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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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08月20日(月)

ゴルコンデ(スリ・オーロビンド・ゴーズ僧院宿舎)

1930年代中頃、チェコ出身の建築家 アントニン・レーモンド(Antonin Raymond)の東京事務所に、いずれもまだ20代後半の若かりし前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマといった、後の建築界や工芸界に偉大な足跡を遺す、そうそうたるメンバーが三人同時に在籍するという、にわかには信じ難い奇跡的な建築家集団を形成していた時期があり、別荘から教会に至るまで、規模の大小や用途にかかわらず優れた建築物を矢継ぎ早に発表していた輝かしい時代のなかでも、とりわけ異彩を放つ作品があります。

マドラス(現在のチェンナイ)の南方、インド南部のベンガル湾に面したポンディシェリ(Pondicherry)に、聖人 スリ・オーロビンド・ゴーズ(Sri Aurobindo Ghose)から現代的な僧院宿舎設計の依頼を受け、現地に滞在するレーモンド事務所のスタッフとして選ばれたのが、各地を旅し、かねてよりインドに魅力を感じていたジョージ・ナカシマでした。

混沌とした様相を呈するインドの都市部における概念をやすやすと覆す、当時フランス領下にあったポンディシェリの、レンガ積みスタッコ壁にちいさな縦長の窓が配された、18~19世紀の古典的なフランス様式の建物が醸し出す小奇麗な街並みの一角に、より熱帯地方にふさわしい最新の建物を自力で建設する という使命を担って赴任したナカシマは、持ち前の好奇心旺盛な性格からか、あるいは士族の血統ゆえ、高い精神性を生まれながらに持ち合わせていたためか、異国・異教の地での暮らしに割合すんなりと馴染むにとどまらず、もらって然るべき俸給すらも謹んで辞退して、かの地の人々と同じ食事をし、同じ衣類を身にまとい、サンスクリット語で 「美を楽しむ者」 を意味するサンドラナンダ(Sundarananda)という名をスリ・オーロビンドより授かり、修道僧の生活共同体の一員として施設の設計や工事に携わったのだそうです。

ゴルコンデ(スリ・オーロビンド・ゴーズ僧院宿舎)

ゴルコンデ(Glconde)と呼ばれる僧院宿舎は、1930年代のインドでは前例のなかった鉄筋コンクリート造を採用するにあたり、まずコンクリートの調合や強度試験をおこなうための研究室を開設するところから始め、入手困難な鉄筋ははるばるフランスから取り寄せ、ほぼ修道僧たちの人力のみで打ち放し仕上げによる高度な施工を成し遂げてしまったのですから、驚異的といわざるを得ません。

西欧諸国とは異なり夏季は雨が多く気温・湿度とも上昇する、熱帯地方ならではの特殊な環境に近代的な建物を違和感なく溶け込ませ、簡素で清潔、快適な暮らしが営めるよう、ゴルコンデには様々な工夫がなされています。
従来のレンガ積みでは、構造上壁が多くを占め開口部が極端に限られてしまうため、室内は薄暗く風通しも十分ではありません。 そこで、鉄筋コンクリートの柱によって南北方向をすっかり開放した上で、軽量かつ単純な機構の可動式の水平ルーバーで日中の強烈な日差しを制御しつつ涼風を取り込む 「呼吸する建物」 となるよう、主要階の南および北側は同形状のアスベスト板ルーバーで規則正しく覆い尽くされ、個々が必要に応じて操作することで建物の顔ともいえる窓(間戸)に無限の表情が生まれ、無機的な素材の集まりに命が吹き込まれる。

初期の段階では、モダン建築の象徴的存在であるコンクリートのフラットルーフを計画していたものの、さすがに尋常ならざる熱射に防水層が耐えられず、多量の降雨に対して懸念が残ること。 そして、高温に熱せられたコンクリートスラブの熱が直接室内に伝わることだけは避けたいとの思惑から、フラットルーフの上に巨大な瓦を彷彿とさせるヴォールト状の薄いプレキャストコンクリート板をリズミカルに並べて二重構造の屋根とし、中間層に空気の通り道を確保して天空からの熱を遮断する方法が考案されました。
西欧の安直な受け売りでも、日本の伝統美の模倣でもない、インドの気候風土にふさわしい機能性と景観の創出を、一切の装飾を用いず、勤勉で真摯な修道僧たちの手仕事と近代のありふれた素材であるコンクリートだけでやってのけるなんて、一体誰が想像できたでしょうか。

