プロフィール

アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

検索フォーム

09月16日(水)

ビブリオテック・チュニジア

日本独自の住空間を構成する要素のひとつに書院(出文机)があります。 一般的に、畳の敷かれた伝統的な接客空間では、床の間と付書院、違い棚がセットになって季節ごとのしつらえが整えられ、折々の行事や心ばかりのもてなしが静々と執り行われる。 そうした、日常から切り離された特別な場としての性格を多分に含んでいるのではないでしょうか。 しかし、そもそも書院とは、文机を明るい縁側に面して造り付けた、私的で実用的な書斎にほかならず、違い棚も愛用する文房具やお気に入りの書物を納めるために設けられていたはず。 床の間は、後の時代に付け加えられたものなのです。

書院の源流は、室町幕府の八代将軍・足利義政が政権の座を自ら辞した後の1486年に、東山の山麓に建立した山荘(※ 現在の慈照寺。一般的には銀閣寺として知られています。)のなかに現存する 東求堂 であると伝えられております。
ちいさいながらも凛とした、いかんともし難い気品をまとい、いまだ訪れる人々を魅了して止まない東求堂は、南側正面に仏間を有していることから世間一般では持仏堂と位置づけられてはいますが、実際は住居の 離れ 的な、つまり、権威を誇示するために建てられたものではなく、むしろその逆ともいえる、純粋に私的な建物だったのではないかと想像されます。
その証拠に、政治よりも芸術や建築に対してとりわけ関心が高かったと噂される義政が、東山の懐に抱かれるような東求堂の北東角に設けた一室 「同仁斎」 は、ひろさにしてわずか四畳半。 そこにあるのは、半間幅の違い棚と、一間幅の文机に明かり障子を組み込んだ 書院のみ という、簡素きわまりない構成。 ここに座って、北向きの安定した自然光がやわらかく透過する障子窓を正面に、義政は書画にいそしんだり、静かに書見したり、時には窓外に切り取られた絵画のように美しい庭の景色を眺めたり と、ずっと憧れていた一人だけの時間を存分に堪能したのではないかと。
この時代、まだ床の間の形式自体は存在しませんでしたが、そのかわり、東求堂の濡れ縁がめぐらされた西側の壁面にさり気なく、ぽっかりと一間幅の くぼみ がつくられていて、いかにも腰掛けとして使いよさそうな、過去の形式にとらわれない自由な発想からもたらされた創造の産物に違いなく、書院からとはまた異なる庭の景色を、すっぽりと具合よくおさまる心地よい空間に身をまかせ、日がな一日眺めていた。 そのような光景を脳裏に描きながら、この飾り気のない くぼみ が後々、室内に取り込まれて床の間になったのだろうか… などと想像するのもまた楽し。
そんな、自由で生き生きとした創造の世界を源流に、明らかに本流から外れたと思しきかすかな軌跡を注意深くたどってゆくと、遥か遠く、流れ行く先は、1950年代はじめのパリの街へとつながるのでした。

20代半ばで才能を開花させたシャルロット・ペリアン(Charlotte Perriand)は、1920年代の後半、建築家 ル・コルビュジエ(Le Corbusier)のもとで、金属とレザーを組み合わせた、近代デザイン史上に燦然と輝く名作椅子を次々と発表し、今日でもなお、褪せることのない、モダンで洗練された姿を維持し続けている。 それ程の稀有な能力を有する彼女であっても、たとえ、その背後で暮らしを支えている収納家具の重要性を痛いくらいに意識していても、実際の生活に溶け込むに足る領域にまで到達するのは、そうそうたやすい行為ではなく、幾多もの苦難と試行錯誤を経なければなりませんでした。
1920年代後半から30年代にかけてペリアンが提案した収納家具は、工場で生産される金属製の(規格化された)ユニット状の家具を住まい手が自在に組み合わせられるだけでなく、ひろい空間を仕切る壁としても展開可能な、いわゆる システム家具 の考え方をいち早く取り入れた斬新なアイデアでしたが、独特の軽みを生み出すことに成功した椅子やテーブルとは違い、箱状の形態ゆえ、無機質な金属のボリューム感が顕在化し、かえって非人間的な印象が強調されて、ユーザーやメーカーに対しての説得力に欠ける不本意な結果になってしまったようです。
ただその一方では、彼女の もうひとつの顔 ともいえる、木材の特徴をいかし、女性的でやわらかなラインを洗練された作風にまとめたテーブルや椅子のデザインを手がけ、さらに、美しい農村の暮らしや風景が連綿と受け継がれていた戦前の古きよき日本の村々を訪ね歩き、素朴ななかにも理にかなった農民や職人たちの飾り気のない暮らしのなかに、西欧とは異なる合理性と美を見出したことを指摘しておかねばなりません。

