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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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06月20日(土)

しとしとと、雨降る街の景色を美しいと思うようになったのは、京都に住むようになってからのことです。

幸いにして、東山の麓近くに住みはじめた僕は、そぼ降る雨のある日、美術館でしか見たことがなかった水墨画の世界が、そのまんま目の前にあることを知り、おぼろげにかすむ東山を背景に、古寺の甍が、乾いた薄墨色から、みずみずしい墨色に変化して、まるで一幅の風景画のようにしっくりとおさまっている。 いにしえの人々が描いた山水は、夢物語ではなく、目の前の風景を偽らず、誇張せず、素直に紙の上に写し取っていたのだということに、その時ようやく気づいた次第です。
それなのに、どうも今の人は、感性よりも数値を頼りにしすぎるきらいがあるようで、身近な衣類から生活道具、建物の外壁から屋根材まで、ひたすら耐水、抗菌化しているようにも見受けらて仕方がありません。 空気も人も水分を含んでいるのですから、やっぱり適度に呼吸しているモノたちに囲まれて過ごすほうが、絶対に心地よいのではないか と。

もし、湿度の高い日本の夏に、あなたが家のなかにいて、じめじめとした不快感を覚えるのであれば、それは、木や土といった自然素材を使わなくなったことだけが原因ではなく、家そのものが呼吸できていないからに違いありません。
昔の住まいは、たとえそこが街なかであっても、限られた庭やおもての通りを上手に利用して、部屋同士、きれいに風が流れて、空気がよどまないように考えられていたはず。 しかも、空気の流れは部屋だけでなく、床下までも、隈なく通り抜ける仕組みになっているのでした。
それに比べ最近の住宅は、断熱や気密、あるいは耐震などの性能を高めるためか、床下は外気から遮断されるつくりになっているらしく、こうなると、外部の湿った空気も、まるごと室内に取り込んでしまうことになってしまいます。
ところが、昔の建物は、地面を突き固めた上で、基礎となる自然石を据え、その上に構造の柱がぽつぽつと建てられているだけなので、床下は完璧にスカスカの状態。 だから、湿った空気はすいすいと小気味よくこの床下スペースを通り抜け、比較的乾いた空気のみを室内に導いてくれるという、単純ながら、実に理にかなった、天然の通風・除湿システムに支えられ、蒸し暑い夏場でも結構快適に過ごしていたはずなのですから。

風通しのよい、スカスカの伝統家屋は、軽量なわりに基礎石には固定されていませんから(※上に載っているだけで、今の建物のように金具で固定されていません)、軒の深いおおきな屋根で家全体をすっぽり覆うことで、人々の暮らしを雨や日射から守りつつ、重量と強度のバランスを保っていました。
京町家もそうですが、重たい屋根瓦の下には一面土が被せてあり、瓦は土の上に載っかっているだけだったりします。 それでも、土と瓦はそれなりの重さがありますから、屋根そのものが重石となって、構造上も、精神上も、ちょうど 「あぐらをかいて座るおとうさん」 のように、どっかと家全体を護ってくれているみたいで、そこにいると何だか安心できるのです。
昔の瓦は、最近のツルツル・カチカチなものと比べると、実際精度も強度も劣るのでしょうが、年月を経るにしたがって余計な艶がとれ、渋い薄墨色に落ち着いて、その上、表面は適度に水分を吸ってくれるので、雨が降ると、ぽつぽつと雨の足跡が残ります。
その足跡が埋め尽くされてようやく、しっとりとした瓦本来の艶を取り戻す、その表情が、一枚一枚微妙に違っていて、しかも、土の上に葺かれた瓦は、年月とともに微妙にずれつつ、傾きつつ、何ともやわらかいラインを描き出したりもする。 そのような表情やラインは、性能や数値を追い求めた先には決してみえてこない、不ぞろいで脆い出来の悪さが集まってはじめて、何ともいえない情緒が生まれいずる。
街の美しさとは、そのような 「ちいさな個性の集合体」 といってみても、よいのかもしれません。

