プロフィール

アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

検索フォーム

06月15日(水)

ナショナルの自動アイロン

道具。 特に刃物を扱う職人さんなどは、自身の道具が仕事の良し悪しを左右するのですから、命の次に大切なモノであろうことは、職人でない僕にも何となく想像できます。 そんな、腕の立つ職人さんには遠く及ばないにしても、僕たちが日々使っている生活道具も、やっぱり疎かにはできない 大切なモノ なのではないかと思うのです。
毎日の食事で使う箸は、自身の手の延長にある道具に違いないでしょうし、調理の包丁なども同様です。
一方、家電製品は というと、便利な道具として欠かせないモノになって久しいにもかかわらず、 自身の手の延長となる道具 という視点から考えると、それ程多くはなさそうです。

それでも、あえて挙げるとしたら 「アイロン」 でしょうか。 大切なシャツは無論、身のまわりのハンカチやテーブルクロス、シーツなどが パリッ としていると、どんなに気持ちがよいことでしょうか。
そのような意味からアイロンがけは、 目立たない家事仕事のなかでも重要な役目を担っている と、僕はいつも考えているのですが、それを開発・提供するメーカー側はというと、 「道具」 としてではなく 「製品」 として位置付けているように思えてなりません。
事実、多くの製品が 「あったら便利」 かもしれないけれど 「無くても支障はない」 付属機能に偏っていたり、製品として引き立つようなカラー展開に終始していますが、それは、使い手の立場で考えられたというよりも、 店頭に並べた時の見栄えの良さ を意識したアイデアにすぎないような気がするのです。

ことろで僕は、1994年製の ナショナル(今はパナソニック)の自動アイロン を使用しています。

ナショナルの自動アイロン

ご覧の通り、実用に徹した生活のための道具です。 そこには温度調整のためのダイヤルが ぽちっ と一つあるだけですが、これが結局使い易いようです。 便利なスチーム機能は、あったら多分使うと思いますが、無くてもそれ程不自由ではありません。 洗濯物を干す際に、シワがつかないよう、ちょっと気をつければよいわけで、その方が却って家事の時間を短縮できるでしょう。 しかも、水タンクがない分 軽量な上コンパクトで、隅々まで自在に操作できてしまいます。 あたかも自分の手先のように…。

アイロンの故障の原因は大抵が スチーム機能 ですから、それがなければ故障は自ずと回避できます。
何でも無い事のようですが、ハンドルは細身で手に馴染むよう、意外と複雑な形状をしています。 使いやすさを疎かにしない、気持ちのよいデザインです。
また、僕は男性にしては手が小さいので、このハンドルが 女性の使い勝手に対して配慮されているのだということ を、ちゃんと分かっているつもりです。

ナショナルの自動アイロン

男性の開発者が中心の場合、このような配慮すら忘れ去られ、ハンドルに違和感を感じる製品が多いことは悲しい現実です。
樹脂パーツは黒(確か赤もあったと思います)。 金属パーツは底面がフッ素コート、側面がメッキ処理と、店頭ではちっとも目立たない仕様ですが、これが現実の 落ち着きのある住まい のなかでは、しっくりと馴染みがよく、控えめに溶け込んでくれるのです。

この製品は、現在も そのままの仕様 で生産され続けています。
めまぐるしくモデルテェンジが繰り返されるなかで、ずっと変わらずあり続けることは、 確かな視点でデザインが成されていたということ。 地味であってもユーザーにしっかりと、 つくり手の気持ちが届いているということ の証なのではないでしょうか。
 
06月01日(水)

かえってきたカエル

あれは確か、保育園の年中組の頃なので、4歳くらいだったと思います。
いつものように遊戯室でピアノを弾いておられた オリカワ先生(若い女性の保育士さん) が、ふいに僕の名を呼ばれたので、そばに行くと、いつもと違ったようすでしんみりと、先日僕の祖父が亡くなったと聞いたこと、祖父の家の近所に住んでいるのだということをお話になり、それとなく励ましていただいたことを、大人になった今でも不思議にはっきりと覚えているのです。
きっとその時の先生は保育士としてではなく、一人の人間として僕に接してくれた 素(す)のままのオリカワ先生 だったのだと。 だから、こころのずっと奥の底の方まで過たず届いて、記憶のなかに、いつまでも褪せることなく在り続けているのだろうと思うのです。

この 「かえってきたカエル」 という絵本は、赤ちゃんのちいさな 掌 にも楽々乗っかってしまいそうな、そのくらい ちいさなアマガエル を飼うことになった、これもまた ちいさなちいさな保育園 でのお話です。

かえってきたカエル
「かえってきたカエル」  中川ひろたか 文 、村上康成 絵   (
童心社

ちいさなちいさな保育園では、子どもたちのそばには何故かいつも 園長先生 が混じっておられるのですが、この、傍目にみてもなんとも頼りない、難しい幼児教育論など微塵も必要としない、もはや透き通った空気のような存在の園長先生は、たぶん 素(す) のままに生きている稀有な方で、僕の こころの奥底の記憶 と、どこかで確かにつながっている。
そんな園長先生ですから、保育士の ひろみ先生 と 子どもたち は、アマガエルの 「みどりちゃん(みどり色だから)」 をどうやって飼うかについて、リズムよくぽんぽん意見が飛び交って、ぐんぐん行動する。 難解な教育論など軽々と吹き飛ばしてしまう小気味よくも頼もしい 彼ら は、実は頼りない園長先生がそばに居てくれてこその 彼ら であって、やっぱりいつも 空気のような園長先生 あってこその保育園なのでした。

こんなにも素敵な保育園が、実際あるのかどうかは分かりませんが、少なくとも、このささやかな絵本を開くたび、そして飾り気のない園長先生をみるにつけ、どういうわけか 宮沢賢治 の、あの 「雨ニモマケズ…」 ではじまる詩を連想するのです。
不覚にも僕は、この詩を朗読すると涙ぐんでしまう。 賢治が亡くなる二年前に、病床で手元のノートに綴った詩の一番おしまいに、 「…サウイフモノニ ワタシハナリタイ」 と、ひそかに願った理想の人に、絵本のなかの 園長先生 を重ねてしまうのです。