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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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08月17日(水)

ボロ

絵本のタイトル 「ボロ」 は、犬の名前。 灰色に汚れた毛並みがどうにも ぼろぼろのボロ雑巾 のようだったものですから、女の子 がそう名づけたのでした。
絵本に出てくる女の子は、小学校の2・3年生くらいでしょうか。 このくらいの子どもはみんな明るく無邪気で、模範的なよい子 などと、世の中のわけの分かったおとなたちはそんな風に思いたいのかもしれませんが、子どもだって人間関係に悩むこともあれば、悲しい思いもします。 時として(特に上から目線の)おとなの声や眼差しは彼らにとって、随分と遠く隔たって感じたりもするものなのです。 現実は。

ボロ
「ボ ロ」  いそみゆき 作 、長新太 画 (ポプラ社)


一編の児童文学としても十分に素晴らしい原作は磯みゆき 。 ひょっとしたら物語のなかの女の子は、幼い頃の作者自身なのかもしれません。
どこか遠い、けれどもひどく現実的で悲しいお話を、何となくぼやけた調子で、一見無造作に描いたかのようにも受け取れる絵は 長新太。 しかし、彼の絵はよくよく注意してみると、実に感心するくらい丁寧に描かれてあって、ぼやけてみえる理由は、ひろいひろいこころで物語を理解しているため、 普段は立ち入ることの出来ない、みる人の こころのずっとずっと奥深いところ に届けるためであって、大海のような彼の視点にはいささかのブレもあろうはずがありません。

絵本のなかのボロは、なぜかいつも悲しそうな目をしています。 そしてボロは、文学作品に登場するような名犬でもなければ、誰からも好かれる可愛らしい子犬でもありません。 すっかり年老いて行き場もなく、片目は白く濁っているのです。 だから悲しそうにみえるのでしょうか。 ボロは本当に悲しいのでしょうか。 それはちょっと違うと思います。 ボロの目が悲しそうなのは、ボロがいつもみつめている女の子が悲しそうにしているから、ボロも悲しいのです。 ボロの目は女の子のこころを映し出しているのではないでしょうか。

それでも物語のなかでたったひとつだけ、ボロが悲しそうにみえないシーンがあります。 女の子がボロの姿を描いたところ。 絵のなかのボロの表情です。
この幼い子どもが描いた絵も、もちろん絵本を描いた長新太自身の手によるわけですが、どうしておとなであるはずの彼に、これ程の表現が成し得たのか不思議なくらい、つくづく素直で素敵な絵だな と、ページを開く度に感心してしまいます。

きっと本当は誰もが皆、ちいさな頃は誰にはばかることなく思う存分、自身の気持ちを絵として表現していたはずです。 その絵はどれもこれも拙い出来に違いありませんし、お世辞にも上手な絵とはいえないでしょう。 しかし、そのような表現のなかにこそ、かえって人を感動させる 大切な何か があるはずなのです。 そして、それは誰よりも、描き手である彼らにとってかけがえのない大きな喜びに違いないのですから。

ところが、どの子も描けていた自由自在な表現も、小学校に上がって数ヶ月も経つと、とたんに影を潜めてしまいます。 なぜかというと、表現までもが点数で評価されるようになり、傍目に要領よく上手にできる子が 「よい子」 なのだ という 誤った仕組み を認識してしまうからではないのかな と、個人的には解釈しています。
こうなると要領のよい子は、いかにも人に褒められそうな上手な絵を描き、さぞやおとなたちに褒められることでありましょう。 それに引き替え、自身の気持ちを偽らず素直に表現した子は、傍目に未熟な技巧であればいつまでも評価されることはありません。 そうなってしまうと、もはや 絵を描くこと 自体が喜びではなくなってしまいます。

けれども、ボロを描いた時の女の子は、誰かに褒められるために絵を描いたのでもなければ、よい点数を望んだわけでもなくて、そばにいる たったひとりの友だち を、ただただ夢中で描いていただけだったのではないでしょうか。
そんな時の女の子はきっと、自由に気持ちを表現できる 喜び につつまれていたに違いありません。 だから、そんな女の子をみつめていたボロの目も悲しそうではなかった。
そのような絵を、絵本作品として描いてみせた長新太は、磯みゆきから託された物語のなかにこめられた女の子とボロの気持ちを、曇りのないこころで過たず受け止めることができた数少ないおとなだったんだ と、目立たない一冊の絵本を開くたび、しんみりと想像するのでした。
 
