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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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05月16日(木)

八乙女

以前、 「神祗装束調度工芸品展」 なる作品展を拝見したことがあります。
何でも、平安京がおかれていた京都には、宮廷で執りおこなわれる行事に必要な道具や衣装をつくる専門の工芸が存在していたらしく、現在もなお、神社での祭礼のために、木工、金工、漆工、染織などの伝統工芸の職人さんたちによって、匠の技が継承されているのだそうです。

その会場で僕は、金銅を叩いてつくった ティアラ(※Tiara:女性が正装の際、頭頂部につける装飾品で冠の一種) によく似た、冠状の装身具が展示されていることに気づき、てっきり、西洋の国々のお姫様が身につける装飾品だとばかり思っていた冠が、日本の伝統工芸の世界にも連綿と受け継がれていることを知り、随分と面食らったのでした。
いくつになっても、勉強というものは 「これではいけない!」 とか 「何と無知な!」 と、自覚した時にこそ始めなければいけませんから、まずは 天冠(てんかん) と呼ばれる冠を頂いた、白い絹の衣をまとった2体のモデル(人形です)をスケッチし、この目にしっかりと焼き付けました。 解説版には 「八乙女装束(やおとめのしょうぞく)」 と記載されているだけで、初詣さえ何だか気恥ずかしくて行けない僕にとっては、一体、八乙女がどのような人たちなのかさえも、さっぱり分からないという情けないあり様で、最初はまったくといってよいくらい手探りの状態でした。

ところが、展示会場にいた係りの方もボランティアらしく、実はちっともご存知ではなく、あちこちと問い合わせてもらった末、展示パネルに写っている場所が、どうも 今宮神社らしい ということだけが手がかりとして残りました。 今宮神社といえば、僕の住んでいる地域の氏神様の、すぐお隣の氏神様ですから、世のなか広いようで狭いものです。
いろいろ調べてみると、今宮神社では、5月のはじめから中ごろにかけて 「今宮祭」 という神事がおこなわれていて、巷では 「西陣の祭」 として知られる、由緒ある祭事なのだそうです。 西陣といえば、装束には欠かせない織物の生産地であることはむろん、祭礼に用いられる飾り物のほとんども、錦綾や金襴は 西陣が本場 というくらいですから、この地の祭りを彩る調度品や装束が立派でないはずはありません。
その伝統ある今宮祭で、どうやら 八乙女の舞い が奉納されているようなのです。 近くにいながら、随分と遠回りしてしまいました。 まるで、僕の人生そっくりです。

八乙女

今宮祭は、5月5日の 神幸祭(※しんこうさい:本社から御旅所へ巡幸) にはじまり、途中、 湯立祭(※ゆたてさい:御旅所にて斎行) をはさんで、5月15日に近い日曜日の 還幸祭(※かんこうさい:御旅所から本社へ巡幸) までの約10日間続き、八乙女は、行きと帰り、それぞれの巡幸に先だって舞いを奉納する役目を司るのです。

神幸祭では、重厚で荘厳な本殿前の白砂上を舞台に、8人のちいさな八乙女が、からりとした5月の空の下、雅楽の調べにのせて、ふわりふわりと舞いを披露します。
本殿奥の常緑樹の濃い緑の葉が、風にさわさわそよぐ音さえ興を添え、ひとかけらの闇さえ寄り付かない、この限りなく清浄な舞台に舞う、緋色の袴姿に純白の千早をはおった八乙女の、漆黒の長い髪はきりっと後ろで結わえられ、金色の絵元結(えもとゆい)が蝶のようにひらり輝く。 天冠は、作品展でみたような、技巧を凝らしたそれとは違い、可憐な菊の造花をあしらった控えめな飾りで、かえってそれが、素顔ではない、明らかに顔師の手による白い顔と黒髪によく似合っている。
それなのに、僕は伝統芸能に疎いためか、あるいは初詣すら疎かにするふつつかな性分のためか、それとも隣の氏子だからなのか、どうも こころのなかのスケッチブック に、しっくりと焼きついてくれないのでした。 こんなに晴れ渡った空の下、どこか霧のなかにいるように、ぼんやりとしたこの気持ちは一体何なのでしょうか。

還幸祭は、本社から歩いて10数分くらいの 御旅所 が舞台です。
この場所が輝くのは、一年のうちわずか10日あまり。 そのためか、広い敷地にはかつて、本社と同じように白砂が敷かれ、カエデや松などが木陰をつくっていたに違いないはずなのに、今では駐車場にでもなっているのか、がらんとしたなか、ぽつんぽつんと古びた建物がかろうじて並んでいる。
そのひとつには、八角形平面の、驚くほど重厚できらびやかな神輿が3台も並んで、 「これが西陣の祭か!」 と圧倒されるその隣に、こちらも随分と古びた能舞台に、ちいさな菊の花よっつ。 4人の八乙女がかさかさに乾いた床板の上に緋毛氈敷いて、お雛様のようにちょこんと並んで行儀よく座っていて、少なくとも僕の目には、神輿が絢爛であればあるほど、このちいさな花たちは、ますますその可憐さを際立たせているようにみえるのです。

