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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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11月17日(木)

旧近江療養院 五葉分館

琵琶湖のほとり、どこまでも田園風景がひろがるのどかな八幡山の麓に、地元では有名な和菓子屋 「たねや」 が近年オープンしたラ コリーナ近江八幡へと足を運び、出来たてほやほやのどら焼きやバウムクーヘンを笑顔でほおばりながら、芝生屋根のお店が醸し出す牧歌的でどこかおとぎ話めいた世界観にすっかり魅了されている皆様方も、たねやに洋菓子づくりを勧めた張本人である建築家ヴォーリズ(William Merrell Vories)によって、同じ北之庄の地に遥か以前、大正時代(1918年)に開設された結核療養施設 「近江療養院」 が織り成す夢まぼろしのような世界観を知る方は、それほど多くはありますまい。

そもそもヴォーリズが療養院をつくったきっかけは、彼を信頼し共に働いていた一人の青年が肺結核を発病し命を落としてしまった悲しい経験から、当時 死に至る と恐れられた難病を撲滅したいと願い、多くの人々から寄付金を募り、ヴォーリズが生涯拠点とした近江八幡の地に自らの設計で療養施設を建てるに至ったのだそうです。
時は流れ、今では ヴォーリズ記念病院 と改称され、結核療養所としての使命も終え、地域に根差した医療活動からお年寄りの在宅ケア、ホスピスの運営等を展開し、それ相応な規模の堅固な鉄筋コンクリート造の現代的な病棟に建て替えられていて、このあたりの方々はもっぱら車で移動する事情もあり、さすがに周囲はアスファルト舗装の駐車場で埋め尽くされた感はありますが、その昔、稲穂がたわわに実るその向こう、母なる八幡山の懐に抱かれるようにして、山麓特有の波打つようななだらかな起状に沿うように、細心の注意と最大の敬意を払いつつ、いえ、この土地の神々に重々相談の上万事滞りなく計画された賜物か、常盤みどりの松林と、芝草と色とりどりの花壇に彩られた小道のまにまに てんてんてん と控えめに配された、ちっとも威張らず、かくまでも謙虚に、一切の装飾もまとわない木造瓦葺きの幾つかの病舎や静臥室、礼拝堂や看護婦寄宿舎、医員住宅等が折り合いよろしく、あたかもひとつの集落のように美しい景観をみせていたなんて、夢のようなお話ではありませんか。

けれども実際この足で、駅前通りから旧市街地を抜け、ごつごつっとした石畳のお堀端をふらりさまよい、慎ましやかな住宅地の向こうに伸びる田園地帯の一本道を歩きに歩いたその先に悠々と構える観光客垂涎のラ コリーナ近江八幡のそのまた奥の、つくづく目立たない病院敷地を更に分け入れば、この世知辛い世のなかによくぞ残してくださったものだ! と感謝の気持ちを抱かずにはいられない、 ツッカーハウス の愛称で知られる旧療養院の本館と五葉分館、そして後年新たに加えられた礼拝堂という、愛らしい三棟のヴォーリズ建築が、新病棟の陰で慎ましくもひっそりとたたずんでおりました。

日曜日ごとの礼拝に使用されている礼拝堂は別にして、日進月歩の医療界において大正時代の病舎を日常的に使い続けるには現実面でいささか無理があり、既に結核病棟としての役割を終えているのですから、もはや足を踏み入れる人もなく、そこここに傷みが見受けられるツッカーハウスや五葉分館は早晩取り壊される運命にあったのやもしれません。 もし、それが他の地域であれば。
はるばる異国の地からキリスト教の伝道を胸に来日して以来60年近く、生涯近江八幡を拠点とし、家族も同然なこの街の人々の健康と幸せのために一切の私利私欲を捨て、いまだ 「ヴォーリズさん」 「ヴォーリズさん」 と、住民から親しみこめて呼ばれている一建築家の愛情にあふれた建物をそうそう簡単に瓦礫に帰すわけにはゆかないのが人間というものです。

簡素でありながら、いかんともし難い気品を生まれながらにして兼ね備えた、良家の大邸宅にも引けを取らない療養院の象徴たる旧本館は、まだまだ修復の途上にあり、あまりの居心地の良さに棲み着いてしまった(らしい)日向ぼっこ中の猫に 「よろしく頼みますよ」 と、しばし委ねておくことにして、礼拝堂の脇から小道をそぞろ歩いた敷地の最も奥まった場所に ふわり と降り立ったひとひらのカエデの葉を、ヴォーリズの魔法で具現化したかのような五葉分館は、心ある地域の方々の手で丁寧に修復されてあり、その場に身を置けば、結核を患った人たちに対するきめ細やかな気配りの数々を今日でもうかがい知ることができます。

旧近江療養院 五葉分館

どうやら分館は、健康を回復しつつある患者の利用を前提としているらしく、日照や通風に配慮された個室(寝室)が五つ、見晴らしの良い田園にせり出すようにして配されてあり、その中心が多角形のホール空間に充てられ、ここに看護婦さんが常駐し食事や団らんできる居間、あるいは茶の間的な空間として機能するよう考えられています。 だから 「しっかり病気を治して、ここから元気に巣立ってゆくのですよ」 と、建物が背中を後押ししてくれているかのような頼もしさが感じられる場所 とでも申しましょうか。

肺の病ゆえ、時として体がだるく、熱っぽくて、どうにも息苦しい時間帯にさいなまれる患者の心情を察し、常に新鮮な外気を建物内に取り込み、汚れた空気を速やかに排出する。そんな 健康的な住まい こそが何よりの良薬なのだとヴォーリズは考えたのか、窓という窓はすべて開閉可能で微調整も容易な上、コミュニティの かなめ である共用ホール天井にはさり気なく格子窓が組み込まれ、湿り気を帯び、汚れた嫌な空気はここから天井裏を抜け、屋根のてっぺんに設けられた小塔のガラリ窓から重力差を利用して滞りなく排出されるという、 24時間換気 などと四六時中がりがりと換気扇を回し続けなければ用を成さない、融通の利かない昨今の高機能住宅に五葉分館の爪の垢を煎じて飲ませたくなるスマートな(賢い)住環境からもたらされる、耳をくすぐる樹々の葉のさわさわした音や、小鳥たちのさえずりといった山麓ならではの心やすらぐ自然からの おすそ分け は、病を抱える患者たちにとって、何物にも代えがたい処方箋であったに違いありません。

一家団らんの中心にはちゃぶ台があるように、ヴォーリズ建築の中心には暖炉のあたたかなゆらめきを心の拠り所としているのが信条でしたから、五葉分館の共用ホールにもよっぽど暖炉を採用したかったのでしょうが、そこは結核療養の場ゆえ、空気を汚さない鉄則を貫くため泣く泣く諦めるかわり、輻射熱のほんわかとしたぬくもり届けてくれる最新の暖房システムと、斜め上方から差し込む古式ゆかしい自然光という、ヴォーリズからの新旧二つの おくりもの が心ばかりに用意され、個室からはさんさんと降り注ぐあふれんばかりの光を、共用ホールからは程よくろ過されたほのかな光と、それから看護婦さんたちのとびきり素敵な笑顔に満たされて、さぞやきらきらと輝いていたことでありましょう。

旧近江療養院 五葉分館