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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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02月15日(金)

トロメオ

もしあなたが、芸術家と呼ばれる人たちが、目にはみえない信じている 何か を生み出そうとする姿を、理屈抜きに感じてみたいのでしたら、僕は一曲のミュージック・ビデオをみることをお薦めしたく思います。

宇多田ヒカルが、2008年に発表した21枚目のシングル 「Prisonar Of Love」 のビデオクリップは、この曲が生まれてから完成にいたるまでの経緯を、 プライベート・スタジオ という一室空間のなかで再現した映像作品として、ブレのない、確かな視点でまとめられています。
音楽に限らず、絵画にしろ、造形にしろ、こころの奥底にある 何か を創造し表現しようとする行為は、どこか深い深い森のなかをさまよっているようなところがあります。 それは、傍からみると面白おかしいことではないかもしれないけれど、歩む先には微かであっても、もやもやっとした光のようなものがちゃんとみえていて、そこを目指して旅しているようなものなのです。 ただ、言葉だけではあまりにも抽象的すぎて、なかなか上手く説明しにくいところなのですが、宇多田ヒカルの場合、自身の 旅する姿 を音楽とシンクロさせることで、わかり易く皆さんに伝えたいと願ったのかもしれません。
実際、このビデオクリップのアイデアは、彼女の発案であったと聞いております。

「Prisonar Of Love」のためのプライベート・スタジオ

「Prisonar Of Love」 のためのプライベート・スタジオは、アーティストの創作の場にはいかにもおあつらえ向きの、昔は工場か何かであったであろうと思われる、随分と古色を帯びたコンクリート造の巨大な空間が選ばれています。 室内は、まんべんなく自然光で満たされるように、天井ぎりぎりの壁にずらりと高窓が並んでいて、そこからは斜め上方からの明かりが深々と差し込み、どこもかしこもコンクリートむき出しの非日常的な空間を、あたかも時の移りかわりとともに次々と、豊かな表情に染めてゆくかのようです。
そこにてんてんてんと、クモの子を散らしたように配されたピアノや革張りのソファ、作業テーブルや録音機材たちはどれも、音楽の創造のためには欠かせない 大切なトモダチ に違いありません。 その証拠に、これらのモノたちのほとんど全てが宇多田の私物なのだそうですから。
すっかり使い込まれ、もはや彼女のからだの一部と化したモノたちは、それぞれがすでに十分な個性を身に着けてしまっています。 だからこそ、愛着のあるモノたちの個性を損なわないように、一室空間のなか、プロの真剣勝負の場で、個性的な彼らを上手にまとめてあげる必要に迫られたのだろうと想像するのです。 なにしろ、すべてをひっくるめての 映像作品 となるわけですし…。

そこで、この空間をプロデュースした人物は、宇多田が持参した(であろう)、一台のアルミニウム製のデスクランプに着目したのではないか。 と、僕は(頼まれもしないのに)勝手な推察をしてみるのです。
そのデスクランプは、いったいどこのメーカーで誰がデザインしたものか、勉強不足で定かではありませんが、ふっくらと丸みのある、ちっちゃなシェードがチャームポイントで、それをほっそりとしたアームがかろうじて支えている。 ささやかで、それでいて気品のある、なかなか素敵な出来であるように見受けられるのでした。
そんな、けなげな照明器具がほんのり灯す明かりが、大空間を時々刻々と照らす高窓からの自然光にも決して劣らぬ魅力を秘めていることを、誰よりも知っていた(に相違ない)プロデューサーは、まずはそのデスクランプを、宇多田がお気に入りのキーボードの横、彼女が慣れ親しんだ作業テーブルの上に、そっと置いたのではないでしょうか。
そして、作曲のためのグランドピアノのそば、こころやすらぐソファのそば、それから使い込まれた音響機器のそばにぽつぽつぽつと、とっておきの フロアランプ を付け加えて、そうして、無機質で巨大な空間と、ばらばらに集まったモノたちを 「ほのかな明かり」 でつなぎとめようと試みたのではないでしょうか。

とっておきのフロアアランプとは、1987年に建築家 ミケーレ・デ・ルッキ(Michele de Lucchi) によってデザインされた名作で、 「トロメオ(TOLOMEO)」 と呼ばれています。
可動するアームでシェードを持ち出した、実用性に重きを置いた照明器具は、ほしい場所に自在に明かりを届けることができる反面、ジョイント部分にどうしても負荷がかかりやすいという弱点があり、それゆえ、否応にもごつごつとした無骨なカタチになってしいます。 もちろん、それはそれで機械的な魅力にあふれているわけですが、そんな アーム持ち出しの機能 はそのままに、ミケーレ・デ・ルッキは、バケツをひっくり返したような、ぺらぺらの安っぽいアムミニウム製シェードを、ぽきりと折れてしまいそうなか細いアムミニウム製のアームでもって、軽々と支えてみせたのです。
涙ぐましいほどに目いっぱい腕を伸ばしたその姿は、軽量なアルミニウムの特徴が遺憾なく発揮されたデザインだからこそ生まれ得た、重量と強度のバランスぎりぎりの狭間で成立した嘘偽りのないカタチであるといえるでしょう。 建築家である彼は、機能だけでなく構造をも考えて照明器具をデザインしていたのです。

自己主張するモノたちであふれ返っていた1980年代の過剰な時代のさなか、まるで憑き物が落ちたかのような清々しい姿をまとって登場したトロメオは、一見するとなんてことないようでも、いざ、ぽっと明かりが灯ると、どこか 生命の在り処 を感じてしまう。 「そこに居たがっているような印象」 を抱かせるのです。
宇多田ヒカルによって使い込まれた、愛着に満たされた家具や道具たちのなかでは、これ以上強烈な個性は必要ないはず。 だからでしょうか。 「Prisonar Of Love」 のビデオクリップをみていると、すみっこでちょこんと小首をかしげた、飾らないしぐさのフロアランプが 「けれども私はただ、あなたに明かりを届けたいのです」 と、ささやいているように思えて仕方がないのでした。
 
