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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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11月16日(日)

モエレ沼公園

イサム・ノグチが1933年に発表した、 プレイマウンテン(Play Mountain: 遊び山) というプロジェクトがあります。
ニューヨークの一街区をまるごと子どものための遊び場にするために、ちょっとした山のような大地の盛り上がりをつくり、ある場所は階段状になっていたり、ある場所はゆるやかなスロープとして孤を描き、またある場所は急勾配の滑り台のようになっていたりと、巨大な彫刻作品を子どもたちがよじ登り、走り回ることで、地形そのものを あそびの環境 にしてしまおうという、夢のような壮大な光景を、ある日突然思いついたらしいのです。
それまでは、他の芸術家と同じような大きさの、通常のギャラリー空間に展示できるような彫刻や絵画作品を制作していたイサムが、 「大地そのものが彫刻されるべき」 と考えるようになったのですから、もう驚くほかありません。 彼はこの無謀ともいえる提案をニューヨークで機会あるたびに試みたようですが、ことごとく却下されてしまいます。 それらはいずれも素晴らしいアイデアのように思えて仕方がないのですが、もはや一個人がどうこうといった規模ではなく、都市公園として自治体が責任を負わなければならない次元にまで到達してしまっているため、協議の過程でどこからか不安や反対の声があがり、結局は水泡に帰してしまう運命にあったといえます。
つまり、いくらイサムがイメージ図面や模型を通して説明しても、誰にもその巨大なスケール感をしっくりと思い浮かべてみることがどうしてもできなかったのです。 当のイサム本人をのぞいては。

ところが、構想から50年以上を経た1988年、札幌市からイサムに公園づくりについての依頼がありました。 イサム83歳の頃のことです。
折りしも札幌市では、市街地の周辺を8つの公園や緑地で包み込むという構想をすすめており、それにふさわしい人物として、世界的に活躍するイサム・ノグチが選ばれたのでした。 ただ、芸術に対して人一倍強い志を持ち、より良い仕事を実現するためには決して妥協を許さない誇り高い彼の性格は、前例のない、冒険的な行為をことさら嫌う傾向にある行政側の人たちには何かと疎まれることも多く、ゆえにプレイマウンテンの構想が実現に至らなかったわけですから、理解ある自治体との仕事は、年齢的にもこれが最後のチャンスであったといえます。
幾つかの候補地のなかから彼が唯一興味を示したのが、三日月形をした モエレ沼 と呼ばれる沼地に囲まれた広大な敷地で、当時はまだゴミの堆積場で、そこを将来公園として整備する計画になっていたそうです。 人間にとって負の遺産でもあるゴミ捨て場を、水鳥たちが生息する豊かな水の懐に抱かれた聖域として命を吹き込むのは自分の役目なのだと、イサム自身確信していたのでしょう。
イサムは、わずか数ヶ月間でプレイマウンテンやモエレ山といった巨大な環境彫刻を含む壮大な モエレ沼公園 のマスタープランを完成させ、84歳の誕生日を迎えたひと月あまり後の1988年12月30日に息を引き取ります。

これまで一度も実現することのなかったプレイマウンテンですが、イサム亡き後も彼の意思を継ぐ人々の手で17年をかけ、いささかも揺るぎのない信念をもって、かくまでもマスタープランに忠実にモエレ沼公園を完成させました。 2005年のことです。
その後、イサムのキャリアのなかでも最大かつ最後の作品となる公園について、メディアでもたびたび取り上げられ、賞賛の声も聞かれるわけですが、どれだけ写真を眺め、案内図を重ね合わせてみても、ひとりの偉大な芸術家が夢見た理想の大地が生み出す空間の意図するところがどうも分からない。 スケール感に関しては割合敏感なはずなのに、やっぱり分からない。 ひょっとすると、人間の想像力を超えた世界がひろがっているのかもしれないと考えるようになり、少々無理算段してでも札幌まで足を運んで、その場に身を置くことにしました。

