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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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09月01日(木)

松風荘

時折り、こんなことを考えます。 もし、僕が欧米あたりで生まれ育った西欧人だったとして、ある日、それまでほとんど知る由もなかった、日本という、遥か遠い島国で育まれた未知の文化に触れたとしたら、たちまち虜になって、なぜ日本人に生まれなかったのだろうかと地団太踏んだに違いないと。 しかし、それは単なる空想のお話ではなく、現実に幾らでも起こりうるはずなのです。 特に、1950年代半ばのニューヨークあたりでは…。

モダンアートの殿堂として世界に君臨し続ける ニューヨーク近代美術館(MoMA:The Museum of Modern Art) は、1949年、増築工事によって生まれた中庭(※ 通常は彫刻作品を展示しています。)を活用した新たなプロジェクトに着手しました。 なんと 「実物の住宅(もちろんモダン住宅)を中庭に建てる」 という内容なのですから驚きです。
これは、文化面では先進的な考えを持つアメリカの人々も、こと住まいに関しては結構保守的なところがあり、だからこそ、本物の建築を通して新しいライフ・スタイルを直接体感することで、洞察力に優れる消費者の感性に届くような企画を実現したいという、関係者一同の熱い想いがあったものと推察されます。 実際、第二次世界大戦が終わりを迎え、帰還兵だけでなく、誰もがこれからの住まいのあり方について強い関心を持っていた時代ですから、むしろ必然的な結果であったともいえます。
美術館としては前代未聞となる壮大なプロジェクトの第一回(1949年)および第二回(1950年)は、いかにもモダンアートの殿堂にふさわしく、大きなガラス窓を用いた時代の最先端をゆく、 これぞモダン住宅 といった内容で、建築家やキュレーターによって建物のみならず家具類にまで目が行き届いた、憧れの我が家を存分に体感できる出来ばえだったようです。
それにしても、世のなかにはつくづく偉大な人物がいるもので、いよいよこれが最後となる第三回の住宅を、ヨーロッパでも、アメリカでも、まして20世紀でもない、17世紀頃の伝統的な日本の住宅を、高層ビルディングが林立するマンハッタンの真ん中に出現させてしまおうという、とてつもない発想だったのでした。 これは、別に酔狂でも何でもなく、ある意味、きわめて理にかなった発想でもあって、欧米の先進諸国が20世紀になってようやくたどり着いた近代建築のスタイルが、日本ではとうの昔に実現され、連綿と受け継がれてきた伝統の住まいに、多くの共通点が見い出せることに、そろそろ専門化たちが気づき始めていた頃で、まだ見ぬ海の向こうの島国の情報を、せめて本からでもとむさぼるように読みふけった欧米の建築家も少なからずいたのではないでしょうか。

途方もないプロジェクトの実現のため、MoMAの担当キュレーターと、親日家であり、先代よりMoMAをサポートしているJ.D.ロックフェラー夫妻が日本を訪れ、二ヶ月にわたって各地をめぐった末、滋賀県にある三井寺(園城寺)の塔頭、 光浄院客殿 をモデルにすることを決めました。 光浄院客殿は、1601年に建立された、日本の住宅建築の源泉ともいえる書院造の代表的遺構と位置づけられる建物で、代々宮大工と庭師を継承する生え抜きの職人たちに加え、近代建築だけでなく日本の伝統建築にも造詣の深い建築家の吉村順三が設計を担当し、数百年前に完成の域に達していた書院造の住宅をニューヨークの地に実現するはこびとなったわけです。 しかも、移築ではなく 新築で です。
広大な境内地にぽつぽつと顔みせる大寺院の塔頭と違い、会場は鉄とガラスとコンクリートで出来上がったビルディングが林立する大都市のなかの貴重な空地。 そこに、木と紙と土で出来上がった門外不出の建築物を庭と一体となるよう再現しなければなりません。 そうなると、もはや一個人の仕事でも、一美術館の企画でもない、国の威信をかけた一大プロジェクトといっても過言ではありません。
しかし、モデルとなる(国宝の)光浄院客殿は、純粋な住宅というよりも要人(※ ここでは大名クラスの武士。)を迎えるための施設といった使われ方をされていたようですし、規模的にも技術的にも昨今の個人住宅の比ではありません。 そこで、吉村は客殿を住宅における母屋と考え、主庭に大きく開放された二つの座敷を生活のための主室と位置づけた上で、サポート空間として廊下や納戸をコンパクトに組み合わせ、隣接するようにして台所、私的な接客空間として小間の茶室、さらに厠、浴室を母屋と中庭を挟むようにして別棟で付属させることで、内外の一体感や各室の位置関係、人の動線や機能性までを満たした、完成度の高い住宅に仕上げてみせたのです。

