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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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08月22日(土)

ガラスの茶室

2014年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展で、現代美術家として知られる杉本博司が茶室を手がけたと知った時、実のところ、ちっとも驚きませんでした。 なぜなら、杉本が幾つかの建築作品に携わっていたことは承知していましたし、そもそも茶室とは茶人みずからが棟梁と二人三脚で、あれこれ模索しながら想像やひらめきをカタチにしていた、極めて純粋で私的な もてなしの空間 として成り立っていたはずですから、当時は時代の最先端を駆け抜けていたであろう茶人の姿を現代美術家に重ねたとしても、別段不思議ではないはずです。
それにしても、海の向こう側の出来事とはいえ、この国を代表する優れたアーティストが、(主要会場ではないにしろ)世界中が注目するハレの舞台で、日本の文化の奥深いところに位置づけられる、神秘に包まれた文化の真髄ともいえる茶室を作品として発表するという行為そのものが、オリンピックで活躍する自国の選手に注目するのと同じくらいに大切な出来事のようにも思えるのですが、一年あまり前の発表時に取り上げた国内メディアはせいぜい2・3社といったところなんて、そんなものだと分かってはいても、やっぱり寂しい気がします。 むしろ、海外のメディアのほうがきちんと評価していたように見受けられるのは、単なる気のせいでしょうか。

杉本博司の作品は、ヴェネツィアのサン・マルコ広場の対岸300mほど沖合いにあるサン・ジョルジョ・マッジョーレ(San Giorjio mggiore)島に設置されています。
ここは、島の約半分がサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会やガラス工芸美術館、それに船着場やヨット・ハーバーといった建造物、残りの半分を森(あるいは公園でしょうか)が占めているという、ちいさな島の、ちょうど教会と美術館との間にぽっかり開けた空き地のような場所を舞台とした、美術館側の発案による、ビエンナーレ期間限定のプロジェクトのようです(※ 当初は2014年6月~同年11月までと報道されていましたが、あらためて調べたところ、今年の11月末まで展示期間が延長されているようです。)
茶室といっても、建物だけが ぽつん とあるわけではなく、一般的には茶室に至るまでの道中、つまり露地までを一体の空間として位置づけるもので、もはや完成の域に達した感のある過去の名作たちのなかから適宜引用しつつ、厳格な作法に基づいてつつがなくまとめるのが今日の常識ではありますが、名作と誉れ高い茶室も元をたどれば前衛芸術、新たな創造の結晶であったはずなのですから、かつては既成の概念に縛られない立場にあった茶人の血統を正しく受け継いでいるであろう現代美術家は、そんな世のなかのしがらみなど、いとも簡単に飛び越えてしまうことでしょう。
第一、日本とは気候も風土も異なる場所で、マニュアル通りに伝統の形式を引用したところで意味はありません。 そうであるなら、原点である いにしえの茶人たちの精神 を継承しながら、日本とイタリア双方が所有する現代の素材や技術で成し得る行為、すなわち、新たなる創造の結晶こそが、杉本によるガラスの茶室 「聞鳥庵(もんどりあん)」 なのかな。 などと、畑違いの人間が勝手な空想をめぐらせている次第です。

ガラスの茶室

何しろ、題材が 茶室 という繊細きわまりない野外作品ゆえ、管理上必要となる塀や門扉で空間を切り取り、門扉(茶庭でいうところの中門に相当)を境に塀(垣根)の外側を外露地、塀の内側を内露地と解釈し、そこに回遊性をもたらすことで茶の湯の作法を満たしながら、世界中から訪れる多くの人たちが作品を鑑賞・体感できる、いわばパビリオンとしても機能するよう工夫が凝らされています。
もともとこの地にあった、並木とも生垣ともつかぬ木々の間を抜けると、そこは単なる塀に挟まれた細長い空間に過ぎないにもかかわらず、白い玉砂利と切り石が敷かれた途端、たちまち清浄な外露地と化し、それまで何てことなかった木々の緑が愛おしく、杉柱の連なる塀に落ちる葉影すらも美しい。
細長い外露地の先には、いかにも桂離宮にでも使われていそうな、高度な職人技によって成し遂げられたかと信じたくなるような垣根が視界を遮っていて、実は日本ではどこでも目にする、安価な竹箒を逆さに立てかけて垣根に見立てているところなど、そもそもがその辺りにたまたまあった ありあわせの材料 で出来上がった、限りなく粗末な庵(いおり)が後々名作と褒め称えられ、伝説と化し、数寄者たちによってありがたく引用されるようになると、途端に手の届かない、天井知らずな価格にまで跳ね上がってしまう、(矛盾だらけの)昨今の茶室なる存在に一石を投じた小気味よい発想に、誰もがはっと我にかえり、幾重ものしがらみによって見失っていた本来の自分自身を取り戻すに違いありません。

