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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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10月21日(金)

デュールアールの学校

工場であらかじめつくられた部材を現地で組み立てる プレファブ建築 なるものが、どうしてこうもつまらないのだろうかというと、多分それが 「工場でつくられるから」 ではなくて、 「そこで過ごす人のことや、まわりの環境のことをちっとも考えていないから」 とでも解釈してみれば、割合い合点がゆくのではないでしょうか。
実際、1960年代はじめ頃に国内で発表された初期のプレファブ住宅など拝見すると、かつて家事仕事に忙殺されていた主婦の負担を少しでも軽くしよう といった誠実さがそこはかとなく感じられたりして、周囲との関係はともかく、ささやかな家庭の幸せそうな一コマがふと思い浮かぶような仕事もその気になれば成し得たはずなのに、いつの間にやら世間の風潮に流され、中身のない空虚で無難な売れ筋商品にすり替えられてしまったのが、悲しいけれど僕たちの暮らしに身近なプレファブ建築の現実のように思えてしまいます。

海の向こうでは、更に時代をさかのぼった1930年代より家具から建築の部材に至るまで、頑固なまでに工場生産での可能性を追い求めていた建築家(というよりも生粋のエンジニア)である ジャン・プルーヴェ(Jean Prouve) の評価がいよいよ高まるばかりで、高額で売買されるオリジナルの家具は無論のこと、復刻品ですら滅多にお目にかかれないご時世に、1952年にフランス北東部ナンシー近郊の街デュールアール(Dieulouard)に建設された移動式教室(※ 組み立てや解体が容易な正真正銘の プレファブ建築 です。)9室のうちの1室が、岡山で開催されている芸術祭にあわせて展示されるという情報を知るにおよび、プレファブ建築だから許されるまたとない機会に巡り合えるのであれば、訪ねない手はありません。
それにしても、平凡な暮らしを営んでいれば生涯出会うことはないと信じて疑わなかったプルーヴェの建築が、限られた期間とはいえ、岡山の人々が普通に歩いている道すがら、惜しまれつつ廃校になった(であろう)学校の空き地に、さわやかな秋の風が自由に行き来できる気楽さでもってどこまでも静かに佇んでいるなんて、 これは夢なのだろうか? と頬っぺたつねってみたくなるような、にわかには信じがたい光景であったと告白する次第です。

デュールアールの学校

実際、60数年の時を経てつかの間、異国の地にふわりと天女の羽衣のように舞い降りた簡素きわまりないプレファブ教室は、本来まとうべき壁や天井のパネル材等を身に付ける以前の、つくり手たちの偽らざる素顔をそのままにした 構造材むき出し の状態であえて展示されているようでした。
芸術作品と違って、それ相応の大きさと機能からは金輪際逃れることが許されない現実世界の建物は、すなわち重さとのせめぎあいでもあり、頑丈にしようとすればするほど、機能を盛り込めば盛り込むほど、ごてごてと重たい装備を引きずってゆかねばならない。 そんな憂鬱さとはきれいさっぱりさよならするくらいの 潔さ がプルーヴェの学校(というか教室)には満ち満ちていて、たとえミュージアム級の貴重な作品であっても 雨風やお日様に、そして地域の人々に身近な環境に置かれることこそがふさわしい! と主催者も所有者も判断したのでありましょう。

僕たちの身近にある現実世界の建造物は、鉄骨造であれ木造であれ、重機の力に頼らなければいけない 人との隔たり を常とするわけですが、洗練の限りを尽くしたハイテックな印象のプルーヴェ建築に対して、どれも数人の職人さんが彼ら自身の手で持ち上げて組み立てられる、ひどく人間に寄り添った 隔たりのなさ をひしひしと感じるのは、設計者が工場のなかでモノをつくっているからに違いなく、 「ベッキーユ(bequilles:松葉杖)」 と称される逆三角形のがっしりとした頼もしげな柱も、よくよく観察してみればぺらぺらの薄い鋼板を折り曲げてつくられてあり、そこに接合される梁材もまた然り、ありふれた規格の材料ではない、工場で機械を使ってはいても人間が組み立てることを前提に、結局は機械を介して人間がつくっているのですから、何も効率やビジネスだけがすべてではないのだという考え方に、これっぽっちも迷いがない と気づくのにさして時間はかからないはずです。 何しろ、手を伸ばせば触れられそうなすぐそばから本物が語りかけてくるのですから。

