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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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11月16日(月)

ゆりかごバスケット

学生の頃から永らく使ってきた、ホーロー製の やかん にとうとう穴が開いてしまって以来、随分としばらくの間、手持ちの鍋でお湯を沸かしていた僕は、 「さすがにこれでは」 ということで、いろいろと思案した末、とある生活雑貨店に、日本のちいさな町工場でつくられた、これといって目立たない、小ぶりで丸っこい感じの、ホーロー製の やかん を取り寄せてもらいました。

その生活雑貨店は あまり目立たない といいますか、一見ぱっとしないような、それでいて、どこか実直そうな おじさんのお店 で、巷によくある ファンシー系の雑貨店 のような、変に うきうき した感じがちっともなくて、たとえば須田帆布製のバッグなど、国産のしっかりした製品ばかりをセレクトした、モノの分かる人には分かる、良質で堅実な雰囲気が確かにそこには漂っておりました。

程なく、注文していた やかん が届いたということで、お店を訪ねて、いざ持ち帰ろう となったわけですが、みるからに几帳面そうな店主のおじさんから、慎重に、丁重に包装していただきそうな空気を読み取った僕は、30分後には火にかけてお湯を沸かしているに違いない、気取りのないこの やかん を、出来ればそのままゴロンと持って帰りたい と考え、 たまたま目に留まった、正面の棚に並べられたバスケットをそのまま 買い物籠 にしてしまって、どちらも包装することなく持ち帰る。 というスマートなアイデアを、ほんの5秒くらいでまとめていました。

実際、そこに並べられた幾つかの ウィッカーバスケット(Wicker Basket) は、おそらく日本の職人さんが、柳(あるいは籐でしょうか)を丁寧に編みこんだ、繊細で美しいプロポーションを兼ね備えた、ちょっとその辺りでは容易に手に入らないような、特別な魅力があったのです。
そのような理由から、なかでも最もバランスのよい、とりわけふっくらした印象のバスケットを さっ と選んで、呆気にとられる店主のおじさんの目をよそに、ゴロリと やかん を入れて持ち帰ったのでした。

ウィッカーバスケットの多くは、きちんと物を収納できるように、ほとんどが平らな底を持っていますが、僕の選んだバスケットは、楕円状の球体を半分にカットしたようなカタチをしていて、平らな部分がありません。
きっとこれは、ヨーロッパの何処かの街に住む、料理好きのお母さんが買い物籠代わりに、近くの市場で買い求めた新鮮な野菜や果物を、気兼ねなくゴロンゴロンと入れて、無造作に台所の流し台の片隅の床の上にでも置いていたのではないだろうか…。 そんな光景が目に浮かんでくるのです。

まんべんなく透かしの入った籠は、底が丸くて適度に浮いているため、床にそのまま置いても通気性がよく、食品保存にも随分と都合がよさそうではありませんか。 心なしか、なかに入っている物たちも、居心地よさそうにみえてしまうから不思議なものです。
ゆえに、この居心地よさそうな雰囲気から、親しみこめて 「ゆりかごバスケット」 とでも呼んでみたく思います。

(もう無理ですが)願わくば、もし僕が生まれたての 赤ちゃん であったなら、このバスケットのなかで揺られながら、すやすやと眠ってみたいのです。 柵のついたベビーベッドではなく、あたたかな手触りで、通気性がよく、包まれるような居心地の ゆりかごバスケット のなかで。

ゆりかごバスケット
 
11月01日(日)

