プロフィール

アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

検索フォーム

10月15日(金)

たけくらべ

ページをめくると見開きで、夕暮れの、明治の東京下町と思しき風景。

子どもたちが家路につくのでしょう。

当時の日常のありふれた様子を描いた絵は、表紙を除いて全てモノクロームなのですが、読者の誰もがきっと、 夕焼けの色 を見つけているのではないでしょうか。

タテ21cm、ヨコ19cmのちいさな本は、明治時代、若き 樋口一葉 の、わずか14ヶ月間の執筆活動のなかから生まれた作品のひとつ 「たけくらべ」 に後年、 いわさきちひろ によって描かれたイラストレーションが添えられた 宝物 です。

たけくらべ
「たけくらべ」  樋口一葉 作 、岩崎ちひろ 画  (
童心社)

いわさきちひろ のイラストレーションの特徴として、水彩絵の具の「にじみ」を応用した、淡い色彩のグラデーションの美しさが、彼女の描く子どもたちの姿をひときわ魅力的なものとして、時代や年齢を問わず多くのファンの心を捕らえているのは皆さんご承知の通りです。

そのような意味から、原画では水彩で着色されながら、モノクロームで印刷されてしまった 「たけくらべ」 に対して、物足らない思いを抱かれる方も居られるかもしれませんが、 はじめにも少し触れたように、モノクロームのなかにこそ存在する、その人の記憶の奥底に残された、それぞれにある 心の中の色彩 がそこに描かれている。
ちひろ の作品にはそのような 含み があるような気がします。

物語は、吉原あたりの下町に暮らす少年少女たちの成長期のさ中の、いいようのない 心の繊細なニュアンス が、当時の生活習慣や風習を背景に、清らかな水の流れのようにさらさらとよどみなく、読む人の耳にも小気味よい 響き を持って綴られているのです。
物語の要所に添えられた ちひろの絵 は、一葉の文章に 寸分たがわぬ としか表現できないくらい、登場人物の性格や心情を見事に描いています。 ではその秘密とは、一体何なのでしょうか。

色彩がないことは、表現手段としては痛手となるに違いありませんが、むしろ、物語との調和を考えると適切である ともいえそうです。 色彩に頼りすぎると却って 繊細な文章が読者の心に届きにくくなる からです。
では、どうして ちひろ のモノクロームの絵にこれ程の表現が可能であったのか。 おそらくそれは線そのものの 力 です。
彼女の描くひとつひとつの線は、どれも微妙な強弱や濃淡が与えられているため、それがたとえ紙に印刷されたものであったとしても、100年前のお話であったとしても、しっかりと此方の心に伝わってくるのです。

これは技術だけの問題ではありません。 技術のある人は世の中に幾らでもいますから。

いわさきちひろ は、子育てをしながら描き続けた人です。 子どもの成長をいつも見続け、そばで見守りながら仕事をしていた。
その 温かなまなざし があったからこそ、あの線が描けたのだと思います。
 
10月01日(金)

新島襄旧邸の台所

同志社 の創立者である 新島襄(にいじまじょう) が、開校間もない明治11年(1878年)、現在の同志社大学(今出川キャンパス)に程近い御所の東側に自らの住まいを完成させました。
当時の日本では公的な施設を除いて、椅子座の生活様式の住宅に暮らしていたのは、まだ西洋人くらいだった時代ですから、完全な椅子座による 「日本人のための住まい」 は、極めて 先進的 であったといえるでしょう(新島の死後になって、邸内に一部畳敷きの部屋がつくられました)。

新島旧邸
(写真1)


新島旧邸(写真1) は、 コロニアル様式 を取り入れた住宅であるといわれますが、ここで コロニアル様式 について説明しておきたいと思います(ハウスメーカーの コロニアル風 と混同しないためにも)。
植民地時代に、緯度の高い、比較的涼しい気候の国(イギリス、オランダ、スペイン等)が、緯度が低く、蒸し暑い気候の国に入植した際に、床を高く持ち上げて湿気を避け、庇を出して日射を遮り、周囲にバルコニーを廻らし、 住まいを開放 させることで、西洋的なライフスタイルを上手くシンクロさせた 風通しのよい家 がつくられ、それらを コロニアル様式 と呼ぶようになったようです。

住宅を中心に優れた仕事を残した建築家の 吉村順三 は、アメリカ開拓時代のコロニアル様式の住宅に影響を受けたと自ら語り、 「生活の中の真剣さが建物に表われている」 と高く評価したアメリカ東海岸の住宅に、まさに 新島襄 がリアルタイムで接し、20代から30代にかけての10年間を過ごしていた事が、後の 住まい感 として、余すところなく表現されることになるのです。

新島旧邸 は、施主である 新島襄 の設計、宣教師で医師の W.テイラー の助言により、京都の町家大工の手で建てられたと想像されます。 宣教師は教会の建設に関わることもあり、ある程度の建築に関する知識は持ち合わせていたはずですし、 開放性の高いコロニアル様式の住まい は本来、日本の伝統工法に多くの類似点があるだけでなく、日本の大工棟梁は、素材の特性をいかした高度な技術を備えているのですから、彼らの仕事であることはほぼ間違いないでしょう。