ペリアンは伝統の日本家屋について 「建築のなかに完全に収納を取り込み、住居内に 秩序と空(くう) をつくっている」 と、自伝のなかで述べています。 日本の伝統の表面だけを安直になぞるのではなく、自身のなかで時間をかけてじっくりとアイデアを熟成させながら、身近な衣類や書類、書籍といった収納するモノの視点から収納家具に求められるデザインのあり方を改めて見つめ直し、ようやく自分の作風となるに到ったのが、おそらく1952~3年のこと。 パリ大学都市にある学生会館のひとつ、 チュニジア館 のデザインチームに加わった時ではないでしょうか。

パリ大学都市 チュニジア館

チュニジア館は、建築家の設計する建物本体のみならず、様々な分野のデザイナーやアーティストがインテリアや設備設計に参加して完成させる、現実に機能しなければ意味のない建築を総合芸術と解釈し、創作活動と実用品との境界を無くしてしまおうとの意図があった とでも説明すればよろしいでしょうか。 特筆すべきは、シャルロット・ペリアンが40室ある学生のための寮室(個室)のインテリアを手がけ、パートナーとして、現在でもペリアンと並んで高い人気を誇るシステム建築の第一人者、ジャン・プルーヴェ(Jean Prouve)が加わっていることです。

新たな創造のはじまりは、金属だけでも、木材だけでもありません。 木材(パイン材)の棚板と金属(折り曲げ加工されたアルミニウム板)の仕切り金具という、水平方向と垂直方向に分割された異なる二種類のユニットを組み合わせることで、それぞれの長所を引き出して、あたたかみと軽みの双方を持ち合わせ、モダンで洗練された、最もペリアンらしい組立て式の書架(収納家具) 「ビブリオテック・チュニジア(Bibliotheque Tunisie)」 へと昇華させました。
このアイデアは、続いて手がけるメキシコ館の間仕切りを兼ねた自立型の書架 「ビブリオテック・メキシック(Bibliotheque Mexique)」 へと展開されることになりますが、ことビブリオテック・チュニジアに関しては、棚板と棚板との間に互い違いに配置して結合される仕切り金具を背面の壁にも固定することで、バランス重視の自立型では成し得ない 崩し が可能になるという利点があり、これをいかして最下段の棚板にベンチとしての機能を付加させ、片持ちでせり出す大胆な試みを実行。 すると、おのずと左右対称だったデザインに変化が起こり、片側にせり出したベンチ部分の上に絵画でいうところの 余白 が生まれます。 図らずもこれは、かつてペリアンが日本の住空間から発見した 「秩序と空(くう)」 と同じ性質のものだったのです。

世界に類のない 暮らしの美学 を有する日本の人々が、いにしえの文化よりも異国の文化をことさら有難いと感じ、いささかの未練もなく切り捨ててしまった自国の文化を、遠く異国の地で生まれ育ったペリアンは、何にも換え難い大切なタカラモノとしてあたため続け、潔いくらいに(表面だけの)日本の伝統的な素材や技術に頼らない、20世紀ヨーロッパの技術によって実現した 左右対称でない システム家具は、どういうわけか、カラフルな配色が施された棚板が 違い棚 に、片側に伸ばされたベンチが 書院(文机) のようにもみえてきて、伝統や形式に縛られ、何だか随分とややこしくなってしまった 書院づくり なる形式とは、やはりどこかが違うように思われます。
まるで機能がカタチへと素直に翻訳されたかのような、東求堂の同仁斎を水源とする流れは、ほんのちいさなせせらぎであっても途切れることなく、遥か四百数十年の時を超えペリアンの家具へとつながって、水ゆえにカタチはそれぞれ違うけれど、きっと、どちらもひとかけらの作為すらも所有しない、ただただ純粋であるがために、こんなにも人々のこころを惹きつけて止まないのでしょう。
 
