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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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05月16日(月)

ベルスタッフのナイロン製ブルゾン

1924年に英国で創業した ベルスタッフ(Belstaff) は、今でこそレディスモデルが登場し、ミラノコレクションに新作を発表するなど、随分と華々しい印象があるかもれませんが、それはここ10年くらいのお話。 イタリアに拠点を移してブランド化を推し進める以前は、もっと地味な、旧式の英国製あるいはドイツ製のオートバイを駆る、品格漂う、ごく一部の紳士たちの間でのみ愛用されていた、知る人ぞ知る、かなりマニアックなウェアメーカーでした。
MADE in ENGLAND の頃のベルスタッフといえば、オイル引きの真っ黒い、裾が太ももの上くらいまである古典的ともいえるジャケットスタイルで、触るとずっしりと重みがあり、最初のうちは手にオイルがつくこともしばしば といった手強さで、何事にも順序というものがあるように、若造にはいささか敷居の高い、ある程度経験をかさねた者にのみ袖通すことが許される世界。 そんな限られた大人のためのウェアは、ビジネスマンにとってのスーツに値する、あるいはそれ以上にぴしっと気の引き締まる、独特の着心地があるのです。

MADE in ITALY のベルスタッフ(つまり、現在のベルスタッフ)は、大きく三つのスタイルに分類することができます。
・ひとつは、あのずしりと重たい、純粋に実用的かつ伝統的な(紳士のための)オートバイ用衣類。
・ふたつめは、その対極ともいえる、機能性よりもモードを重視した街着としての衣類。 ミラノコレクションに出品しているモデルがそうです。
・みっつめは、これら二つの中間的な位置づけ。 オートバイでの走行にも対応できる機能と、街中で着用しても遜色ないファッション性を両立した衣類です。
この 「第三のスタイル」 を意識したメーカ-は日本にもあって、確かにおしゃれごころのあるライダーたちに少しずつ浸透してきているにはいるけれど、とかくスペックを重視してみたり、 あったら便利 といった目先のこまごましたところに執着する(日本人特有の)傾向があって、残念ながら、時間という試練に耐えうる本当の魅力にはまだまだ程遠い印象があります。
その点ベルスタッフは、細やかな気配りは日本製品に及ばないかもしれないけれど、英国の歴史あるブランドがこれまで積み上げてきた仕事を尊敬する気持ちの上に今日の仕事が成り立っている といった、ひろい視点で真っ当なモノづくりをしているような気がしてなりません。

ブリガンドブルゾン

2007年頃に発表された ブリガンドブルゾン(Brigand Blouson) と呼ばれるモデルの場合、 第三のスタイル に該当します。
ベルスタッフでは、良質な木綿生地に天然油脂を浸透させ、高い防水性と通気性をあわせ持つ ワックスコットン(WAXED COTTON) と呼ばれる伝統的な素材をいまだに継承し続けています。 長くつくり続けることで、一時期古臭いともみなされていた素材が、天然素材を見直す機運のなかで次第に再評価されるようになった好例といえるでしょう。 これに、イタリアメーカーの最も得意とするレザーを用いた製品もラインナップに加えることで、 天然素材+伝統+高いファッション性+MADE in ITALY=ベルスタッフ といった付加価値の高いブランドイメージが定着しつつあります。
ところが、90年余りを数えるベルスタッフの歴史には、なにも天然素材だけにこだわっていたわけではなく、新しい素材の開発にも情熱を惜しまない別の一面も持ち合わせていて、1960年代の終わり頃には、内側にアルミニウムを貼りつけた特殊なナイロン素材を考案し、保温性と耐水性を兼ね備えた上に軽量なオートバイ用ウェアをこつこつとつくり続けていたことは、有名なワックスコットンの陰に隠れ、意外に知られていないのではないでしょうか。 MADE in ITALY のベルスタッフも、ナイロン素材という もうひとつの伝統 に敬意を表し、実用性にファション性を加味した製品として継承する努力を怠りませんでした。 そのラインナップのひとつが、ブリガンドブルゾンだった というわけです。