08月01日(月)

もうひとつの原爆慰霊碑

直接、広島の地を訪れたことのない方でも、毎年、原子爆弾が投下された8月6日の午前8時15分、厳かな鐘の響きとともにはじまる平和記念式典の映像を通して、白いみかげ石でつくられたアーチ状の慰霊碑に切り取られた向こうに池の上、世界中の核兵器が無くなる日まで炎を灯し続ける平和の灯の背景に原爆ドームがおさまる構図を、平和を願う気持ちとともに、記憶の奥底にしっかりととどめている方は、随分といらっしゃるのではないでしょうか。

広島市の中心部、つまり、爆心地のすぐ近くに位置する平和記念公園は、一瞬のうちにすべてを失ったこの街が、絶望のどん底から平和都市としての歩みをすすめる上で、あらゆる人々の精神的な拠り所となる市民公園として生まれ変わるべく、建築家・丹下健三の設計によって1954年に開園のはこびとなりました。
丹下は、多感な十代後半の数年間を過ごし、建築家を目指すきっかけとなったこの街に対し深い思い入れがあったとみえて、原爆投下の一年後には広島に入り、復興計画のための調査を開始、後に開催されたコンペを経て平和記念公園の設計者に選ばれたそうです。
コンペの際に制作された平和記念公園の模型写真によると、地元の人々に 100メートル道路 と呼び親しまれている(実際100m幅の)平和大通りに沿うようにして、主要な建物となる国際会議場(もとは公会堂)、平和記念資料館(本館および東館)が並び、それら東西方向の軸に直交するようにして公園全体を貫く南北方向の軸を設定、その軸の先に廃墟と化しながらかろうじて建物の痕跡をとどめる原爆ドーム(※ もとは、広島県産業奨励館として使われていた建物。)がぴったり一致するように計画され、ふわりと地上から持ち上げられた、明るい未来を象徴する存在としての平和記念資料館に対し、傷めつけられ、危うく今にも崩れ落ちてしまいそうな、暗い過去を象徴する存在としての原爆ドームが、新旧対等な関係で次代に引き継がれ、復興への過程のなかで取り壊される運命にあった、いえ、できればいっそ取り壊してほしいとどれ程願ったかしれない、つらく悲惨な過去の遺物を 「負の遺産」 と位置づけることで、場所そのものを通して未来の人々に平和の尊さを伝える、これからの広島の歩むべき方向性をはっきりと暗示してみせたのです。

模型写真では、平和記念資料館(本館)の北側には現在と同様に大きなひろばが設けられていて、公園の中心部に該当するひろばの北側あたりに、ちょうどセントルイスのジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアル(Jefferson National Expansion Memorial)にある 「ゲートウェイ・アーチ(Gateway Arch)」 のような巨大なアーチ状の構造物が、さながら虹の架け橋のように軽やかな放物線を描いておりますが、高さが100mはあろうかという巨大さゆえか、さすがにこの案は実現には至りませんでした。 おそらく、過去(原爆ドーム)と未来(平和記念資料館)をつなぐ軸線上に、原爆によって亡くなられた方々を弔う場をつくりたいのだというところまでは確信しながらも、では具体的に空間としてどのようにすべきか、若き建築家であり都市計画家であった丹下は、随分と試行錯誤していたのではないかと想像しています。
折りしもその頃、拠点とするニューヨークを中心に名声を得つつあった彫刻家のイサム・ノグチが、奨学金を得てヨーロッパ、インド、東南アジア等を訪ねた末、父の祖国であり、また自身も幼年期を過ごした日本に滞在し、国内の建築家や芸術家との親交を深めていて、これをきっかけに新たな創作活動を展開する、彼自身のキャリアの上でも1950年からの数年間は、たいへんに実り多く充実した時期であったといえそうです。
戦争に敗れ、深い傷を負った日本の人々に対して、かつて敵国にあったアメリカ人の血が流れている、いかんともし難い運命を生まれながらにして背負ってしまったイサムは、だからこそ、芸術を通して架け橋となるのは自分自身に与えられた本当の仕事なのだといわんばかりに、すさまじい集中力をもって獅子のごとく奮闘していたであろうことが、残された数々の作品たちからとつとつと語りかけてくるかのようです。
丹下健三とイサム・ノグチが出会ったのも、その頃だったのでしょう。 ただただ、日本の人々の役に立ちたいという、イサムの真っ直ぐな情熱や仕事に対する真摯な姿勢に対し、丹下は 平和記念公園の原爆慰霊碑のデザインを委ねる という方法で応えました(※ 同時期に、平和大通りに架かる二つの橋の欄干デザインも依頼しています。)

