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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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06月16日(月)

ヴォーリズの階段

京の古寺を訪ねて、疎水べりをそぞろ歩く方は少なくないでしょうが、銀閣寺よりも下流 (※ 哲学の道沿いの琵琶湖疎水は他の河川とは逆方向、つまり南から北へと流れています)にまで足を延ばす方は、一体幾人おられることでしょう。

疎水べりは車道から独立した、歩行者のための小道が延々と続いていて、京都大学農学部あたりともなればさすがに人影もまばらで、周囲はなかなか感じのよい、どこか文学的あるいは芸術的香りただよう瀟洒な住宅地になっていたりするものですから、ふらり歩くには都合がよいのです。
そんな疎水べりの小道にどういうわけか、藤棚に覆われ、ベンチの置かれたコーナーが、すっかり地域に馴染んだ顔してあつらえてあり、その周囲には築百年とも噂される詳細不明な木造アパートメントなどが居心地よさそに建ち並んだ気持ちのよい家並みが数軒続いていて、そのなかの一軒に、昭和の初期に建てられた、こじんまりとした西洋館が静かに佇んでいるのでした。

駒井家住宅

その西洋館は、 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories) によって設計され 「駒井家住宅」 と呼び親しまれております。
ヴォーリズ設計の建物は、いわるゆる近代建築登場以前の 様式建築 が多くを占めているのですが、一見様式でがんじがらめのようにも思えるその容姿は、実は 仮の姿 のようなもので、本当は住まい手のために心砕かれた、あったかい建物であったりするのです。
小道に面した西側の壁面はバランスを整えた端正な顔立ちなのに、奥の庭に開かれた東側の壁面は 「そんな気兼ねはさらさらないよ」 とでもいい出しそうなくらいに雑多な窓たちで溢れ返っていたりします。 本来がちがちの様式建築であれば、何よりも格好を優先すべきところを、ヴォーリズは住まい手の心地よい生活を何よりも優先して、窓の大きさやカタチを決定していたのではないかと想像されます。

彼は日本ではお馴染みの、伝統の 大きな引き戸 で庭と室内をつなげることはせず、あくまでも縦長の上げ下げ窓や開き窓に固執しています。 それは彼がアメリカで生まれ育ったからということだけではなく、きっと冬場の快適さを考えた結果だと…。
当時の一般的な日本の建具は実際ぺらぺらで、気密性が低く頼りない存在でしたから、せっかく取り込んだあたたかい太陽の熱も、あちらこちらの隙間から逃げていってしまうのが実情です。 これはこれで新鮮な空気が循環して気持ちよいものではありますが、やはり冬は寒い。
そこで、窓そのものはちいさいけれど、頑丈で気密性に優れる西洋建具(※ アメリカでは古くから住宅用の建具などが規格化されていたようですので、輸入品を採用していたのかもしれませんが)を多用したのでしょう。 縦長の窓は、大きさの割には外光を部屋の奥まで取り込むことができるので、東や南に面した居室は天気さえ良ければ結構あたたかかったはずです。
一方、夏は周囲に有り余るほどある窓を開放し、家全体の空気を循環させて涼を得る仕組み。 よくみると、全ての窓にはきっちりと網戸がはめ込まれていることに気づきます。 少々格好は悪くなるかもしれないけれど、日本の夏を体感済みのアメリカ生まれの建築家は、何が本当に大切なのか、誰のために何をすべきかを熟知していました。

通常西洋館は、水平方向に視線が抜けることがありません。 日本の伝統建築には常に水平に部屋同士がつながり、庭へとひろがってゆく独特の心地よさがありますが、これとは対照的に、西洋では垂直に空間がつながろうとすることで自らの住まいを周囲から守り、上方へと伸びることで精神を開放するのではないかと考えています。 つまり、この包まれている感覚、守られている安心感は、少なくとも駒井家のなかでは 「階段室に尽きる」 と評してみたいのです。 出窓にソファをしつらえた明るい居間でもなく、庭につながるテラスに向けられた小奇麗な食堂でもなく、階段だと。
建築家の吉村順三は、 「快適な場所には重心が必要なのですよ」 といった意味のことをいっておられたはずですが、駒井家の重心は確かに階段室にある。 西洋館の見るべき場所は階段室にあると断言してみてもよいのではないでしょうか。
このこじんまりした住宅の階段は結構コンパクトにまとまっていて、狭いスペースを活用するために、コーナーを30度に分割した まわり階段 になっています。

駒井家住宅

この手の まわり階段 は、踏み板の奥行きが一定ではないために、少々使いにくかったり、不安定で危険だったりしかねないものですが、ヴォーリズの階段は使いやすい上に美しいのです。
階段の勾配は、日本の住宅ではあり得ないくらいゆったりとしたつくりで、現代の公共建築のレベルに匹敵しています。 しかも、踏み板の角という角には抜かりなく 丸み がつけられていて、たとえ西洋式であっても、靴を脱いでからでなければ寛ぐことすらままならない、そんな日本人の敏感な素足に限りなくやさしい。
優美な曲線を描く手すりは思いのほか頑丈で、支柱は住宅の柱と変わらないくらいに太いつくりです。 ただ、まわり階段のちょうど支点となる場所にこのがっしりとした支柱があると、自然とそこに手をかけて、くるりと回転できるのが小気味よく、そのてっぺんは、手のひらをのせるのに丁度よい出っ張りのような飾り物がついていて、ちっとも無骨ではないし、これまた図太い手すりが身体を預けてもびくともしない安心感があって、手すりとは握るだけのものではなく、身体ごと受け止めてくれる存在なのだと知りました。