素顔の自分を取り戻してこころ静かに中門をくぐれば、まるで かちっ とスイッチが切り替わったように目の前の光景が一変します。 塀の内側、つまり内露地はしっとりと潤いのある、僕たちが見知る陰翳豊かな日本の露地空間とはどこか違う、からりとした光に満たされた、ヴェネツィアにこそふさわしい露地空間が展開されているのでした。
茶の湯の形態を引用するこれまでの茶室のあり方を一旦横に置いて、杉本は茶の湯の精神を引用しながら、ヴェネツィアを象徴する 水 と ガラス という、ふたつの要素を巧みに取り入れることに成功しています。 ヴェネツィアは水の都市であるだけでなく、ガラスの製造においても長い歴史を有しており、13世紀頃には既にガラス製造の技術が伝わっていたようですから、日本で茶の湯の形式が確立した時代に、海の向こうではガラス製品が(高価であっても)既に身近に存在していたわけで、もしヴェネツィアで茶室をつくるのであれば、当時の茶人も杉本と同じように考えたのではないだろうか と、確信したくなるような出来映えです。

東北産の杉柱が規則正しく並んで周囲の教会の塔や屋根、森の木々を程よく切り取って、あの青くムラのあるヴェネツィア産のガラスモザイクタイルが敷き詰められた、きらきらと輝く水盤の上に、日本のガラスメーカーと職人たちの賜物である精巧なガラスの茶室が、ただただ音もなく静かにたたずんでいます。 水盤のきらめきとからりとした空は、いわば日本の絵画でいうところの 余白 のようなもので、余白があることではじめて、茶室本来の持つ美しさが浮かび上がるのでしょう。 だからなのかもしれません。 現代美術家の手で注意深く抽出されたエッセンスによって構成された四百数十年続く伝統の空間が、この上もなくモダンだと感じるのは。
 
08月01日(土)

大丸心斎橋店

ヴォーリズ(William Merrell Vories)建築として広く知られる大丸心斎橋店をはじめて訪れたのは、ついこの間のことでした。
どうしてかというと、そもそもそんなに買い物をしない上、人が多く騒々しい場所が大の苦手という性格もあって、商業建築にはさして関心がなかったからです。 それに、この有名な建物を紹介する際に写真でしばしば目にする、エントランス上を彩る孔雀をあしらった装飾や、1階エレベータホールまわりの華やかな透かし模様、随所にみられる彫刻的な細工の数々は、商いの本場である大阪の地に大正から昭和のはじめ頃に登場した百貨店という花形建築に、いかにもふさわしい装いであったのでしょうが、僕の目には少々派手過ぎるようで、どうにもいただけないデザインだなと常々思っていたものですから、これまでとんと縁がなかったのです。
けれども、いよいよ建て替えが確実になったと知ってからは、一見物腰やわらかそうで、実のところ しれっ と冷酷な京都人に対する(もちろん、そうでない方もおられます)、一見厚かましいようでも、実は人情味にあふれる大阪人の気質のように(むろん、そうでない方もいらっしゃるでしょう)、外見だけで安易に判断してはいけないような気がして、やはり空間というのは、きちんとその場に身を置いてみなければ何も分からないはずですから。 第一、これまでヴォーリズの建築が人々を不幸せにしたり、期待を裏切ったことが一度でもあったでしょうか。