松風荘

松風荘と名付けられた作品は、1954年から翌55年までの約二年間という長期にわたって公開され、期間中、会場付近は長蛇の列、好評を博しただけでなく、ある種の社会現象を巻き起こしたようです。 当時撮影された写真をみると、54丁目の通りから植栽ごしに桧皮葺きの大きな屋根がゆったりと浮かび上がっていて、 大きな といってもそこは平屋建てですから、スケールだけみれば周囲の高層ビルディングに比べるべくもないはずなのに、あのマンハッタンを象徴する摩天楼の造形がごつごつと、どうしようもなく無骨に感じてしまうほどに優雅で近寄りがたい気品を纏っているのが否応にも伝わってきて、近代文明が到達し得なかった美の産物を、世界屈指のモダンアートの殿堂が(期間限定とはいえ)所有してしまった事実に、当時のニューヨーカーはさぞや驚いたことでありましょう。

この企画展の様子を取り上げた日本側のメディアによる記事を拝見するに、どうしても母屋(光浄院客殿をモデルとした建物)と主庭との関係のみに着目した内容になっているため、ドラマにたとえるところの主役にのみ目が向けられているような状態にあり、実は優れたドラマほど、脇役の演技にきらりと光る魅力があったりするもので、設計者の吉村順三は、主役にあたる母屋と主庭だけではなく、誰もさして見向きもしない、ついでの脇役ともいえる背後の台所や浴室、厠に対しても分け隔てなく、並々ならぬ情熱を持ってこの仕事に取り組んでいたのではないかと思えてなりません。
吉村は、学生時代からの師である建築家の アントニン・レーモンド(Antonin Raymond) の事務所で働いていた頃、週末になると東京から夜行列車に乗って京都や奈良の地を訪ね歩き、茶室や寺院などの古建築を熱心に実測・記録していたそうで、レーモンド譲りの西欧流のライフスタイルや合理的な考え方に基づく設計手法と、自国の優れた文化に対する深い洞察力の双方を併せ持つ、稀有な存在であったといえます。 だから、松風荘の母屋と附属棟との位置関係や中庭の取入れ方には、大徳寺あたりの塔頭との相違点が見い出せるだけでなく、厠への巧みな動線処理や浴室と中庭との関係(※ 浴室は、ヒノキ製の浴槽に浸かって中庭を眺められるだけでなく、池に注ぐ水のゆらぎや音までが楽しめるように考えられています。)や換気方法には、吉村が手がける最新の住宅作品と同様の考え方が取入れられていて、それらが近代の素材やテクノロジーに頼ることなく、17世紀当時に用いられていた木や竹、漆、紙、しっくいといった材料のみで成し遂げられている事実に、ひどく惹きつけられ、はかり知れない衝撃を受けるのです。

当時、MoMA側によって撮影されたと思しき会場の写真や映像作品には、庭と建物との関係性に着目した内容のみならず、台所や浴室、厠の詳細をきちんと捉えていることに気づかされます。 それまで、彼らにとってのバスルーム(※ 浴室だけでなく、トイレや洗面を含む。)は、あくまでも衛生面での機能を満たすための空間であり、機器や仕上げのグレードを上げたり、各寝室ごとに設けたりすることはあっても、決して外部に開かれることはなかったはずです。 それなのに、松風荘では、巧みな空間構成によってプライヴァシーを保ちながら、母屋と付属棟との間のわずかな隙間にすら庭をつくり、季節や時刻のうつろいを感じる空間としての命を吹き込み、たった二畳の浴室をとびきり素敵な場所にしてしまった。
吉村は、日本の美的生活を、最も地味で無関心なバスルームという空間を通して異国の人々に伝えたかったのかもしれません。 文化とは本来そういうものですし、それが美術館の役割なのですから。