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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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09月16日(月)

あわせ鏡

この幾分古びた あわせ鏡 を手に入れたのは、かれこれ20年以上も前の話。
当時、まったく時流にそぐわない鏡を、あちらこちらと探し回り、寺町のお土産屋さんのようなところでようやくみつけたのでした。

あわせ鏡

腕の立つ職人さんが丹精込めてつくった逸品 とは程遠い、粗末なモノですが、 普段はお互い内側に姿を潜めた鏡同士を2枚合わせて斜に立てかけた姿が、僕にはとても斬新で、それでいてたたずまいは控えめ。 「使う時だけ鏡の面を表に現す」 という扱いや接しかたに、古代から 神聖なモノ とされてきた美しいシキタリを、そこに認めることができるのです。
それは、モノを大切にする 日本人の精神性 を表現しているように僕には思われました。

ある時は部屋の隅に、またある時は違い棚へ と、普段かしこまっている鏡は、必要な時だけ畳の中央に持ち出されますが、これとて目障りにはならない。 むしろ、使う人を 凛とした姿 に引き立ててくれるから不思議です。

このようなことをお話しすると笑われそうですが、鏡に向かう時はいつも正座しています。
「うちの子は姿勢が悪くって」 などとお嘆きの方、 あわせ鏡 を使うと背筋が伸びるかもしれませんね。

僕が京都で あわせ鏡 を探していた頃、イタリアではある著名なデザイナーが照明器具のデザインをしておりました。
彼は、 部屋中にモノが増え続ける という現象を何とか押し留めたいと考え、日本人の かつてのライフスタイル に学ぶことを思いつきます。 日本の家具や調度品は大小の箱のような存在で、箱のような部屋の中に姿を消し、その部屋の集合体が建築になっている と解釈し、 建物の一部と成り得るような照明器具のデザインを試みた と聞いています。

いわゆるバブル経済の時代に、このような姿勢で仕事に臨んでいたイタリア人デザイナーの考え方が、今の時代であれば、誰もが 極めて正しかった と判断できるのではないでしょうか。
過去の古臭いものとして打ち捨てられてきたモノたちのなかから、 大切な何か を発見すること。 それを居ずまいを正して鏡に向かう姿 に、僕は重ねたいと思います。

あわせ鏡
 
09月01日(日)

西行庵

西行庵の存在を知ったのは、とある建築雑誌のなかに掲載されていた一枚のちいさな写真からでした。
そこには、ほの暗い土間と天井のはざ間で、土壁を背景に、床机や茶卓といった家具たちがぽつぽつと浮かんだ、摩訶不思議な光景だったのです。 なんでも明治に入って考案された、伝統の座敷によらない椅子とテーブルによる茶席のしつらえで 「立礼(りゅうれい)」 と呼ばれていること。 正確な場所は分かりませんが、どうやら 京都にあるらしい ということを記憶の奥底にとどめました。
時は流れ、幸運にも西行庵を訪ねる機会に恵まれました。 庵は、祇園の八坂神社からやや奥まった、東山の麓、円山公園や高台寺のある観光地のただ中に、目立たずひっそりとたたずんでおりました。

庵(いおり)とは、都を離れ、草深いなかにつくる極小のすまいを意味し、なかでも深いこころの安らぎを得るために、草を結んだかのような鄙びた風情の庵を 草庵 と呼ぶそうです。
この世の無常を感じ、出家をし、諸国を行脚しながら自然の風光を愛し、多くの和歌を詠んだ歌人・西行法師は、草庵独居の思想を知らしめた先駆者といわれています(※後に、兼好法師、鴨長明といった人たちが、これに続くわけです)。 平安時代末期のことですから、今から八百数十年あまりも昔のお話です。 その西行が終の住処と定め、庵を結んだ場所が、当時、眞葛ヶ原と呼ばれた東山の麓であったとのこと。
以後、眞葛ヶ原の一角には、ささやかながらもお堂が建立され、西行法師終焉の地として代々庵主に守られてきましたが、明治維新後の廃仏毀釈によって荒廃を余儀なくされ、このままではいけないと、文人・富岡鉄斎らの呼びかけによって明治26年(1893年)に再興せられ、現在に至るのでした。

当代きっての文人たちは、お堂の再建だけでなく、堂守のすまいとして機能し、かつての西行法師の草庵を髣髴とさせるに相応しいものをと、母屋に大徳寺塔頭真珠庵より 「浄妙庵」 を、奥の離れには桃山時代の名席 「皆如庵」 を移築したそうで、僕のこころをつかんで離さない 立礼の土間席 は、母屋の一室として移築の際につくられたものと思われます。