ブリガンドブルゾン

ブリガンドブルゾンは、伝統のデザインエッセンスを巧みに取入れつつも、ナイロンという素材の特徴をいかして、すっきり軽快なデザインにまとめることに成功しています。 オートバイでの走行を重視し、転倒の際に衝撃を受けやすい肘や肩などの生地をあらかじめ二重に補強しておき、それをデザインとしてみせる といったお馴染みの手法を、ここではあえて放棄して、(街中での着用でも違和感ないように)身頃部とアーム部を縫製なしの 一枚もの にするなど、高度な技術とセンスでもって潔いくらいに簡略化してしまいます。
これにあわせてポケットも、マチがあったほうが収納量はあるけれど、あえて凹凸のない平坦な形状にしていますし、 立ち襟の合わせは、 金属のバックルにベルト締め という往年の定番スタイルからベルクロ(マジックテープ)へと拍子抜けするくらいに簡略化。 それにあわせて、ファスナーやボタンなどの金属パーツは出来るだけ目立たないように と、絶妙なバランスで細部にまで気配りが行き届いています。 もはや、美学と表現してもよいかもしれません。

なかでも、最も注目に値する点が 裾の長さ です。 伝統的なジャケットスタイルでは、裾は太ももの上あたり、ちょうど股下が隠れるか隠れないくらいの長さにして腰まわりを覆ってしまいます。 このほうが、走行中の雨、風、寒さから身を護るためには都合がよいからです。 ただ、このままでは裾がばたついて邪魔になってしまいますから、ウェストにベルトを締め付けて安定させます。 こうすると、デザイン上もからだの中心にあるベルトがポイントになってサマになる。 これが、古来よりベルスタッフの基本スタイルとなっていました。
これに対し、裾をウェスト部分でカットして腰まわりを露出させてしまう ショート丈のスタイル というのもあります。 外部にからだがむき出しとなる前提のオートバイ用のウェアでは、腰まわりが無防備になるため実用性には劣りますが、見た目がすっきりしてファッションのコーディネートが容易になる という利点があり、実際、オートバイに乗っていなくても街着で普通に着こなしている人も多いはずです。 一般的に ライダースジャケット と呼ばれるのが、このタイプです。
一方、ブリガンドブルゾンはというと、裾丈がウェストでもなく股下でもない、ウェストよりも5~10cmくらい下の微妙な長さ設定になっています。 中途半端な長さ と表現してみても、差し支えないかもしれません。 しかし、実はこれにはちゃんとした理由があると思うのです。
ウェストまでのショート丈では、オートバイでの走行中に下から風が入りやすくなり、体力を消耗します。 こうなると、ライディングに集中できなくなってしまう。 かといって、丈が長すぎると軽快感を失い、ファッションのコーディネートも限られてしまいます。 ただ、双方の良いとこ取りの中途半端な裾丈で、ばたつかないよう、からだにフィットする必要のあるジャケットをつくろうとしても、バランスをとるのは至難の業です。 きらびやかなショーでの発表以前に、伝統あるブランドを冠しているつくり手のプライドにかけて、格好悪いものを世に出すなんて許せるはずがありません。

結局悩んだ末に、過去のオートバイ用ジャケットに学んだのではないだろうか と、僕は考えています。
かつて、グランプリレースが開催されたことで知られる英国のとある島で、往年のヴィンテージバイクを駆る(初老の)人たちを撮影したと思しき写真を拝見したことがあります。 そのなかには、お馴染みのオイル引きのジャケットで正装した紳士もいれば、随分と年季の入ったレザージャケットに身を包んだ紳士もいます。 レザーという素材は、雨には弱く決して万能ではありませんが、強靭で、万一転倒の際は衝撃から身を護ってくれる、高い安全性を備えていますから、レースの世界では高級感や見た目の美しさ以前に、信頼するに足る優秀な素材なのです。
そんな、過酷な条件下で速く安全に走行するためには、必然的にちょっと裾丈の長い、中途半端なスタイルが採用される例も過去にはあったものと思われます。 もともとレザーは人のからだにフィットしやすいので、わき腹から骨盤あたりにかけての微妙なラインにもある程度は追従可能ですし、そこに調整可能なベルトを取り付けることで、乗車中に前傾姿勢をとっても、かっちりと隙間なくからだを護ってくれるはずなのですから。
ただし、素材がナイロンで、しかも、軽快なフォルムを よし とするブリガンドブルゾンに、両脇に金具付きの調整ベルトがごてごて並んでしまうと、何とも ものものしい雰囲気 になってしまい、全てが台無しにならないとも限りません。 だから、調整ベルトのかわりに シャーリング(※ shirring : 生地を細かいヒダ状に寄せて縫い付け、絞込みをおこなうこと) という手法を用いたのだろうと想像しています。
硬派なオートバイ用ジャケットにシャーリングという取り合わせは、一見すると妙ですし安っぽい印象もありますが、これがレザーではなくナイロンという素材に置き換えると、不思議なくらいすっきり溶け込んでしまいます。 そればかりでなく、男性の無骨ともいえるわき腹から骨盤にかけてのラインを、ひと際魅力的にみせてくれるのですから、まったく大した力量です。

