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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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04月28日(金)

淳風小学校

去年の夏のことです。 いつの間にやら日付が変わり、地下鉄の終電も間に合わず、歩くと一時間以上かかる上、翌朝は早くに出かけなければならないためタクシーで帰ることにいたしました。
ご年配の運転手さんに 「○○小学校の手前で」 と告げると、我が意を得たり といった様子で車を走らせながら 「私は淳風(学区)なんですよ」 と、幾分胸を張り、穏やかな眼差しでさも誇らしげに出身校を語る。 まるでついこの間まで通っていたかのような口ぶりの御仁は紛れもなく生粋の京都人に違いなく、やっぱり淳風じゃなくっちゃ! との絶対的な自信はいったいどこからやってくるのかといえば、結局は学び舎に尽きるわけで、後で念のために確認してみると、前々から大宮通ごしにうっとりと眺め憧れていたモダン建築だったのですから、さもありなん と納得するほかありません。

下京のほぼ中央、京都駅も徒歩圏の立地ゆえ、中心部の空洞化等による児童数の減少に伴って効率の良い学校運営に支障をきたしているからなのでしょう。 かねてより隣接する学区と統合し移転される話が取りざたされていたらしく、むろん、1869(明治2)年に創設された伝統校の淳風小学校とて例外ではなく、惜しまれつつも今年の3月いっぱいで閉校されると知ったのは、つい最近のことでした。
肝心の主役である子どもたちのため というよりも、むしろ おとなたちの都合 で、しかも、銀行や大企業の経営と同じ感覚で、地域の拠り所でもあり、人格を形成する大切な6年間をはぐくむ小学校を無くしてしまうのは、致し方ないとはいえ、ぽっかりとこころのどこかに穴のあくような寂しさを感じてしまいます。

一時期は古式ゆかしい本願寺の奥御殿を学び舎としていたとも語り継がれる淳風校が、やがて境内のお隣に移り、少しずつ校地を拡張して現在みられる立派な建物に生まれ変わったのが1930(昭和5)年から31年のこと。
折りしも京都の小学校が近代化を夢み、自治体と地域とがひとつになって理想の教育施設を具現化していた黄金時代にぴったり当てはまる、最も良質な一連の学校建築に数えられ、効率化がどうとか、したり顔している生半可な心構えやマニュアル化された現代の技術では到底再現できないレベルにある と指摘しても、あながち誇張ではありません。

当時最先端の鉄筋コンクリート造が採用された淳風小学校の正面玄関には、伝統校の名に恥じぬよう、立派なアーチと上部にせり出す庇まわりにレリ-フが施され、傍目には少々着飾った印象があるやもしれませんが、装飾らしい装飾といえばここくらいのもので、実のところ、児童たちが日常的に出入りする昇降口は別にあって、素顔の淳風校は飾りっ気のない素直で健康的な性格だったりします。 それでいて、どこやら侵し難い優美さをまとっているようにも見受けられます。
素直で健康的なのは、姿こそ違えど伝統の木構造から変わることなく継承されてきた、構造を隠さずデザインとして活かしている真っ当な思考が浸透し共有できるだけの文化レベルに到達していたから。 翻って今日では、 古い建物=老朽化=危険→取り壊して建て替え という画一的な考え方が世間一般に浸透しているようですが、丹精込めてつくられた建物は、相応の時を経ても定期的にきちんと修繕がおこなわれていれば必ずしも危険とは限らないどころか、むしろ長期的な視点から相当に堅牢な設計がなされているのでは? と、疑問を抱くことが個人的にはあります。

かつて、昭和初期に建設された中京のとある小学校が統合後まもなく解体されている光景を目の当たりにした経験があります。
重機を使って強引に壊そうとしても構造が恐ろしく頑丈で思うようにならず、ひどく手間取っている様子をみるにつけ、当時の小学校を設計していたお役所も、工事を請け負う建設会社も、それから地域の方々も、誰もが当然のように百年後まで使うんだ! という気概のようなものがひしひしと伝わってきて、ウェイトの低い設備の老朽化はともかく、構造的な寿命にあるとはにわかに信じられず、何でも古いものはダメ、建て替えるとよくなる といった考えが常に正しいとは限らないのではないかと。
(すべてがそうではありませんが)コンクリートそのものの品質面においても、技術面においても、当時をピ-クに低下し続けているような気がしてなりません。