西行庵

母屋はちょうど、ちいさなとんがり帽子をちょこんと被ったような感じで、茅葺の屋根がのせてあります。 これが昔の農家と比べると随分とちいさく、いかにも庵といった物腰なのです。 ただそこに、これもちょうど帽子のつばのような感じで、ゆるやかな瓦葺の軒がすっと水平に伸びて、坂道に面した姿は、ちょっぴり町家の洗練された味付けが成されていて、さり気ないなかにも、鉄斎ら文人たちのセンスがきらり輝ていることを見逃すかたは、まずもっていないでしょう。
ちいさく華奢なわりに、しゃんと腰の据わった建ち姿の実現には、坂道に面しているがゆえ、ことさら移築において頭悩ませたに違いありません。 おそらく、茅葺屋根はもとのまま、瓦葺の軒は移築にあわせて工夫されたものではないかと想像されます。 第一、軒の高さからして、尋常ならざるくらいに低いのですから。

もともと、茅葺屋根自体が頭のすぐ上にあるくらいのバランスでつくられるのが常ですから、その下に水平に軒を走らせると、大人であれば軒先に頭をぶつけてしまうような有様です。 しかし、そのくらいが坂道の途中にたたずむ草庵の姿として好ましいことは誰の目にも明らかで、それも雅なことと割り切ってしまえば、ただ頭をぶつけないよう腰をかがめて入ればよいだけの話。
そこで、せっかくの庵なのだから、堂守のすまいとしてだけでなく、一角を各地からお堂を拝観に訪れる方々に、お茶を一服差し上げる場にしようではないかと、ささやかな夢を抱いたとしても、ちっともおかしくないはずです。
それでも、旅装束で気軽に入っていただくには、従来のお茶室では少々敷居が高い。 きちんとした茶席は、奥の離れの皆如庵があるのだから、いっそ違った趣向で…。 となったところで、近年の博覧会でお目見えした 立礼の茶席 に着目し、草庵にふさわしいしつらえに工夫してみよう と、そんな風に考えたのではないでしょうか。 なにしろ時代は明治、京都にとってのルネッサンス(Renaissance:文化の復興)なのですから。

立礼の土間席は、北側の坂道と敷地との関係から、おのずと東北角にあてられています。
気兼ねなくお茶をふるまいたいけれど、通りの喧騒からいきなり客人を招き入れるなどもってのほか。 ということで、露地庭というほど大層ではありませんが、飛び石にコバ立ての古い平瓦などをあしらってその場の空気に変化を与え、アプローチはくるりと迂回させてしまう。 さらに、低い軒を幾分かがみつつ、決して高くはない敷居をまたぐことで、いにしえの文人たちが夢見た、近代的解釈による 草庵茶室 へと辿り着くのです。

西行庵

畳が敷かれていない土間空間は、それでも、身体に染み付いた懐かしい感覚から、紛れもなく四畳半であることが分かります。
明治のはじめ頃、裏千家十一代家元によって編み出された 立礼 は、そもそも、京都での博覧会を訪れる正座に不慣れな海外からの賓客に、気兼ねなく茶の世界に触れてもらおう という趣旨だったはずです。 だから、比較的広々とした明るい空間に椅子やテーブルが並べられ、お点前が供されていたのではないでしょうか。
ところがここ西行庵では、誰もが親密で居心地よいと感じる四畳半。 しかも、立ったままでは頭のすぐ上が天井なものですから、誰に言われるでもなく素直に床机や壁際の腰掛に腰下ろすことになり、不思議とこころ安らぐのです。 なぜかというと、茶室以外の何者でもない確かな寸法取りができているから。 加えて忘れてはならないのは、21世紀の今日でも照明器具がひとつもないことです。 これは、とても有難く、大切なことだと思います。

このような 壺中の領域 で欲しいものは、もちろん、外部から届く自然の明かりです。 といっても、旧来の草庵茶室のような明かり採りのための特別な窓は用意されていないので、頼りになるのは、出入り口から漏れ入ってくる外光のみ。
ご周知のとおり、軒は頭がぶつかるくらいに低いものですから、いくら日中といえども、直射日光は遮られ、一旦地面に埋め込まれた瓦や切石や、軒下のたたきによって拡散された明かりが辛うじて照らすのは、出入り口近くの黒い敷瓦。 黒い床に、こんなにも豊かな表情があったのかと驚きながら、ただただその美しさを呆然と眺めることしかできないのです。
黒い床がほの明るいと感じるほどの世界では、もはや大半が闇に包まれています。 それでも人の目はそれなりに順応してゆくもので、次に土壁がほんのりとあかるいなと感じます。 ここにも豊かな表情を垣間見ることができます。 そして、なんといっても一番暗いのが天井です。 さすがに弱々しく照らす床の光も、ここまでは届かないようなのです。 こんなにちいさな世界なのに。

西行庵の片隅に、しばしの間身を置いてみると、形式にとらわれないからこそ、かえって想像力がひろがるのだと気づかされます。 使うひとの創意や工夫次第でいかようにも成り得るのは、やはり、その源に西行法師が眞葛ヶ原に結んだ草庵の姿があるからなのかもしれません。 千利休によって茶の湯が完成される遥か以前の、粗末ともいえる庵のなかに。