ゴルコンデの建物構成は、片廊下に修道僧の寝室が水平方向に規則正しく並んだ地上三層(+半地下ユーティリティ)東西二棟の 住居部 と、その中間を垂直方向につなぐ階段室と水まわりの機能を集約した 共用部 のふたつによって成り立っています。

ゴルコンデ(住居部)

西欧の明朗さと日本の奥ゆかしさとを融和させたかのような、芝生と石灯籠と蓮池とが織り成す南庭と北庭に挟まれた住居部は、ふわり中空に持ち上げられながら、日本家屋の二階座敷の窓高さとの関連を模索したくなる屋外との親密さに加え、縁側のような気安さで思わず知らず腰かけて瞑想にふけること間違いなしの、ゆったりとしたベンチ状の窓台が、家具と建具との境界を曖昧にぼかしつつ空間に溶け込み、(あたかも10年後の未来を予見するかのような)ナカシマ自身によってデザインされ、インドの職人たちによって手づくりされた非の打ち所がないチーク材の家具を、かの地の気候風土にさり気なく順応させた(同じくナカジマのデザインであろう)チ-ク材の引き違い戸が共用廊下すらも我が住まいの一部になり得ることを立証し、レバーひとつで自在に調整可能な水平ルーバーの繊細さとあいまって、ここに起居する誰もがその日の気候と自身の心持ちに最も寄り添った快適な住環境を手中にするのに、ややこしいシステムや小難しい理論などこれっぽっちも必要ありません。

鉄筋コンクリート打ち放しの技術を習得する一方、構造や機能との好ましいバランスのなかで隣接する寝室どうしを別つ東西の壁には、当地で確立されたレンガ積みの上に石灰岩に貝殻や卵白をブレンドした純白のしっくい壁を塗り込み、日本の木造建築における真壁にも似た効果を加味することで、しっくい壁が 余白 の役割を果たし、清楚な空間に構造材であるコンクリートの柱梁や床に貼られた漆黒の天然石、チーク材の家具や引き違い戸、ルーバー窓から漏れ入る自然光までがくっきりと引き立つ心憎い演出もゴルコンデの見どころのひとつといえるでしょう。

ベンガル湾へとつながる大通りに沿って、色とりどりの花咲く植物たちに縁取られたスタッコ塀にうがたれた、すらりと背の高い木製扉を開けると、そこは乱張り石が敷き詰められたささやかなエントランスホールになっていて、ちょうど日本でいうところの沓脱石でそっとサンダル脱いで一段上がれば、さも素足にひんやりと心地よさそうな丁寧に磨かれた黒石張りの床が、さながら庭園を臨む静謐なステージのように上階へと来館者を誘う、垂直方向へと展開する階段室になっております。

ゴルコンデ(共用部)

「これぞナカシマ流!」 と、称賛せずにはいられない。
チークの一枚板を手すり代わりに渡しただけの、支柱ひとつとてない、大胆さと繊細さが同居したかのようなメイン階段を手がかりに、背後に隠されたサービス用階段との間のわずかなスペースを変幻自在に操って、修道僧たちの暮らしに必要な水まわりの諸室が周到かつ巧妙に組み込まれていて、寝室のある1~3階レベルにはシャワー室を、階段踊り場のある1.5階および2.5階レベルにはトイレ、サービス用階段を経由した3.5階レベルには洗濯室、屋上レベルには物干し場… といった具合に、千鳥状に無駄なく小気味よく、立体的に空間が連続するスキップフロアの考え方が試みられています。

