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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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09月16日(火)

孤篷庵・忘筌

以前会議で、とある年金保険施設を利用したことがあります。 その部屋からは大きなガラスごしに広大な庭園を眺める仕掛けになっていて、どうも、これがなかなか立派なようなのです。 けれども、それでこころが豊かになったとか、言い知れぬ感動をおぼえた ということはちっともなく、いくら巨大な石を据え、美しく刈り込んだ樹木を植えたとしても、たとえクリアに視界がつながっていたとしても、分厚いガラス窓のあちらとこちらとは限りなく遠い関係になってしまっている。
僕たちのご先祖様は、建物と庭とのつながりを何よりも大切に暮らしてきたはずなのに、いつの間にか建物も庭も縦割り行政のような扱いになってしまって、これは何かがどこかで間違ってしまっているのではないか と、疑問を抱くようになりました。

石畳の坂道の向こう側にある 孤篷庵(こほうあん) は、大徳寺の境内からぽつりと飛び石のように離れています。 しかし、紛れもなく由緒正しい大徳寺の塔中で、門前の石橋を渡り、苔むす露地の折れ曲がった先にひっそりたたずむ方丈は、派手さはないけれど、こころのこもったつくりで、途中再建されてはおりますが、もともとが江戸時代初期の建物ですから、ここではガラスのあちらもこちらもあろうはずもない。
そんな、すがすがしい建物の一角の 「書院の間」 に相当する一室が、書院にしては随分と控えめに、これまたここだけ飛び石のようにぽつりと据えられたかのような、どこか異なるたたずまいで、皆さんこの部屋を 忘筌(ぼうせん) と呼んでおります。

そもそも孤篷庵は、作事奉行にして茶人でもある 小堀遠州 の菩提所として創建され、敷地を移転した後、茶席として工夫された座敷 忘筌 を生み出したのだそうです。 遠州は、本来は武家の住まいである 書院づくり を茶の湯の所作に馴染ませるために、床の間の落とし掛けも違い棚も省略してしまって、驚くほどにモダンな解釈で、実にすっきりと諸々のややこしい問題を解決してしまっています。
相伴席を含めると京間で12畳もある空間は、いささか広すぎて茶席としての親密さに欠けてしまいかねないところを、凹凸のある変化に富んだプランと、開口部を縁側に開かれた4枚障子と点前座にあたる床の間脇の地窓のみに絞り込むことで、どこか包み込まれるような居心地のよさをつくり出し、10人くらいの客を招くこともできれば、一人静かに過ごすことも厭わない。 それはそれは奥の深い世界。

孤篷庵・忘筌

茶席といえど元来は書院なものですから、本来は目一杯庭に開放すべきところを、有り余る庭をあえて奥行き3mほどに生垣で仕切り、しかも、わざわざ縁側の外に中敷居を取り付けて、上半分を障子窓で閉じてしまっています。
唯一ともいえる外部への視線を、玉砂利を敷いただけのちいさな庭の足元のみに狭めることで、がらんとした茶席に不思議な親密感が生まれ、何でもない玉砂利と、これもありふれた生垣や幾本かの庭木がちらちら覗くなかに、ぽつりぽつりと石灯篭と手水鉢と庭石が浮かぶささやかな点景が、僕の目には故郷の瀬戸内のやさしい海にみえる。
遠州は近江の国の出身ですから、琵琶湖の景色を思い描いたのはまず間違いないでしょうが、このささやかな庭園は、広大な太平洋や荒々しい日本海を知らない、おだやかな水辺のさざなみのみ見知る者の夢見た 「理想の風景」 なのかもしれません。