経済性が… なんて言い訳ははなから度返しした、がっしりとした柱も梁もこの地にしっかと根を下ろした母なる大樹にも似て、安心してこの身をゆだねていたい気持ちにさせてくれます。
それは、堅固なコンクリートだけに頼らず、児童の手の届くところには大工さんたちの手腕が惜しげもなく投入されたあたたかな手触りの木材が、輝かしい未来における理想的な調和を暗示するかのようにふんだんに使われていて、つくり手の人柄を映し出す階段の一段目のふっくらまんまるい手すりからして手を伸ばして触れていたい。 その気持ちが知らず知らず作用して足取りも軽やかに上階へと誘い、ふと見上げると、手の届かない遥か上方の柱や梁には左官職人によるモールディングが流麗なラインを描き、木材と対比させることで純白に彩られた上質な構造美を際立たせる創意工夫の数々。
何気ない日々の体感を通し 「誇り高いおとなたちの背中をみて学べ!」 とでも物語っているかのようです。 実のところ、そういうのが 理想の学び舎 なのかもしれません。

とことこと小気味よく階段を駆け上がり、柱の林立するほの暗い廊下の角を幾たびか曲がると、安定した自然光が降り注ぐなか、児童たちが一日の大半を過ごし、かけがえのない幼少時の想い出の場となる教室が行儀よく並んでいて、あの日出会ったタクシーの運転手さんも半世紀以上も前に制服着てここに通っていたのだろうか。 その時、ちいさな瞳はどんな光景をみていたのか知りたくて、しばしの間、教室で過ごすことにいたしました。

淳風小学校 2階教室

泣いても笑っても、二度とあの日には戻れない。
時折り遠くからぽーっという汽笛やごーんという鐘の音がかすかにこだまする、からっぽの教室にはつい一か月あまり前まで使われていた備品がぽつりぽつりと残されていて、継ぎはぎだらけの床板も、ぷっくりと丸みを帯びた黒板の枠も、長い長い時間の蓄積のなかで使われ磨かれてきた傷や艶が、はじめてなのに懐かしい。
僕自身幼い頃、古い木造校舎で過ごしてきたからか、あるいはもっと根源的なものなのか、とにかく、ここには訪れる誰をも拒絶しない懐の深さがあることだけは確かです。 教壇の角という角は大工さんの手で丹念に削られた上、数えきれないくらいの教師や児童たちの足や雑巾がけで程よいあんばいにすり減って、すっかりこの場の空気に馴染んでしまっています。

だからでしょうか。 とてもとてもそんな資格はないのだけれど、そんなの承知の上、この際だからと恥を忍びつつふらふらと教壇に立ってみることにしたのです。 するとそこは、ちいさな座席からみた子ども目線のおおきな教室とは裏腹の、隔たりのない、ひとりひとりの表情さえ手に取るように分かる、親密さにあふれた世界でした。
クラスというのは、ひとつの家族のようなものだったのですね。

賑やかだった時には気づかなかったかもしれません。 こころおだやかに、静謐さにつつまれた教室にひとりたたずめば、どこからか建物の声なき声が聞こえてくるかのようです。 ただし、どうも何だか、ちょっと室内が息苦しいようにも感ぜられます。
運動場に面したスチール製の両開き窓も、廊下に面した木製の上げ下げ窓も、八十数年前の竣工時からそのまま使われてきたもので、さすがに随分と古びてはおりますが、時代時代できちんと手入れされ、大切に扱われてきたことが伝わってきます。 真鍮製のハンドルを握り、そっと窓を開けるとほんわかした春の風がすーっと入ってきて、人間と同じように建物が呼吸をはじめたのでした。 「私はまだ生きていますよ」 と。
 
04月06日(木)

片岡橋

鴨川の上流、御園橋に程近い上賀茂神社は、以前から好きな場所のひとつで、時折ふらり訪ねては散策しています。
本来は、一の鳥居から二の鳥居へと、白砂敷きの参道を道しるべに堂々歩みをすすめるべきなのでしょうが、どうも僕の場合、子どもの頃から脇道にそれる性質が多分にあるようで、向こうでさわさわと耳をくすぐる、ならの小川の端っこの通用口みたいなところからぐるり分け入ってまでして、せせらぎに沿ったでこぼこ道を選んでしまう。
そこには目立たないけれど、末社のお社たちが行儀よく、木陰にてんてんてん とささやかな居を構えてあって、ふとした拍子にちいさな飾り金具がきらりと輝くさまをみるにつけ、もはやここは神域なのだと気づかされ、曲水の宴のためのせせらぎが役目を終えて、ならの小川に注ぐ手前のちいさな木橋を渡ると、しばし水の流れから離れた深い木立のなか。 そこを抜けると自然、ぽっかりと開けた、神事の舞台となる明るく清浄なひろばへとたどり着きます。

