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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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03月16日(水)

リネンのテーブルクロス

子どもの頃、幼いなりに、もやもやっと疑問というか納得できないことがありました。
どうも、食卓がべとべとしていて嫌だったのです。 大人になって、きちんと拭き掃除ができていなかったからなのだと気づき、おのずと、身近な家具を毎朝欠かさず手入れするようになりました。
もうひとつあります。 なぜか、食卓にビニール製のカバーが掛けられていた時期があって、しかも、違う意味でべとべとっとしていたものですから 「こいつはいただけないぞ」 と、幼心に思いました。 ビニールという素材は、とにかく手触りが心地よくなかったため、直感的に拒否反応を示した というわけです。
これも、やはり大人になっていろいろと布を触るようになってから、テーブルクロスは肌に心地よいリネンでなくっちゃいけないな という意識が、おのずと芽生えるようになっていったのでした(※ linen: リネン生地は麻の一種 亜麻(あま) のこと。 アジアの麻とは種類が異なるようです。)
普段、僕たちの暮らしに身近な存在の布といえば、天然素材ではコットンくらいのもので、あとはどれも化学繊維ばかりだったりするのが悲しいけれど現実で、ショップに置いてあるテーブルクロスにしても、結局はコットンが主流だったりして、ややもするとファンシーな柄が入っていたりするものですから、どうにもいただけません。 ごく普通の、白い無地のリネンのテーブルクロスでは駄目なのでしょうか。 みんな、ビニールのような冷たく無機質な素材が肌に触れても、無難なデザインで機能さえ満たしてさえいればさして気にも留めず、よい子ですくすく成長して、わけの分かった大人になって、やはり僕だけが間違っているのでしょうか。

そんな劣等感を抱えていたある日、フランスのアンティークを扱うショップで、別段何てことないようにリネンのテーブルクロスが無造作に積み置かれてある光景に出会いました。
19世紀後半から20世紀はじめ頃につくられたテーブルクロスたちはどれも真っ白で、一見すると同じようでもサイズはひとつひとつ違っており、なかには布の端部の 耳 が気兼ね無しといった風情でそのまんま残されていたりして、それらが市販の製品ではなく、どうやら普通の家庭でその家のテーブルにぴったり合うように手づくりされているらしいのです。
これは、後になってから知ったことですが、ヨーロッパでは女性が嫁ぐ際に、イニシャルを刺繍した白いリネンを持って行く習慣があって(それもたくさん)、母から娘へと託されることもある大切な家伝の品なのだそうです。
実際、目の前にあるテーブルクロスはどれもほぼ未使用のコンディションで、100年もの間、代々大切に保管されていたものの、やむにやまれぬ事情によって家族の手を離れた後、紆余曲折の末、日本人バイヤーの目にとまり、はるばる海を渡って、とうとう何かの縁で僕の前に現われることになったのでありましょう。
幸いそこには、僕にとっては願ったり叶ったりの手ごろなサイズも紛れていたものですから、ならば自分で使うのも自然な行為なのだと受け止めることにした次第です。
布の端にはイニシャルらしき文字と、 189 2 という数字が縫い止められてありました。 1892年にこのテーブルクロスを仕上げたであろうフランス人の娘さんは、果たして120年あまりも後に、家族でもない、遥か遠い異国の者に引き継がれるなどと想像できたでしょうか。 そして、もし引き継がれるとしたら、使ってほしいと願ったでしょうか。