そのスケールの大きさは、まず最寄の地下鉄の駅をおりてから思い知らされることになります。 モエレ沼公園は札幌の市街地から北東方向へ幾らか離れているために、地下鉄からバスへと乗り継ぐ必要があるわけですが、これほど想いのこめられた特別な場所なのだから、巡礼ではないけれど、この足で歩いてみることにしたのです。
最初はどこの都市部にでもあるようなありふれた街並みが、途中、北東へとどこまでも伸びる、やたらとだだっ広い道路をたどるようになってからは、周囲は次第に荒涼とした雰囲気につつまれ、広大な農地の向こうにぽつりぽつりと農家が点在し、なかには古めかしいマンサード屋根の建物なぞもちらちら顔みせて、6車線の道路にはもはや信号機すらも見当たらず、すれ違う人もない歩道はとにかく10mくらいの幅があって、なぜこんなに広くなければならないのか。 どうして道端に咲く萩の花が、京都の古寺で見かける時のように美しいと感じないのか。 そもそも、そんななか旅行かばん抱えてとぼとぼ歩くよそ者のちっぽけな僕はなにやっているんだろうと、さすがに気弱になりかけていた頃、目指す先の遥か向こうにくっきりと台形のシルエットが浮かんで、明らかに自然の山ではなくプリンのような整ったカタチ。
あれがイサムが創造したモエレ山なのだろうかと、それだけを支えに、ただただそのシルエットに向かって歩く姿はやはり巡礼者そのものなのかもしれません。 結局、プリンの麓近くにたどり着いた時には、地下鉄の駅を出て90分あまりが経過しておりました。

モエレ沼公園

僕がたどり着いたのは、モエレ山の南側にある目立たない入り口で、もっぱら観光客が利用するメインの入り口とは別の、勝手知ったる地元の人々が気さくに出入りする、いわば勝手口的な位置づけらしく、犬の散歩をするご婦人から、標高約60mのモエレ山を楽々踏破している屈強なご年配の皆さん、競技用の自転車でトレーニングしている青年、だいぶサマになってきたシラカバ林のなかの散歩を日課としていると思しき知的障がい者施設の方々が、思い思いに自分たちのペースでこの公園を利用しているようす。
彼らの誰よりも歩いてる自信があった僕に、もはや目の前のモエレ山を踏破する体力はないなと悟り、公園の中心あたりを目指して麓の樹間の道を歩く。 歩けば歩くほどなぜこんなに広いのか。 京都御苑の広大さは人間が心地よいと感じるスケール感を伴なったものですし、かつて暮らしていた西オーストラリア州の州都パースにあるキングスパークは、モエレ沼公園よりも遥かに大きな規模のはずなのに、自然の丘の地形を活かして緑化しながら上手く人間のスケール感に馴染ませてありました。 けれども、この公園はそのどちらとも違うようなのです。

モエレ山の向こう側は、アクアプラザや海の噴水、モエレビーチといった親水空間が点在し、それらを取り囲むように大小さまざまな大地の隆起があって、それらはいずれも自然を写した形態とは程遠く、純粋な幾何学とも違う、この世でイサムだけに創造することが許されたとしかいいようのない、ちょっと尋常ではない大きさの 大地の彫刻 になっていました。
あえてたとえるとしたら、 「本堂の濡れ縁から眺めるほかなかった龍安寺の石庭のただなかで、昆虫くらいのサイズに縮小された人間が体感する異空間」 とでも表現したらよろしいでしょうか。 それゆえ、園内のそこここに見受けられるはずのベンチや東屋はおろか、ゴミ箱ひとつありません。 テーマパークのように順番待ちしていれば誰かが何かしてくれるのではなく、訪れる人々が身体の動きを通して巨大な彫刻作品を完成させるという姿勢こそが、この公園の作法なのでしょう。
だから、昔イサムはプレイマウンテンを子どもの遊び場として提案したのではないだろうかと思うのです。 彼らは常に頭ではなく、身体を使って物事を理解しようとしますから。

すでに体力を使いすぎてしまった僕は、最後にイサムの空間芸術の原点でもあるプレイマウンテンに登ることにしました。
プレイマウンテンをどこからどのように登り下りるかは、その人の自由で、特に こうでなければならない といった約束事はありません。 ご年配の方でも舗装されたゆるやかな石畳をゆるゆると歩いてゆくことができますし、ピラミッドのような石の段々を上っては腰掛けて景色を眺め、また上がっては腰掛けするのも一興。 子どもたちなんか、芝生の斜面を風のように駆け抜けています。
「マナーさえ心得ていれば、ルールなんかなくったっていいのですよ」 と、イサムは考えていたのでしょう。 眼下にひろがるサクラの森のなかに彼が子どもたちのためにデザインした数々の遊具も設置されてはいますが、プレイマウンテンのようにあらゆる人々をまるごと受け入れてひとつになるような、この先何百年と続くであろう普遍性を予感させる環境彫刻は、芸術家であるイサムだからこそ成し得た仕事なのではないでしょうか。
26年前にはじめてこの地に立った時、 「これは僕の仕事です」 といったイサムの気持ちが、今ならしっくりと理解できるような気がします。

