが、椅子座の暮らしにふさわしい適切な寸法に設定されているからなのでしょう。 おそらく、いまだに日本の洋間がへんてこなのは、表面ばかり真似ていても、寸法設定が中途半端に和風していることに、設計者自身が気づいていないからではないでしょうか。

椅子座の生活に板張りということですから、床と壁との取り合いには、抜かりなく巾木が取り付けられています。 これも、普通の感覚では 「変だな」 となってしまうわけですが、不思議と違和感なく収まっています。
なるほど、実用性を考えると巾木はあって然るべきで、柱に付け鴨居が取り付くのと同じ考え方を巾木にも応用し、しかも、寸法設定が適切なので成功しています。 何のしがらみもなく、素直に建築に接する気持ちを失わず、もともとこの国にある材料、与えられたものをきちんといかす設計ができている証拠です。

けれども、ヴォーリズにも失敗がないわけではありません。 これは単なる想像にすぎませんが、設計の時点で、彼は暖炉の据えられた祈りの部屋と隣の居室とを、引き違いの建具で仕切れるようにしたいと考えていたのだろうと思うのです。
いくら暖炉があるとはいえ、冬は琵琶湖からの風が吹き付けて寒さが身にしみる土地柄ゆえ、建具で仕切って部屋の気積をちいさくしたほうが暖かく過ごせるに決まっていますから、考え方としては理にかなっています。 暖炉を使わない時は、建具を開け放ってひろびろ使うことも可能となる、日本の作法を取り込んだ、柔軟で機知に富んだアイデアであったといえます。
しかし、いざ室内の造作がはじまり、二部屋の間に鴨居が取り付けられた段階で完全に建具で仕切ってしまうと、空間がいささか窮屈に感じてしまうことに気づいたのではないでしょうか。 そこで、出来上がった鴨居はそのままにしておいて、敷居はすぐさま取りやめる方針とし、基本的に二部屋をひと間続きとして利用することに決めたのだろうと推察されます。
これにより窮屈さは解消され、建具を入れなくても鴨居の上には小壁が、両端は柱があるために、空間としてはなかば分節されることになり、小部屋特有の包まれるような心地よさは残されたのでした。
当時の暮らしを撮影した写真によると、寒さに対しては居室側に薪ストーブを置いてしのいでいたようですし、必要に応じ、二部屋の間にカーテンを取り付けて軽く仕切る、といった使われ方がされていたようです。

アンドリュース記念館が夜の帳に包まれる頃、しんしんと冷え込む冬の日。 あたたかな暖炉の炎に誘われるようにして、ヴォーリズを慕う青年たちが寄宿室から一人、二人と、祈りの部屋を訪れる姿が目に浮かびます。
4畳ほどの小部屋には、居室側からだけでなく廊下からも直接出入りすることができ、設計者のこころ遣いから、がっしりとしたドアには透明のガラスが入れられてあるので、暗がりのなか、ゆらぐ炎の明かりを頼りに、誰言うでもなく自然とこの部屋に集まってくることができたのでしょう。
暖炉脇のコーナーには、簡素ながら、さも居心地のよさそうなベンチが造り付けられてあって、寒さを忘れ読書にいそしむことができる。 ベンチの上と、それから暖炉の上にもずらり洋書が並んでいて、まだ知らぬ多くの知識に授かることが許される至福の場所。 そして、そこには必ずヴォーリズのやさしい笑顔があった。
暖炉を囲うようにして、夜が更けるまでヴォーリズとこの地の青年たちは聖書など朗読していたのでしょうか。 だから祈りの部屋は、この青年たちによって名付けられたのだろうと、僕は想像しています。