ただし、ここで肝心なのは、水まわりには少なくとも給排水の配管設備が必要となること。 更に、においや湿気を排出し新鮮な外気を導入する換気設備もほしいところですが、快適さを求めれば求めるほど設備は複雑になり、長く使い続けるためにはメンテナンスの作業が不可欠になってしまいます。 そうであれば、やはりメンテナンスは修道僧たちが自力で行える単純で最小限の内容にとどめたい等々、課題は山積みです。
そこで、階段室はもとより、トイレやシャワー室の開口部には居住部と同じように可動式の水平ルーバーを取り付けて外部からの視線を遮りつつ外気や採光を取り込み、(レベルの異なる)シャワー室とトイレとの間に煙突状の換気塔を確保し、ここに面してガラリ窓さえ設ければ、重力差によって上方へと空気が流れ、換気扇のような機械に頼らなくても自然の力で循環させることが可能ですし、換気塔の一部を設備配管のスペースとして有効活用すれば、後々のメンテナンスにも対応できて 良いことづくめ ではありませんか。

ナカシマの記した回想記(※ 「木のこころ ― 木匠回想記」 鹿島出版会)によれば、僧院の生活では厳しい修行を強いることはなく、様々な才能を持った人々がそれぞれの才能を惜しまず、個のためではなく皆のために提供することでひとつの共同体が営まれていたそうです。
そんな 精神的な拠り所 としてゴルコンデは自力建設され、ジョージ・ナカシマもその拠り所を探し求めてたどり着いた一人だったのではないでしょうか。 その証拠に、僧院宿舎は80年後の今日も当時と同じまま引き継がれ、変わらぬ輝きを放ちながら大切に使われ続けているのですから。
 
07月20日(金)

よだかの星

かれこれ今から10年以上も前になるでしょうか。 NHKのラジオで、放送局のアナウンサーが毎週ひとつの文学作品を朗読する番組があり、その日は、ある女性アナウンサーが宮沢賢治の 「銀河鉄道の夜」 を朗読しておりました。

僕は、宮沢賢治の童話を全く知らずに過ごすという、恐ろしく不幸な子ども時代を送った、ひどくかわいそうな人間で、遅ればせながら大人になってから衝撃を受け、以後、むさぼるように彼の童話作品を読んで参りましたが、代表作に挙げられる 銀河鉄道の夜 については、長編で、しかも未完の作品ということもあったのでしょうか、正直、どうもよく分からなかったのです。
それなのに、ラジオから聞こえてくるお話は、よくありがちな声色を使ってドラマ仕立ての演出を加えたような 子どもだまし の内容とはぜんぜん違う、作品の本質に迫るかのような素晴らしい出来ばえで、たちまち惹き込まれてしまいました。

そこには、ちまたで見聞きする童話や児童文学とは縁遠い感覚、しんみりと、どこか沈んだ物悲しさ…、 「愁い」 ではちょっと不適切な、そう、 「もののあはれ」 です。 賢治は もののあはれ を表現することができた、稀有な童話作家だったのではないでしょうか。 もののあはれ などと古風な表現で説明すると、何だか難解そうに聞こえるやもしれませんが、個人的には 美しさのなかに神聖さを感じ取るこころ かなと、勝手ながら解釈しています。

28歳の頃に書きはじめ、以後10年近くにわたって改稿を繰り返したものの、病に倒れ、結局、未定稿のまま後世に語り継がれる運命となった名作 「銀河鉄道の夜」 は、賢治童話の集大成といってみてもよいかもしれません。 そうであれば、それまでに彼が遺してきた数々の短編童話のなかにも相通じる作品が存在すのではないでしょうか。
たとえば、22歳の時はじめて創作し、幼い弟妹に読み聞かせたとされる 「双子の星」 。 そして、童話の執筆に没頭していた25歳頃に創作された 「よだかの星」 です。 特に よだかの星 は、手元にある文庫本にしてわずか9ページと、短いこともあり、より純粋に もののあはれ が表現されているといえるでしょう。