ご存知の方も多いやもしれませんが、かれこれ70年近くも前に、この 「ちいさな個性」 の存在に気づいて、それを一枚の絵として表現した人がいました。
日本画家の 福田平八郎 が、1953年に発表した 「雨」 という作品は、そのタイトルとは裏腹に、肝心の雨は描かれず、画布いっぱいに横4列、経7列の瓦屋根のみが描かれています。
その瓦は、ことさら立派とか歴史上重要といった特別なものではなく、そのへんにごく普通に建っている京町家の平瓦にすぎず、この瓦が程よい加減にくたびれ、色あせ、かんかんに焼けて表面にはうっすらヒビすらも入っている。 そんな瓦に、ぽつぽつと雨粒が落ちては消え落ちては消えする様子を、雨粒の染みた跡の濃淡を描くことで、その時の季節感までをも伝えてくれる作品 とでも申しましょうか。
当時、伏見に住んでいた平八郎は、2階の画室からみえる、ごく普通の、誰も見向きもしないような屋根瓦の、四季折々にみせる表情に興味を覚え、暑い夏の午後、待ちわびた夕立のおおきな雨粒が、古びた瓦にぽつりぽつりと描き出す表情に、こころ打たれて、この作品を描き上げたのだと聞いています。

まわりからよく思われたいとか、大それたことなど微塵も感じさせない。 こころに響くささやかな対象にも美を見い出し、その気持ちを偽りなく、素直に表現してみせた一枚の絵。 雨降る京の街の景色は、そのくらい美しい。

雨
 
02月28日(金)

関西学院 神学部校舎

90年余りの時を経て、あんなにちいさかった木々がすくすくと成長し、今や立派な大樹となり、スパニッシュ・ミッション様式の瀟洒な校舎とがお互い、手と手を取り合って理想的な景観を織り成すに到った。 もはや、西宮の丘陵地にはなくてはならない存在の関西学院上ヶ原キャンパスのなかでも、ここだけは、いつまで経っても変わらない。

ちょうど陸上競技場みたく、ぽっかりと長円形に開けた広大な芝生ひろばを仲睦まじく取り囲むかのように、ヴォーリズ(William Merrell Vories)設計の校舎たちが醸し出すほんわかとした(良い意味で)隙だらけの空気ゆえか、学院に学ぶ学生たちはむろん、勝手知ったる様子でお気に入りのディレクターズ・チェアに腰掛け、優雅なひとときを過ごす年配のご夫婦にはじまり、家族連れ、近所の子どもたちまで、老若男女問わず誰にだって諸手を挙げて迎え入れてくださる。
国内に一体どれだけの数の大学があるのか分かりませんが、こんなにも地域に開かれ親しまれる魅力的な場所は、他にはちょっと考えつかないくらい。

最初はやたらだだっ広いだけだと思っていた芝生ひろばも、実際に訪れてみると、東西軸線上に置かれた象徴的な時計台(かつての図書館)を基点として、南北にバランスよく配された四つの校舎(経済学部、中央講堂、文学部、神学部)のエントランスをつなぐ、あたかも真っ白いタスキをきりりと斜交いに結んだかのような、かろうじて人がすれ違えるくらいの細い園路が緑色に輝く芝生のなか、くっきりと描かれていて、ひろばのまわりをぐるぐる散策するだけではなく、お日様がさんさんと降り注ぐキャンパスのど真ん中を颯爽と横切る爽快さといったら、他にたとえる場所の説明に窮してしまうくらいの素晴らしさです。

この タスキ状の園路 によってかよらぬか、程よく分割された芝生ひろばを訪れる人たちによって、どうやら、めいめいお気に入りの場所があるとみえて、知性を象徴する時計台のあたりでは学生たちが語らい、どっしりと頼もしい中央講堂のあたりでは家族連れが寛ぎ、そして、経済学部(旧高等商学部)校舎や文学部校舎の長大さに比べると随分ちっぽけな神学部校舎のあたりでは子どもたちが遊んでいる といった具合で、他の校舎に比べてちっとも威厳のないところが何だか実にいい。 言葉少なに見護っていてくれるかのような、不思議な安らぎ というか親しみやすさが神学部校舎には間違いなくあって、無意識のうちに子どもたちが集まってくる様子に 「やっぱりね」 と、ひどく納得してしまうのでした。