リネンのテーブルクロス

実をいうと僕は何も知らずに、つい最近まで勝手な思い込みをして、このテーブルクロスを毎日毎日使い続けていたのです。
はじめ、 189 2 の上に SA m と刺繍されているのをみて、サムという名の老人のために孫娘が拙い手で、大好きなおじいちゃんのテーブルに と、布の裁断に始まり、縁まわりのアイロンがけからミシン縫い、手縫いの刺繍に至るまで、おかあさんに教わりながら自分の力ですべてを仕上げてみせたに相違ない。 そんな、ちいさな物語が隠されている と信じて疑わなかったのでした。
何しろ、全体のカタチからしてきっちり長方形なのが普通なのに、微妙に台形になっていたりするものですから、まだ幼い孫娘の姿を想像したとしても、ちっともおかしくないではありませんか。
きっとサムおじいさんは、真心がいっぱいこもったあったかいリネンのテーブルクロスを、いつか大切に使おう、いつの日か… と思いながらも、あまりにも有難く、もったいなさすぎて永遠の 「いつか」 になってしまい、とうとう使うことが叶わなかったのではないだろうか と。 だから、身内であったがゆえに踏み出せなかった彼の一歩を、異国の、しかも他人の僕が受け継いで、ある意味で情け容赦なく踏み出すことも時には必要なのだ と解釈することにしました。

植物の茎から生まれたリネンという素材は、水をくぐらせると生き生きと輝いて見えます。
日々の暮らしのなかで、きちんと大切に、時にはやさしく、時にはきびしく使い続け、汚れたら洗濯して水をくぐらせてあげる。 その後、高温でぱりっとアイロンがけすれば更に輝きを増し、新品のまま保管されていた時よりもかえって好ましいのではないかとすら感じてしまう程で、 同じ天然素材でも、蚕の繭から生み出されるシルクの特別な輝きとはまた違う、もっと普段着のような身近さがリネンにはあって、そうか、それが目にも肌にも心地よい理由なのだと遅ればせながら気づくのです。
それでも、一年、また一年と使い続けるうちに、端っこの擦れやすいところから少しずつ少しずつ、確実に糸がほつれ始め、今ではあちらこちらに穴も開いてきてしまって…。 けれども、それは別に悲しいことではなく、とても自然なことであって、きっと、想像のなかのサムおじいさんも、彼の孫娘も、それから実在したであろう娘さんも、皆すっかり満たされ、安心しきっているのではないでしょうか。 あの日の 「いつか」 は静かに過ぎ去って、土から生まれたものが、やがては土へとかえってゆくだけなのですから。

リネンのテーブルクロス
 
03月01日(火)

関西学院 外国人住宅

関西学院 と聞いてまず想像するのは、 …背後にどっかと鎮座する、あの頼もしい甲(かぶと)山に相談したところ、 「こうしてみてはいかがかな」 とでも返答があったかのごとく、すっくとしたいでたちの象徴的な時計台を基点に、淡いクリーム色のスタッコ壁に赤茶色のスペイン瓦を載せ、極力装飾は廃しながら、腰上から天井に届く縦長の上げ下げ窓が規則正しく並ぶなかに程よく配されたアーチ窓がチャームポイントの、あのスパニッシュ・ミッション様式の校舎たちに両脇を護られるようにして、長円形の芝生ひろばがどーんと中央にひろがる、あたたかな日差しと爽やかな風、そして学生たちのはつらつとした笑顔がいかにも似つかわしい、アメリカ西海岸あたりにでもありそうな、ゆったりおおらかなキャンパス と断言してみても、どなたも異論をはさむ余地はないでしょう。
そんな、理想的ともいえる上ヶ原キャンパスに関西学院が新天地として移転してきた1929(昭和4)年当時から、広大な敷地内に校舎やひろばとともに周到に計画された宣教師住宅の存在が、あかるく爽やかな校風に、ある種の深みや静けさをもたらしてくれていることにふと気づかされ、この目で直接見、この身でひしひしと体感したく、西宮の地を訪れることにいたしました。 百聞は一見にしかず というわけです。