ご存知の方も多いかもしれませんが、詩集は別にしても、宮沢賢治の生前に発表された童話作品はほんの一部に過ぎず、その多くは彼の亡くなった後に出版されています。 これは、別に彼が意図的に発表しなかったわけではなく、(これもまたよく知られたエピソードですが)当時でも童話や児童文学作品を掲載する雑誌は幾つかあり、実際に原稿を持ち込んでいたにもかかわらず、いずれも採用には至らなかったのだそうです。
なかでも、日本の近代児童文学に多大な影響を与えたとされる雑誌 「赤い鳥」 の創設者であり、もともと作家でもあった鈴木三重吉(※ 夏目漱石の教え子であり、彼に評価されるほどの文才の持ち主でした)ですら正当に評価することができなかった。
これは、児童文学が 子ども向け という範疇に過たずおさまっていなければならなかったご時世で、賢治の創作は当時の概念を遥かに超越した作品になっていたため、そもそも理解のしようがなかった経緯ゆえなのでありましょう。 つまり、彼の童話はいわゆる子ども向けではなく、子どもも含めたあらゆる人たちへの こころのこもったおくりもの だったのです。

短編童話 「よだかの星」 は、どうやらかつては教科書にも採用されたことがあるらしく、それはそれで子どもたちにとって、想像の世界をひろげるきっかけとなる素晴らしい試みなのかもしれません。
けれども、もし、おとなたちがこのお話の本質をきちんと理解せず、しょせんは子ども向けの読み物と見下して、 「差別をしてはいけません!」 といった狭い解釈のなかに閉じ込めてしまっていたとしたら、それはマニュアルにかまけた おとなの都合 であって、かえって子どもたちの想像の扉を閉ざしてしまう結果になりかねない気がして仕方がありません。
実際、そんなものだと思って成長してしまった、想像の芽を摘まれた悲しいおとなたちがいっぱいいたとしたら、あまりにも不幸ですし、何も知らずに成長した僕のような人間がむしろ幸せのようにすら思えるなんて、つまらないではありませんか。

物語はいきなり冒頭から、よだかの容姿のみにくさ、滑稽さが描写されてはいるけれど、そこには上から見下したようなつっけんどんさは微塵も感じられない、よだかだけでなく、彼を慕うカワセミやハチスズメといった宝石のような弟たち、それから彼を卑下する鳥たちまでまるごと、おおきく包み込むような作者の深い深い愛情を意識せずにはいられません。 きっと、こんな気持ちを もののあはれ とでもいうのでしょう。

はるか千年もの昔、平安王朝の才女たちより連綿と受け継がれてきた美的理念 「もののあはれ」 は、人類が創造した最良の音楽のひとつに数えられるであろう、晩年のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)が未完の大作 「レクイエム(Requiem)」 に先立って作曲した、わずか3分あまりの小品 「アヴェ・ヴェルム・コルプス(Ave verum corpus)」 にも同じ類いの輝きが感じられるのは、偶然でも単なる気のせいでもなく、芸術のなかでは国境など存在しない、同じ星の住人だからなのかもしれません。

よだかの星
「よだかの星」 カラーケント貼り絵、アクリル

 
05月26日(土)

ユネスコ庭園

ずっと気づかなかった…。

以前から、本棚の片隅に一冊の洋書がありました。 1958年にイサム・ノグチが手がけた、パリのユネスコ本部のための庭園のみに焦点をあてて執筆された本です。 数多あるイサム関連の書籍のなかでも、かなりマニアックな部類に含まれるといえるでしょう。

NOGUCHI IN PARIS: THE UNESCO GARDEN
「NOGUCHI IN PARIS: THE UNESCO GARDEN」 MARC TREIB 著 (
UNESCO PUBLISHING)

もし、日本の庭園に造詣の深い方々がユネスコ庭園を評するとしたら、多少なりとも困惑するに違いありません。 それどころか 「こんなの日本庭園じゃないよ」 といい出すやも知れません。 けれども、それは致し方ないことではあるのです。

イサムは日本各地の優れた庭園を訪ね歩き、作庭家として名高い重森三玲の助言を受けながら庭石を探し、パリに送り届けた上で京都の庭師と協働で二年余りをかけてこの庭をつくり上げたと聞いております。 サクラ等の主要な庭木も日本から苗木を送って植えているようですから、確かに日本庭園の血統は十分に受け継いであるはず。 それにもかかわらず、こころのどこかで 「これは日本庭園なのだろうか?」 と自問自答してしまう正直な自分が、どこかにいるような気がしてなりません。
やはり、日本の伝統を意識しすぎたイサムらしからぬ仕事なのだろうか と、後年、幾つものイサムらしい庭園を成し得た輝かしい功績を知るものとしては、彼のキャリアのなかでも初期のランドスケープ・デザインに位置づけられるユネスコ庭園の存在は、結局 芸術家ならではの難解な作品 といった煮え切らない解釈のまま、本棚の陰で身を潜め、いたずらに時間だけが過ぎてゆきました。