09月01日(火)

俵屋旅館(19番目の客室)

美しいプランに出会いました。
それは、建築家の吉村順三によって作成されたもので、一枚の方眼紙にフリーハンドで描かれた、比較的初期段階のスタディのようでした。 きちんとアイデアがまとまって、熟考を重ねに重ねた末にたどり着く最終段階の設計図面と違い、アイデアが生まれようとする瞬間に描きとめられた初期スタディは、偽らざるつくり手の姿を映し出す 「誠の鏡」 といっても過言ではありません。 だからこそ、かえって純粋に、みる者のこころの深いところにすーっと届くのではないかと、僕は考えています。
方眼紙の右隅には 「6月5日 1976」 と記されており、俵屋旅館の客室用に作成された計画案のようでした。 ただ、現在18室ある俵屋のどの客室とも似て非なるプラン。 つまり、実現されなかった 幻の案 ということになりますが、これがまた実によくできているのです。 全国でも屈指の名旅館と、誰もが認め賞賛する俵屋の、実在するどの部屋よりもよいのではないかというくらいに。

俵屋を京の都に創業したのが永宝年間(1704~1710年)と伝えられておりますので、実に300年余りもの長い歴史を有していることになります。 しかし、創業から160年ほど後の大火によって、周辺の社寺や民家とともに消失という憂うべき事態に逢着し、再建されたのが幕末から明治初期にかけての時代。 その当時の姿はいわゆる 書院づくり と呼ばれる最も格式の高い建築様式だったそうです。 かつては大名が宿泊していたのですから、当然といえば当然。 真・行・草でいうところの 真 に該当します。
このかっちりとした屋台骨の建物が、昭和のはじめ頃に茶人でもあった十代目の当主によって 数奇屋づくり による旅館へと改修され、現在 本館 と称される俵屋の基本形となるわけです。 こちらは、真・行・草でいうところの 行 でしょうか。 この時点での客室数は8室でした(木造2階建て)。
その頃から、伝統的な日本旅館は外国人旅行者の宿泊にも利用されるようになり、東京→箱根→京都とめぐるコースが好まれたこともあって、老舗の俵屋も国際的な観光拠点として重要な位置を占める存在となっていたようです。 時代の流れか、あるいは畳での暮らしに不慣れな外国人に配慮してか、管轄していた当時の運輸省が新たな設置基準をつくり、主だった旅館に対し、これを満たすよう条例を定めました。
基準の内容は、客室入り口の施錠やトイレの設置等、いろいろありましたが、客室数が10室以上であること。 加えて、日本間の座敷の外側に奥行き四尺五寸(約136cm)の縁側を設けて、椅子のセットを置かなければならない と、こう指導するわけです。 ところが、伝統的な日本の座敷は畳の床に座ってしっくりと落ち着くように、天井の高さから部屋のプロポーション、庭の構成にいたるまで、重心の低さにすべての美の基準が定められているのですから、椅子に座って目線が高くなるとせっかくの美学が台無しになってしまいます。 当然ながら、歴史ある老舗旅館としてはとても承服できません。
伝統と国の基準という、相反する重責を担うことになった十一代目(になったばかり)の当主は、ある雑誌で不思議にあたたかな印象の個人住宅を目にし、この建築家であれば想いを託せるのではないかと考えて、東京にあるその人の自宅を訪ね、直接会った上で設計の依頼を決めたそうです。 その建築家が吉村順三、当主(女性です)はまだ学校を出たばかりの23歳でした。