1989(明治22)年の学院創設時から設置されている神学部は、日本の大学では数えるほどしか存在しないこともあり、あまり耳馴染みがないかもしれませんが、キリスト教伝道者の育成や、(伝道者を志さないまでも)キリスト教の思想や文化を学ぶ学生を受け入れているのだそうです。

そもそも関西学院は、キリスト教主義に基づく教育を方針とする由緒正しい学び舎ですから、折々の特別な行事や式典に際しての礼拝はむろん、平素の授業においても1時間目と2時間目の間に 「チャペルアワー」 と名づけられた礼拝の時間が設けられていて、あくまで自主参加ではありますが、各学部ごとに専用のチャペルが用意されているとのこと。
世のなかがどんどんグローバル化し、専門分野がますます多様化すればするほど、大学の役割も多様化しなければならず、関西学院においても各学部に在籍する学生が一学年あたり数百人規模が当たり前で、次々と新校舎が増設される時代に、神学部の一学年あたりの学生数は30名くらいのようですから、幸いなことにヴォーリズが想定していた昭和初期の時代の校舎のまま、今でも変わることなく大切に使われ続けています。

キャンパスの規模からすれば頼りないくらい、それはそれはちいさな校舎は、正面にそびえる時計台が立派であればあるほど、中央の芝生ひろばが広大であればあるほど、荘厳さとは無縁の人懐っこさが際立ち、信仰の壁すら飛び越えて、あらゆる人々をやさしく包み込む包容力に満ち満ちているかのようです。
その証拠に、子どもたちはあそびのまにまに 「水分補給だ」 とかいって、さも楽しそうに とん とん とん っと、控えめなレリーフに縁取られた、あのヴォーリズ建築に特有のやわらかなカーヴを描く段差を抑えたエントランスの石段を軽やかに駆け上がり、ほの暗いホールを折れ曲がった先の薄暗い中廊下にあるウォータークーラー(冷水機)でのどを潤し、てー っと春風のように戻ってはまたあそびに興じる。

もう、ほとんど 近所のおじいちゃんち にでも駆け込むくらいの気安さで、国内でも屈指の美しさを誇る学院の、歴史的建造物にありのままの姿で接する彼らの行為は、むしろ 美しい という概念を所有しないがゆえに尊いのかもしれません。

関西学院 神学部校舎

「宝石箱のような」 とでも形容するのがいかにもふさわしい。
もちろん、中身に贅を凝らした豪華絢爛なしつらえが施されているわけではなく、むしろその真逆ともいえるくらいに簡素で無駄のない、けれども、隅々にまで行き渡った心遣いと職人技には手間隙惜しまないのがヴォーリズ流で、これ見よがしな空間などこれっぽっちも存在しません。

両側に規則正しく教室や研究室のドアが並んだ、天井高さを抑えた薄暗い中廊下の両端に出入り口を兼ねた階段室が2階へと導く。 その階段室の踊り場にうがたれた、別段何てことない窓から差し込む自然光と背後に切り取られた樹木のシルエットがどういうわけか不思議に 美しい と感じるのもヴォーリズ流。 そして、低くどっしりとした階段の手すりは人のからだを受け止めるためにあるのだ と、理屈抜きに教えてくれるのもまたヴォーリズ流です。
2階も薄暗い中廊下の両側にドアが並んだだけの単調な空間でありながら、そこにあるのは不安や絶望などではなく、歩む先には希望の光があるような気さえする。
おそらく、それは勘違いでも気のせいでもなく、廊下の中ほどに取り付けられた木製のドアはここだけ丸いガラス窓になっていて、どこかしら、ほんのりあたたかな空気に満たされていることでしょう。 なぜなら、その部屋はささやかなチャペル(礼拝堂)なのですから。