最小限の材料で最大限の効果を発揮する という明快な発想は、身体にフィットしなければ用を成さない家具づくりにも精通し、建物との境界を偏見なく飛び越えてしまう柔軟さゆえからでしょうか。
いずれにしてもジャン・プルーヴェのモノづくりは、いつも機能と構造からスタートするとみえて、教室と廊下との間に必要な 仕切り の部分に大半の屋根荷重が集中する逆三角形の柱を配置して、偏心するバランスと教室内に自然光を取り込む片流れ屋根とが生み出す無駄のない形態とが仲良く折り合いをつける架構法を極限にまで突き詰めるとこうなったのですよ。 とでも語りだしそうな、言葉や時代の違いすらも障壁とならない、むき出しの構造を一目見ることで分かり合えるのは、そんなに難しいことではありません。

デュールアールの学校

では、デュールアールからやって来たちいさな教室を通して、建物の建てられる環境とそこで暮らしを営んだり、あるいは過ごしたりする人の幸せをしっくりと思い浮かべてみることにいたしましょう。
…広大な田園のなか、ささやかな住宅がのどかに肩寄せ合うちいさな街の真ん中には、お決まりのように教会と小学校があって、いかにもこの街にふさわしい、簡素な学び舎はそれ相応の年月を経て、あちこち随分と繕われ、21世紀の今日ではさして目立たない存在なのかもしれません。 けれども、周囲の街並みに溶け込んだ緩やかな片流れの屋根の下、猫の額ほどの校庭に目いっぱい開かれた天井までのガラス窓があたたかな日差しを取り込んで、赤く塗られた松葉杖のような柱の間には木製の棚板の下、ちいさなカバンがずらり並んで、かの地で学ぶ子どもたちの姿をしっかと見守り続けるプルーヴェのプレファブ教室が、いつまでも変わらずあり続けていることを。
 
10月03日(月)

豊郷小学校旧校舎

昔懐かしい木造校舎や地域の象徴として親しまれていた凝った意匠の鉄筋コンクリート造校舎が、いつの間にやら何の地域性も象徴性も感じられない、無表情な箱型の校舎に全国一律で均質化されてしまったのは、1934(昭和9)年に上陸した室戸台風以降のお話です。
当時、台風が直撃した関西エリアでは高潮による浸水だけでなく、強風によって木造の建物が多数倒壊し、特に古い木造校舎の倒壊によって多くの児童や教員が犠牲になった過去の事例に省みて、国が基準を見直し、それまでは比較的自由な様式で地域性にあふれ、人々の誇りであり拠り所であった知の集大成ともいえる学び舎が、防災重視のため極端に画一化され、結果として定められたマニュアルに従うだけの、夢も想い入れもない、ただの 四角い箱 に成り下がってしまったのが悲しい物語の顛末なのでした。

そのような、やむにやまれぬ事情によってでしょうか。 1937(昭和12)年、どこまでも平坦な田畑が続く、すこぶるのどかな近江の田園風景のただなかに忽然と姿をあらわし、 「白亜の殿堂」 と称され一大センセーションを巻き起こしたヴォーリズ設計の豊郷小学校が、普段僕らが慣れ親しんだ穏やかで控えめな様式建築とは似ても似つかぬ、つるりんとした豆腐のようなインターナショナル・スタイル(※ international style : 1920年代にヨーロッパで派生した、工業化時代を象徴する、装飾を排したシンプルかつ機能的な建築様式のこと。)をまとっていたのですから驚かないわけにはゆきません。
ただ、地域性を無視した といえなくもないインターナショナル・スタイルの学び舎が、地方色にあふれヴォーリズが世界の中心と位置づけ、生涯拠点とした近江の地で本当に愛され慈しまれているのかについては甚だ疑問だったのが正直な気持ちで、写真でみただけではどうにもしっくり判然としなかったものですから、巷のアニメ好きの方々による 聖地巡礼 ではありませんが、この目でしっかと見極めることにした次第です。