ブリガンドブルゾン

少々余談になりますが、ナイロン地の特徴として 表面のなめらかな光沢 が挙げられます。 この てらっ とした光沢が、どうもデザイナーの気に入らなかったらしいのです。 確かに 安っぽい といえばそれまでで、第一天然素材とは質感からして違います。
それでも、サイドのシャーリングとナイロンの光沢 という取り合わせには到底納得ゆかない。 そこで、誇り高い彼(あるいは彼女でしょうか)は、縫製まですっかり仕立てた後に 洗い をかけて、幾分色あせ、くたびれた表情に変身させてしまったのです。 その時の、さも満足そうなデザイナーの表情が眼に浮かぶようです。
 
05月01日(日)

元・立誠小学校

酒場を中心とした飲食店が延々と軒を連ねる、京都でも屈指の繁華街として知られる木屋町通のそばに流れる一筋の希望。 あの清らかな高瀬川に沿ってしばし歩みをすすめれば、桜並木に彩られた河畔に忽然と姿を現す古色を帯びた建物に 「なぜ、こんな場所に小学校が?」 と、はじめて訪れる方はさぞや驚嘆されることでありましょう。

124年もの歴史を有する立誠小学校はもともと、ほんの目と鼻の先にある河原町通に正門を構える、学校制度創設以前の1869(明治2)年に日本で最初となる京の学区制小学校64校のひとつ、 下京第六番組小学校 として開校した由緒正しい学び舎で、白壁に腰板張りの土塀で囲われた、唐破風の重厚な玄関を正面に構え、古式ゆかしい木造2階建ての校舎の瓦屋根に火の見やぐらが空高くそびえ立つ、今日みたく何でも お役所頼み などといった風潮とは無縁の、後世に残すべきは教育なのだと信じて疑わない、誇り高い京都の町衆たちの理解や支援によって成り立っていた名門校も、繁華街のど真ん中という立地ゆえ必ずしも常に安泰であったわけではなく、目抜きである河原町通の拡幅にともなう校地の削減と、隣接する芝居小屋(※ 大正末期、立誠(尋常)小学校のそばには明治座、松竹座、京都座という三つの芝居小屋があったそうです。)からの出火によって校舎の大半が焼失してしまう災難にも逢着し、移転・新築を余儀なくされる苦難の日々を経て、ようやく高瀬川河畔に新たな敷地を確保したのが1925(大正14)年のことでした。
数年の準備期間の後、1928(昭和3)年に、地域住民からの寄付金や家屋税等によって鉄筋コンクリート造3階建てという、当時最先端の華々しい校舎となって不死鳥のように復活し、以後児童数の減少にともなう統廃合によって惜しまれつつ閉校される1995(平成5)年にいたるまで、70年近くにわたって数多くの子どもたちの拠り所となり、(暫定的ではありますが)現在はミニシアターが入居して連日映画が上映され、作品展示やパフォーマンスの場としても親しまれています。

昭和のはじめより粛々と推し進められた京都市立小学校校舎の近代化は、当時の住民自治組織であった 番組(町組) という、絶妙なコミュニティの単位が校区として設定されたことが、学校に通う児童たちだけでなく、その地域で暮らしを営むすべての人々にとって 「自分たちの学校」 なのだという、愛着を注ぐにふさわしい共通の存在にまで昇華され、数多ある公共施設のなかでも特別想い入れの深い場所となったに違いありません。
そのような経緯からなのか、僕の知る限り、この時代につくられた小学校はとりわけ名作揃いで 「最高の学校をつくるぞ!」 といった気概が手に取るように伝わってくる仕事も少なくありません。 たとえば、京都芸術センターとして再生された元・明倫小学校、同じように京都国際マンガミュージアムへとリノベーションした元・龍池小学校、そして元・立誠小学校です。
これらは(有名)私立ではなく(京都)市立の学校ですから、校舎の設計はどれも京都市営繕課の手によるものらしく、ことデザイン面においては著名な建築家の手による作品ほどには優れていないかもしれないけれど、堅実さと夢見る気持ちが好ましいバランスで同居した、無名性の高い 隠れた名作 とでも評したくなる秀逸な出来ばえで、(たとえ技術の発達による設備的な優劣を差し引いたとしても)現代の無難で薄っぺらな学校建築と比較して、人格形成において必要不可欠な品のよさに加え、そこはかとなくにじみ出る親しみやすさも備わって、それでいて、どこかしら華があるのは明らかに1920年代の公共建築に違いなく、この時代をピークに建物の質そのものが低下しているように感じるのは、単なる気のせいでしょうか。