どんなに古色を帯びても、尚モダンな気品を漂わせる土屋(つちのや)のそばは、葵祭に先立ち、十二単姿の斎王代が身を清めるならの小川が幾分川幅を狭めゆるゆると、ひとしお近しい存在に思われる。 ふたたび出合った流れに架かる木橋を渡れば、か細い道は、かつてのでこぼこ道から箒目もまだ新しく、生まれたばかりのような瑞々しい白砂へと姿を変え、すこぶるのどかな水の流れは知らず知らず分岐し、いつしか水音すらも聞こえなくなって…。 そうか、御物忌(おものい)川と名を変えたのだと悟る頃合い、行く手には、なかば木立に遮られながら、朱塗りの太鼓橋のすぐ後ろに、ちいさな桧皮葺きの廊橋が控え目に横顔みせるのでした。

片岡橋

音もなく、おだやかに流れる小川のせせらぎの向こう側には、山の谷間のささやかな土地にふさわしく、朱塗りの楼門がつましくたたずんでいて、対岸へ渡るには、少々遠回りするように 片岡橋 と呼ばれる廊橋をくぐる約束になっております。 それは、片岡橋のそばにある第一摂社の片山御子神社に参拝して、対岸の楼門奥の本殿へと参拝する慣わしがあるからなのでしょう。
本殿の彼方の神山(こうやま)と、周囲の地形と、樹木や、岩や、水の流れのまにまにめいめい配された社殿たちは、当然ながら左右対称でも、一直線でもありません。 最短距離ではない、ぐるり回り道の歩み方こそが、ここ 加茂の社の正しき参拝法 というわけです。

本殿を訪れる方々は、とかく、緑の山々を背景に、朱色がまばゆい楼門とその前に架かる玉橋に目を奪われがちです。 けれども僕は、その奥で幾分伏目がちに横顔みせる片岡橋に、殊更な感慨を抱いてしまいます。
か細い参道から、かろうじて垣間見る片岡橋の素顔は、意外なことに格式高い 唐破風(からはふ)造 だったりします。 唐破風というと、皇室ゆかりの建物に代表される、高貴な身分にある人のための門や玄関などに用いられている印象が個人的にはあり、実際それらのつくりはどれも、技巧を凝らした彫刻や飾り金物があしらわれ、巨大で、遥か見上げるように高々と掲げられているものばかりでした。 だから、唐破風は、正面から堂々のぞめるように配することで効果を発揮するものだと勝手に決め付けていたふしがあります。
にもかかわらず、ふと見上げると目の前にある片岡橋の唐破風は、手を伸ばせば届きそうなくらい思いがけず近くに居て、拒絶することも、威圧することもなく、空気のようにただただそこにあるばかり。

片岡橋

片岡橋は、門でもなければ玄関でもありません。 だから、固く閉ざされた扉はなく、この神域を訪れたいと願うすべての人々に、等しく行き来することが許される。 橋は閉ざすものではなく、つなぐために存在するのですから。
まわりは、本殿は無論、いかなる社殿の屋根もおしなべて優美で、ゆるやかな 反り を備えています。 すぐそばの片山御子神社もまたしかりです。 ふっくらとした山々を背景に、桧皮葺きの持つ反りのラインは、数多ある人工物のなかで、最も調和を成し得ている好事例といっても過言ではありません。 その山々のライン、更にきりりと反りのある屋根のラインを背景に、反った軒先よりもさらに低い位置で、たったひとつ、まろやかな むくりのライン を与えることで、その存在を限りなく抑えようと、いにしえの人々は考えたのでありましょうか。

なぜ唐破風なのか。 それは、この橋を渡ってみるとすぐに分かります。
廊橋のひろさは、間口二間弱、桁行き二間半といったところでしょうか。 川幅が3mにも満たない橋ですから、唐破風屋根の下を通り抜けるのは、ほんの数秒間に過ぎません。 それでも、唐破風特有のふんわりとした天井には、低さゆえ、独特の 包み込まれるような心地よさ があるのです。
その、包み込む感覚を損なわないよう、川の流れに面した開口部は、あえて大人の背丈よりも低くなるように抑えられています。 そうすると、おのずと視線は目線よりも低くなり、よどみなく、音もなく、ゆるゆるとした御物忌川のせせらぎがみえてくる。 水の音は聞こえなくても、目を閉じると、そばの拝殿の鈴がしゃらしゃらと軽やかに耳をくすぐる。 風が頬を撫でるのが分かります。 人も風も水も、鳥も虫も、桜の花びらさえも通り抜けてゆく。
何もかもが停滞せず、あらゆるものがゆるやかに流れてゆく。 これは日本の建築空間の持つ、最も優れた特徴に違いなく、 それが包まれる心地よさをも満たし得ることを、ちいさくて目立たない片岡橋から教わりました。

片岡橋