プロフィール

アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

検索フォーム

12月16日(月)

聖アグネス教会

京都御所のすぐ近くに、古びたレンガ積みの教会があります。
通りが交差するコーナーには四角い鐘楼があって、それが教会の目印のようになっていますが、聖堂そのものは目立たないようひっそりとたたずんでいる、ずいぶんと控えめな印象があります。 ことに、ごつごつとしたレンガ積みの外壁などはその分厚さも手伝って、時間の経過とともに、地面から生えているような風格を身に着けてゆくようにも思われます。
聖アグネス教会は、1898年(明治31年)にアメリカ人の建築家 J.M.ガーディナー(James McDonald Gardiner) の設計によって建てられました。 ガーディナーという方、写真で拝見するとなんだかとっても怖そうなのです。 そういえば、建物の外壁もごつごつしているし…。 でも、建物も人も、外見だけで判断してはいけないのです。

案の定、こじんまりとしたちいさな入り口から、一たび聖堂のなかに足を踏み入れると、頑丈なレンガ積みの外壁とは裏腹に、華奢でしっとりとした空気をまとった、どこか懐かしい、しんみりとした気分になってしまいます。 かつて訪れた教会はどれも、ぴんと張り詰めた空気をまとった、否応なしに荘厳な気持ちにさせられてしまう非日常の空間であったのに、ここは不思議と我が家に帰ってきたかのような、おだやかな、こころやすらぐ におい がする。

聖アグネス教会

でんでん虫みたいな手づくりの長いすに腰下ろして、しみじみ眺める聖堂は、外周こそ分厚いレンガ壁に護られていますが、そのなかは、ほっそりとした木製の柱や梁材が併用され、おまけに壁はしっくいで隅々まできちんと塗り込められて、僕たちが普段から慣れ親しんだ呼吸するモノたちで、そこらじゅうあふれているのでした。
それでもよくみると、屋根を支える梁組みは合理的な西洋式のトラス梁ですし、そこかしこに先のとがったアーチ型の窓を取り込んではいるものの、どうみてもそれらをつくっているのは、僕らのすぐそばでとんかん鎚をふるっていそうな、気取りのない町家大工さんのように思えて仕方がないのです。 材料もそんなに上等ではない、ありふれたものを上手に使っているとこなど、そのあたりの町家とちっとも変りません。 にもかかわらず、どこかしら洗練された、そこはかとない気品を漂わせているために、たとえそれが教会のような神聖な空間であったとしても 場違いな感じ がしないのかもしれません。

それなりに時間を経てきた建物は、実際床板もキズだらけで、最初は真っ白だったかもしれないしっくい壁も、今では幾分黒ずんで、ところどころヒビ割れたりしていますが、いつの時代でも変わることなく、愛情持って使われ続けていたであろうことは、その場に身をおいてみればすぐに分かってしまうものです。 そんな心地よい空間に響くパイプオルガンの音色は、どうも、やっぱり荘厳ではなくて、ちょうど河原の石のように、水の流れにあちらこちらでもまれながら、次第に角がとれて、やわらかに、まろやかに僕の耳に届く。
だから、この建物を設計したガーディナーも、見た目はちょっとおっかなそうでも、内面はおだやかでやさしい人だったのかな。 などと、想像してみるのでした。

聖アグネス教会
 
12月01日(日)

ドナルド・ジャッドの無題

たったひとつの作品に会うため、それだけのために、はるばる足を運ばずにはいられない場所があります。

滋賀県立近代美術館 までの道のりは遠い。 その遠さといったら、あたりに霧が立ちこめるなか、池泉式庭園と化した広大な敷地内に入り、池の反対側までぐるり遠回りするように園路をさまよい歩き、樹々のまにまに建物がみえはじめる頃にはすっかり晴れ渡っていたと表現してもおかしくないくらいです。 しかも、エントランスに入ってなお、各展示室をつなぐガラス張りの回廊を延々とめぐらなければ辿り着くことは叶わない。
ただ、僕の目指す場所は大多数の来館者が訪れる企画展示室でも、常設展示室でもなく、100人のうちせいぜい数人程度しか気にとめず、せっかく作品に対面してもそそくさと立ち去ってしまう、展示室と展示室の間にぽっかりと開かれた、たった三点の作品のために用意された芝生敷きの屋外展示場は、まるで忘れ去られたかのように、いつも静謐さに包まれています。

