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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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05月26日(土)

ユネスコ庭園

ずっと気づかなかった…。

以前から、本棚の片隅に一冊の洋書がありました。 1958年にイサム・ノグチが手がけた、パリのユネスコ本部のための庭園のみに焦点をあてて執筆された本です。 数多あるイサム関連の書籍のなかでも、かなりマニアックな部類に含まれるといえるでしょう。

NOGUCHI IN PARIS: THE UNESCO GARDEN
「NOGUCHI IN PARIS: THE UNESCO GARDEN」 MARC TREIB 著 (
UNESCO PUBLISHING)

もし、日本の庭園に造詣の深い方々がユネスコ庭園を評するとしたら、多少なりとも困惑するに違いありません。 それどころか 「こんなの日本庭園じゃないよ」 といい出すやも知れません。 けれども、それは致し方ないことではあるのです。

イサムは日本各地の優れた庭園を訪ね歩き、作庭家として名高い重森三玲の助言を受けながら庭石を探し、パリに送り届けた上で京都の庭師と協働で二年余りをかけてこの庭をつくり上げたと聞いております。 サクラ等の主要な庭木も日本から苗木を送って植えているようですから、確かに日本庭園の血統は十分に受け継いであるはず。 それにもかかわらず、こころのどこかで 「これは日本庭園なのだろうか?」 と自問自答してしまう正直な自分が、どこかにいるような気がしてなりません。
やはり、日本の伝統を意識しすぎたイサムらしからぬ仕事なのだろうか と、後年、幾つものイサムらしい庭園を成し得た輝かしい功績を知るものとしては、彼のキャリアのなかでも初期のランドスケープ・デザインに位置づけられるユネスコ庭園の存在は、結局 芸術家ならではの難解な作品 といった煮え切らない解釈のまま、本棚の陰で身を潜め、いたずらに時間だけが過ぎてゆきました。

ところが何かの折に、ふと手に取った表紙カバーの一部がトレーシング・ペーパーのように透けていることに気づき、何気なくめくってみると、そこにはユネスコ庭園の魅力を余すところなく表現したグラフィカルな(本当の)表紙が隠されてあり、このひろい世界でイサムだけに表現し得る美しさと、唯一無二の独創性を驚きとともに再認識したのでした。

NOGUCHI IN PARIS: THE UNESCO GARDEN

この表紙、 ナスカの地上絵 ではないけれど、単純な(しかも、自然界には存在しない人工的な)線のみの組み合わせで表現された庭の輪郭からは、はっきりとした意思(あるいは作為)を感じられ、日本庭園が身上とする曖昧にぼかされた捉えどころのない輪郭とは根本から表現方法が違っています。

ユネスコ庭園は、パリの市街地の、しかも近代建築の粋を尽くしたビルディング(※ 8階建ての本館+5階建ての別館)に囲まれた特殊な条件下にあるわけですから、そもそも伝統の日本庭園を忠実に再現すること自体意味を成さない と、そのように考えた(であろう)イサムは、生来表面的なしがらみからは自由な人ゆえ、日本庭園の精神を彼なりに咀嚼して、日本の材料と職人の技術、それに西欧の材料と職人の技術をミックスするという、国際的な視点とたぐい稀な感性を兼ね備えた芸術家だけに許される型破りな手法でもって、文化を通じて世界をひとつにする というユネスコの考え方にふさわしい空間を創り出そうと意図したのではないだろうかと、おぼろげながら気づいた次第です。 この庭は、イサムの空間芸術への長い長い旅の出発点であると。

ユネスコ本部

職員たちが働く、モダンなガラス張りの本館や別館のオフィス内から庭を眺めると、自ずと上方から見下ろすことになりますが、このような近代的なビルディングに切り取られた環境下においては、輪郭のぼやけた日本庭園よりも全体構成のはっきりした西欧庭園の方が 作品 という意味では優れているといえるでしょう。 だから、自然石と苔に覆われた土とがやわらかなラインを描く日本庭園の定石を、ここではあえて放棄して、かわりに近代建築のありふれた素材であるコンクリートで翻訳され描かれた、芸術家ならではの一見不可思議なラインを 良し とした。 そう、あの隠された表紙のデザインです。