当時、東京大学の丹下研究室で助手をつとめ、後にイサムとの仕事にも携わる機会を持つ建築家の大谷幸夫が記したエッセイによると、常に粘土を使って慰霊碑の形態を思考していたそうで、 「ものごとを結果だけで問うのではなく、そこに到るまでの過程に大切な意味がある」 という名言を残しています。 イサムの手によって導き出された慰霊碑のあるべき姿は、丹下が最初に示したコンクリートと金属による軽やかな虹のようなアーチとはおよそ好対照を示す、黒く重いみかげ石で出来上がった、高さ4メートルほどのずんぐりとしたアーチだったのでした。

原爆慰霊碑(イサム・ノグチ案)

可憐な菊の花によって縁取られた、平和記念式典の会場となる平和記念公園の慰霊碑前には、被爆者とその遺族のみならず、政府や自治体、団体関係者、100カ国あまりからの国賓、そして広島市民を含む数万人が参列するに足る、まとまった規模のひろばが設けられているため、参列席の正面に位置する、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈る象徴的存在である慰霊碑は、その空間の規模や位置づけにふさわしい内容でなければならないはずです。
そのように考えると、最初に丹下が発案した高さ100メートルのアーチは技術的あるいは予算的にも現実的ではなかったとしても、高さ4メートルのアーチとはいささか貧相すぎやしないか? などと、ややもすると世間から非難されかねないくらいに、担うべき重責から察すると実に心許ないはずなのに、イサムの創造する(彼いわく、家型の埴輪の屋根から着想を得た)慰霊碑は、そこに集まるすべての人たちの深刻ともいえる想いをまるごと受け止め、あたたかく包み込むかのような、しかも限りなく静かに、どこまでも謙虚で、力強さをぐっと内に秘めた頼もしさすら感じさせる、彼にのみ創造することが許された としか表現しようのない、精神性の高い提案になっていました。
これは、イサムがとりわけ(彫刻のような)作品を量感で表現する能力に卓越していたのはむろん、一見すると図太いようでありながら、ひどく繊細で詩的な情緒を多分に有している、ある種の はかなさ を併せ持つ稀有な芸術家だからこそ、これ程までに僕たちのこころを惹きつけて止まないのでしょう。
さらに驚くことに、このちいさな慰霊碑は、大地に深く根を下ろして人知れず地下空間を形成し、さんさんと陽光が降り注ぐ地上のひろばとは裏腹に、ほの暗く静謐な祈りの場をつくり出していて、あの、てこでも動かない不思議な安定感は、目に見えない もうひとつの慰霊碑 によって支えられていた というわけです。

原爆慰霊碑(地下空間)

しかしながら、渾身の作であるイサムによる慰霊碑案が実現されることは金輪際ありませんでした。 それは、提案内容そのものに不備があったわけでも、まして、技術的あるいは予算的な問題でもなく、彼に原爆を投下したアメリカ人の血が流れているから。 そう主張した広島市の平和記念都市建設専門委員会の中心人物であり、建築界の権威でもある人物は丹下を支え導いてきた恩師でもあったため、イサムを推薦した丹下にとっても、全力で応えようとしたイサムにとっても受け入れざるを得ない、さぞやつらい結果であったに違いありません。
それでも、彼ら二人の友情にいささかの亀裂も入り込む余地などあろうはずがないのです。 なぜなら、丹下は彼流の解釈によって、自身が創造し得る、日本人にしか描き得ない最も美しいラインでもって、過去と未来をつなぐに相応しい、イサムが夢見た家型埴輪の屋根を実現したのですから。 そして、屋根に覆われた下にはささやかながら、原爆死没者名簿を納めたちいさな石室が据えられて、静謐な祈りの場をつくり出していたのですから。 そう、イサムが夢見た地下空間のように。