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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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09月16日(日)

下鴨疎水

本当に良い景観というのは、ダイナミックとか劇的とか、そんなに大げさなものではなくて、たぶん、空気のようにすっかり生活に馴染んでしまって、目立たない存在になっているものなのではないでしょうか。

下鴨神社よりも、もう少し北のあたりの、閑静な住宅地のなかほどに、あるかなきかののどかな水の流れを包み込むようにして、延々数キロメートルにわたって続く疎水の並木道は、一見なんてことないようで、実はこれが不思議に心地よくて、どの道歩いても添え物のように事務的に植えられた数え切れない孤独な木たちと、この水辺の木たちは、もともとはどちらも同じ一本の木で、どちらも人の手で植えられたはずなのに、添え物にみえる木は、その下に深く張る根のことを知らない人の仕業で、この水辺に木を植えた人は、土のなかでも根が呼吸をしていることをちゃんと知っていて、あまりにも自然な景観をつくってしまったものですから、この大切な事実に気付いている人は、残念ながらそんなに多くはありません。

下鴨疎水の水辺のスペースは、お世辞にも決して広いものではなく、普通に石を積みあげてしまうと、平らな面積はごくわずかで、たとえそこに木を植えたとしても、周囲の土はさんざん人や車に踏みつけられたあげく、かちかちに固められてしまったり、目一杯舗装されて、根は深呼吸できなくて苦しい。 そんな、どこにでもある街路樹になってしまうはずが、たった数段石を積んだだけで、あとは土のまんま急な土手にしてしまって、そこに木を植えようと考えた人が、120年前の京都には確かにいたのです。
急勾配の土手では、じきに土が崩れて用を成さなくなるところを、 「これはいけない !」 と、樹木が根を張ることで土の深い部分を支え、 「これはいけません !」 と、季節の草花の根が土の表面をおおう。 木も草も花も、どれ一つとして添え物なんかではなく、それぞれが、みえないところでしっかりと土手を支えている。 こんな急な土手では人も車も入れませんから、ふかふかの土は昆虫たちの快適な棲家となって、しかも、はるばる琵琶湖から引かれた清らかな水が、そばをゆるゆる流れている。
土と木と草花と水があってはじめて、生物が生息できる環境が成り立つことは、理屈では誰もが分かっているつもりでも、それを現実に人の手で、それぞれの折り合いをつけながらつくり出すことは、決して簡単ではないはずです。

下鴨疎水

都(みやこ)が東京に移って間もない明治の中頃に、京の街の東半分を縫うようにしてめぐらされた長大な水の道は、どこまでも田畑が広がるなかに、ぽつぽつと農家が点在していたであろう、のどかな下鴨の地に、かんがい用水や飲料水を届けるためとはいえ、なぜ当時の技術者は、このあたりにだけ急な土手をつくったのでしょうか。 ほかはどこもしっかり石を積んでいるのに…。
そのような疑問を、疎水記念館の方に投げかけてみましたが、大規模な土木工事のことならともかく、北のはずれの枝線水路の土手や木の扱いがなぜ違うのか、どのような考え方でつくられたかなど、誰にも聞かれたことすらないようすで…、やはり僕は何かが間違っているのでしょうか。 そんなの大して意味などなく、単に石の量を倹約したにすぎかったのでしょうか。

そう思いながら、下鴨疎水に架かるちいさな橋に立ってスケッチをとっていた僕に、地元の方と思しき男性が声をかけてこられました。 その方は、ついこの間勤めを定年退職されて、今は自治活動やボランティアに取り組んでおられること、自分たちの町の疎水を評価してくれて嬉しいのだと。 きっと、ここが大好きなのですね。
なんでもこの水辺には、鴨川の源流に住むホタルを連れてきて放している人がいて、今ではホタルが生息できる環境になっていること。 この間来た人は、珍しい品種の魚が生息していると教えてくれたとも話して聞かせてくれました。
そこで僕は、この親切な男性に土手と木の関係について説明した上で、昔はどのような使い方をしていたのでしょうかと尋ねてみました。 するとどうでしょう。 田畑で収穫した農作物を疎水に浮かべた舟で運んだに違いないといわれるのです。
そんなことはないはずです。 これは、運河として使われていた本線(第1疎水)と混同されているのだな。 と僕は受け流したのですが、それでもあらためて、そのあり得ない光景を頭のなかで描いてみると、底の平たい小舟が収穫されたばかりの農作物をどっさり載せ、田園のなかをするすると音もなく流れゆくさまを想像して、きっとその舟からみえる景色は整然と積まれた石垣などではなく、木々の葉陰からきらきらと差し込む日差しの下、季節の草花の咲くあの土手なのだ。 昔、そう考えた技術者が一人くらいいたに違いないと…。

下鴨疎水
 
09月01日(土)