そして最も評価できる点が、 新島襄 による(と想定される)プランニングの素晴らしさです。
当時の日本の住宅はおしなべて、 一家の主人や来客のための空間 を重要視していますが、主人以外の家族や使用人の 「暮らしやすさ」 や 「働きやすさ」 に対して、同じくらい 大切 に考えることは、まず無かったのではないかと思われます。 一方、新島旧邸 では、あらゆる場所に考えられるだけの 働く人のための生活動線 、つまり 「家事動線」 がしっかりと押さえられているのです。

ここでは、家事仕事の中心ともいえる 台所(写真2) について詳しく説明したいと思います。

新島旧邸
(写真2)


新島旧邸の台所に身を置くと、その隅々にまで行き届いた 配慮の良さ に感服してしまいます。
一見すると普通の民家のようなつくりですが、開口部の位置が適切で、明るく風通しがよいのです。 といっても、最近の住宅の明るさに慣れている方には随分と 薄暗く 感じられるかもしれませんが、やはり 適切な光の取り入れ方があるのではないか と思うのです。

腰上のガラス窓は調理の際の必要な場所に 適切に 自然光を届けてくれますし、小ぶりな高窓も部屋の奥に十分と思えるだけの拡散光を行き渡らせてくれます。
注意深く取り込まれた大切な光は、意味のある 本当の光 で、それは 豊かで美しい ものですが、無頓着に取り込まれた光は明るいには違いないでしょうが、悪戯に食材を傷めるだけで 貧しく無意味な存在 にもなりかねないのです。

不思議なくらい 心地よい と感じる台所の秘密は、きっと 働き心地 がよいからに違いありません。
それは調理機器の配列をひと目みるだけで分かりますし、現在ある家具を(頭のなかで)ちょっと移動させてみると、すぐさま 立ち働いている人たち(きっと八重夫人と使用人)の活き活きとした様子が目に浮かんでくるかのようです。

水を汲み置き、食材を洗い刻み、煮炊きをする。 食器や食材を取り出し、盛り付ける。
食堂の出入り口を慌しく行き交うことなく、造りつけの配膳棚に並べ、主人や来客に悟られることなく、すっかり用意を整えるまでの一連の動作が、 自然な立ち姿勢 のまま複数の人が楽に働くことができる。 無駄のないスマートな動線 が手に取るように理解できる、非の打ちどころのないプランニングです(図1・緑のライン参照)。

新島旧邸
(図1)


煙や匂いが発生する竃(かまど)の位置が、居室である食堂や応接間から最も遠い対角線上に位置し、適切に換気窓が設けられている点、そして当時の 水場や竃 が土間に置かれ、寒く不衛生な環境で頻繁に 立ち座り を繰り返していた過酷な労働条件が全て 「解消」 されている点、にもぜひご注目ください(当時の 竃や流し は土間にあり、しゃがみこんで作業をしていましたし、水道はなく、井戸は屋外にあるのが普通でした)。

アメリカ滞在中に 新島襄 が学んだことは、語学や宗教はもとより、日々の生活全般までを含めた 文化 であり、その眼差しは 家庭で働く一人一人 にまで向けられていたに違いありません。
そして帰国後、最も身近な 自邸の台所 で、かの国の 表面上のスタイル ではなく、 合理的な働き方 を 日本人のために、日本の身近な材料を使って、日本の職人たちの手でつくりあげた。

本当の 「文化」 は、当たり前の日々の生活のなかに存在しているのではないでしょか。

ところで、台所のなかで妙に引っかかる 場所 があるのですが、(写真2)で説明しますと、ちょうど 左奥のコーナーのあたり は、通常の調理の動線からはずれた、いわば 死角 のような所のように思われるのですが、何故かその不便ともいえるコーナーをわざわざ 出窓 のように張り出して、しっくいで塗り固めてあり、換気のための窓がつくられているのでした。
それで、そのあたりのことを調べてみたのですが、当時の図面はおろか、台所の様子を記した資料すら残されていないようなのです。 ただ一つだけ、薪ストーブか何かに併せて使われたと思しき ワッフル焼き器 が残されていることが分かりました。

そこで、ここからは 個人的な想像の世界 になりますが、(持ち前の想像力を働かせて)出窓状の台を お菓子(洋菓子)の生地を捏ねる作業台 にみたてて、背後の煙突に 竃風のオーブン をしつらえた、ささやかな 菓子工房 の姿をイメージしてみました(図1・紫のエリア参照)。

当時、(新島が滞在していた)東海岸のボストンあたりでも ワッフル などがつくられていた可能性がありますので、(甘いお菓子が好きであったらしい)新島襄 が製造法を習得し、ちいさな楽しみとして日本に持ち帰ったのではないか と。
そして、夫人に伝授するかたわら、自身も台所に立ち、お菓子づくりを楽しんだのでは… などと、つい想像を膨らませてしまいます。