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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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07月16日(土)

ティコ・ラジオ

どうやら僕は、一分の隙も無い優秀なモノよりも、ちょっと出来が悪いようだけれど、つくり手の想いが伝わってきて仕方のないようなモノに惹かれる傾向にあるようです。
たとえば レクソン(LEXON) という、フランスの雑貨系の製品を手がけるブランドの 「ティコ・ラジオ(TYKHO RADIO)」 がそうで、性能といったら、オーディオメーカーや家電メーカーには到底及ばない、何とも頼りない代物だったりして… 、一体モノの本質というのは性能だけでは推し量れないところが多分にあるようで、しばし取り止めのない空想を廻らすのでありました。

ティコラジオ
「ティコ・ラジオ(TYKHO RADIO)」 w:140mm d:40mm h:80mm(アンテナを含むと h:145mm)


この、掌にちょこんと乗っかるくらいのちいさなラジオはどこか、真新しい消しゴムを ころん と横たえたような印象があります。
それは、ボディが一面シリコン・ゴムという素材で覆われているからで、おそらく生活防水の機能を得るためのアイデアから導き出されたのでありましょうが、 艶のない、のっぺりとした質感が徹底的に整理整頓されて、然るべき位置に居場所を見出した必要最小限のスイッチ類が、ややもすると気づかないくらい おしとやか に配されたがゆえに、つるつる・ぴかぴかのボディに機能満載の操作系が常識ともいえるこれまでのデザイン手法を、実に さらり と覆してみせたのですから感心しないわけにはゆきません(※ 写真では分かりにくいかもしれませんが、グレーの突起をアンテナとしてデザインし、それを回転させることで、チューナーとしての機能を付加させています)

これまでプロダクト・デザインの世界において、知らず知らずの間に縛られてきた 既成の概念 から解き放たれてはじめて獲得できたことが、少なくとも 一つ はあるように思われます。 それは 「まわりのモノたちとの関係」 です。
当たり前ながら、生活のための道具はとりわけ生活空間において、家具を含めたその他さまざまなモノたちとの関係のなかで成り立っているわけです。 それなのに、僕たちのまわりにある多くのプロダクトときたら、そのような相互の関係など端っから無視した上てデザインされているように思えてなりません。

優れたプロダクトを数多く生み出してきたイタリアですら、美術ならまだしもデザインする術を学校で教えるなんてことは、せいぜいここ数十年くらいの出来事であって、ほんの半世紀くらい前までは、建築家や職人たちが必要に迫られて、おのおのが当然のように家具や照明器具などをデザインしていました。 そうして彼らは歴史に残る、今日でも色褪せない優れた仕事を幾つも成し遂げてきたのです。
では、なぜそんなことができたのかというと、きっと 「そのモノがどのような場所で、どのように使ってほしいのか」 が、何となくみえていたからなのではないでしょうか。 それに対し、多くのプロダクト・デザイナーは、専門性を高めすぎ、あまりに最短距離を走りすぎたために 自分の製品しかみえていない のではないかと…。

その点、ティコ・ラジオをデザインした マルク・ベルチェ(Marc Berthier) は、建築家としての顔を持つ人物ですから、ついつい小手先で器用に 格好よいモノ をデザインするような過ちは犯さず、たとえ性能に多くを期待できない環境下にあったとしても、いかに最小限の機能を偽りなくカタチにし、まわりとの好ましい関係をつくり得るかを考えていたはずです。
その証拠に彼は、光沢のとぼしい、光を吸収するゴムという素材を、理屈ではない、感覚によって導かれた比類のないプロポーションでもって、 ころりん と生活空間にささやかな 余白 を切り取ってみせたのですから。
 
07月01日(金)

天神さんの御土居

「天神さん」 の愛称で親しまれる西陣の北野天満宮。 学問の神様としての信仰も篤いため、受験を控え、合格祈願に訪れる修学旅行生にも人気の場所なのにもかかわらず、ある時期まで、どうしても天神さんに足を運ぶことができませんでした。
学問そのものは決して嫌いなわけではありませんが、学校お得意の マニュアル的な記憶術 に幼少時から馴染めず、したがって興味もなく、受験勉強はおろか、宿題というものすら満足にやったためしがなかったものですから、 道真公にお願い! などという虫のいい発想には、とてもとてもいたらなかったこと。 それに、南側の大きな通りにどんと構えた実に堂々たる石の鳥居や、延々と続く石畳の参道に気おされて、何となく場違いな気がしていたこと等がその理由です。 だから、遠目に眺めつつそそくさと足早に通り過ぎるのが常でした。