驚くことにユネスコ庭園は、ナスカの平面的なそれとは違い、高低差を駆使した立体造形に基づいて構成されていたのです。
ナスカの地上絵は、地面に立った状態ではその存在に気づく人は皆無ですが、ユネスコ庭園は、庭に身を置くことではじめて、地面のうねりが生み出す表情や絶え間なく流れる水の音を感じ、ぐるり回遊することで20世紀を代表する芸術家の作品を体感できる。 しかも、時とともにうつろう樹々たちを味方に季節ごと、 たった一度きりの空間芸術を垣間見せてくれるはず。

この庭は、全体を見下ろす 「上方からの視点」 と、回遊する 「人の視点」 という、相反する二つの視点から成立しているといえます。
強いて例を挙げるとすれば、西欧に対して日本。 それぞれの国の持つ良いところ。 つまり、異なる個性をひとつのカタチに融合することで生まれた…。 それはアメリカ人の母と、日本人の父を持ち、日本に住めばアメリカ人と呼ばれ、アメリカに帰れば日本人とささやかれ、本当のふるさとを捜して終わりのない旅を続けながら、結局帰る場所を 芸術のなか にしか見い出せなかった彼だからこそ成し得た、たったひとつの庭。 日本とか西欧とか飛び越えたそのまたずっと先の世界で、イサムは大地をまるごと彫刻していたのではないでしょうか。

ユネスコ庭園
 
04月25日(水)

本願寺伝道院の石像

京の街の知られざる魅力を堪能いただく方法を、ひとつ披露することにいたしましょう。

観光地とは無縁の、さして広くはない油小路通を北から南へと縦断してみるのも一興 ということで、 かつては畑や野原が一面にひろがっていたであろう、いかにも家庭的で堅実なサラリーマンが好みそうな、昭和初期に造成されたであろう閑静な住宅地を抜けると程なく、何かの拍子で一筋東の小川通に吸収される頃合いに、茶の心得のない者にはいささか肩身の狭い、伝統を重んじる裏千家のお屋敷が発する厳格で底知れぬ奥行きに少々おののきつつも、いつの間にやら異世界から再び現実世界(油小路通)へと合流し、こちらも450年もの歴史を有する樂焼の窯元が代々住まいとする樂家の醸し出す、機転の利いた洒脱さにほっと一息き着きながら、ぽつぽつと庶民的な町家が点在するまにまに、オモテの大通りからでは到底うかがい知ることなどできない、ウラの通用口越しにちらちら垣間見る旧堀川会館のひどく洗練されたたたずまいから村野(藤吾)建築の真髄に触れ、かつては職住が理想的に調和した商いの中心地であり、現在は住み手の気配すらも感じられない(表面だけ)ゴージャスなマンションに埋め尽くされた感のある絶望的な四条通界隈からは、それでもいにしえの美学を頑ななまでに伝承する秦家や野口家といった第一級の京町家が、分かる人には分かる本物の輝きを発し続けていたりします。

さらに南へと歩みをすすめれば、次第に庶民的な町家と 「地域に親しまれているな」 と直感するに十分な愛情に満たされた、昔ながらの小学校と幼稚園とが織り成す情景から、お世辞にもゴージャスとはいい難い質素で棘のない下町ならではの飾らぬ素顔に出会うことも夢物語ではありません。 ところが、五条通を過ぎる頃合いになると下町情緒はそのままに、得もいわれぬマイナーな空気感を漂わせるようになり、なんの予備知識もなく通りがかると、いえ、たとえ十分な知識をもって精神鍛錬を怠らず、万全の態勢で通りがかったとしても驚嘆しないわけにはゆかない事態に直面することでありましょう。

西本願寺の総門へとつながる、仏具店が軒を連ねるいかにも門前町といった風情にあふれた正面通と、くだんの油小路通とが交差する角地に100年以上も前のある日、忽然と姿を現した としか表現しようのない ただならぬ光景 は、本願寺関係の由緒正しい建物であろうことは重々承知のうえでも、奇抜で斬新な建物がそこらじゅうにあふれかえっている21世紀の現代においても際立って個性的かつ孤高の存在として君臨し、それにしては異国の香りと(意外にも)お線香の香りが妙にしっくりと似合う、もともとは真宗信徒生命保険会社の社屋として生を受け、 本願寺伝道院 の名でおなじみの歴史的建造物なのでした。