京都の近代小学校建築の黄金期を飾る三つの作品のなかでただひとつ、元・立誠小学校だけが、大掛かりな改修や修繕をなされないまま、奇跡的といってもよいくらいに竣工時の面影を色濃く残した状態で使われていて、もちろん、安全性や公共性から判断して、いつまでもこのままでよいわけはなく、所有する京都市は民間事業者による活用を模索しているようですから、手間隙惜しまず綺麗に修繕することも、あるいは最悪取り壊して一新するにしても、長い長い時間と愛情を注いで使い続けない限り金輪際あらわれない、古く、かつ本物の建物にのみ所有することが許される独特の 艶 のようなものが体感できる時間は、どうやらそんなに長くはなさそうです。

立誠小学校の特筆すべき点は、まず、登校するにあたって、本来学校に必要なはずの正門らしきものが存在せず、そのかわりに といっては余りにも機転の利くしゃれた発想でもって さらり と対処しているところでしょう。 それは 「高瀬川に架かる橋を渡る」 という、まるで映画のワンシーンのような、この場所ならではの何とも粋な演出なのですから脱帽です。 役所の人にこんな素敵な計らいができるなんて、さすがにこの国の文化の中心を自負し、胸を張って文化庁を誘致する街だけのことはあります。
莫大な工事費を費やして建設された と今日まで語り継がれる建物は、高瀬川に面した正面外壁ですら、バブル期の高級な建築にたびたび見受けられたような、つるぴかに磨き上げられた高価な石材や金属の類など皆無で、一種のムードで表向きの材料にお金を浪費するような愚にもつかぬ沙汰に及ぶのではなく、長期的な視点から、職人の高い技術や表面からはうかがい知れない手間隙に対して真っ当な対価が支払われているのですから、賢明な判断と評価するほかありません。
学校の顔ともいえるエントランス上部の庇や外壁には、構造的な意味合いも含みながら凝った装飾が施されていますが、これは、コンクリートを流し込む際に求められる型枠大工の精緻な木工技術による妥協を許さない裏方仕事に陰ながら支えられ、かつての花形である左官職人の高度なコテさばきに学校の品格を左右するすべての権限が委ねられていて、安直に角に丸みをつけたり適度に面をとって体裁を繕うことなど彼らのプライドが許そうはずもなく、連綿と受け継がれてきた木造建築の伝統美とはまた異なる、コンクリート特有のエッジの利いたデザインが小気味よいくらい隅々にまで冴えわたっています。
しかも、よくよく観察すると、表面には塗装も何もない、良質なちょっと粗めの砂を洗い出したような美しい仕上がりで、おそらく90年近くの間、風雨にさらされ続けても風合いが損なわれないばかりか、シャープな角には欠けひとつ見当たらない という完璧さなのです。

登校する という行為そのものからして、この上もなく誇らしい。 桜並木に縁取られ、きらきらと輝く高瀬川に架かる橋を春風のように颯爽と渡って夢のようなアーチ型のエントランスをくぐると一転、そこはぼんやりと電燈が灯る、ほの暗い中廊下になっていて、けれども、決してそれは不安を煽り立てるような暗さではなく、こころ落ち着く 安堵の暗さ とでも表現すべきでしょうか。 歩む先は明るいのだと確信できる暗さがあるから人は前向きに生きれるのだよ と、無言のうちに校舎が教えてくれるかのように。

ゆったりとした敷地に楽々と配される校舎であれば、あるいは片廊下に規則正しく教室が並ぶ、どこにでもあるごくごく普通の、退屈で均質な空間になったのかもしれませんが、あいにくここは繁華街のど真ん中にある限られた敷地ですから、そうそう単純な理屈で片付くはずもありません。
もとより、この街に暮らす人々はいにしえより、どんなに間口が狭く不便きわまりない敷地条件であっても、人が住む家である限り、世間様や庭とのつながりだけはくれぐれも失わないよう、辛抱強く、工夫に工夫を重ねた末に編み出した、京町家という洗練さを極めた高密度の都市型住居から授かった知恵の数々を、近代建築に対しても偏見なく割合素直に応用し、高瀬川と運動場、それから校舎に囲まれた中庭空間へと開かれたコンパクトかつ複雑な構成の立体空間として、見事に体現してみせたのです。