この地はもともと、甲山から緩やかに傾斜した、あたり一面に田畑がひろがる所々に農家や雑木林がぽつぽつと点在している、限りなくのどかな田園地帯でしたから、ヴォーリズ(William Merrell Vories)によって設計された学び舎が竣工したばかりの頃は、将来大学に昇格し、順次校舎が増築されることを見込んで、相当にゆとりをもたせた配置計画になっていましたし、植えたばかりの樹木たちはさぞかしちっぽけでひょろひょろーっとしていたことでありましょう。
ところが、80数年を経た上ヶ原キャンパスは、正門へと一直線につながる通学路の周囲には閑静な住宅街や公立の小中高等学校が落ち着いた街並みをつくり出し、道路の拡張にともなう歩道整備にあわせて、近隣にお住まいの方が私費で桜の苗木を植樹し、やがて美しい桜並木に彩られた 「学園花通り」 へと姿を変え、正門の向こう側にはいつまでも変わらない芝生のひろばと時計台、そして、あたたかな眼差しで背後から見護る甲山という、お馴染みの風景。
かつて写真でみた芝生のひろばは、とてつもなく広大な空間のように想像していましたが、実際はもちろん広いには広いけれど、それは、人間のスケールとこの土地のスケールとの折り合いのなかから過たず導き出された心地よいスケール感で、やはり 甲山に教わった としか説明しようのない、それはそれは不思議なくらいに絶妙なさじ加減なのですから。

芝生ひろばの周囲には、移転当時から現存する古い校舎のまにまに、よくよく注視しない限り判然としないくらいのさり気なさで新しい校舎が加えられているらしく、装飾を抑えた簡素な様式が功を奏して、常に全体のバランスのなかで 「ヴォーリズだったらどうしただろうか?」 と問いかけながら、(もちろん甲山にも相談の上で)時代時代の変遷にあわせて校舎だけでなく樹木たちも少しずつ少しずつ成長し、さんさんと日差しが降り注ぐ広大な芝生ひろばから遠ざかるに従って、建物と建物とが織り成す余白にぽっかりと現れる、のびのびと枝葉をひろげる大樹の木陰の休憩スポットと、どこからか流れてくる細々としたせせらぎが小気味よく耳をくすぐる。 そこから樹間の小道が奥へ奥へと導く先に身を任せつつ歩みを進めれば、キャンパスの北辺にひっそりと並ぶかつての宣教師住宅が、ここだけは永遠に時間が静止しているかのように、去りし日の面影を色濃く残し、ひっそりとたたずんておりました。

関西学院 外国人住宅

1960年代より 外国人住宅 と呼ばれて久しい一連の住居棟は、キャンパスと近隣地区との境界を暗示するちょっとした崖地に沿うようにして、車一台がようやく通行できる程度の生活道路が東西方向へと伸ばされ、正門へとつながる東側より1号館にはじまって10号館まで、計10区画の宅地が(外国人)宣教師の住まいとして整備され、途中震災の影響か、あるいは新校舎建設のため止むなく取り壊されたのか、10号館のみ現存せず、1号館は オハラホール と呼ばれる迎賓施設としてリニューアルし、残りは主に外国人教員の住宅として使われているようです。
ヴォーリズが得意とするスパニッシュ・スタイルの西洋住宅は、彼が生まれ育ったアメリカの住宅地をお手本に設計されたと伝えられておりますが、詳しく調べてみれば単なる模倣などではなく、日本の環境にあわせてきちんと創意工夫されていること、そして、何よりも暮らしを営み、建物に関わる全ての人々の幸福のためを願って設計されていることに気づくでしょう。

関西学院外国人住宅の特徴を挙げると、
学院内の校舎が鉄筋コンクリート造(※ ただし、一部小屋組みは木造です。)であるのに対し、木造であること。
A、B、C 3案の基本プランと立面図を作成し、それらの要素を複合することで10棟の住戸がそれぞれ微妙に異なりながら、全体としては調和するよう考えられていること。
西洋住宅でありながら尺寸法を採用し、日本の伝統工法に精通した現地の職人たちにとって、きわめて明快な設計内容になっていること。
地盤面から1階居室の床面まで2.5尺(約76cm)持ち上げ、床下には適宜換気口が設けられて、湿度の高い日本の気候に配慮されていること。
日本の伝統的な住居が大きな引き戸で周囲に開放する 「夏を旨とした住まい」 であるのに対し、すべての建具を西欧流の気密性の高い縦長の開き窓や上げ下げ窓に統一し、冬季の暖房性能を考慮した仕様になっていること(※ 夏季の通風にも配慮されています。)
窓そのものが小さいため、意識的に軒の出を浅くし、窓を腰上から天井近くまで届く縦長形状とすることで、部屋の奥深くまで自然光に満たされる設計になっていること。
校舎と同様に、内外装とも装飾を廃した簡素な仕様で、居室の天井高さは8.5尺(約258cm)と、西洋館としては低く抑えられていること。
主屋の2階はプライヴァシーの高い寝室に、1階は居間、食堂、プレイルームといった皆が集う空間に充てられており、家族や知人だけでなく、学生が気軽に訪れて交流や見識を深める場となるよう意図されていること。
(昭和初期の住宅ということもありますが)家事仕事全般はメイドがおこなう前提で、機能的で働きやすい環境が確保されており、当時最新の設備が整っていたものと想定されること。
といった具合に、優秀な施工業者に助けられるところも多かったのでしょうが、およそ2年間という限られた期間内で、他のプロジェクトと平行しながら、先々のことまで考えながらきめ細やかな設計がなされている事実に、つくづく感心させられてしまいます。 これっぽっちも私欲がない とでもお伝えしたらよろしいでしょうか。