実際、この世に二つと現存しない前代未聞の仏教関連施設を前にすると、どうにもへんてこな印象を抱かないわけにはゆきません。 それは、本願寺伝道院を語る際にしばしば用いられる西洋と(中東辺りまでを含む)東洋の様式をミックスした不可思議さだけではなく、ある種独特のスケール感の方にこそ、むしろ摩訶不思議な空気がみなぎっている と表現しても過言ではありますまい。

写真をご覧になっただけではなかなか伝わりにくいかもしれませんが、京の伝統的な街並みにふさわしくこじんまりとした通りのスケールに対し、伝道院は眼前に立ちはだかる巨大な壁のような印象を否めないのがその理由で。 そうか、これは都市計画的な視点から通りの向こう側にある西本願寺の境内から眺めた時のバランスで決定したのかと思いきや、建物のシンボルともいえるドーム屋根の塔屋が変に大きく重々しくて、やっぱり足元から見上げた時のバランスから求められたような気はするのだけれど、人間の目線からでは建物の窓下の(重厚なレンガ造なのにわざわざ表面に薄っぺらなレンガ風タイルを貼っている)壁や床下通気口しか視界に入らず、周囲に手彫りの石材をめぐらせた縦長の窓も、凝った装飾が施されたテラコッタ製の屋根飾りも遥か頭上にあるわけですから、普通の人間 というよりも身長が優に4mくらいはありそうな巨人の視点から計画された とでも説明しなければ到底合点がゆかない出来栄えで、その証拠に、きちんとした書籍に掲載されている一流のカメラマンの手による美しい写真を注意深く観察すれば、おしなべて近くの建物の2階あるいはそれ以上の階(つまり、人間よりもずっと高い視点)から工夫して撮影されてあるはずです。

本願寺伝道院を設計したのは伊東忠太という人物です。 彼は辰野金吾(※ 東京駅の設計を手掛けた建築家です)を師とする近代建築の黎明期を支えた日本人建築家の第二世代に相当し、日本人としては初めてとなる建築史家であり、かつ大学教授と実務をこなすプロフェッサーアーキテクトでもあり、西欧のアーキテクチュア(architecture)という概念を輸入した際に 「建築」 という言葉(※ それ以前は「造家」という言葉をあてていたそうです)を用いるよう提唱した学者としての横顔からもお分かりのように、当時最新の西欧建築にとどまらず日本の伝統建築にも造詣の深い稀有な才能の持ち主でしたから、まだ20代の若さで 「平安遷都千百年記念祭」 の目玉事業である大内裏の復元プロジェクトに設計者として抜擢される、目もくらむような華々しい経歴をスタートさせました。
ただ、古都京都の威信をかけて取り組んだ大内裏の復元事業(※ 後に平安神宮の社殿となりました)も、用地取得や予算の関係から本来の平面計画を8分の5に縮小せざるを得ない現実社会の厳しい洗礼と机上の学問とのギャップが彼にとっていか程のものであったのか。 若き日の苦い経験がしこりとなって無意識のうちにも、後々手掛ける作品に対するスケール感に何らかの影響を及ぼしたのかもしれません。

裏千家の(良い意味での)厳格さがあるからこそ、樂家の洒脱さがこころの奥底に染み入るように、人間のちっぽけさを痛感しないわけにはゆかない伝道院の巨大なスケール感があるからこそ、つくり手の細やかな愛情がひしひしと伝わってくるのもなのか。 とにかく伊東忠太の功績を語るには、ちっぽけな人間の目線よりももっと低い場所で、テコでも動きそうにない小山のような建造物をしっかと護るように配された空想動物たちの存在を抜きにしてはいけないような気がするのです。

本願寺伝道院の石像

柵もしくは車止めのようなあんばいで、通りとの境界近くに てん てん てん と規則正しく並んだ子どもの背丈ほどの石柱のてっぺんには、これまた子どもの顔くらいの大きさの空想動物が彫られていて、秋祭りの獅子舞みたく子どもが泣き出してしまうような いかめしさ などこれっぽっちも所有しない、随分と親しみやすいユーモラスな姿をしています。