そのような経緯から、あまり馴染みのなかった西陣の街も、何かの折にたまたま迷い込んだ 五辻(いつつじ)通り という、花街として知られる上七軒からちょっと外れた、昔ながらの飾り気のない、どこにでもありそうな狭くて適度にごちゃごちゃっとした、観光とも無縁の、そこはかとなく下町情緒ただよう雰囲気が思いのほか心地よくて、けれども、べつにそこが町家がずらり並んだ伝統的な町並みというわけではなく、もちろん町家もあるにはありますが、ことさら立派というわけでもなく、ぽつぽつとありふれた昨今の住宅に建て替わってしまっていたりする。 そんな、どこにでもありそうな通りなのに、中京や下京辺りではなかなか出会うことのできない、どこか あったかい人々の暮らしのにおいがする とでも説明すれば、この気持ちをお分かりいただけるでしょうか。 ここでは、子どもも、お年よりも、ほんわか幸せそうな気がするのです。

ぼんやりと物想いながら歩く五辻通りは、自然と導かれるように北野天満宮へと行き着き、ぽっかり口あけた人影まばらな東門は、かつて経験した仰々しい南の参道とは打って変わって、下町的でこれっぽっちも気取りのない、ひどく人間らしいスケール感だったりするものですから、このまちの人たちと同じように 素顔のままの自分 で境内に足を踏み入れてみるのもまたよろし。

地元のおばあさんたちに倣って、玄関からではなく、横手から縁側に回りこむくらいの気さくさで東門を抜けると程なく、きりりとした気品ただよう、大層立派な社殿が横顔みせたりはするものの、こちらの参拝は、勉強熱心な学生諸君や観光客の皆さんにお譲りして、個人的には、梅の木の陰にひっそりと身を潜める切支丹(きりしたん)燈籠に刻まれたマリア様を拝見したりしつつ、正面の三光門の前から人けのない西向こうへと回りこむのが常だったりします。
すると、そこには目立たないけれど、ずらり 末社 と呼ばれる小さなお社が並んでいて、それらに混じって、やはり梅の木の陰にひっそり隠れるようにして、誰にも気づかれないように 神馬(しんめ)舎 が簡素ながら宮大工のぬくもり感じさせつつ、そこはかとない品格を醸し出していて、薄暗い舎には、随分と古めかしい白い木製の神馬像が、ぴんと両耳立て、さながらミス・ユニバースのように心持ち片足踏み出して、何十年、いや何百年もの間、変わらぬ気品と美しさで行儀よくたたずんでいらっしゃる。
いつ何時でも人っ子一人いない神馬舎は、どこやら懐かしい昔の建物の におい がする。 そんな不思議とこころ落ち着けるひみつの場所をふらり訪れ、ころり賽銭投げ入れて、しばし幼少の頃に帰るのがささやかな楽しみになっておりました。

ところが数年前のある日のこと。 いつものように天神さんを訪ねてみると、この先いつまでも当たり前にあると信じて疑わなかった末社たちも、あの梅の木も、それから神馬舎も忽然と姿を消して更地になっていて、京を代表する観光地にふさわしい小奇麗な庭園にでも刷新されるのでしょうか。 その間、しばらく末社は境内にある別の場所に移されたらしく、あの埃をかぶった神馬はどうしたのだろうかと気が気ではなく、時折り覗いてはみるものの、工事柵の向こうではあちこちから大工さんがとんかんと槌を振るう音がこだまするだけで、以前とは趣の違った様相を呈しているゆえ、これから綴るお話は かつての心象風景 とでも解釈していただければ結構かと存じます。

…境内の背後には、神馬舎の軒の高さほどに盛られた土手の石垣がちらちらと顔のぞかせて、数段の石段上った先は、社殿の建ち並ぶ神域とはまた別の、樹々の立ち並ぶ神聖な静けさのまにまに、遠くから がらんがらん という鈴の音、 ぱんぱん という拍手がかすかに耳に届くものの、ここで聞く音の大半は、さわさわという風の声だったり、あるいは遥か下方から さぁさぁ という水の声。 なぜなら北野天満宮の西側には紙屋川を分かつようにして、台形に土を盛った 御土居(おどい) と呼ばれる古い古い土塁が残されているのですから。

天神さんの御土居

御土居は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果ててしまった京都の都市改造の一環として、1591年、多額の経費と膨大な労力を費やして築かれたと伝えられております。 台形断面の土塁は、かつては京の都をぐるり一周するようにめぐらされ、その内側を洛中、外側を洛外とし、要所に七箇所の出入り口が設けられていたそうです。
御土居の意味については諸説あるらしく、西側が紙屋川に、東側が鴨川に沿っていて、当初はいずれも成長の早い竹を植え、満遍なく根を張らせることによって脆い土塁を堅固にし、明らかに堤防としての役割を兼ねさせていたことから、当時頻発していた河川の氾濫から人々の暮らしを守るため。 加えて、洛中と洛外の境界を明確にすることで都市の発展と農村の維持を促すよう、山紫水明に恵まれた、この土地の適切なバランスに基づいて考案されたのではないかな と、個人的には想像しています。
しかし、いつしか都市は際限なく膨張し、のどかな農村の風景は駆逐され、効率が悪いからと歴史的な意味すらも省みず御土居を破壊し、手っ取り早く宅地化してしまう。 結局、そこには理想とする都市の姿などなく、どこかで誰かがつくったマニュアルに従ってさえいればよいのだという、ブレーキを所有しない無意識の悪意が歯止めなく暴走して、とうとう河川までもがコンクリートに塗り固められ、人々の生活と切り離されてしまったのでありましょう。

