プロフィール

アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

検索フォーム

02月14日(月)

牛乳ビンひとつ

美の女神 は時として、つくり手が作為を消し去った後に思いがけず 微笑む ものなのかもしれません。

この間、ご近所の牛乳販売店の方が、よくある 乳製品のお試しセット を持ってこられたので、何気なくいただいてから空きビンの回収に間に合うようにと、きれいに洗って流し台の端っこに ちょこん と並べておいたのですが、牛乳用のそれよりもずっとちいさく、高さが10cmにも満たない 乳酸菌飲料のビン の姿が、どうしても美しく思えて仕方がないのでした。
何度振り返ってみても、やはり間違いない。 僕の目は存外確かなはずなのですから…。

明治乳業の牛乳ビン

巷のガラス製品は、少なからず 作家の作為 があらわれていて、「よくみせたい」 とか、何かしら良からざる思惑が顔を出すこともしばしばで、「肝心の使い手のことや、中身のことなど忘れてしまったのだろうか」 と訝しまれないとも限らない、そんな現実の狭間にあったとしても。 たとえそれが 「牛乳ビン」 という、中身以外は見向きもされない非人情な対象であったとしても。 繰り返しの洗浄などの厳しい基準をものともせず、 「新鮮で美味しい牛乳を届けたいのだ」 との一途な想いから、ひたすら誠実に歩み続けたであろう つくり手たちの姿 を、しっくりと想像するに十分な 姿かたち を確かに認めることができるのです。 そこには一片の作為すら存在しない。

記憶の奥底にある 牛乳ビン は、分厚いガラスで出来上がった 重くてかさばるモノ といった、少々厄介な印象がありましたが、メーカーのひた向きな精進の賜物か、製造技術の進歩によって思いのほか軽量かつコンパクトで、 「運搬時のコストや重労働を軽減する」 という、深刻な課題をまずは克服した上で、一見すると拍子抜けしてしまうくらいのあっさりとした、しかし 美の女神の御眼がね にかなうに足るだけの繊細さにおいては、比類のないラインを描いている。
人の手が握る部分がほんのわずか くびれている ことと、だらしなく 液だれ することのない飲み口の部分は、それでも適度な丸みが与えられて、触れる唇に限りなくやさしい。 そんなところを 女神 はみているものなのです。

大人であれば二口三口で飲み干してしまう、ほんの一瞬のために、少しでも新鮮な飲み物を届けるためだけに、この世に生まれた 「ちいさなガラスビン」 を手に取れば、この大きさと容量が、如何にちいさなお子さんからお年寄りまで、あまねく使いやすいかを、しんみりと想像できて…。 そうか、これこそが ユニバーサルデザイン(Universal Design : 障害の有無や年齢、性別、能力の違いなどを超えて、できる限り多くの人にとって快適で使いやすいモノづくりを目指すこと) なのだと。
いえいえ、そうではない。 一度役目を終えたかにみえる 空きビン は、回収して洗浄することでその先、20回も30回も使い続けることが出来るのだから、実のところは サスティナブルデザイン(Sustainable Design : 可能な限り地球環境に負荷をかけない製品やライフスタイルを創出し、新しい生活価値や美意識を創造すること) だったのだと、今更ながら教えられました。

そういえば学生時代、 建築意匠 の先生から 「ミロのヴィーナス」 などに代表される古代ギリシャの彫刻には、完全なプロポーションが表現されているので、小さなレプリカでもいいから、玄関先に置いて毎日眺めるようにすれば、自然とプロポーションの感覚が磨かれるのだよ。 と教わった記憶から、 「宅配の牛乳ビンを毎日洗わなければならないのよね」 などと、家事仕事にいくらか不満をお感じの主婦の皆さんに、僕は前述の 「ミロのヴィーナス論」 を引用して、 空っぽの牛乳ビン ひとつからでも 美の神 を見い出すことが出来るのですよ。 と、そうお伝えしたいのです。

デザインの奥深い世界を教えてくれた、一本の 牛乳ビン への感謝の気持ちをこめて、今朝方寒いなか、丁寧に頭を下げて回収してくださった販売店のおじさんに 「おいしかったです」 と、ただ一言お礼を申し上げたところです。

明治乳業の牛乳ビン
 
02月01日(火)

雪の日

京の雪は繊細で儚(はかな)いものだ と、しみじみそう感じます。
雪国ではないので、 どっか と降ることなどきわめて稀で、しんしんと底冷えする夜更けに人知れず、はらはらと降り積もった雪は ほんのり薄化粧 といった清楚な装いで、ほどなく琵琶湖の向こう側からやってきたお日様が、東山から顔を覗かせる頃合いには、そろりそろりと大地に染み込みはじめる短命さゆえ、遥か千年もの昔、 清少納言 が 「枕草子」 にしたためたような、冬の朝の きりり と引き締まった空気のなか、霜の白や、雪や、吐く息の白さに美しさを見い出し、背筋をしゃんと伸ばして生きようとする 凛 とした古(いにしえ)の人々の姿を、未だにしっくりと想像することができるのです。

久しく以前、銀閣寺に程近い 哲学の道 の傍に住んでいた頃、雪の日の早朝、あの独特の 「静けさ」 に目が覚めて、震えながら表に出てみると、はるばる琵琶湖から引かれた疎水の、流れの有るか無しか定かでないくらいに黒く澄みきった水のほかは、人っ子一人通らぬ石畳の小径から何から、桜並木の繊細な枝々の上にまで隈なく 純白に縁取られたさま が、ちょうど鏡のようにそっくり水面(みなも)に映し出されて、この静謐なモノクロームの雪景色と、あの爛漫と咲き乱れる春の満開の景色と、果たして 「どちらが美しかろう」 と思案に暮れるほどの情景も、ほんの一時の出来事で、観光客の皆さんが訪れる頃はすでに、土の中へと消え去ってしまっているのです。

今では疎水べりから離れて、少々北寄りの住宅地の中ほどの、古い家屋に寝起きしておりますが、それでもやはり京の雪は、まだ暗いうちから しんしん と音もなく降り積もり、少し離れたケヤキ並木の大通りからの車の通行音ですら、幾重にも幾重にも層を成す、途方もない数の 雪の斑(ふ) が、吸い取っては落ち吸い取っては落ちして、僕にあの 「静けさ」 をもたらしてくれる。
本当にささやかな、申し訳程度の庭にも分け隔てなく、純白の雪はうっすらと降り積もって、ぺらぺらの華奢なガラス戸が閉てられた隙間だらけの縁側は、確かに寒いには違いないのですが、このような早朝の きりり とした空気の感覚はやはり、 清少納言 の時代からさして変わらず在り続けるものなのだな と、素直に感じることができるのです。
「冬は つとめて(早朝)。 雪の降りたるはいふべきにもあらず…」 と、心のうちでつぶやきながら。

雪の日