吉村は若い頃、しばしば京都を訪れて茶室の実測をしていましたし、師である建築家のアントニン・レーモンド(Antonin Raymond)が好んで俵屋に宿泊していた経緯もあり、そのお供をしていたであろう吉村にとって、俵屋はある種 憧れの建築 であったともいえます。 そのため、聖域である玄関には手をつけないこと、日本の風情といった歴史を尊重した上での改修とすること等、年若い依頼者の要望にも快く応じたのでしょう。
まず、改修にあたって解決しなければならない問題はふたつ。 10室以上の客室を確保すること。 床座による座敷と椅子座による縁側を違和感なく両立させることです。 これは想像ですが、もともと敷地の南側には街なかとしては十分なひろさの庭があって、主だった客室はそこに面していたものを、庭に 離れ を加えるような心持ちで、木造平屋建ての客室を二室、南側に増築したのではないでしょうか。 これにより、庭そのものは狭くなりますが、都市型高密度住宅の結晶ともいえる京町家を生み出した土地柄ゆえ、ほんのわずかな面積の庭であっても驚くほど豊かなスペースへと変貌させる術を、庭師たちは持ち合わせているのですから、何ら問題はありません。
世界最高水準の技術に裏打ちされた庭と、第一級の腕前と洗練された感性を兼ね備える棟梁が丹精こめてつくり上げた座敷との間に、応接セット的なものが介在するなどもってのほか。 彼らのプライドが傷つきかねません。 そこで吉村は、伝統の座敷はそのままに、隣室にカーペット敷きの小部屋をつくってソファとコンパクトなテーブルを置き、双方の部屋から床座と椅子座、それぞれの目線で庭の眺めを楽しめるような方法を考案しました。
吉村事務所の所員は、この案の実現のために何度も運輸省に足を運び、許可を得たのだそうです。 1958年、国の基準を満たした上に、木製の湯舟から庭を眺めながら入浴が楽しめる浴室といった、快適な水まわりを備えた本館の増築は、俵屋らしい風情とホテルに匹敵する質を両立する旅館として高い評価を得たと聞いております。

その後、本館の北側に隣接する100坪の空き地に、(やはり 離れ のような位置づけで)鉄筋コンクリート造3階建ての 新館 が、同じく吉村の設計により増築されました。
構造は堅固で耐火性に優れる鉄筋コンクリート造ですが、その内部に 伝統的な木造の部屋をつくる という妥協のない工法で俵屋の伝統を守り、本館や隣地との間に生じるちょっとしたスペースを巧みに活用して中庭や坪庭を設け、本館と同様すべての客室と浴室が庭とのつながりを保有し、訪れるたびに、季節ごと、客室ごとに部屋のしつらいや庭の眺めが異なるという趣向。 しかも、調度品も接客も俵屋の名に恥じぬ内容とあれば、もういうことはありません。
1965年の新館完成により、客室数は全部で18室となり、それをベースに50年を経た今日まで絶え間なく、手を加え質を高めながら、俵屋は少しずつ少しずつ変化しています。 なぜならば、宿は時代にそって変わってゆかなければならない(特に設備は)から。 何時も、一般生活よりも高い質をもって宿泊客に応えるためには、時には新しい技術も取入れつつ、それでも毎日毎日こころをこめて、当たり前に手入れする姿勢だけは変えず、積み重ねる気持ちを怠ることはない。
当主は 「吉村だったら、今こうするのではないか」 と、いつも自問しながら手を加えるのだそうです。 そうすると、ちゃんとそれに耐えうるよう、前もって考えらていたかのように建物がつくられているのだと。 そのくらいに、建物ともてなす側、宿泊客との良好な関係が保たれ続けているのです。
では、18室で何ら過不足ないはずの俵屋に、なぜ19番目の客室が計画されていたのでしょうか。

俵屋旅館 19番目の客室

もともと俵屋には宴会場がなかったため、既存の平屋建物の上に増築できないだろうかと、1970年代に吉村に打診があったらしいのです。 思うに、その当時は大変景気もよく、宿泊よりも宴会としての需要が重視されるような気運にあったのでしょうか。 実際、宿泊客からそういった要望が当主の耳に届いていたのかもしれません。 今ではちょっと考えられませんが、あの俵屋ですら、そのように思案しなければならないような状況にあったとすれば、景気がよいばかりが幸せとはいえないような気がしてきます。