元・立誠小学校

建物の配置構成は、南側に教室を配した 片廊下プラン の北棟と南棟を、それらに直行するよう両側に特別教室を配した 中廊下プラン の管理棟でつなぐ、3階建て 「変形H型」 の校舎に、屋上に運動場を備えた平屋の雨天体操場および児童用トイレをソツなく加えて中庭空間を囲い込むという、きわめて理にかなった内容で、ちいさいながらも中庭を取り込むことが(あたかも京町家における坪庭のように)、採光や通風に優れた環境を獲得する結果となり、児童たちの健康的な学校生活に寄与するばかりでなく、 「ひとつの空間をみんなで共有している」 という意識が精神的な豊かさへとつながっているようにも見受けられます。

数十年もの時を経た現在の中庭にしばし身を置けば、かつて児童たちが真心こめて育てた色とりどりの花々で埋め尽くされていたであろう花壇が、見る影もなく雑草に覆いつくされた惨憺たるありさまとなり、その脇に用意されたL字型したタイル貼りの手洗いコーナーの内側に朽ちかけのシャワーが残されている退廃的な光景に、ひょっとしたら気づかれるかもしれません。 実は、開校当時、校舎に囲まれた中庭には、ささやかながらプールがあつらえてあったのだそうです。
昭和のはじめ頃、京都に限らず日本国内の学校にプールを取り入れる という概念にはまだまだ縁遠かったのでしょうが、つくづく先見の明のある、教育熱心な御仁がこの界隈の学校関係者にはいらっしたとみえて、アメリカの学校を視察した折にプールがあったことに感銘を受け、立誠小学校にも採用するよう働きかけたのがきっかけとなり、京都市内では最初となる プール付きの学校 が実現するにいたったとのこと。
周囲からは遮断された中庭空間にプールが隠されているなんて、どこか秘密めいたわくわく感があり、中庭に面して教室や廊下に並ぶ縦長の開き窓が開け放たれる季節になるのが待ちきれず、夏場は連日のように、子どもたちの歓声がそこかしこにこだまして賑やかさにあふれ返っていたのでしょう。

もうひとつの外部空間。 校舎南側の運動場はもともと、今日みられる規模の半分程度のひろさしかなく、中学校に進学してしまうとクラブ活動最優先の スポーツ専用グラウンド といった様相を呈するのに比べると、小学校のそれは、樹木たちに見守られたひろば的な空気に満たされた 自由なあそびの空間 といった楽しさがあるだけに、実質的な面積など当の児童たちには左程重要ではないに違いなく、そばを流れる高瀬川や中庭のプールと同様、校舎との関係に細心の注意が払われているところは、この学校の大きな魅力です。
ことに運動場に面した南棟の階段室は素晴らしく、1階のほの暗い中廊下から見上げる階段はどこまでもゆるやかに、妥協を許さないコンクリート特有のシャープな造形を大胆に採用しつつも、子どもの目線に近い要所要所にはあたたかな手触りの木材が適材適所組み合わされていて、木造校舎とはまた異なる洗練された安心感と、上方の踊り場から音もなく降り注ぐ自然光に導かれるように苦もなく階段を上り下りできてしまう。 むしろ、それは発見と喜びに満ち満ちた至福のひと時で、さしてひろくはない床板張りの踊り場には、子どもの背丈にあわせて腰上から天井近くまで届く両開きのハイカラな窓が、凍てつく冬にはあたたかな陽だまりを、蒸し暑い夏には涼しい風を招き入れ、ちいさな運動場とそばを寄り添うように流れる高瀬川を眼下に見下ろす居心地のよさは他の何ものにも換え難い、彼ら、彼女たちにとって、お気に入りの場所だったのかな とぼんやり想像するのもまた楽し。

とことこと足取りも軽やかに、階段を上りきった2階の正面には、北棟へとつながる管理棟の堅固な門型の構造体が幾重にも幾重にも連なって、どこかしらこころに響く音楽のように荘厳で美しい闇の旋律を奏でる中廊下は、1階とは比べ物にならないくらい長く、かつ暗いけれど、その先には遥か北側の窓から差し込む光があり、道のりが長ければ長いほど、暗ければ暗いほど、向こうには明るい希望が待っているのだ と、この学び舎を巣立っていった児童たちの曇りのない瞳がとらえてくれたなら、どんなにか素晴らしいことでありましょう。