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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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12月12日(火)

下閑室

天王山の麓、大山崎にひっそりたたずむ聴竹居をはじめて訪れたのは、今から7・8年くらい前のこと。
建築家 藤井厚二の自邸としてつとに知られる聴竹居は、皆さんご存知の本屋(母屋)に加え、北隣に閑室、南東側に少し斜面を下がった所にある下閑室の計三棟で構成されております。 閑室 という聞きなれない言葉は、おそらくは藤井自身の発明らしく、和敬清寂を愉しむための 「離れ」 的な位置づけ、椅子座と床座、あるいは茶室と書斎をミックスした小空間 とでも説明すればよろしいのでしょうか。
当時、どなたかがお住いの様子だった閑室と、一般見学が可能になったばかりの本屋が、建設された昭和初期の面影をいまだ色濃くとどめているのに対し、誰も気づかない隅っこのほうで打ち捨てられたかのように屋根をシートで覆われた下閑室は、廃墟かと見紛うような惨憺たる有り様だったのが強く印象に残っていて、大雨が降れば雨漏りしていないだろうか、台風が来れば土砂に埋もれてしまわないだろうかと、気が気ではありませんでした。

けれどもつい最近、聴竹居が重要文化財に指定されたとの報道を目にし、そこには本屋だけでなく閑室、そして下閑室までがしっかり含まれていたものですから、あんなにもちっぽけで目立たない建物にも真っ当な評価が下されるこの国も、まだまだ捨てたものではないぞ と、気持ちを持ち直し、ただただ一目、下閑室見たさに大山崎へと赴いた次第です。

故郷に帰るよりも懐かしい。 少なくともここにいる間は、人間らしい扱いを受けているな と首を垂れ、誰にともなく感謝しつつ足触りのよい石段を上り、定石としては100人中99人が右側に折れ、お約束の本屋へと向かうべきところを、左手にぽっかりと開けた、藤井が好んで植えたとされるイロハモミジに囲まれた南庭の尽きるあたり、くれぐれも視界を妨げないよう、クマザサの茂みの陰にうずくまるようにしてたたずむ下閑室の、なんと奥ゆかしいことか。
こんなにもちいさな建物に、こんなにも丹精込めるのかと、覆いが取り払われてしみじみ目の当たりにする、ゆるやかな勾配屋根の奏でる旋律に、うっとりと聴き惚れるばかり。

日本 ―タウトの日記― 1933年
「日本 ―タウトの日記― 1933年」 篠田英雄 訳 (岩波書店)


かねてより、日本インターナショナル建築会から招待されていた建築家のブルーノ・タウト(Bruno Taut)が、政治上の切迫した事情もあって日本を訪れたのが1933(昭和8)年のこと。 三年半におよぶ滞在期間中、最初の半年近くは京都で過ごすことが多かったようで、特に来日翌日に訪れた桂離宮を称賛するくだりは、もはや伝説化されてしまった感さえあります。
タウトの書き残した日記によると、桂離宮の五日後(※1933年5月9日)に講演のため向かった京都帝国大学で、教授の職にあった藤井より学内を案内され、講演後に自邸へと招かれた様子がつづられていて、たぐい稀な審美眼を有するドイツ人建築家の視点から、今ではうかがい知れない 聴竹居での暮らしの一端 を垣間見ることが可能です。