そういえば、芝生ひろばから眺めた神学部校舎の正面中央部だけがスペイン瓦葺きの切妻屋根になっていて、てっぺんにちょこんと愛らしい鐘楼が載せられていたような…。
それが、チャペルのありかをそれとなく知らせる奥ゆかしい表現だったと気づかされ、どこにでもあるありふれた教室とさして変わらぬ広さの、これまでみてきた教会や学校の礼拝堂のなかでも最もちいさい、数十人でいっぱいになってしまいそうな空間は一学年あたりの学生数30名の学部にはぴったりの、最もヒューマンスケールな 祈りの場 になっておりました。

設計の初期段階では、神学部校舎に隣接して二層分の天井高さを誇る立派な礼拝堂が、芝生ひろばに面して専用のエントランスを与えられる案もあったようですが、キャンパス全体のバランスのなかで、次第に校舎に組み込まれて校舎とチャペルの境目が判然としないくらい、別ち難い関係にまで溶け込んでしまい、こんなにちいさな校舎のなかに、こんなにも素敵な空間が隠されているなんて、当の学生や教職員以外分かろうはずもありません。

モダンで洗練された鉄筋コンクリート造を採用しながら、チャペルの屋根構造のみ素朴で力強い木造のトラス組みで あらわし にする手法は、(関西学院と並ぶヴォーリズの傑作として名高い)目と鼻の先にある岡田山にキャンパスを擁する神戸女学院のソールチャペルや、(大正時代竣工のレンガ造ですが、同様の屋根構造を持つ)日本基督教団大阪教会にも見受けられますが、清楚な美しさにおいてはソールチャペルに、重厚さと荘厳さにおいては大阪教会には遠く及ばないものの、いつまでもそこに居たい と素直に感じ、ついつい気を許して素のままの自分に戻ってしまう一体感には替え難い魅了があって、崇高な というよりもやけに人懐っこい、南向きのアーチ窓から漏れ入るのはあたたかな光だけでなく、芝生ひろばであそぶ子どもたちの屈託ない笑い声。

この窓の向こうにあるのは、いつも希望。 それだけは、いつまで経っても変わることはないでしょう。
 
11月25日(月)

アトリエNo.5

白井晟一の建築といえば、巨大かつ重厚で、どうにも近寄りがたい印象をお持ちの方もおられるはず。 しかし、それは1960年代以降の経済的に恵まれた背景と、白井自身の揺るぎない実績とが相互に作用しながら花開いた、まるで自由を謳歌しているかのような時代のお話。
ほんのひと時、美しい花が咲くためには長く厳しい冬を耐え忍ばなければならないように、やがて来る春を待ちわびる蕾の時代に相当する1950年代の清貧な作品に、いいようのない魅力を感じてしまうのはどうしてなのでしょう。

戦後間もない1950年代初頭は誰もが貧しい、お世辞にも豊かとはいえない時代ではありましたが、優れた建築家たちが100㎡そこそこの、ささやかなローコスト住宅に惜しみない情熱を注いだ、磨けば輝く珠のような作品が誕生する稀有な時代であったことを忘れてはなりません。
ひょっとすると、最初は不本意な仕事だったのかもしれません。 どれ程苦しい事情があったとしても、譲れないものがある。 極限にまで切り詰められたさなかでも、ただただ住み手の幸せのために と、建築が建築であり続けるための創意工夫の末にたどり着いた、白井晟一による一連の最小限住宅はどれもこれも素晴らしい出来映えで、幸いなことに、21世紀の今日まで大切に住み継がれている例もあります。