満月の夜に映る水面の、遥か遠く38万kmあまり離れたお月様ですらはみ出してしまいそうな、ちっぽけな手水鉢に注がれた溜まり水を除いては、池ひとつとてない庭が瀬戸の海や琵琶の湖にみえてしまうのは、ほんの数歩にも満たない間合いのなかの、縁側の広縁から落し縁、さらに沓脱ぎ石からたたきの土間へと、一段一段庭へと近づく間隔が、 舟入の窓 と呼ばれる中敷居によって狭められた唯一の開口によってかろうじて繋ぎ止められることで、何でもない玉砂利の庭に、こころの奥深くにしまってあった、懐かしい水の風景が現れる。
巨大さや豪華さが重要なのではなく、遮るもののないなかで、庭と建物との距離感をどのように見極めるのかがいかに大切か。 ガラスは確かに優れた建材に違いありませんが、このことを忘れてしまってはいけないと思います。

忘筌の天井は、ごくありふれた(といっても水の流れを彷彿とさせる美しい板目の)竿縁天井に白い胡粉を摺り込んであり、既にそのほとんどが失われて、杉の地板が顔をみせはじめてはいますが、他に例のない、ちょっと想像するだけでも相当にモダンなデザインの意図するところは一体何だったのでしょうか。
それをぜひとも知りたいものだと、からりと晴れ渡った明るい庭と薄暗い室内の対比が印象的な午前のようす、 日が傾き西日が舟入の窓の障子に差込んで、背後のカエデの葉陰を映し出す劇的な光の演出… と、幾日も通う度に様々な表情をみせてはくれるけれど、そのようなメリハリのある光も、あの薄暗い天井まではとてもとても届かない。
ところが、時折しとしとと雨の降る、そんな光の乏しい日のことでした。 あの弱々しい光が縁側の外の 舟入の障子窓 をほんのりと照らし、その内側の左右の障子窓にようよう届いた光は、中敷居の下をすり抜けた光と、上の障子を透過したどうしようもないくらいにかすかな光となって、下から上に灰色のグラデーションを描き出し、どちらの障子も一枚の白い和紙のはずなのに、人の目では直接判別できないくらいの、本当にわずかな光の強弱をも余すことなく掬い取ってくれる。
もし、そこにガラスが一枚でも入っていたとしたら、ことごとく跳ね返されてしまったに違いない繊細な光が、ここには確かに存在してしていて、その光は、あの薄暗い天井をほんのりと照らしていたのです。

遠州はこの光を受けるために天井を白く染めたのだと、実に400年近くの時を経て、ようやく僕は気づきました。
 
09月01日(月)

無印良品の石けん置き

「そんなつまらないモノ、評価したところではじまらないよ」 と、あなたはいうかもしれませんが、さして目立たない脇役の、そんなに高価でもない日々の生活道具を、正直に、手を抜かずつくり続ける人たちの仕事を、時にはきちんとみつめてみたいのです。

消費者の視点に立って、徹底的に無駄を省いた、シンプルで使いよい 無印良品 のプロダクトが、どれも素晴らしいとは思いません。 たとえば、無垢の木材を使った手ごろな価格の家具があったとして、製品化をするなかで、無駄なこととして切り落としてしまったもののなかに、目にみえない大切な 何か があったとしたら、いくらシンプルで低価格であっても、どこか無理しているようで、つらい気分になってしまいます。
ガラスや磁器、木綿といった素材もまた然りです。 ぱっとみたところ雰囲気よさそうでも、大切な 何か を失ったモノたちにどれだけ囲まれたとしても、結局、いつまで経ってもこころは満たされない。 そんな生活、どこか悲しいように思えて仕方がありません。
それよりも、昔っからある、MDFボードを単純にネジで留め付けただけの、組立式収納家具のようなプロダクトのほうが、はた目には安っぽくて貧しいかもしれないけれど、それでも健康的なシンプルさがあって、むしろ格好よいとさえ感じるのです。
だから、プラスティックのようなチープな素材を、恥ずかしがらず、真正面から生真面目に扱って、考えに考えてつくったちっぽけな日用品にこそ、このブランドの 素顔 を垣間みることができるような気がするのです。