駒井家で一番大きな窓は階段室にあって、ここにだけ黄色いガラスがはめ込まれています。 とっておきのアーチのついた窓は二階の天井近くにまで届く勢いで、あたたかい光が静かに降りそそぎ、光に導かれ気持ちが上に向かうと、自然と段踏む足も軽やかに、手すりにもたれて何度も何度も上がったり下りたりする僕がいる。
最初の一段目は特別 丸み が与えられて、 「どうぞおあがりください」 とでもいってくれているような気さえする。 そして、なぜだか手すりの支柱が大黒柱のようにも思えてきます。 こんな短い大黒柱など滑稽で、しかも全部で3本もあるのに…。 でも、ここに目にみえない重心があることに気付くと、やっぱりこれは大黒柱のような存在で、安心感のひみつはこんなところににあったのかな と。

階段といえばもう一つありました。
ちいさな門をくぐって飛び石伝いに、少々歩いてたどり着く玄関ポーチへの、たった3段きりのレンガとモルタルだけの階段が、あの階段室と同じくらい心をこめて、ひとつひとつ丁寧に積み上げられた最初の(肝心の)一段目は、端っこには抜かりなく 丸み がつけられていて、何だか 「ようこそ !」 とでもいってくれているように思えてくるから不思議です。
何気なく手を伸ばしたところには、本当にさりげなくちっとも目立たないのに、最高に握り心地がよいスチール製の、か細いペンキ塗りの手すりがあって、こんなちいさな手すりに対しても、どれほど大切に考えて、愛情込めて設計したであろう、ひとりの建築家がいたことを、僕はこの手のひらから学びました。

駒井家住宅
 
06月01日(日)

はんなちゃんがめをさましたら

エリック・サティ(Erick Satie) 作曲の 「ジムノペディ第1番」 を、可視化したかのような絵本があります。

はんなちゃんがめをさましたら
「はんなちゃんがめをさましたら」 酒井駒子 作 
(偕成社)

ひらがなだけの単純な文章で綴られた、どこか詩的な響きの親しみやすい語り口だからでしょうか。
どうやら 幼児向けの図書 という位置づけもあってか、そもそもが大人でも楽しめる落ち着いた色調の作品を、もっと明るい印象になるよう出版社が装丁をアレンジしてしまったらしく、作者の描く世界観とはいささかかけ離れたとも受け取られかねない、何とも悩ましい表紙デザインのように思えるのです。 表紙は、絵本の世界への入り口なのに…。
それでも、絵本を手にとってひとたびページをめくると、たちまち誰もが 酒井駒子の世界 へと引き込まれてしまうに違いありません。 なぜなら、ことばと絵だけがつくり得る 格別な楽しさ が、この絵本には籠められているのですから。

これは、 はんな という名前の女の子と、 チロ という猫との、ある一夜の出来事を、作者が深い深い記憶の奥底から丁寧に摘み取って一編の物語に紡ぎ上げたかのような、いわば 日常の中の非日常 というべき作品です。
そのストーリーが単調であればあるほど、ジムノペディのような、ある種音楽的心地よさをつくり出して、はんなちゃんとチロの何気ない所作が、彼女たちに対するあたたかな眼差しと確かな描写力でもって、余すところなく表現されています。
はんなちゃんは2歳か、せいぜい3歳くらいでしょうか。 一方、猫のチロはずっとずっと年上のようです。
きっと、はんなちゃんがこの家に生まれる以前からチロは家族の一員で、はんなちゃんを自分の娘のように思っているのではないでしょうか。 真夜中でも片時もそばを離れないで、いつも一緒にいるのは、はんなちゃんを護ってあげているからなのでは…。
そんな理由があるのだということを、ほかの誰でもない、絵がそう教えてくれているような気がするのです。
けれども、はんなちゃんはこれからどんどん成長して、じき幼稚園に行くでしょうし、ほかにお友達もいっぱいできるでしょうから、チロが母親としてそばにいてあげられる時間は限られているはず。 そんな、かけがえのないひとときを、作者はこの絵本を通して描いてみたかったのかもしれませんね。
それにしても、なぜこの瞬間をつかまえることができたのか と、不思議に感じてしまうくらいに絶妙な年齢設定です。

この先、もう二度とやってくることのない、あまりにも美しく、はかない一夜の出来事を描くために、くすんだセピア色にセルリアン・ブルーを ささっ と刷毛引きしたような、酒井駒子ならではの 「青の世界」 が表現されています。
深い深ーい夜が夜明けに向かって、次第に青から白へと変化してゆく緩やかな時の流れが、半ページの絵と見開きページの絵の繰り返し、それに独特の語り口との組み合わせによって、あたかもバロック音楽の通奏低音のような役割を果たしているように思えてきます。

2012年の末、はじめて日本版が発表された翌年に、英訳版として刊行したニュージ-ランドの出版社が、オリジナルを忠実に再現しながらも、あえて表紙のデザインだけを変更したのは、表紙はやっぱり絵本の入り口で、物語の扉の向こう側のまだ知らぬ世界を垣間見せてくれる大切な役目があることを、ちゃんと理解していたからなのかな などと想像するのです。 絵本に携わる者として、それだけは譲れなかったのかな と。
だから、いつの日か、作者が綴った美しい日本語のまま、表紙のデザインだけ逆輸入してもらえると、どんなに素晴らしい絵本が出来上がるだろうかと、こころひそかに願っているところです。

Hannah's Night
「Hannah’s Night」  酒井駒子 作 
(GECKO PRESS)