1953年に竣工した アトリエNo.5 は、その名の示す通り画家のアトリエ兼住まいとして計画された、木造平屋建て、床面積にして107.3㎡の典型的な小規模ローコスト住宅です。
ちょっとやそっとではびくともしない。 「これ以上は一歩も譲れないのだ !」 という、ブレのない、岩のように頑なな信念は、そのまま建物にも現れるものと見えて、ゆったり緩やかな勾配が与えられた切妻屋根の建物には、南北方向にせり出すケラバの出は十全であるのに対し、東西方向の軒の出は皆無という摩訶不思議なデザイン。 ただし、木造住宅でろくろく雨も凌げない、満足に日射も遮れない設計など愚の骨頂。
たとえちいさな窓ひとつ、勝手口ひとつとて、命ぎりぎりの駆け引きの末にようよう導き出された としか説明しようのない、そんな、かけがえのない開口部をわざわざアルコーブ状にくぼませることで、ちっぽけな住宅に命の灯が宿る。 あたかも、仏師が仏像にノミを入れるかのように。

一本一本の線を殊更大切にする姿勢ゆえか、相当に吟味された開口部が素直な表情となって形づくられるエレベーション(立面)が比類のない美しさを持っていることは、 メディアありき の世の中では存外知られていないのではないでしょうか。
なぜかというと、写真を撮影する際、職業柄カメラマンはついつい道路に面した正面側を選んでしまうわけです。 道行く人からも視線を浴びるのですから、設計者であれば誰もが気を遣うのも当然といえば当然の行為。
ところが、こと白井の場合に限ってはそのような常識は通用しないと覚悟しなくてはなりません。
実際、アトリエNo.5の場合も、唯一道路に面した南側のエレベーションにそのような気遣いは見受けられません。 意図的にそうしているのか、あるいは、住み手の幸せに関係のない世間一般の評価に対して無欲だからなのでしょう。

アトリエNo.5

どんなにちいさく、つましくしてはいても、そこは画家のアトリエですから、神聖な仕事場である画室には十分な空間と快適な創作環境を用意したいところです。
だから、切妻屋根のてっぺんの一番天井が高くなる所にいの一番、画室を配置するのはむろん、目線に近い開口部には視覚にうるさくないよう、障子窓を入れてやわらかな拡散光を招き入れる。 極力天井懐は抑えつつ、目いっぱい天井高さを確保すると、障子窓の上にはおのずと三角形の壁面が生まれます。 少なくとも北側と南側に。
それならば、両側にガラス窓を設けてしまうのが得策と思われるでしょうが、さんさんと陽射しが降り注ぐ南側からの光線は移ろいやすく、安定しないのです。 したがって、開口部への関心はもっぱら採光が安定する北面へと向けられ、どうすれば美しく完成された空間になるのかを、良心ある建築家は純粋に自問自答する。 だからこそ、誰にも気づかれず、誰からも称賛されることのない北側のエレベーションは息を吞むほどに美しい。

美の神に捧げられた画室に面した、ちっとも目立たない、何てことない扉を開けると、そこから先は現実世界。 つまり、芸術家から一人の人間に還って心置きなく起居することが許される、それはそれはささやかな寝室空間に充てられています。
どれくらいささやかかというと、踏込みを兼ねた板の間のスペースがあって、畳二帖敷きの小上がりがある。 たったそれだけの極小空間です。 けれども、この限られた空間のために白井がどれ程腐心したか、密度の濃い内容を知るだけで察するに余りまあるものがあります。
二帖の極小空間 と聞くと、誰もが茶室を創造してしまいそうですが、ここはあくまでも住宅の寝室。 その証拠に、クローゼットや寝具入れのスペースが過不足なく誂えてあり、そこここに暮らしに対しての細やかな心遣いが散見されるばかりか、踏込み脇の壁を一枚ちょっと斜めに振るだけで、白井の描くたった一本のラインが思いもよらぬ空間の広がりを生み出すのですから、小難しい理論だけが全てではない。 建築とは、つくづく不思議な世界です。

その、ちょっと広角になった壁を極限の精神状態から一刀両断に切り取った二方向の窓が、神聖な画室に面した陽だまりのテラスと、それから心づくしの前庭へとつながって、傍から懸念されるような窮屈さや貧しさなど杞憂にすぎません。
ローコストや最小限といった決まり文句なんて、いつの間にやらどこかに吹き飛んで、お世辞にも豊かとはいえない時代だったのかもしれないけれど、実は不自由な時代のなかにこそ、真の自由があったのではないか と。