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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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01月16日(金)

グレン・グールドのピアノ椅子

バッハ作品の名奏者として知られるカナダ人ピアニスト・ グレン・グールド(Glenn Gould) による演奏のなかでも、とりわけ評価の高い曲に 「ゴルトベルク変奏曲(THE GOLDBERG VARIATIONS)」 があります。
J.S.バッハの作曲で、1742年に出版されたゴルトベルク変奏曲は、少なくとも20世紀中ごろの音楽界においては難解な曲とされ、当時、好んで演奏する人は稀であったといわれています。 そんな、もともとはチェンバロのためにつくられた、ふたつのアリアの間に30の変奏曲をちりばめた作品を、1956年、当時23歳だった若きグールドは、自身のデビュー曲として選んだのだそうです。

グールドのレコーディングによって、一大センセーションを巻き起こしたこの曲。 彼は1981年、50歳を目前にして再度録音を試みていましたが、くしくもそれが、生前最後にリリースされた作品となってしまったのでした。
このあまりにも有名な、グールドのピアノによる新旧二つのゴルトベルク変奏曲のうち、有終の美を飾った録音に映像が残されていることを知ったのは、たまたま訪れたCDショップで流されていたTVモニターからでした。 スタジオでの録音風景を撮影した、どちらかというと質素な趣の映像作品は、どんなに美しい容姿を持ち合わせたピアニストも、ヴィジュアル面ですら、グールドには到底敵わないと観念せざるを得ない。 どんなに優れた役者の演技も、彼の演奏する姿からは空々しく感じてしまうのではないかと、そう思わせるほどの出来映えだったのですから。

ゴルトベルク変奏曲の録音風景(1981年)

これまで耳では親しんでいたものの、映像を通して目の当たりにするグールドの演奏スタイルは、明らかに何者の追随をも許さない、きわめて個性的なものでした。 まず、何よりも、椅子からして随分とちいさいのです。
一般的なピアノ用の椅子は、割合安定感のあるかっちりとしたつくりで、いずれも座面の高さが調整できるようになっているはずです。 というのは、ピアノに向かって座った時、背筋を伸ばして自然に鍵盤に手を添えると、だいたい肘から先が水平に近いくらいになるようにして、各演奏者が椅子の高さを決めるからです。 加えて、座面は幾分固めながらも、クッションが適度な座り心地を約束してくれるもので、古いものではビロード張り、上等なものでは革張りだったりもします。
ところが、この高名なピアニストが腰掛けている椅子ときたら、もう見るからにくたくたで、黒塗りの塗装はまだらに剥がれ落ち、おまけにあちこちキズだらけで、お馴染みの座面の高さ調整機能すらありません。 普通の、おとな用というよりは、子ども用の木製椅子といった風情なのでした。

普通の人がみたらゴミと間違えて捨ててしまいかねない、ぼろぼろでよれよれのピアノ椅子を、グールドはこよなく愛していたらしいのです。 第一、演奏している映像をみれば誰だってすぐに分かります。
極端に低い座面に、屈み込むようにして腰下ろす彼は、何だかとても幸せそうなのです。 とにかく、あまりにも座面が低いものですから、鍵盤に手をのせると肘の位置は更に低くなり、お世辞にも世間一般では模範的とはされない姿勢は、それでも、ピアノと限りなく親密そうにみえてしまうから不思議です。
ほとんど鍵盤に鼻がつきそうなくらいに顔寄せて、ピアノ弾き弾き、さも気持ちよさそに歌っている姿は、録音スタジオのプロデューサーたちにとっては、実に迷惑この上ない行為に違いないけれど(※ 歌声も一緒に録音されてしまうから。)、あたかもピアノと親しげに会話しているように感じるのは、一体どうしてなのでしょう。 しかも、 よくみると、靴もどこかに脱ぎ捨てて、靴下だけでペダル踏んでいたりして、でも、それも無作法だなどとは、とても思えないのは、これまたどういうわけなのでしょう。 むしろ、ピアノにやさしく接したいという気持ちに、素直に従っているだけのような気さえしてしまいます。

驚くことに、グールドのおしりの下には、本来椅子にあるべきはずの座面らしきものが見当たりません。
1953年以来、彼が亡くなるまで使い続けた唯一のピアノ椅子には、最初は薄っぺらであっても、ちゃんとクッションの入った座板が確かにあったはずです。 それが、使い続けるうちに、次第にクッション材がはみ出してしまって、とうとう消えてどこかへいってしまったのでしょう。 普通はそこで修理に出すか、あるいは使い続けることを断念するところを、彼は辛うじて残されたT字型のフレーム材の上に危うくおしりをのせて、本当に幸せそうにピアノを弾き続けているのです。
名曲 「ゴルトベルク変奏曲」 は、あのピアノ椅子がなければこの世に生まれ得なかった。 ということになりはしないでしょうか。

グレン・グールドのピアノ椅子

結局、グレン・グールドのピアノ椅子は、狙ったわけではないにしろ、使い続けるうちに研ぎ澄まされ、見た目ではなく、嘘偽りなくピアノに接するために、本当に必要な機能だけが残ってしまったようです。
それは、ただただ速く走るというためだけに生み出されたレーシングマシンのコクピットが、素っ気ないくらいに飾り気がなく窮屈であるように、ただただピアノを純粋に演奏するためだけに生み出された椅子は、少なくともグールド自身にとって、完璧な座面高さと、微妙な角度の傾き加減(※ 実際斜めに置いて座っています。)、身体をあずけた時のしなり具合。 それら全てを満たしてくれる、究極のピアノ椅子だったのではないでしょうか。
でも、ひょっとしたら彼は、こんなふうに答えるかもしれません。 「僕はただ、ピアノとおなじ目線で演奏したかっただけなんだよ」 と。
 