そんなことを考えながらよろよろ頂上にたどり着くと、いつの間にか周囲には誰もいなくなって、本当に幸いなことに、つくづく広大な大地の隆起をしみじみと眺めることができました。 なにしろ何もない場所に巨大なモエレ山やプレイマウンテンがつくられたわけですから、自然と風が自在に吹き抜ける結果になったとみえて、てっきり喜ぶのは子どもたちだけかと思いきや、風を味方にトビがゆうゆうと大きな翼をひろげている。 その景色が、頭上ではなく眼下にあるのです。
そして、今更ながら足元が巨大な一枚岩で出来上がっていることに気づき、もちろんその石だけでなく、地面から累々と積み重ねられた石段の一枚一枚のノミの跡が急に僕のスケール感を呼び覚まし、この空間の本質を知ったのです。 イサムほどの偉大な芸術家でも、数えきれないくらい多くの職人たちの力に支えられていたのだということに。
 
11月01日(土)

ブラック・スライド・マントラ

その滑り台のことを知ったのは、随分と以前のお話。 イサム・ノグチについての特集記事でみつけた一枚の写真からでした。
黒い御影石でつくられたどっしりとした滑り台に、子どもたちが鈴なりになって遊んでいる様子は、それはそれは素晴らしく美しい光景で、たったひとつの彫刻で、こんなにも素敵な仕事を成し得ている という事実にひどく驚き、こころ打たれたのでした。
実は、それより少し前、イサムの作品を美術館の回顧展で拝見していましたが、館内にうやうやしく展示されていた作品は、どこか 借りてきた猫 のように居心地悪そないでたちで、展示の都合上仕方がないことなのかもしれないけれど、雨風はおろか、直射日光からも隔てられ、もちろん触れることなど到底許されるはずもなく、結局は端から順番に陳列されていたにすぎないのですから、向こうからは何も語りかけてはくれない悲しさ。 そうか、 これは本来イサムが望んだ作品のあり方ではなかったのだ と、あの写真から気づかされたのです。
記事には ブラック・スライド・マントラ(BLACK SLIDE MANTRA) と名づけられた滑り台について、イサムは 「彫刻とは何なのか、おしりの先から少しずつ分かってくる」 と語っていて、小難しい理屈など一切抜きに、こんなにも詩的に芸術を表現する人が、その場所(※ 札幌です)のためにこころを込めてつくった滑り台を、いつかこの目でみ、この手で触れてみたい と、ささやかな夢を抱くようになりました。

これがきっかけでイサムの仕事に興味を持つようになり、いろいろ調べてみると、どうやら彼は子どもの遊び場や遊具について、もともと強い想いを持って取り組んでいたらしいのです。 実現はしませんでしたが、1930年代はじめ頃には既に 「プレイ・マウンテン(Play Mountain : 遊び山)」 と題した、大地を彫刻したかのような遊び場の構想を開始していたそうです(※ プレイ・マウンテンは、イサムの死後、札幌のモエレ沼公園ではじめて実現しました)
こと滑り台については、とりわけ想い入れが強かったとみえて、1960年代から70年代にかけて詳細なデザイン画や模型が作成され、遊具と彫刻作品が融合したかのような、あそびの原点と芸術性の境目を完全に超越した次元に到達していました。 いえ、もとより彼自身が 子どものこころ と 芸術家のこころ を失わなかったから と説明したほうがよいでしょうか。 札幌のブラック・スライド・マントラのアイデアは、その頃に出来上がっていたのです。
実をいうと、この滑り台には血を分けた兄弟がいて、1986年のヴェネチア・ビエンナーレにアメリカ代表として選ばれたイサムが、母の祖国の威信にかけて出品した真っ白い大理石でつくられた滑り台が、兄にあたる 「スライド・マントラ」 で、二年後に父の祖国である日本のために黒い御影石でつくられたのが、弟にあたる 「ブラック・スライド・マントラ」 であったというわけです。