狩衣に烏帽子姿の奏者たちが脇座から、神幸祭と同じように雅楽を奏で、神幸祭と同じように八乙女が舞いを奉納しているのに、昼でもなお、ほんのり薄暗い、人工照明ひとつない、100年前、200年前と少しも変わらない古風な舞台は、表面はかさかさのぼそぼそで、今にも息絶えそうにもみえるかもしれませんが、分厚い床板も、図太い柱も、中身は決して死んではいない。
一年のうち、ほんの10日でも神輿が上がり、たった数分舞うために、 「まだまだ朽ち果てるわけにはいかないのですよ」 という建物の声が聞こえてくるような気がする。 背後の鏡板に描かれた老松は、さすがに消えかかってはいるけれど、 「まだまだ消えるわけにはいきませんよ」 といっているような気もする ハレの舞台 で、八乙女の幾枚も重ねた小袖の淡い色調も、ふわり羽織った純白の千早も、緋袴から覗く白足袋も、手に持つサカキも、それから黒髪に映える金色の絵元結も、顔師の手による白い顔も、ほの暗いなか、ヒノキの床の上、老松の壁を背にしてはじめて輝いてみえるのです。 ここでは、匠の技巧を凝らした天冠よりも、やはり控えめな菊の花で飾るのがふさわしい。
かさかさの古びた舞台の上に舞う八乙女の姿は、僕の こころのなかのスケッチブック に、しっかりと焼きついていました。 霧ひとつかかることなく、はっきりと…。
 
05月01日(水)

宝ヶ池

なだらかに広がる京の土地も、そろそろ尽きようかと思われる松ヶ崎あたりから北側の、どんぐりの背くらべのように、ぽこぽこと愛らしい山々が仲むつまじく居並ぶその隙間を、危うくも縫うようにしてつたう坂道は、かつての難所 狐坂(きつねざか) で、その向こう側のちょっとした谷間にその昔、田畑に水を供給するためにつくられた農業用の溜池が、後に 「宝ヶ池」 と呼ばれるようになったそうで、おとぎ話のような美しい名に恥じぬ、何とも幽邃なところです。

池の周囲は山裾の地形をそのままに、ぐるりと遊歩道がめぐらされていることもあって、若きアスリートたちから杖をついたお年寄り、家族連れまで、それぞれがそれぞれの目的で思い思いに周遊する姿は、宝ヶ池の風景に違和感なく溶け込んでいるのです。
ここではほんの数百メートルの間に、アヒルやアオサギ、時には鹿などにも出会えるのですから、いつもは早足の僕も、知らず知らず歩みもゆっくりになっていたりして、ひどく暢気な自分に今更ながら驚いてしまいます。

池のちょうど真東あたりには、遊歩道から池側にひょいと突き出すようにして、コンクリート製の基礎の上に随分と古めかしい東屋(あずまや)が建てられていて、一体いつ頃からなのか定かではありませんが、実際それはかなり昔のものらしく、節だらけの、しかも太さもカタチもてんでバラバラの粗末な丸太を、そこは大工さんが手間隙惜しまず丁寧に、たぶん材料の刻みから何から現場でとんかんと手づくりされたものに違いなく、部分的に塗りこめられた土壁や、へぎ板を網代に編んだ天井も、長年の風雨にさらされた、いかにも東屋に相応しい姿をしているその場所からの眺めが、額縁に切り取られた絵画のように、実に完璧にレイアウトされていることに感心し、いにしえの匠たちの確かな仕事ぶりと審美眼ゆえに、いつまでも廃れることなくここに建ち続けているのだなと気付くのです。

まるで恋人の表情をどの角度からどのように眺めるべきかを心得た人のように、ちいさな東屋から眺める宝ヶ池の風景は、新緑の季節のわずか数日間に山々の、数え切れないくらい雑多な広葉樹のつくりだす表情が最も美しいことを、この土地の人たちはちゃんと知っています。 ただ、自然は生きているので、前年の暑さ寒さ、あるいは雨の多い少ないなどによって、毎年みせる表情は 寸分たがわず同じ というわけではないのもまた事実です。 そして、時刻や、気まぐれなそよ風や、光線の微妙な強弱によって、思いがけず水面が映し出す 鏡のような表情 も決して長くは続かないのです。
かつて、おとぎ話で聞いた、シンデレラの乗った カボチャの馬車 がそうであったように、これも一種 「魔法の産物」 なのかもしれません。

宝ヶ池