無印良品の石けん置き

かつて、無印良品が アクリル製の石けん置き を製品化していたことがあります。 たまたま店頭でそれを目にした僕は 「ついに庶民派ブランドが、理想のカタチに辿り着いたな」 と、感慨に浸ったものです。
プラスティック製品を製造する方法に、 射出成形 と呼ばれる技術があります。 やわらかくなるまで加熱した樹脂を金型という箱に押し込み、固形化して取り出すと、いくらでも同じカタチと品質の製品が製造できるというものです。 金型はちいさなものでも数百万円するともいわれていますが、大量に生産することで安価な製品を市場に流通させることができるという利点があります。 無印良品の石けん置きも、ご多分にもれず、この射出成形によってつくられているというわけです。

世のなかは、安易なプラスティック製品であふれ返っています。 それらの多くは、一種の ムード でデザインされているとしか思えません。 大して意味のない、その場しのぎ、間に合わせのモノたちは、つくり手の想い入れがない。 想い入れのないモノは、すぐにゴミになってしまいます。 けれども、石油やエネルギーを大量に使って、恐ろしいほどの量が生産される様子を想像できる消費者は少ない。 モノに満たされてもこころは貧しいという 負の連鎖 に気づく人は、更に少ないでしょう。
それでも、ほんの一握りのデザイナーは気づいている と、僕は信じたいのです。 少なくとも、このアクリル製の石けん置きをデザインした人は。

無印良品の石けん置きは、石けんを載せる 受け皿 の部分と、受け皿を支える 受け箱 の部分との二つの部材で出来上がっています。 受け皿は、濡れた石けんがべとべととくっつかないよう、二箇所の突起によって持ち上がるようになっていて、その中央に水抜きの穴が一箇所だけ空けられています。 水は下の受け皿に溜まる仕組みです。
どれもこれも、取り立てて目新しいアイデアではない、生活の道具に必要な当たり前の機能です。 当たり前の機能を満たしながら、目障りにならない美しいカタチを、工場の生産ラインと素材の特性とをきちんと理解した上で、現実のものとする。 それこそが本当のデザインなのですから。
石けんがべとつかないよう、水ぎれをよくして、下に水が溜まる構造から、自ずと二つの部材の組み合わせで、中空の部分が生まれます。 その隠された中空部分を、アクリルという素材を採用し、透かしてみせてしまうことで、思いがけず透過する光が交錯する、重層的で豊かな表情を生み出すことになったのです。

アクリルは、ガラスかそれ以上に透明度が高く、強度も高いという利点がありますが、その反面、日常的に使用するうちに、表面にこまかいキズがついてしまうことが容易に想像できます。 限りなく透明な石けん置きが、デザインとして格好よいことは重々承知の上で、このデザイナーは、あえて外側の表面にやわらかいフロスト状の加工を施して、透過度をおさえることを良しとした。 そうすることで、知らず知らずについた表面のキズも目立たず、受け箱に溜まった白濁した水も苦にならない。
外形は、この手の樹脂製品にしては、潔いくらいにシャープなラインを残していて、それでもよくみると、必要に応じて微妙な丸みは確保しています。 コンマ数ミリ単位での、厳しい吟味の末に導き出された形態に、もはや、ムードだけでデザインした製品が遠く及ばない、ある種の 境地 のようなものを感じるのです。
それでも、石けんを載せる受け皿の内側だけは、清掃しやすいように、思いのほかやわらかいカーブを取り入れていたりする。 ひょっとすると、使う人の安心感を、そこはかとなく抱かせるために仕組まれた、高度なデザイン手法なのかもしれません。

これほどのデザインが成されながらも、このブランドでは、デザイナーの名が表にでることはありません。 稀に著名なデザイナーが参画することもあるようですが、それは左程重要なことではないのでしょう。
アノニマス(anonymous:作者不明の)デザインのお手本ともいえる、このアクリル製の石けん置き。 実は数年間販売されただけで、ポリプロピレン製の、丸みのある、無難(というか、ありがち)な製品に取って代わられ、短命に終わったらしいのです。 消費者からの評判がよろしくなかったのか、あるいは環境負荷の少ない素材へと方向転換したのか…。 それは、今となっては定かではありません。 しかし、僕の手元にある石けん置きは、この先、ゴミとなることはなさそうです。

無印良品の石けん置き