ブラック・スライド・マントラは、1988年に札幌市からの依頼で、市の中心部にある大通公園内に設置するためにつくられた という経緯があり、札幌の雪景色に映えるようにと、黒い石の滑り台がイサムによって提案されました。 公園内での設置場所はあらかじめ決められていたようなのですが、現地に足を運んだイサムが選んだのは、公園の敷地からはみ出した道路の部分だったそうです。
大通公園は、碁盤の目状に規則正しく配された道路によって一定間隔で分断されているのが、どうも彼の気に入らなかったらしく、それは 自分の作品のため というよりも、ただただ純粋に、子どもたちが道路に遮断されず思う存分走り回れる環境をつくりたかった。 そのきっかけが、ブラック・スライド・マントラであったのだと。
残念ながら、その年の末にイサムは84歳で亡くなりましたが、札幌市は彼の意思を誠実に受け止めて、数年後、本当に一部の道路を取りやめ、公園として整備し直し、遺作ともいえる滑り台を設置したのでした。
だから、イサム・ノグチの聖地と呼ばれる香川県の牟礼(むれ)という石工の里にある彼のアトリエ(※ 現在のイサム・ノグチ庭園美術館)よりも、札幌の子どもたちのために、一人の芸術家と自治体が力を合わせて成し遂げた たったひとつの滑り台 をいつか訪ねてみたい。 そのささやかな願いが、十数年かかってようやくかないました。

地下鉄の駅をおりて、東西に細長い大通公園を西に向かって歩き続けると、憧れの黒い滑り台が遥か向こうに、ちょっと尋常ではない存在感で、それでも限りなく静かにたたずんでおりました。 何百年と大地に根を張り続けた大樹のような雰囲気 とでも表現したらよろしいでしょうか。
初恋の人にでも会うような幾分くすぐったい気持ちで近づくと、写真では気づきませんでしたが、丘というほど大層ではないにしても、ゆるやかに盛り上がった芝生のてっぺんにどっしりと据えられたブラック・スライド・マントラは、もう20年以上はここにあるはずなのにぴかぴかに磨かれ輝いていて、そっと触れると、子どもたちのおしりと、この公園を愛するおとなたちの手で大切に扱われていることが理屈抜きに伝わってくるものですから、こんなに美しい場所なら、子どもたちがすぐにでも駆け上がってくるだろうな と思うか思わないかうちに、てーっと3歳くらいの女の子が瞬く間に駆け上がってきました。 やっぱり。

ブラック・スライド・マントラ

そもそも巷にあふれる遊具はどれも、本当に子どものためにつくった というよりも、おとなの都合で誤魔化し誤魔化ししてつくられたにすぎないのではないか? という疑問が前々からありました。 どこか、上から見下しているようなふしがあるからです。 けれども、イサムは遊具たちに対し、誤魔化さず全力で向き合って、しかも 子どもの目線 で彼らと同じ世界を見ようとしていた。 そんなふうに思えて仕方がありません。
少なくとも、大通公園を訪れた時の彼にとって、ここは紛れもなく世界の中心で、その中心にふさわしい滑り台を、天賦の才能とありったけの想いを込めてつくったに違いないのですから。

てーっと誰よりも、おかあさんよりも早く駆け上がってきた女の子はまだ未就学ですから、ある意味遊具らしからぬ、とてつもなく大きなブラック・スライド・マントラ(高さ3.6m、重さ80t)を理屈ではなく、直感で接しようとするはずです。 すると、自分たちとおんなじ目線でつくられているわけですから、丸い穴の向こうに素敵な世界がつながっていることに、すぐさま気づきます。
何といっても、この滑り台の魅力は 「くるくるまわる螺旋の動き」 です。 石のなかは螺旋状の階段になっていて、はじめ暗い階段は登るほどに明るさを増し、途中でぱっ視界が開けます。 そこで、外で待ってくれているおかあさんと目が合って、おかあさんよりもずっとずっと高い場所にいる自分に気づくのです。 「そんな私をみててね」 という気持ちで、てっぺんから滑り降りるのはちょっぴりどきどきする。
けれども、包まれ守られている安心感と、すべすべした手触りから勇気をもらって素直に身をゆだねると、 くるりん と旋回しながら3m近くの高低差を瞬く間に滑り降りる気持ちよさ。 なにせ、つるつるに磨かれた上に子どもたちのおしりが更に磨きをかけ、おまけに急勾配ときていますから、そのへんの 子どもだまし の遊具とはわけが違います。 それでも不思議なことに、3歳の子でも すとん と両足で着地できるのですから、これが楽しくないわけがありません。
もうそうなると、くるくるまわって反対側の丸い入り口へと駆けてゆく 「あそびのスパイラル」 のとりこになっていることでしょう。

かつて写真でみた世界は夢まぼろしではなく、今確かに目の前にあって、この滑り台を子どもたちのおしりが磨き続けている。 イサムから渡された 目にみえないバトン をしっかり受け取って、あそびそのものが、実は 彼と彼らの作品 だったのです。