大丸心斎橋店は、 心斎橋筋 と 御堂筋 という、大阪を代表する二本の目抜き通りに面して建てられています。 もともと1922(大正11)年の第一期竣工時には心斎橋筋側にのみ開かれていたものの、後に都市計画に秀でた当時の市長の英断によって大幅に拡幅、地下鉄まで整備された御堂筋側からもアクセスできるよう、順次店舗を拡張し、1933(昭和8)年の第四期竣工時に鉄筋コンクリート造、地上7階、地下2階建てという、かつては 大大阪(だいおおさか) と呼ばれ、その名を全国にとどろかせた栄光の時代に恥じない、堂々たる店構えとなって、増改築を経ながら今日まで受け継がれてきたというわけです。
実際に訪れてみて気づいたのは、古くは大正時代より、目いっぱい翼をひろげ、心斎橋筋に面したアーチのなかからこの街の人々をあたたかく見守り、迎え続けてきた、テラコッタ製の孔雀のオーナメントは、実はちっともけばけばしくなく、もはやこの街の住人であるかのようにしっくりと溶け込んでいたこと。 エントランスを入った1階南側のエレベータまわりの空間は、豪華さで人々を威圧するどころか、意外にもこじんまりとした居心地よさで、きらびやかな透かし彫りの細工も照明や時計や階数表示などの機能を併せ持った、どれもこれもこの建物に不可欠なものたちばかりで、いつもは浮ついてよそよそしくさえ感じられる、百貨店では定番ともいえる1階の化粧品売り場も、ごくごく自然に馴染んでしまって、思わず知らず微笑み浮かべる自身の姿にひどく驚いている あなた を鏡の向こう側に発見することでしょう。
それから、百貨店ではついでのついで、いつもは隅っこの目立たない場所に申し訳なさそうに陣取っている印象をぬぐえない階段室も、ことヴォーリズの建物に至っては別格中の別格、ほとんど主役級の扱いで、エレベータやエスカレータと同様に、フロア真ん中のしかるべき位置に据えられ、隅々までこころをこめて磨かれた、それはそれは宝石のような空間で、案の定、ここも写真でみた時には想像できなかったくらいに心地よい、これ程の百貨店にしては随分と可愛らしいヒューマン・スケールなつくりで、それでも他のヴォーリズ作品と同様、階段はあくまでもゆるやかに、最初の一段目は手を差し伸べるように親しみやすく、踊り場はその名の通り小躍りしたくなるようなこころのゆとりをもたらす、めくるめく感覚。
売り場にずらりと並ぶ、どんなに高価で魅力的な商品よりも、この階段室をふろしきにくるんで持って帰りたいと切に願った、裕福な家系のご婦人方が続出したのではなかろうかと真顔で信じたくなる建物は、世界広しといえど、そうそうお目にかかれるものではありません。

何しろ大都市の一等地で、九十年以上にわたって歴史を刻み続けてきた建物ですから、この度持ち上がった建て替えの計画も含め、様々な出来事が起こったものと推察されます。
ご存知の方はそんなに多くはないかもしれませんが、もともと、大丸心斎橋店の最上階(7階)には、レストランが存在していたらしいのです。 現在の様子をご存知の方でしたら 「今でも最上階(8階)にレストランがあるよ」 と、そのようにおっしゃることでしょう。 ただし、同じレストランでもオープン当初と現在とでは随分と様相が違っていたのは紛れもない事実です。 かつての百貨店、こと最上階のレストランには商品や料理を販売するだけではない。 そう、そこには今どきの百貨店が失ってしまった 夢 があったのではないかと…。
残されている図面を拝見したところ、エレーベータも、エスカレータも、主要な階段室も、下階からつながっているのはいずれも6階までで、最上階のレストランに行くためには6階の正面奥にある独立した階段を上らなければならないよう、意図的に計画されていました。 つまり、最短距離でアクセスするのではなく、一旦エレベータやエスカレータを降りて、わざわざレストランのためだけに用意された専用の階段を利用するという、何とも気の利いた演出が待ち構えていて、しかもその階段ときたら、映画のなかの西欧のお屋敷にでも登場しそうな洒落たつくり。 もう、胸が高鳴らないわけはありません。

階段を上りきると、そこは南北ふたつのレストランにつながる、天井の高いアーチ型のホールになっています。 ちなみに、ホールからはレストランのほか、豪華な休憩室や屋上テラスにもアクセスできる、下階の売り場とは異なる性格が与えられた特別な空間になっていて、売り場の喧騒からしばし離れ、ゆったりと贅沢な時間を過ごしてほしいという、(当時の経営者の)粋なはからいがあったのでしょう。 これに応え、ヴォーリズはあえて、下階の売り場よりも天井高さに ゆとり を与えたのではないかと想像されます。
通常、百貨店の設計においては、最も集客の見込める1階かせいぜい2階部分において、十分な天井高さを与えたり、ひと際豪華なしつらいを加えたりするかわり、上階の天井高さや意匠については極力抑え、効率よく売り場面積を確保するのが一般的です。 もちろん、大丸心斎橋店もこの考え方にある程度は倣っているわけですが、とりわけ、最上階の7階については何もかも承知の上で天井を高く設定し、並々ならぬ情熱を注いで設計に取り組んだことが、設計図やオープン当初に撮影された写真を通して、ひしひしと伝わってくるのです。