修学院離宮

比叡の山すその、ちょうど動物たちの領域から人間の領域へと、なだらかに移行する境目の、昔ながらの田畑が段々に重なるのどかな里山の風景が、隙あらば宅地開発の波に飲み込まんと企む輩の魔の手からかろうじて護られているのは、あたり一帯が 修学院離宮 として、宮内庁によって大切に管理されているからに他ありません。 それゆえ、幾重もの塀や柵によって貴重な文化財やかけがえのない景観が厳重に保護されているわけですが、もともと、後水尾上皇によって離宮が造営された頃の修学院村は、こんもりとした山々のはざ間、八瀬から大原へと抜ける街道のまわりにちらほらと茅葺き農家が点在していたであろう、日ごろ宮廷に住まう高貴な身分の方々にとっては都から程よく離れた桃源郷のような場所だったのでしょうから、離宮を訪ねる際は、当時の上皇の気持ちを想い描きながら散策してみるのも、ひとつの作法かと存じます。

今日みられる修学院離宮は、山麓に散りばめられた、上、中、下の三つの離宮(御茶屋)と、それらをつなぐ松並木の散策路(馬車道)とで構成されておりますが、それは明治に入ってからのお話。 17世紀中ごろ(1650年代の後半)の造営時は、御幸の際、上皇はまず山荘の 母屋 に相当する下離宮までは輿(こし)を利用し、堅固な塀などない、その背後にひろがるのどかな田園風景のなか、日々耕作に勤しむ村の人々と同じ目線で、普段は彼らが利用する田畑のあぜ道を自らの足でゆるゆると、気ままにそぞろ歩きながら、さしずめ山荘の 離れ にでも相当する上離宮へと移動し、行く手からは想像だにし得ない 秘境 と表現してみても過言ではない幽邃な人工の池で舟遊びに興じたり、池越しに遥か北山から西山へと連なる峰々とそこに抱かれるようにたたずむ都の家並みを高みから一望できる、床の間ひとつとてない(むしろ必要としない)簡素な茶屋で静かな時間を過ごす という、立地も性格も異なる 二つの離宮 で構成されていたのが、そもそものはじまりだったようです。
それから10年ほど経って、後水尾上皇の第八皇女・光子内親王のための住まい(山荘)として、後々 中離宮 と称される、下離宮と上離宮から程よい距離にある田園地の一隅に 「楽只軒」 が建てられ、御幸の際、上皇は度々愛娘のもとを訪ねられたと聞き及んでおります。
実は、上皇には中宮である東福門院(※ (徳川)和子。 江戸幕府第二代征夷大将軍・徳川秀忠の娘。 つまり、家康の内孫ということになります。)との間に誕生した皇子・皇女のほかにも、宮中に仕える幾人かの女官たちとの間に30余人もの子女を授かり、そのなかでもまだ幼かった当時4歳の光子(朱宮)を東福門院の養女とし、ことのほか寵愛されたのだそうです。

文芸に秀で、書画においても造詣の深い文化人でもあった後水尾上皇が心血を注ぎ、(東福門院の後押しがあってこその)幕府の援助や優れた匠たちの高度な技術によって成し遂げられた、過去に例のない壮大な山荘に寄り添うようにして人知れず加えられた楽只軒は、上・下離宮内に点在する建物同様、格式を重んじる宮廷建築とは程遠い、洒脱な数奇屋建築の形式を取り入れながら、あくまでも簡素に、しかし、武家の流れを汲む数奇屋とはどこやら洗練の質が違う、公家の雅やかな血統がそこはかとなく感じられ、女性的な しとやかさ すら漂わせる、稀有な存在であるといえるでしょう。
後水尾上皇自らの命名とされる、楽只軒の 楽只(らくし) とはすなわち 「楽しむ」 という願いがこめられていることから、父から娘への愛情あふれる おくりもの とでも解釈したくなる朱宮御所は、さぞや名のある棟梁の手による普請なのでありましょうが、奥ゆかしくも控えめな軒の高さとゆるやかな勾配が与えられた屋根の下、きりりと真一文字に引かれた縁側に、畳縁をはさんで一の間と二の間を行儀よく並べ、従者たちが小気味よく身のまわりのお世話できる必要最小限の部屋や収納等がコンパクトに配された、これ見よがしの装飾など皆無ともいえる、天井の低い、飾り棚さえも廃された麗しき貴人の居室である一の間はひろさにしてわずか6畳。 お屋敷内で唯ひとつうがたれた床の間と袖壁は伝統に従って由緒正しい 張り付け壁 とし、そこには狩野探信が真心こめて描いた吉野山の桜がほのかな彩り添えて、きっと主である光子内親王は、この建物のように可憐な方に違いなく、それを誰よりも知っていたのは、贈り主である上皇自身であったに違いありません。