それでも、北野天満宮の境内が紙屋川に接していたことが幸いして、当時の形態を維持しつつ、このあたりの御土居だけが100年、200年… と経過するうちに、当時の人々によって土塁のてっぺんや、崩れやすい斜面のあちらこちらに植えられた人の背丈ほどのちっぽけなケヤキやカエデたちが少しずつ少しずつ根を張り枝を伸ばし、今では鎮守の森かと見紛うほどに成長して。 きっとこれは、理屈でもマニュアルでもなく、人間の本能が、この場所を変えることを拒んだに違いありません。
堤防としての機能から導き出された深い谷地のような変化ある(人工の)地形は、コンクリートどころか、石垣さえも用いず樹々の根によって急勾配の法面を固めることで、情け容赦なく降り続く豪雨の際も、大地と大樹たちが水をたらふく蓄え、御土居は下流で生活する人々の命を黙って守り続けてくださった。 そんな場所ですから、手付かずの森は、それなりに 草木が伸び放題 といった様相を呈していた時期もあったのかもしれませんが、天神さんではすっかりおなじみの梅苑を御土居にまで拡張し、水際に散策路を整備し橋を架け、ただし梅だけではこの地を守ってきたケヤキやカエデたちとのバランスに欠けるので、傾斜地には新たにカエデを植えて、時間の経過とともに新旧織り交ぜたカエデの葉が幾重にも覆うまでに成長し、てっぺんでは、樹齢400年とも600年ともいわれるケヤキがどっしりと見守っている。 そもそもがまったく人工の土地にもかかわらず、自然の谷地のような奥行きのある、深みのある場所になってしまったのは、やはり 「ここが京都だから」 なのでしょうか。

祇園祭も間近の、梅雨も明けない蒸し暑い京の夏。 早起きして訪ねる天神さんの御土居は、人影もまばらで、きちんと手入れの行き届いた法面は今ではしっとりと苔むし、カエデの葉は天然の日傘となり、背後の大ケヤキは、ほとんど存在感がなくなるくらいにこの場所に溶け込んでしまっています。
カエデの葉が幾重にも重なる遥か下には、ほんの数百メートル先がコンクリートで固められているとは俄かに信じがたいくらい、軽やかに水が流れ、ひんやりした冷気と さぁさぁ という水の声を御土居のてっぺんまで過たず届けてくれる。 谷地では空気も音も浄化されつつ、水の流れとは裏腹に、上へ上へと流れてゆくものなのだということを、この場所が教えてくれるかのように。
だからここは、甘酸っぱい梅の香りただよう早春よりも、カエデの青葉が瑞々しい新緑よりも、どれほど鮮やかな紅葉の季節よりも 「夏の早朝がいいですよ!」 と、幾分胸を張って主張してみたいのです。

五辻通りで感じた、あの あったかい暮らしのにおい は、ごちゃごちゃした窮屈な我が家であっても、一歩外に出ると どこかに誰かの居場所が必ずあるから なのかもしれません。 高齢の一人暮らしでも、道行くよそさんの子も、等しく このまちの子 に違いありませんし、第一、ちいさな庭しかなくっても通りの向こう側には天神さんがあって、その奥には水の流れる静かな森があるのですから。
ひんやり苔むす御土居から届く水の声、風の声に耳傾けると、なぜか僕はモーツァルトの音楽を連想してしまいます。 たとえば雨の季節、しとしととそぼ降る雨だれの音を背景にバッハを聴いたとしても、巧みに構成された完璧な旋律に介入する自然の音は、どこまでも雑音でしかないのに対し、不思議なことに、どういうわけかモーツァルトだけは音楽の一部になって、すっかり馴染んでしまうように思えてなりません。 ぐっすりと深い眠りに入る程に溶け込んでしまうくらいの心地よさでもって。
そこで、もし可能ならば、紙屋川の水辺で奏でるモーツァルトのアリアを御土居のてっぺんで、水の音も、風の音もまるごと、適度に混ざり、適度にかき消されつつ聴いてみたい気がします。 そうして、あの薄暗い舎のなかで出会った神馬のピンと立てた耳にも届くだろうか… などと想像してみるのでした。