大丸心斎橋店 7階洋レストラン

レストランはガラス窓を介して御堂筋を眼下にのぞむ、中央のホールをはさんで北側に 「洋レストラン」 、南側に 「和レストラン」 が対称に配された、それぞれの奥行きが最大で30mくらいはある大空間になっていたようです。 洋(食)、和(食)共にテーブル席が並ぶ、いわゆる 西洋スタイル が採用されていますが、梁・天井を直線的なデザインで構成する和レストランに対し、ゆるやかな曲腺(偏芯アーチ)の梁・天井で構成する洋レストランという具合に、下階の柱位置や全体のバランスから条件が制限されるなかで、プランや構造に無理を強いることなく素直にデザインへと昇華させ、(肝心の)料理を引き立て、贅沢なひと時を過ごせるよう、細心の注意を払って設計されています。
それにしても、当時の一流百貨店の経済力から察するに、相当に上質な素材を惜しげもなく使った建物を実現することなど造作もなかったはずなのに、大丸心斎橋店は、その気品ある風格にかかわらず、意外と素材そのものは質素だったりします。 外壁は、(歩行者の目線に近い場所で)部分的に繊細な石材の透かし彫りを施しながら、(歩行者の目線から離れた場所には)スクラッチ・タイルですっきりまとめ、下品にもならず、かといって貧相にもならないよう、上手にバランスを保っていて、内装は1階や中2階では大理石を多用し、華やかな装飾を用いていても、やはり、商品を引き立てるようバランスにはこまやかな気配りが払われています。
そして、百貨店の華といえる1階売り場よりもむしろ、優美さと気品さを兼ね備えた(消失して現存しない)7階レストランの内装が、存外質素な素材で出来上がっていたりするのは、やはり 「これこそヴォーリズ建築の真髄だ」 と、胸張って評価したいのです。
構造上必要となる柱と梁を上手く活かしながら、天井を高く意識させるよう、柱を天井や梁まで同じ仕上げで通すのではなく、あえて背が低くなるようデザインし、大理石で柱頭と基壇部を見切り、柱の大半と梁・天井は石膏か何かの左官仕上げにして、上品でゆったりとした空間を創出しています。 高価な大理石は、開口部の枠やカウンター、それに巾木といった左官素材では強度や実用面で劣る部分にのみ採用しているだけなのに、左官職人の卓越した技術が、それらを補って余りあることを建築家は熟知していたのでしょう。
照明器具はシャンデリアにしろ、ブラケットにしろ、構造や機能に重きを置いた実用的デザインでありながら、装飾としての効果も存分に発揮されています。 一方、床は比較的安価なゴムタイル仕上げのようですが、清掃のしやすさ、あるいは靴音の抑制など、本来レストランに求められる機能をしっかり押さえた上で、上質な空間にふさわしいしつらいとなるよう、デザインと施工に手間隙かける苦労を惜しまなかったのではないでしょうか。 そして、建築家や経営者だけでなく、そこで働くすべての従業員も、もちろん利用する人たちの誰もが、何とも表現しがたい、誇らしい気分に満ち満ちていたように思えて仕方がありません。

第二次世界大戦中の空襲によって消失した7階レストランを元通りに修復するよりも、売り場面積を優先するために天井高さを犠牲にしてまで8階建てに改修したのは、他店と競合するなかで勝ち残るために経営者がくだした賢明な判断だったのかもしれません。 それから数十年を経た今、更に厳しい競合を強いられる世のなかで、効率を高め、売り場面積を最大限拡張するために、古めかしい百貨店の建て替えを選択するという方針も、ビジネスマンとしては間違っていないのかもしれません。
けれども、長い長い時間を経た、手づくりの建物だけが醸し出す不思議な安心感を切り捨て、効率のみを追求したつるつるぴかぴかのビルディングばかりが建ち並ぶ大阪の街はどこか息苦しく、疲れてしまいます。 何よりも、夢や誇りを失ってしまった、ひどく冷ややかで現実的な百貨店を、人情味あふれるこの街の人たちは、果たして本当に望んでいるのでしょうか。