翼の生えた象や舌を出した狛犬、東南アジアあたりの神話にでも登場しそうな鳥もいれば 「となりのトトロ」 ばりにひどく歯並びのよい鳥がいる といった具合に、愛嬌あふれる空想動物をデザインしたのは、他ならぬ建物の設計者である伊東忠太その人で、もともと彼は画家を志していたものの、家族の反対によって(芸術に近い)建築の道に進んだ稀代の逸材は、単に機能をカタチにするにとどまらず、幼い頃から好きで好きで仕方がなかった妖怪(聖獣)たちの姿を想像し、その道の職人たちの力を借りることではじめて創造できる 建築 という手法でもって具現化する術に、歩むべき活路と使命を見出したからなのではないでしょうか。

下町の暮らしに相応しいヒューマンスケールの通りに面して、忠太の頭のなかで存分に想い描いた動物たちが建物を仏敵から護り、道行く人々の安全と幸せを100年以上にわたって静かに見守ってきたに違いありません。 その証拠に、買い物帰りのおばあさんが石柱のそばにちょこんと座って一休みしている姿をたびたび見かけますし、ちいさな子どもと前を通ろうものなら、まず間違いなく彼らとおんなじ目線に並んだ妖怪たちが気になって気になって仕方がなく、それはそれは熱心に会話してしまうものですから、お母さん方は時間に十分な余裕を持って出かけなければならなかったりもします。
では、どうしてこのような拠り所が成り立っているかというと… 、そう、建物のスケールを大きくすることで足元に人々がこころ許せる 隙 を生み出していたからなのです。
夢見るこころを失わない一流の建築家と、それをカタチにする術を身に着けた腕利きの職人とが心血注いでつくり上げた本願寺伝道院は、時間という名の試練を乗り越え、僕たちの心配などいとも軽々と吹き飛ばして、これからもこの街をしっかと見守り続けることでしょう。
 
02月25日(日)

丼池繊維会館

「都市の角地に建つ建物たるものかくあるべし」 との気概がひしひしと伝わってくる、ひどく生真面目でどこか武士道にも通じるような近代建築が、1920年代から30年代の大阪には芽生えていたとみえて、伏見ビルしかり、芝川ビルしかり、大阪ガスビルしかり。 いずれも新しい時代の波に触発され出現したかと思しき、くるりんと流麗な丸みをおびたコーナーを生まれながらに持ち合わせています。
かつて町人文化の華開いた船場エリア。 繊維問屋が軒を連ねる角地に人知れず、ひっそりとうずもれていた丼池繊維会館が近年、永年にわたってごてごてとまとわりついていた鋼鉄の仮面からすっかり解き放たれ、往時を彷彿とさせる軽やかな素顔でもって、 こんなところにも丸いコーナーがあったのか!と、近代建築ファンの目をくぎ付けにすることまず間違いなしです。

自由というのは、実のところ傍から見るほど楽ではない。 それでも、(ギリシャ神話のパンドラの箱ではないけれど)その片隅には必ずきらきらとした夢や希望があったはずです。
どこか堅苦しいクラシックからつるりと無表情なモダンへと移行する、瞬きするくらい、ほんのわずかな時空の狭間で、豊かな経済力と、確かな審美眼と、新たな文化をすんなり受け入れる度量を持ち合わせた町衆と、連綿と受け継がれてきた高度な技量を有する数多の職人衆が、めぐり会うべくしてめぐり会った稀有な時代に創造された、無名の、けれども宝石のような輝きを放つ建造物が90数年後、まわりまわって脚光を浴び、きちんと手を加え次代へと継承される。 今はそんな転換期にあるのでしょう。

世界の最先端を具現化するに足る、滋味豊かな土壌に恵まれた1920年代の大阪は、現代ほど情報があふれ返っているわけではありません。
何だかぼんやりとした空想世界を試行錯誤するような、曖昧で不確定な境遇がかえって個性や想像力をはぐくみ、ひとくちに 角の丸い建物 といっても、ひとつとして同じ表情にはならなかった事例が雄弁に物語るように、もともとが銀行建築として生を受けた丼池繊維会館も、平滑なタイルとぼこでこした左官仕事という、常識からすれば相いれない要素を、さらりと難なく共存させています。
今みてもどこやら近未来的な風格を漂わせているくらいですから、当時はさぞかし銀行らしからぬ斬新な容姿だったものと推察されます。