双子の星

京の街を歩いていると、通りのそこかしこにお地蔵さんが居られることに気づきます。
そして、お地蔵さんは必ずといってよいくらい、ちいさな祠のなかにちょこんと座っているはずです。 ちいさな祠は、それでも趣向を凝らした木彫が施されていたり、かっちりと石で出来上がっていたり、あるいは竹や装飾金具をあしらっていたり…。 といった具合に、ひとつとして同じつくりはない。 お町内の大工さんや職人さんたちが、めいめいの特技をいかしているからなのでしょう。
お地蔵さんは、ちっとも威張った感じがしません。 それはきっと、お地蔵さんが僕たちと同じ目の高さで、静かに微笑み絶やさないからだと思うのです。 だから、ちょっとご近所の方に挨拶するような気さくさで、軽く会釈しつつ通り過ぎるくらいに、すっかり街のなかに溶け込んでいる。
そんな気取らないお地蔵さんが、どこやら何となく小奇麗になっていたり、金襴緞子や、赤いよだれかけが真新しくなっていることに、もしあなたが気づいたとしたら、まず、季節は 八月の終わり頃 といいきってみても間違いはなさそうです。

八月の二十二、二十三日の二日間(※最近では、これらの日に近い土・日曜日。 日曜日の一日だけで済ませてしまうところもあります)、関西あたりでは 「地蔵盆」 という行事がとりおこなわれます。 大盆踊り大会とか大花火大会、といった仰々しいものではなく、もっとこじんまりとして、本当にささやかで、低予算で、もちろん手づくりの、お地蔵さんの目線的な、正真正銘 お町内 の伝統行事なのでした。 そして何よりも、夏休みも じきおしまい となる子どもたちの、楽しいイベントの日でもあるのです。
地蔵盆の時だけは、お地蔵さんは普段住み慣れた祠を離れて、といっても、すぐご近所なのですが、町家であればオモテに面した座敷の格子を開け放って、地域によっては児童公園に天幕張ったり、どなたかのガレージであったりするわけですが、いずれにしても、ささやかな会場には紅白の幕が張られ、ちょうちん吊るして、雛人形飾るときのような段々には、お菓子やお料理やホオズキなどの お供え であふれるくらい、色とりどりに飾られて、そのてっぺんには、可愛らしい座布団敷かれた上に、ちょこんとお地蔵さんがのっかって、何はともあれ 地蔵盆 ですから、お地蔵さんの前では、子どもたちが車座になって大数珠囲んで、一人でできる子は一人で、幼い子はおとうさん、おかあさんの膝の上で、ご近所のお寺のご住職が唱える念仏にあわせてぐるぐると数珠回す。 そんな数珠回しの輪の周囲ではおじいちゃん、おばあちゃんたちがにこにこ見守ってくれている。 さらにそれをお地蔵さんは、まるごと包み込むように静かに微笑んで見守っていてくれる。 ここでは世代も何もかも遥か飛び越えて、めいめいが無理せずしっくりつながっている。
殺伐とした世の中も、この街に地蔵盆がある限り、コミュニティが途切れることはないような気がする。

地蔵盆といえば、花火や福引きなど、いろいろお楽しみはありますが、やはり何か、いつもと違う 特別な催し が欠かせませんから、毎年毎年何やろうかと思い悩むのは、どこのお町内でもおんなじはずです。
そういえば、以前はじめて個展を開いたとき、貼り絵で紙芝居をつくって、各シーンとお話を順番に並べて展示して、最後に紙芝居の上演会をしたことをふいと思い出して、何しろ物語が宮沢賢治の童話 「双子の星」 だったものですから、お星さまのお話だから 今の時期ちょうどいいよね ということで、じゃあ地蔵盆で紙芝居やりましょうと、地域の皆さん、やれやれとひとまず安心するのでした。
「双子の星」 は、宮沢賢治がはじめてつくった童話二編のうちのひとつで、彼の幼い弟妹に読み聞かせるために書かれたものと伝えられています。
会場の明かりを落として、お地蔵さんの雛壇の隣で上演された紙芝居は、星の世界から海の底の世界、そして星の世界へと場面が転換しつつ、意地悪なキャラクターも登場すれば、親切なキャラクターも登場するけれど、それらをまるごと包み込んでくれる誰かがいて、もうそれは、この地蔵盆そのもののような気がして、水晶でできたちいさなお宮に住む双子のお星さまと、石でできたちいさな祠に住むお地蔵さんと、どっちがどっちか見当つかなくなって、やはり当のお地蔵さんも、そんなふうに思いながら聞いていらっしゃるのだろうか。 などと、上演会の合間合間に、微笑む横顔そっとみつめるのでした。

双子の星
 紙芝居 「双子の星」  カラーケント貼り絵、アクリル