プロフィール

アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

検索フォーム

05月16日(金)

三里塚教会

かつて旅の途中、とある教会を訪ねたことがありました。 著名な建築家の設計で、少なくとも写真でみる限り、森のなかに静かにたたずむ簡素でちいさな教会堂といった印象があり、きっと、日曜日は地元の人々が三々五々、足を運んで祈りを捧げているのだろう…。 などと、何ら信仰を持たない僕も、せめて彼らの迷惑にならないよう、遠くからでもこの目に焼き付けておこうと考えたのです。
ところが、幾日もかけて遠路はるばる訪ねた先は、想像とは似ても似つかぬ 一大リゾートエリア といった有様で、もともとは美しい森だったかもしれない広大な土地はスキー場と化し、そのまにまに点々と配された豪華なホテル群のなか、わずかに残された木々を背景に別棟として附属する挙式用の教会、いわゆる 「ウェディング・チャペル」 として建てられたものでした。
ホテルの 格 に相応しい、潤沢な予算にめぐまれた建物そのものは大変美しく、もちろん建築家の才能と情熱が遺憾なく発揮され、作品としては文句なしの素晴らしい出来でしたが、結局そこには一人とて信者のいない、からっぽの箱にすぎないわけですから、どれ程美しくても 教会 という意味では不幸に違いありません。 けれども、貧しくても、目立たなくても、輝きを放つ本当の教会が、きっとどこかにあるはず。 そう思いたくはありませんか。

吉村順三 の設計による 三里塚教会 の存在を知ったのは、つい最近のことです(※ 東京のギャラリーでの企画展で取り上げられていました)
千葉県成田市にある、簡素この上ない教会堂は、数々の名建築を手がけた吉村の設計であるにもかかわらず、作品集はもとより、主要な建築作品を掲載した年譜にさえも取り上げられることなく、ひろく知られぬまま、地域の人たちに愛され慈しまれながら、60年近くにわたって大切に使われ続けていたらしいのです。
世のなかには 写真映えする作品 と そうでない作品 があって、吉村順三の生み出す作品は建築にしろ家具にしろ、おしなべて後者のタイプに該当します。
そもそも吉村本人が、建物に接する人たちの幸せとはちっとも関係のない、写真うつりのよい(つまり、マスコミ受けする)仕事に対する気持ちを何ら所有していなかったため、彼が意図するところをしっくりと理解するには、実際その空間に身を置くのが一番手っ取り早いのです。 ただし、吉村が愛情をそそいだ対象はもっぱら住宅であったりするものですから、それを実行すること自体そうそう容易ではありません。
もちろん、ある程度ひらかれた教会という用途であっても、暮らしに身近な住宅作品に違わず、同じような考え方でつくられていますし、まして、信者や地域の人たちにとって 家族が集う家 のような存在になっているのであれば、当然、そこに土足で踏み込むわけにはゆきませんから。

しかし、幸いにも、僕の住む京都にも三里塚教会に焦点をあてた展覧会が巡回することになり、現実の空間は叶わないけれど、こころのこもった展示会場に身を置く機会が与えられました。
ほの暗い会場には、僕たちのような(吉村の建築を体感したいと願う)人間のために、実物大に近いサイズに引き伸ばされた教会の写真と、実際に教会で使われている長椅子を組み合わせて、未知の礼拝空間が再現され、さらに建物の内外のプロポーションを解説する模型と、吉村の事務所が作成した設計図面までが展示されておりました。
それらを鑑賞するだけでも実に有り難いのですが、さらにしっくりと理解するために手間隙惜しみたくない僕は、(いつものように)吉村が思いのたけを描いた設計図面をスケッチブックに写し取って、割合い正確なイメージ図を作成することにしました。 そうすることで、つくり手の気持ちを幾らかでも共有できると信じているからです。