それにしても、ヴォーリズ建築の真髄は、その場に身を置き、その場の空気に触れてみなければちっとも分からないものだとしみじみ痛感するほかなく、さすがに周囲は少しばかり建て込んできてはいても、まだまだ田畑がちらほらと顔見せるなか、かつては江戸と京とを結ぶ街道であった、ひどくヒューマンスケールな中山道に面して愕然とするくらい広大な敷地に、頼もしいくらいに悠然と両の手ひろげどっかと腰据えた長大な白亜の殿堂が、田畑や芝の緑と抜けるような青空とのはざまで、なまじ装飾を使ったところで到底太刀打ちできない潔さが不思議なくらい近江平野ののどかな田園風景に映えているのは、数多ある学校建築にしばしば見受けられる薄っぺらな機能主義ではなく、様式や形式といった境界を飛び越えた先にある、ものづくりの本質を素直に表現したインターナショナル・スタイル本来の姿であるように思えて仕方がありません。

この歴史的建造物は一時期、度々ニュースで取りざたされていたように 「古い建物+必要な修繕をおこなわない=老朽化→構造に問題がある→児童が危険→壊して建て替え」 という自治体側のいかにも お役所仕事的 な方程式に、建築の専門家よりむしろ校舎に対し誇りと惜しみない愛着を抱く地域の人々の保存活用を願う気持ちが防波堤となって、既存の運動場の一角に新校舎を建設し、旧校舎は適切な耐震改修をおこない保存する方向で収束した という経緯がありました。
ちなみに、昭和初期に建設された白亜の殿堂は現代の構造基準にも通用する堅固なつくりで、一部のみ耐震補強をおこなった上、竣工時の状態を尊重した改修を経て老若男女、地域住民はむろん全国各地から訪れる、さながら 「すべての人々のための母校」 といった賑わいをみせていて、新校舎に移った(移らされてしまった)児童たちが不憫に思えてしまうくらいに、いまだきらきらと輝きを放ち続けています。

実際、豊郷小学校の(旧)校舎は、子どもたちだけではなく地域の人々にもあまねく扉が開かれていて、本校舎から独立してひどくモダンで洗練された図書館と講堂が行儀よく左右対称に配され、教室から渡り廊下を経る児童用のアプローチとは別に、いかにも豊郷らしく、正門から実習用の水田や畑の間を貫く(畦道ならぬ)立派な舗装通路から芝生の前庭を経た先に来館者用の玄関があつらえてあるという、何とも誇らしい、有名私立校の図書館あるいは由緒正しいミッション校の礼拝空間かと見まがうような清浄な講堂をこの町の子どもとおとなが等しく共有する、公共施設としてこんなにも理想的な環境が80年あまりも前に実現していたなんて、俄かには信じがたい出来事ではありませんか。

それでは早速、夢見心地で本校舎を訪ねるとしましょう。
正門の遥か正面には、ちろちろと涼しげな水音が耳をくずぐる円形の噴水があって、その背後に隠れてしまいそうなくらいに長大な校舎には不釣り合いなくらいちっぽけな、あのヴォーリズ建築ではすっかりお馴染みの、けれども豆腐のようにひどくあっさりした車寄せが ちょこん とくっついていて、やはり、これ程の校舎にしては拍子抜けするくらいにささやかな扉をくぐれば、案の定ほんのりと薄暗いエントランスだったりするものですから、もうほとんど親しい知人の家を訪れる気安さですっかり緊張の糸もほぐれた頃合いに、目の前にひろがるのは子どもの身体スケールを楽々と超越した、幅も天井高さも規格外の大空間。 「本当に、これがヴォーリズの空間?」 と、しばし呆然と立ち尽くす廊下にはふんだんに自然光が差し込み、目測で100mでは利かないくらい途方もない直線廊下を 「いつか風のように駆け抜けたい!」 と想像するだけで通わずにはいられない気持ちにさせてくれる学び舎がこの世にあったなんて…。