ところが何かの折に、ふと手に取った表紙カバーの一部がトレーシング・ペーパーのように透けていることに気づき、何気なくめくってみると、そこにはユネスコ庭園の魅力を余すところなく表現したグラフィカルな(本当の)表紙が隠されてあり、このひろい世界でイサムだけに表現し得る美しさと、唯一無二の独創性を驚きとともに再認識したのでした。

NOGUCHI IN PARIS: THE UNESCO GARDEN

この表紙、 ナスカの地上絵 ではないけれど、単純な(しかも、自然界には存在しない人工的な)線のみの組み合わせで表現された庭の輪郭からは、はっきりとした意思(あるいは作為)を感じられ、日本庭園が身上とする曖昧にぼかされた捉えどころのない輪郭とは根本から表現方法が違っています。

ユネスコ庭園は、パリの市街地の、しかも近代建築の粋を尽くしたビルディング(※ 8階建ての本館+5階建ての別館)に囲まれた特殊な条件下にあるわけですから、そもそも伝統の日本庭園を忠実に再現すること自体意味を成さない と、そのように考えた(であろう)イサムは、生来表面的なしがらみからは自由な人ゆえ、日本庭園の精神を彼なりに咀嚼して、日本の材料と職人の技術、それに西欧の材料と職人の技術をミックスするという、国際的な視点とたぐい稀な感性を兼ね備えた芸術家だけに許される型破りな手法でもって、文化を通じて世界をひとつにする というユネスコの考え方にふさわしい空間を創り出そうと意図したのではないだろうかと、おぼろげながら気づいた次第です。 この庭は、イサムの空間芸術への長い長い旅の出発点であると。

ユネスコ本部

職員たちが働く、モダンなガラス張りの本館や別館のオフィス内から庭を眺めると、自ずと上方から見下ろすことになりますが、このような近代的なビルディングに切り取られた環境下においては、輪郭のぼやけた日本庭園よりも全体構成のはっきりした西欧庭園の方が 作品 という意味では優れているといえるでしょう。 だから、自然石と苔に覆われた土とがやわらかなラインを描く日本庭園の定石を、ここではあえて放棄して、かわりに近代建築のありふれた素材であるコンクリートで翻訳され描かれた、芸術家ならではの一見不可思議なラインを 良し とした。 そう、あの隠された表紙のデザインです。

驚くことにユネスコ庭園は、ナスカの平面的なそれとは違い、高低差を駆使した立体造形に基づいて構成されていたのです。
ナスカの地上絵は、地面に立った状態ではその存在に気づく人は皆無ですが、ユネスコ庭園は、庭に身を置くことではじめて、地面のうねりが生み出す表情や絶え間なく流れる水の音を感じ、ぐるり回遊することで20世紀を代表する芸術家の作品を体感できる。 しかも、時とともにうつろう樹々たちを味方に季節ごと、 たった一度きりの空間芸術を垣間見せてくれるはず。

この庭は、全体を見下ろす 「上方からの視点」 と、回遊する 「人の視点」 という、相反する二つの視点から成立しているといえます。
強いて例を挙げるとすれば、西欧に対して日本。 それぞれの国の持つ良いところ。 つまり、異なる個性をひとつのカタチに融合することで生まれた…。 それはアメリカ人の母と、日本人の父を持ち、日本に住めばアメリカ人と呼ばれ、アメリカに帰れば日本人とささやかれ、本当のふるさとを捜して終わりのない旅を続けながら、結局帰る場所を 芸術のなか にしか見い出せなかった彼だからこそ成し得た、たったひとつの庭。 日本とか西欧とか飛び越えたそのまたずっと先の世界で、イサムは大地をまるごと彫刻していたのではないでしょうか。

ユネスコ庭園