02月01日(金)

ヨウジヤマモト のレザーベルト

どこのショップでもだいたいそうなのですが、ジャケットやシャツ、パンツなどに比べて、ベルトのデザインや素材の質、種類やサイズの展開が少ないことに疑問を感じたことはないでしょうか。
そこで以前、徹底的にレザーベルトを探しまわってみたことがあるのです。 ところが、それなりに名の知れたブランドであっても、ベルトは ついで のような存在なのか、洋服ほどに力を入れた様子はなく、数自体も決して多くはないのでした。 からだの中心に身に付けるモノなのに…。

たとえば、リーバイス501を小奇麗に穿くために白いレザーベルトがあるといいな。 と思ってみても、きちんとした品質とデザインのベルトそのものに出会えないこともしばしば。 といった状態で、ためしに普段は立ち入らない10代から20代前半くらいをターゲットにしたファッションビルのメンズ・フロアに足を運んでみると、いろいろな横文字の聞いたこともない名前のブランド・ショップがあって、そんなところであれば、白いレザーベルトも置いてあったりはするのですが、値段の割にはレザーの質が悪く、しかも、金属のバックルにはさして意味もない 飾り があったりするのです。
隣のショップもなぜか、似たり寄ったりの雰囲気で、どこがどう違うのか僕にはさっぱり区別がつかず、そこの白いレザーベルトもそっくり同じような商品を置いてあるのですが、どうやら、刻まれたブランド名の文字だけは確かに違っているようでした。
そのような製品は、たぶん2・3年も使うとレザーがよれよれになって、その頃には飾りにも飽きたし、トレンドも変わってしまっているのでしょうから 「また別のモノを」 といった具合になって…。 どのショップも一見したところ個性があるようで、実は大して個性がない。 そんな、つくり手の想い入れのない商品は結局、短いサイクルで消費されゴミになってしまうというのに、レザーが一体どこから来るのか考えてみると 「これはおかしい !」 と気付くのが普通だと思うのですが。

いろいろと探してみたけれど、どうも僕の目でみたところ 「ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)」 が、質・デザインともに良いように思われました。 単価が高く利益の上がる洋服の種類自体がそれ程多くない割には、小物的な扱いで単価も低い、しかもそんなに目立たない存在のベルトなのに、このブランドではそこそこの種類が揃っているのです。
そこには白い、いかにもデニムに似合いそうなレザーベルトもきちんと置いてあって、洋服のように強烈な個性はない、一見したところありふれた白いベルトは、分厚いデニム生地に負けないくらいのかっちりとしたつくりで、レザーの太さも厚みも、バックルのカタチも、実際 非の打ち所のない バランスで、レザーは外側だけが白く染められ、あとはそのまま、ありのままの、何も隠しだてする必要のない 確かな質 を備えているのでした。

Yohji YamamotoとY'sのレザーベルト

その後、黒いパンツに似合いそうな、黒いレザーにメタルのバックルのあるベルトがあったらなと、いろいろと訪ね歩いてみましたが、ヨウジヤマモトと同じく 山本耀司 がデザインを手がける 「ワイズ(Y's)」 というブランドに、やはり僕のイメージに近いベルトが、不思議と置いてあったりするのでした。
ちなみにこちらはレディスの製品なのですが、ウエストに きゅっ と巻いたときに、端が後ろにまわるくらいに長くつくられていて、帯のように垂らしてみたり、あるいはジャケットの上にさらりと巻くこともできる余地が残されているので、女性だけでなく、女性よりもウエストの太い男性にも 応用がきく というわけです。 デザイナーも 「帯」 のイメージを想い描いたのでしょうか。 実際レザーは薄く、しなやかでやわらかく、しかしバックルはがっしりと、ベルト穴がなくても自在に留めがきく頑丈なつくりですが、輪郭のカーヴはあくまでも美しく、決して無骨ではない。 からだの中心に身に着けるにふさわしい品格は十分に持ち合わせているのです。

帯といえば、高校生の頃友人と、四大流派のひとつにあたる空手の試合をみたことを記憶しています。 いまだに深く印象に残っているのは、上級者と思われる選手たちの締めている黒帯が、どれもかなり年季のはいったもので、帯の結び目のあたりから染められた黒が白くはがれてしまって、なかにはほとんど白くなりかけたものまで見受けられたのでした。
基本的に道衣の帯は洗いませんから、5年や10年使い続けたくらいで黒い染料が落ちるとは、とても思えません。 おそらく、道場の先輩から後輩へと代々受け継がれてきた帯なのではなかろうかと…。
繰り返し繰り返し続けられる、気の遠くなるような稽古の積み重ねが、少しずつ少しずつ、黒く染めた帯を元の白い生地へと戻してゆく。 帯はからだの中心にあって、それを締めることが彼らの鍛錬の あかし なのだと、当時の僕は解釈したのです。
その後大学で空手をはじめましたが、僕たちが締めた黒帯は、もともとの生地の糸から黒かったとみえて、残念ながら、いくら稽古を重ねても、結び目から染めが落ちることはなかったのでした。

もう何年も使い続けているヨウジヤマモトのレザーベルトは、それでもいささかもヘタレルことなく、バックルはいよいよ金属らしく鈍い光沢を増し、白く染められたレザーは角の染料が時間と共に少しずつはがれ始めて、かつての少年が憧れの眼差しでみつめた、あの 黒帯の記憶 がよみがえってくるのです。

Yohji Yamamotoのレザーベルト