今や、すっかり成長した樹木たちに囲まれた生活道路から眺める外国人住宅は、ちょうど二世帯住宅みたく大小二つの住まいが雁行するように仲良く並んで、どちらも甲乙つけ難いくらいに素敵な邸宅の小さなほうが、実はメイドたちのための仕事場兼住居となる付属屋に相当し、2階の住居部分が建物のなかで唯一畳敷きになっていて(※ 足をのばして寛げる、唯一の場ともいえるでしょう。)、窓の腰高や天井高さが抑えられているため、それはもう おとぎ話 にでも登場しそうな愛くるしさ。 加えて、屋根裏部屋を持つ大きなほうの主屋から心持ち引きぎみにぴったりと寄り添っている姿が、これまた何とも微笑ましく、そんな理想的な暮らしぶりがそこはかとなく感じられる生活道路は、実はここの住人や関西学院に学ぶ学生たちだけでなく、周辺の学校に通う小中高等学校生徒たちの ひみつの通学路 にもなっているらしく、いつしか歩みもゆるやかに、それぞれにとって欠けがえのない時間が静かに流れてゆく、どこか こころ許せる特別な場所 になっているに違いありません。

そんなことをもの想いながら、外国人住宅から芝生のひろばへとつながる樹間の小道をそぞろ歩いていると、近所の小学生がキャンパスのなかを自転車のまま、楽しくおしゃべりしながら、ごくごく当たり前のように通り過ぎてゆく姿に気づきました。 どうやら、すっかり放課後になってしまっていたみたいです。
学院の主要な施設機能が比較的新しい南側のブロックに移っているためか、もともとキャンパスの中心だったはずの芝生のひろばは、学生だけでなく、いつしかちいさな子ども連れのお父さんやお母さん、それからもっとご年配の方々が気ままに散策し、小学生が自転車乗り付けて、誰はばかるでもなく思いっきりボール遊びに興じることのできる。 キャンパスがあたかも 地域の人々の庭 であるかのような光景を目の当たりにして、関西学院についてのあるエピソードを思い出しました。
それは、神戸原田の森からここ西宮上ヶ原にキャンパスを移転するにあたって、広大な田畑を所有する地主さんに学院の方がお願いに伺った時のお話です。 この場所を理想の学び舎にしたい との考えに共感した所有者は、承諾に際し次のような希望を伝えたのだそうです。
「周囲に塀のない、地域の人々が自由に行き来できる開放的な学院にしてほしい」 と。

現在、関西学院の周囲には必要に応じて生垣がめぐらされ、現実にはどこからでも自由に出入りできる というわけではありません。 けれども、学園桜通りからつながる正門はむろん、外国人住宅に通じる ひみつの通学路 からの小道を通って、こんなにも楽しそうな地域の人々の笑顔あふれる暮らしの情景が、ここでは日常的に繰りひろげられていて…。 きっと、この学院の方たちは80数年前に交わしたひとりの地主との会話を、今でもこころの奥深くに刻み続けているのでしょう。
だから、日々変わりゆくせわしない世のなかでも、目の前の光景だけはいつまで経っても色褪せない。 そんな場所をみつけてしまいました。