野外展示場

ドナルド・ジャッド(Donald Judd) の作品に出会ったのは、その屋外展示場でのことでした。 けれども本当は、企画展観たさに訪れた帰りにちょっと回廊から外に出てみただけだったのです。
芝生のなかに続く一本のか細い石畳を辿ってゆくと、刈り込まれたツツジの向こうにひっそりと、上から下まで全身錆だらけの四角い箱がぽつんと据えてありました。 足元のプレートには 「無題」 と題された作品の作者が ドナルド・ジャッド と記されていたので、それと分かった程度で、美術に関しては何の専門教育も受けていない僕が彼について知っていたのは、デザイナーの 倉俣史郎 がジャッドの作品を 「目を瞑るとキラキラと光る仕事だ」 と、評したことくらいでした。 こんなにさびさびなのに。
ただ不思議なことに、大抵の芸術家は作品に対して強いメッセージのようなものを、それこそ全身全霊込めて表現する傾向があって、場合によっては向き合うこちらがへとへとになってしまうことも少なくないのに、そのようなインパクトが気持ちよいくらいに微塵も感じられない。 こんな自己主張のない空気のような作品もあるのだな と、その場を立ち去りました。
ところがその出来事が、幾日経っても頭のなかから消え去ることがないばかりか、もっともっと深いところにまで入り込んでくる。 気がつくと一週間後、ジャッドの作品に会うためだけに、回廊のガラス戸の向こうに続く石畳を歩いていた というわけなのです。

作品 「無題」 が制作されたのが1984年のこと。 滋賀県立近代美術館が開館したのも同じ年です。 作品が設置されたのが3年後の1987年ですから、ジャッドは美術館からの依頼を受け、緑豊かな野外展示場への設置を前提に仕事が進められたものとみて、まず間違いないかと思われます。
ジャッドは、自身の作品がかりそめではなく永久に、しかも本来あるべきところに設置されることを望んでいたようですので、建物だけでなく、まわりの植物との関係までを把握した上で、どの位置に、どのような大きさの作品がふさわしいかを慎重に吟味したはずです。 ここが美術館であり続けるために、この作品がどうしても必要なのだ という気持ちを内に秘めて。
それほどまでに想いの込められた仕事が、誰にも気づかれないような場所に、ひっそりと、限りなく静かに展示されているなんてもったいない。 という意見もあるかもしれませんが、このような秘密めいた展示方法こそ、美術館において最も理想的な作品と人との関係を表しているともいえます。 美術館の理想の姿、それは 「作品とふたりっきりになれる環境」 なのですから。

ドナルド・ジャッドの無題

何ら声高に主張することのない、単純な、コールテン鋼特有の美しい錆纏う控えめな表情の四角い作品は、幅360cm、奥行き180cm、高さ180cmという、ちょうど3畳敷きくらいの草庵茶室を、アメリカ人の解釈でモダンに進化させたとも受け取れるこじんまりとした物腰でもって、数多ある造形作品のように自己のために存在しているのではなく、ほかの誰かのため、たとえば周囲の草木や昆虫たちを引き立てる 脇役 としての道を選んだのではないかと思わせるくらいに、もはや風景の一部になってしまっているのです。
だから、作品の前に立っていても 作品そのもの はまったく気にならなくなり、次第に鳥の囀り、虫の音、遠くで木の葉が かさっ と落ちる音までが聞こえてきて、五感はいよいよ研ぎ澄まされ、広大な敷地にも収まりきれないくらいに、ぐうーっと視界が、いや、こころがひろくなる。 いつまでも立ち去りたくないこの気持ちは何物にもかえ難く、ふと我に返ると作品の落とす影だけが動いていて、そうか、単純だから影さえも美しいのだと悟るのです。
つくり手の個人的なメッセージなど、きれいさっぱり捨て去ってしまった作品なのですから、 芸術とは何か なんて変に難しく考える必要などなく、感じるだけで十分。 ただ素直な気持ちのままでいれば、ここがすべての美の中心で、柄にもなく自分は詩人ではないかと錯覚してしまうくらいに世の中が美しいと感じ、ふいに倉俣史郎の言葉を思い出して、彼の評価が正しかったことに気づくのでした。