三里塚教会

図面に記された日付によると、1954年(昭和29年)の8月中旬に建物の設計を終え、工事が完了したのが同年の11月25日とのこと。 また、吉村自身のデザインによる、礼拝堂の長椅子の詳細図面が11月はじめ頃に仕上がっているようですから、教会が建ち上がってゆく姿を見守りながら、その空間にふさわしい家具のアイデアを練ったのでしょう。 だから、教会の建物と長椅子との関係にいささかの落ち度もないばかりか、涙ぐむほどに美しい。
ちょうど、こじんまりとした住宅くらいの規模ですから、教会としては本当にささやかなものです。
信者たちの献金によって成り立っている、農村のちいさな教会に資金的余裕などあるはずがありません。 吉村の設計は、このあたりで普通に使われているであろう、ありふれた材料だけを使って、どこにも無駄のないぎりぎりの寸法設定と、合理的な構造でもって、この国の気候風土と、この土地の人たちの暮らしにぴったり寄り添った、肩肘張らない教会をつくり出してみせたのです。 それは、お世辞にも荘厳とはいえないけれど、間違いなく 「神聖な場所」 だと、胸張っていえそうです。

少なくとも(会場に置かれた実物の)長椅子に腰掛けて、おしりや手のひらで感じる限り、材料そのものは上等とはいい難い、むしろ粗末といえそうなものです。 かといって、巷で活躍するスター・デザイナーのように、デザイン性を声高に主張したものでもありません。
それでもなお 美しい と感じるのは、たとえ限られた予算であっても、本当に必要なものを、きちんとつくらなければならないのだという、 建築家・吉村順三 としてのゆるぎない信念があったからだと想像するのです。 彼は酔狂でデザインをするような人ではないので、どうしてもそれだけは譲れなかったのだと。
もともと吉村がデザインした長椅子は、すべて厚みが22~30mmくらいの、かなり薄い板材のみで構成されていました。 3人、もしくは4人が並んで腰掛ける長椅子ともなれば、その荷重がかかる脚部(特に後ろ側の脚)は相当頑丈にしておかなければ、長く使い続けることはできません。
そのためには、その強度にみあったサイズの脚で、座板を支える貫同士をがっちりとつないであげる必要があります。 それを 「安価に流通している板材だけでつくろう」 と、真剣に考えて考えてデザインされているように思えてなりません。

三里塚教会の長椅子

結局、脚部だけはしっかりした角材に変更されて、あとはほぼ吉村のデザイン通りの長椅子が実現し、それから約60年の歳月が流れました。
今も昔も、長椅子は取り立てて手触りがよいわけではありません。 木目の表情が、とりわけ魅力的というわけでもありません。 それでも冒し難い気品をまとっているのは、最小限の部材で最大の効果を得るのだという設計思想が貫かれているからではないでしょうか。
どうやらその気持ちは、建物にも家具にも分け隔てなく、時にはやさしく、時には厳しく、惜しみない愛情がそそがれているようです。 だから、長椅子の目立たない場所にあとから取り付けられた、補強のための金具ですら、しみじみ美しいと思えるのです。 涙ぐむくらいに。
 
05月01日(木)

母と子の森

京都御苑の端っこの目立たない一角に、僕が 「アレイ」 と(勝手に)呼んでいる場所があります。 アレイ(alley)は、英語で裏道や横丁といったところを指しますが、 樹間の小道 といった意味でも用いられるのです。
東西約0.7km、南北約1.3kmにおよぶ広大な京都御苑をよっぽど熟知していれば別ですが、もし、そうでなかったとしたら、アレイへの入り口をみつけることなどきわめて困難、至難の業に違いありません。 何しろ、公衆トイレ脇の誰も気づかない、何でもないような小道なのですから。

葵祭や時代祭の舞台でもお馴染みの京都御苑は、御所を中心に幅の広い砂利道で整然と区画されるなか、これまた広大な緑地には、綺麗に刈り込まれた芝に、松や桜などが美しい樹形をそのままにすくすくと育ち、のびのびと気持ちよさそうに枝葉をひろげる。 それでもいたずらに視界を遮ることはなく、どこまでも水平に伸びてゆくような独特の爽快感があって、どこでも腰下ろせばたちまちピクニックがしたくなってしまう。 そんな、すみずみまで手入れの行き届いた、あかるくおおらかな公園の情景を、多くの方々がイメージされているかもしれません。
しかし、西側の清和院御門に程近い、公衆トイレ脇の小道(アレイ)に一歩足を踏み入れると、周囲はナラやシイ、エノキといった、どちらかというと地味で目立たない樹々が鬱蒼と生い茂り、地面にはわずかな陽がかろうじて射すか射さぬかといった具合なものですから、昼でもなおほの暗く、その場にふさわしい地味な草花があちらこちら、ひっそりと咲いている。
思うに 「芝生の上でピクニック」 などというのは、人のためにつくり出されたある種 人工的な自然の姿 であって、アレイはそれとは正反対の、お化粧っ気もなく、人目を気にし飾り立てておしゃれなどこれっぽっちもする必要のない、 (人の手の入らない)手付かずの自然の姿 をとどめている場所といえるでしょう。