この建物を語る際に、しばしば美談として取り上げられる階段室が、ありとあらゆる場所がかっちりと直角に統一されるなか、かつてヴォーリズの建築を体感した御仁であれば誰もが懐かしさに思わず知らずほろりとする、角という角に丸みが与えられ、いつ上り下りしたのかすらも判然としない、魔法のような心地よい感覚に加え、どっしりとした木製手すりにはイソップ物語を源泉とする ウサギとカメの物語 をしみじみと体感できる愛らしいブロンズ像が、ふと気がつけばいつもそこにある幸せにめぐり会えることでありましょう。
ただし、3か所ある階段室のうち ウサギとカメの物語 を三たび連続体感できるのはたったの1か所だけ。 本来2階建てで事足りるはずの豊郷小学校の屋上部分には 唱歌室 が独立して設けられていて、これは他の教室に音が漏れないためのヴォーリズ流気配り と解釈されるようですが、僕はそれに加えて、庭園と一体化した日本家屋における伝統の 「離れ」 における水平な空間構成を、西欧の空間構成を体得するヴォーリズが垂直方向へと応用した一種の 離れ家的 な位置づけにあるのではないかと考えています。

豊郷小学校 唱歌室

豊郷小学校の特別教室には、設計者であるヴォーリズと母校のために私財の3分の2を寄贈して、東洋一と評される新校舎を実現させた実業家の古川鉄治郎からの おくりもの が用意されていました。
たとえば、理科室には実験用の電源供給設備、理科準備室には暗室、手工室には足踏み式の糸鋸盤、手工動力室(※ 教員が教材を自作するために使っていました。)には電動工具、地歴室には巨大な地球儀、裁縫兼算術実験室にはミシンや測量器具、屋内体操場には映写室、運動場には200mトラックやバスケットボール等の各種球技コート、相撲場、芝生の斜面に縁どられたプール、階段室の下には弁当保温所、図書館には司書が常駐… といった具合にです。
けれども、とりわけ素敵なのが唱歌室に用意されたステージではないでしょうか。

全校児童が一堂に会する講堂に立派なステージがあるのは理解できるにしても、クラス単位で利用する唱歌室(現代でいうところの音楽室でしょうか)にわざわざステージを設けるなんて、ちょっと想像がつきませんし、とにかくスケール設定が実に絶妙なのです。
唱歌室の広さは、普通教室をひとまわり大きくした程度にすぎませんが、鉄筋コンクリート造ならではの梁構造をあえてデザインとして露出させて目いっぱい天井高さを確保してあり、その高さと構造の特徴を上手く利用して斜め上方から自然光が部屋の奥まで届くよう工夫されています。 その正面にぽっかりと本格的なプロセニアム・アーチ付きのステージが冗談とも本気とも受け取れる 「世界最小サイズ」 でくっきりと空間を切り取っていて…。 いえ、両袖に備品置き場を兼ねた控室があるくらいですから本気に違いありません。 しかも、ステージ脇の壁面は教室(客席)側への反響を意識して意図的に傾斜させているところなど、設計者の唱歌室に対する想いの数々が、21世紀の今日でもひしひしと伝わってきます。

そんな、とびきり素敵な教室から児童たちの歌声が途絶えて久しいなか、もはや主役を失った建物からは他の廃校になった小学校がたどる末路と同じようにすっかり生気が失われてしまったのでしょうか。 答えは NO です。 なぜなら、アニメーションのなかの世界が実在する(正確には、豊郷小学校の空間がアニメーションの世界で忠実に再現されている)理想の空間を、この身で体感したいと願い、登校する人たちが後を絶たないからです。
地元の(本当の)卒業生の一部の方々からは、 「ちょっと理解に苦しむ」 といった声があるのは確かに事実に違いありません。 一部にマナーに欠く行為があったとも聞きました。 けれども、実際はるばるこの校舎に足を運んで終始笑顔で、何の偏見もなくヴォーリズの空間を自然体で楽しんでいる姿をみるにつけ、きっとヴォーリズ自身だったらあたたかな愛情に満ちた微笑みで見守ってくれただろうと想像するのです。 ここには、懐かしむべき母校を失ってしまったすべての人々をやさしく迎え入れるだけの、広くて深い懐があるのですから。