これに対し、吉村が提案したプランが最初にお話した客室案だったのです。
初期のスタディということもあって詳細は分かりかねますが、 平屋建物の上に増築 というのであれば、1958年に吉村によって設計された 本館の増築部 と想定してみるのが妥当かもしれません。 ここはちょっとした 離れ 的な場所ですから、旅館の本体からは一旦切り離されて、なるほど宴会場としては好都合です。
このプラン、一見したところ普通の客室のようではありますが、よくみると、主室である一の間(10帖)と隣接する次の間(6帖)、さらに双方の部屋にアクセス可能な前室(1.5帖)の三室の間を仕切るフスマを取り払う(一部は引き込む)と、あわせて17.5帖の ひと間つづきの座敷空間 として利用できるように考えられているではありませんか。 宴会場にしては随分こじんまりとしているかもしれませんが、俵屋のスケールとしては適切といえますし、主室である一の間の向こう側にはゆったりとした土間の縁側があり、反対側の次の間の手前側にも坪庭があるために、思いのほか水平に視線が抜けて、体感的には決して窮屈ではなく、かえって心地よいはずです。
ゆったりとしたトイレや洗面台、坪庭に面した浴室といった水まわりも、もちろん 俵屋グレード です。 女性が化粧直しできるコーナーもソツなく用意されているところなど、隅々にまで行き届いた気配りも見事というほかありません。

それにしてもこの空間、宴会場にしておくには惜しいくらいの素晴らしさで、むしろ 客室として利用してもらうためにつくられたプラン と解釈したほうが自然のようにも思われます。 景気がこの先どこまでもよいとは限らないので、宴会場としての機能にこだわるよりも、俵屋の本業である 宿泊を通してのもてなし を優先して、いつでも客室として利用できるよう、長いスパンで考えられていたのではないだろうかと…。
吉村は平面だけでなく、室内の見え方を含めた断面の検討もあわせておこなっていて(※ つまり平面的ではなく、立体的に思考されていたということです。)、一の間や次の間といった母屋にあたる部分と、それに付随する洗面室、トイレ、浴室といった水まわりを下屋(げや)と呼ばれる部分にまとめるという具合に、まるで一軒の住宅を設計するかのように、構造的にも用途的にも明確な区分けがされているのです。
母屋はきちんと手入れをすれば、100年あるいは200年と使い続けることができますが、水まわりは設備の占める比率か高いので、随時刷新してあげる必要がありますし、湿気に加え水漏れといった弊害も想定されますから、母屋よりも短いスパンで修繕できるよう、そのあたりの事情をあらかじめ考えてつくられているのでしょう。 加えて吉村の設計では、浴室部分だけが他の水まわりから更に分節されている、といった念の入れようです (※ 浴室は湿気が強く、特に傷みやすいから。)
このような手法は、伝統的な民家では普通におこなわれていましたが、住宅も含めて建築家の手がける現代の建築では大変珍しいのではないでしょうか。
一方で、2階部分に庭をつくって植栽を施すといった方法は、リスクが大きく、これも慎重派の吉村には珍しい試みといえますが、こと俵屋に関しては庭師も大工も第一級の信頼するに足る腕前を持つ人たちですし、日ごろより頻繁に出入りして、何かしら手入れ可能な環境にあることを重々周知した上での判断であったものと推察できます。

これほどのアイデアが盛り込まれた魅力的な内容でありながら、この案が実現されることはありませんでした。
ひょっとしたら、吉村は19番目の客室を実現させるよりも、むしろ、宴会場を断念させるためにこのような提案をしたのかな と、ふいに思うことがあります。 彼はひとりの建築家として、適切でないと判断したならば、どのような(大きな)仕事であれ、はっきりと断ることもやぶさかではない性格であると、何かの本で読んだような記憶があります。
宴会場の件も、いつもの吉村であれば打診を受けた時点で理由を説明し、辞退してもおかしくなかったはずです。 それでも、この旅館の人たちは、くる日もくる日もこころをこめて建物を手入れしてくれている。 建築家として、これ程うれしいことはありません。
この街では、いにしえの人々がつくり出した建築から多くを学んだことも、決して忘れはしなかったでしょう。 ならば、彼らの智恵をきちんと咀嚼して、自分にしか成し得ない最高の仕事で応じようという、京都に対する吉村流の粋な 恩返し だったのかもしれませんね。