繊維産業がこの上なく発展した戦後復興期のこと。 そもそも主を失って久しい銀行建築を近隣の旦那衆らが買い取り、サロンや福利厚生施設として再生したのが丼池繊維会館のはじまりなのだそうです。
その頃撮影されたセピア色の外観写真を拝見するに、背筋のしゃんとした 20世紀のモダン侍 とでも評せばよいのか。 どうやら地下室までも備えているらしく、足元に明り取りをあつらえたやや腰高な石積みの上に三層分、平滑なタイルを纏った外壁がコーナーだけ堅固な壁の厚み分、奥ゆかしくセットバックしてからくるりんと優雅に弧を描く。 強度を損なわないよう慎重に、かつ規則正しく穿たれた窓は1階のみアーチ状とし、端っこに押しやられた階段室のところだけさり気なくアーチの位置を違えてあります。
知性と気品を持ち合わせた頂に、王冠というよりも貴婦人が身に着けるティアラを彷彿とさせる軒の出は、適度に雨をしのぎ日射をさえぎる。 その水平ラインと意図的に欠き取られ天空に突き刺さるペントハウスとが織り成す好対比が、まるでこれから先の理想的な都市景観の在りようを暗示するかのように…。

そんな、偉大な先人たちの示唆する教訓なぞお構いなしに時は流れ、繊維産業が衰退するなか、賃貸スペースとしての在りように活路を見出し、時代の波に乗り遅れまいと化粧の上塗りのような改修を繰り返した末にたどり着いたのは、地層のように堆積した厚塗りの化粧を取りはがし、1920年代の匠たちの仕事と向き合いながら、創造することの楽しさ、苦しさを噛みしめ分かち合う、地道で謙虚な リノベーション という選択でした。
リノベーションと聞いて、安直な before - after を想像してはいけません。 ここでいうリノベーションとは表面的なイメージのお仕着せではなく、傷だらけの建物と会話をしながら繕い、かつ前に進む行為のことなのですが、こんなにも拙い説明ゆえ、何のことだか訳の分からない方は実際の丼池繊維会館に身を置いてみれば、きっとすぐに分かります。

丼池繊維会館 空間構成

(おそらく)クライアントと施工者と設計者との間には、いつも傷だらけの建物があって、何かを判断しなければならない時、彼らはきまって建物の声にそっと耳傾けていたのではないでしょうか。
見苦しいところこそ、綺麗にフタしておざなりにしない。 継ぎはぎだらけの空間には、元のままのところと(失って)金輪際二度と戻ってこないところ、繕ったところと(やむなく取り壊されてしまった)他の建物から移植されたところ、現代の感覚で最低限付加されたところが嘘偽りなく表現されていて、出来合いのパーツをマニュアル通りに組み立てる昨今の時流とはおよそかけ離れた、辛くて、苦しくて、先も見えず、しかも終わってみると何だかさみしい。 けれども、やっぱり満たされているのだな と、誰しもが共感できるのは、こと切れそうだった建物に新たな命が吹き込まれたからなのでありましょう。

元来が商業目的の建物な上、ただですら限られた、しかも、営業空間でもない階段室なぞは端っこのほんのわずかなスペースしか割り当てられない。 悲しいけれど、これが現実です。
「それじゃ仕方ないよね」 と早々に諦めるのか、 「だからこそ豊かな空間にするのだ」 と逆境から想像の翼をひろげるのか。 明らかに後者に該当する、丼池繊維会館の階段室は、狭い幅員によって得られたほんにささやかな吹き抜けを頼りに、コの字状に旋回しながら昇り降りする仕組みになっていて、堅固な鉄筋コンクリート造だからこそ温もりが大切 と、身体が触れる手すりや腰壁に木材を、外部に面した開口部から自然採光を招き入れお友達にしてしまうことで、来る人来る人 魔法にでもかかったか と、思わず知らず頬っぺたつねってしまう素敵な出来ばえで、上へ、また上へと続く階段はとうとう屋上にまでつながり、頭のぶつかりそうなくらいちいさな鉄の扉の向こう側には大大阪の、おおきなおおきな青空が待っていてくれた。

あれから90数年もの月日が流れ、随分と周りが建ち込めて少々窮屈になった21世紀。 いつまでも変わらない、ちいさな階段室の、ちいさな扉の向こう側にはちょっとした仕掛けが施してあります。 それをここでお話しするよりも、実際に足を運んで体感してみるのがよろしいかと存じます。 建築とは、そういうものなのですから。