傾斜した地形を巧みにいかした修学院離宮の魅力は、そこここに配された庭園や建物が立体的に、しかも大規模に展開する点において他の追随を許さないばかりでなく、自らの足で移動することに大きな意味があり、あらゆる場所が発見と喜びに満ち満ちています。 だから、最愛の娘のために楽只軒をつくって、この喜びを分かち合おうとしたのかな… などと、勝手に想像している次第です。
しかし、人間である限り、楽しい時間は未来永劫いつまでも続くものではなく、1678年に東福門院が、その二年後に後水尾上皇が相次いで亡くなられ、(おそらくは二人の形見として)女院御所にあった 奥対面所 が楽只軒の隣に移築されるはこびとなりました。 それが現在 「客殿」 と呼ばれる、修学院離宮のなかでも最も有名な建物として継承されており、写真等によってご存知の方も少なくないのではないでしょうか。

修学院離宮 客殿

客殿は本来、女院御所のためにつくられた建物ゆえ、隣接する楽只軒ばかりでなく、数奇屋の精神を旨とした離宮内のどの建物とも異質の、正統な宮廷建築の血統を受け継いでいるために、何かしら 違和感 があってしかるべきはずなのに、生みの母親が異なる異母兄弟・姉妹である上皇の皇子・皇女たちが皆仲の良い間柄であったように、さながら 仲むつまじい姉妹 のようにしっくりと馴染んでしまっているのは、むしろ当然なことなのかもしれません。

生まれながらにして、いかんともし難い品格をまとった客殿からは、権力的な威圧感など微塵もあろうはずもありませんが、それでも中央に配された一の間は12.5畳ものひろさを有し、天井高さも建具の高さも、奥対面所の名に恥じない堂々たるものです。 なかでも、とりわけ目を引くのは正面に据えられた 飾り棚 の存在でしょう。
いくらゆったりとした空間を誇ってはいても、1間幅の床の間に1.5間幅の飾り棚(違い棚)を組み合わせるなんて前代未聞の試み。 下手をすれば代々受け継がれてきた格式に傷がつきかねないばかりか、まさに御座所から飾り棚を背に対面する東福門院の、つまりは絶大な権力を誇る将軍家の顔に泥を塗る行為にも等しい、悲惨な結果すら招きかねません。 けれども、どうやらそれは単なる杞憂に過ぎなかったようです。
日本の伝統空間で、ここまで立体的な構成が可能なのか! と、何度も眼をしばだたせてしまう地袋と隅棚の造形は、離宮内の棚田や庭園のあちらこちらに散見される水の流れを連想させ、左手に並んだ床の間とを互いに引き立て合う好ましい関係を構築していますし、長短まちまちな五枚もの棚板を空中でスライドさせながら際どくも 違い棚 として成立させてしまった恐るべき手腕といい、かの後水尾上皇にもひけを取らない美的感性の持ち主であった東福門院も、さぞや感服…。 いえ、このような華やかなしつらいにこそふさわしい人物が、本来の東福門院であったと考えるべきでしょうか。
そうであれば、凛とした華やかさを持ち合わせた東福門院と、控えめで可憐な印象の光子内親王という、ずいぶんと対照的な(しかも、血のつながっていない)母娘は、意外にも息の合った仲のよい間柄であったのかもしれません。 ちょうど、中離宮に並んだ楽只軒と客殿との関係のように。