気候もよろしく、木津川、桂川、宇治川の三川が合流し、淀川へと名を変える、ゆったりとした水面に満月がゆらめく宵の口。 樹木も今ほど生い茂ってはいない山麓で仲睦まじく、ほんのりと月色に染まる三棟の建物のうち、まずは下閑室へと招かれ、二畳中板敷の茶室にて壽子夫人の点前によりお茶を頂き、隣接する閑室(※ 下閑室の主室ですが、タウトは 「控えの間」 と記しています)で藤井が創作した陶磁器を鑑賞。 その後、本屋北側にある閑室へと移動し、床の間をしつらえた上段の間と一体となるよう設計された下段の間のテーブル席にて、やはり藤井自身の工夫による漆器に盛られた夕食のもてなしを受けたとのこと。
閑室や下閑室が藤井の 私的な空間 であるのに対し、本屋はあくまでも 家族のための空間 と聴竹居では位置づけられており、仕事柄来客の多い環境ゆえ、通常の接客は本屋の玄関脇にある客室にて対応し、親しい友人は仕事場にしている閑室で、大切な客人は下閑室で… と、いった使い分けがされていたものと想像されます。

藤井もタウトも、建築の世界に身を置く人間ですから、当然のことながら本屋内、少なくとも椅子座と伝統の床の間を共存させた客室は体感していることでしょう。 しかしながら、本屋の内部空間は、過去に視察した欧米での経験を源とする(であろう)アールデコ調のデザイン要素が巧みに織り交ぜられていることから、藤井本来の持ち味である清らかな空間に 「一点の曇りのようなもの」 をタウトは見抜いてしまったのではないか と、個人的には推察しています。 つまり、 こころがざわざわしてしまったのではないか と。
これも私的な意見にすぎませんが、 本屋よりも閑室、閑室よりも下閑室 と、建設された順番に、自身の感覚に素直に創作すればするほど、空間そのものが浄化されているように思えてならないのです。
依頼者の要望、家族のしあわせ、大学での指導や研究、書籍の発表といった重責を背負う、きわめて優等な建築家である藤井厚二が、後にも先にもこの時だけはリミッターが外れ、他者の目を気にすることなく、純粋な表現者として建築に向き合った証しが閑室であり、下閑室であったのかもしれません。

聴竹居 下閑室

力み なんてものは微塵も感じられない。 格好良い建物をつくろう などとはゆめゆめ思っちゃいない。 土地のかたちに素直に従ったぼこでこの、しかも伝統の真壁造の外壁と、そのぼこでこさゆえ複雑な構成にならざるを得ない勾配屋根の重なりと、内と外との関係から導き出された幾種もの開口を授かった、小屋といってもまず差し支えない、それはそれはちいさな建物が、巷で シンプルモダン なぞともてはやされる四角い箱よりも遥かにモダンなのは、いにしえの茶人が棟梁と二人三脚でつくった茶室が生まれながらにして侘びているのに対し、藤井厚二が棟梁と二人三脚でつくった茶室は90年近くが経過してもいっこうに侘びない。 きっとそれは、藤井が茶人ではなく建築家だからに違いありません。 そう考えると、なぜ自ら設計した茶室をあえて 閑室 と呼ぶのか、下閑室に向き合った今なら少しは分かるような気がします。

下閑室の玄関には意外にも 片開きのドア が採用されていますし、茶室への にじり口 にはガラス戸と紙障子が用いられています。
これは、片開きドアの方がプラン上コンパクトに収まり、ガラス戸と紙障子の組み合わせは温熱環境に優れるからですし、形式上は茶室に隣接して水屋を設けるべきところを、一段床を下げた板の間にしておいて、そのコーナーはコクピットのようにさも居心地よさそな書斎コーナーにしてしまっているところなんか、さらさらと耳をくすぐる小滝の奏でる旋律を背景に、至極くつろいで思う存分読書したり、時には ふいっ と手元の方眼紙に構想中のアイデアを描き止めたりする、形式ばらない(素顔のままの)藤井の姿が目に浮かぶようです。
もしかしたら、ブルーノ・タウトを招いた時などは(※ タウトの夫人も同行していたものと思われます)機転を利かせ、畳の作法では不自由だからとフスマをささっと取り払い、月明かりとほのかにともる電灯の下、板の間に椅子を置いてお互い、目線が揃うようにして和やかな雰囲気のなか、笑顔で茶事が執り行われたのかもしれませんね。