ここだけの話ですが、アレイは、ちょっとした森のような場所につながっています。
「母と子の森」 という呼び名がいかにもふさわしい、どこか秘密めいた とっておきの場所 は、気兼ねなく、思い思いに育ったに違いない樹々たちが、ちっともきちんとしていない、てんでに居並ぶなか、 世界一ちいさな図書館 と呼んでみても差し支えないかと思われる、そのくらいささやかな 「森の文庫」 が、四方に本棚ひろげて、 来る人拒まず といった風情で、ぽつんとひとりたたずんでいます。
周囲には、この森のルールにあわせるように、思い思いにベンチやテーブルが、やはり 来る人拒まず といった顔して、ぽつぽつぽつと並んでいて、 そのなかには、この森で倒れ一度は命を全うした樹々が、心あるひとたちの手によって丸太のベンチに生まれ変わり、土に還るしばしの間静かに横たわっている。
そんなベンチに腰下ろす僕は決まって、そっと目を閉じ、耳を澄ますのです。 すると、遥か高く、何十メートルも頭上の梢から届くさわさわさわという風の音、鳥の声。 いくら大きく目をみ開いても、鬱蒼とした森に視界は否応にも遮られてしまうけれど、それでもこころの目でみると、視界は水平方向ではなく、どんどん上へ上へと昇ってゆくように感じられます。
森の樹々たちは、陽射しを求めて上へ上へと伸びようとするので、枝や葉は人間よりも遥か頭上にあるのが森本来の姿です。 だから、目だけではみえない遠い場所に、樹と小鳥たちの暮らしを耳で感じる。 そうすると、普段見慣れたはずの空までが、こんなにも高く、豊かな空間であることを、今更ながら教わった気がするのです。
ところが森の外では、そんなこと知る由もない人たちが、高層の建造物をつくろう、つくろう、と世界中で躍起になっているけれど、たぶんそれは、本当の意味で 豊か とはいえないのではないかな。 と、この森に来るたびに考えてしまいます。

母と子の森

母と子の森では、普通の庭園では間違いなく主役クラスの、堂々たる、見事な枝張りをみせるカエデの大木が、もうまるっきり子ども扱いされてしまうくらい、遥かに長い年月を生き続けてきた巨樹たちが人知れず根を下ろして、まるで、そこで暮らしを営むすべての生き物たちを、優しいまなざしで、静かに見守ってくれているかのようです。
僕は 「母と子」 という意味を、人間の 母子 というよりも、あえておかあさんのような眼差しの巨樹たちと、人間も含めたちいさな生命たちとの関係なのかな。 などと解釈してみたりします。
だから、もし誰かが、ちまちまとした人間関係に悩み、苦しんでいるとしたら、僕は、この ひみつの場所 に足を運んでみることをすすめてみたい気がするのです。

京都御苑は、ちょっと見渡したところ、平坦な土地に樹々が育っている といった印象があります。 実際ここは市街地の中心部。 平安建都時からの度重なる火災によって、御所は当初の位置から移動してはおりますが、1200年あまり前から都として栄え、御所の周辺は、つい百数十年前まで、宮家や200ほどの公家屋敷が軒を連ねていたわけです。
だからでしょうか。 一見すると平坦なようであっても、よくみると、ところどころ地面がこんもりと盛り上がって、そんなところには決まって、イチョウやケヤキ、ムクノキなどの母なる大樹がどっしりと根を張っていることに気づきます。
たぶんそれは、1869年(明治2年)の東京遷都によって、明治天皇とともに公家たちが長年住み慣れたこの地を離れ、やがて主を失ったお屋敷は、取り壊されて美しい公園となりましたが、その際、屋敷内に残された庭園の築山や樹木を壊すには忍びないと、支障のない限り残された名残なのではないだろうか。 そうに違いないと想像しています。
つまり、母と子の森の巨樹たちの幾つかは、今となっては夢のような、どこかおっとりとした、いにしえの、みやびな都人(みやこびと)たちの暮らしを見知っているのではないだろうかと…。