01月01日(木)

六花文庫

日帰りで札幌に伺った折、南区の真駒内で滞りなく用事を済ませ、帰りの便までほんの40分ばかり時間に余裕があることに気づき、かねてより機会あらば訪ねてみたいと思っていた近くの 六花文庫(ろっかぶんこ) に立ち寄るべきか否か、少々躊躇しておりました。

六花文庫は、六花亭という北海道ではその名をひろく知られたお菓子屋さんが運営する、ささやかながら私設の文化拠点のような役割りを目指して考案、実現された地域密着型の施設で、そもそも 「食を通して、文化のある街をつくりたい」 という創業者の信念から、食に関するありとあらゆる書籍を収集し、誰もが気兼ねなく閲覧できる図書館としての機能を備えるのみならず、コーヒーを友にゆったりと読書が楽しめる喫茶の要素と、若手アーティストの作品発表や支援の場となるギャラリー機能を組み合わせているのですから、ますます興味は尽きません。
ただ、そんなにも魅力に満ち満ちた場所なのですから、数十分程度の滞在時間ではとても足りないに決まっていますし、冷やかしとも受け取れられかねない中途半端なことをするのも如何なものかと考え、それでは、せめておもての通りからでもその姿を、この目に焼き付けてから静かに立ち去ることにいたしました。

さくさくと慣れない雪道を踏みしめて、白銀の街並みになかば埋もれるかのように、どこまでもひっそりと瀟洒なたたずまいは、 「こんな素敵な場所が近くにあったなら…」 と、誰もが夢見る理想の文化施設そのもので、外壁に何気なく積まれた薪からは、扉の向こう側で、ちいさいながらも隅々にまで手入れの行き届いた館内にゆらめく暖炉の炎が容易に想像できて、抗えない何かに引き寄せられるように、ついふらふらエントランスへと足を踏み入れてしまうのでした。

六花文庫

かつて、若かりし頃 ル・コルビュジエ(Le Corbusier) のアトリエで研鑽を積んだ、その道では知る人ぞ知る、ある都市建築家のお宅にお邪魔したことがあります。 既に現役を引退し、隠居の身であるらしい、穏やかな微笑み絶やさぬ老紳士のこじんまりとした家はドアを開けて一歩入ると、とにかく 壁一面本だらけ といった印象で、案内いただいた方いわく 「私も彼も、勉強しすぎるのが欠点かもしれないね」 と。
六花文庫は、僕の記憶のなかで生き続けるあの都市建築家の住まいへの、憧れとも驚きともいえない創造の扉が、あらゆる人々に対して等しく開かれるのと同じくらいに幸運な場所であったと、告白しなければならないくらいの出来事だったのです。

決して広くはないはずなのに、せせこましさなど皆無の、どこまでもゆったりとした空間特性はこの土地で暮らす人々の血統ゆえか、館内は奥へと歩みを進めるほどに天井が高くなり、南向きのガラス窓の外は生憎の曇り空だけれども、あたり一面に降り積もった雪によって拡散された自然光が差し込んで、しっとりとした京都とはまた異なった、透き通った光に満たされています。
奥には暖炉を囲むようにハイバックソファが置かれた、いかにも居心地のよさそうなコーナーがしつらえてあり、幾分奥まった書架には食の本だけかと思いきや、図らずも美術書が並べられて、暖炉前の特等席は地域の皆さんにお譲りして、イサム・ノグチの本をそっと胸に抱え、彼の最晩年の活躍の場となったこの街の、窓際の階段に人知れず腰下ろしてページを繰るひとときの豊かさといったら、一体これ以上何を求める必要があるのでしょうか。

階段の背後には、書架からぽつりと離れて特別ちいさな棚があって、ちょうど菓子箱を髣髴とさせるような手製の紙箱が丁寧に並べられ、どうも、それぞれの小箱のなかにはアーティストの作品が収められているらしく、ここを訪れる誰もがちいさなタカラモノでも発見するような心持ちで、アートに気軽に出会えるという趣向になっているようす。
棚上に置かれた白い手袋つけて、うやうやしくも丁寧に取り出した意中の小箱の蓋をそっと開ければ、両の掌に収まるくらいのちいさな作品。 しかし、そこには 「偶然とも必然といい難い、この出会いに感謝します」 という声なき声、つくり手の想いがこの手を通して伝わってくるかのように思えてなりません。
みる側が受身になるのではなく、おのずから興味を持って行動した先にはじめて開かれる創造の扉。 六花文庫には、エントランスのどっしりとした木製の自動扉ともうひとつ、奥の棚に並んだ幾つもの華奢な紙製の扉があって、誰かが開けてくれる日を静かに待ち望んでいるのでした。

どうやら、そろそろ帰らねばならない時間がきてしまったようです。
最後にもう一度だけと、惜しみつつ館内を振り返ると、エントランス脇の天井の低い、一人掛けのソファとサイドテーブルがL字に並べられたコーナーで、しんしんと雪降るこの街の住人と思しき方々がコーヒーカップ片手に、あるいは、さも暖かそうなひざ掛けのせて、背後のガラス窓から差し込む北国特有の白く透明な光に包まれながら、めいめい、思い思いに読書にいそしむ姿がこころに焼き付いて、きっとこの先、いつまでも忘れることのない大切なシ-ンとなることでしょう。