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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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07月25日(木)

20年後のハートカクテル

わたせせいぞう初期の代表作に 「ハートカクテル」 があります。 これは、1983~89年にかけて週刊漫画雑誌に連載されていた、4ページの短編漫画。 いえ、漫画よりも コミック と呼ぶほうが、響きとしては似つかわしい。
ご存じのように、漫画雑誌は、基本的にざらざらした紙にモノクロで印刷されています。 わたせの場合も、最初はこれに倣っていたわけですが、ある日、彼の才能を引き出すためにカラー化の企画が持ち上がります。 ホチキスで中綴じされた、雑誌のちょうど真ん中のページに1枚分のフルカラー印刷を加える というもの。
当然ながら、予算や印刷工程の都合がありますから、オモテウラ 4ページ という、媒体上の制約が生じてしまうのは致し方ないこと。 その限られた条件のなかで創造力を育み、創意工夫しながら腕を磨くことで輝きを増し、創作世界を表現する彼独自のスタイルが確立されたのでありましょう。

わたせせいぞうの描き出すコミックの世界は、ロマンティックで、いささか浮世離れした感があります。 それは、宮沢賢治のいうところのイーハトーブ。 すなわち、こころのなかの理想郷のようなものだと個人的に解釈しております。
とりわけ、ハートカクテルは読者にとって、そして、何よりも作者であるわたせせいぞう自身にとって、永遠の理想郷であるべきだった。 いえ、あらねばならなかった。
わずか4ページの心象風景には、名作を鑑賞し終わった際に自然とにじみ出る、余韻のようなものが確かに漂っているようでした。 ただ、今振り返れば作者の若さゆえか、あるいは1980年代という時代の浮ついた空気に感化されたか、少々キザでこそばゆい表現が邪魔をしていたように思えなくもありません。
いずれにしても、作品を熟成させるにはそれ相応の時間が必要。 そのように考えたのか否か、知る由もありませんが、ハートカクテルから約20年後の2006年に満を持して 「ハートカクテル・イレブン」 が出版されます。

HEART COCKTAIL eleven
「 HEART COCKTAIL eleven 」  わたせ せいぞう 作 (講談社) 


縦横18cmのちいさな本。 しかし、どこかしら品があり上質。 隅から隅まで、つくり手たちの心がこもっている。 しかも、雑誌連載の書籍化ではなく、完全な書下ろし。 その上、160ページにわたってほぼイラストのみ。 コミックでお馴染みのフキダシによるセリフはなく、要所に二行程度の文章が添えられているだけの、いわゆる 絵本形式 が採用されています。
もはや絶大な安定感を誇る、誰もが親しみやすく、商業的にも堅実なコミック形式を放棄し、相当なエネルギーを費やし、採算を度外視してまでも、一冊の本のために人生の全てを捧げるかのような、そのくらい、作者の強い想い入れをひしひしと感じる作品です。
優秀な企業人としても活躍し、世の中の道理をわきまえたわたせせいぞうが、ここまでなりふり構わず、一人の作家としての創作姿勢を示すのは、おそらく後にも先にもこの時だけ。 だからこそ、それを知る出版社もサポートを惜しまなかったのではないのでしょうか。

1980年代のハートカクテルは、ありていにいうとキラキラした印象があり、その眩しさが お洒落 として時代に受け入れられた。 別のいい方をすれば、時代によって消費されたため、時間の経過とともに色褪せる運命にあったようです。
それが、20年後のハートカクテル・イレブンでは、キラキラ感が抑えられて、しっとりと憂いを含んだ色調に変化し、時間という試練にも色褪せないどころか、ますます深みが増すばかり。
コミック形式では畢竟、限られたページ数のなかでのコマ割りに重きが置かれていましたが、ページ数にしがらみのない絵本形式への移行に伴い、見開きでまるまる1シーンのイラストに充てるパターンと、1ページにつき1シーンに充てるパターンの、二種を自在に組み合わせる手法が試みられています。
そうすると、全体の調子が単調になるのを防ぐことができますし、重要な場面を見開き1シーンにすればより強い印象を与えられ、演出効果が期待できる というメリットがあります。 ただし、これ自体、絵本の世界では珍しくも何ともありません。

ここでは、(赤い糸で結ばれた)カレとカノジョの行動を1ページ1シーンで並べ、対比して見せることで、双方の魅力を際立たせる内容になっていて、仮に日本語の文章が読めなかったとしても、むしろ素のままイラストに向き合うほうが、登場人物の服装の好みや、職場あるいは自宅でのインテリアやちょっとした暮らしの道具たちの違いに至るまで、それはもうわが子を慈しむかのように一筆一筆、真心こめて描き分け、キャラクターに対する想像力が広がる仕組みになっています。 あたかも、小津安二郎の映像作品を彷彿とさせるかのように。
見開き1シーンでは、横長の難しいレイアウトを逆手にとって、四季の変化、あるいは夜間の灯や自然光の違いによる時間の移ろい等、微妙な色彩の変化までもが過たず表現されているのです。 静止した印刷物であるにも関わらず、展開する様はまるで映画のように。

あくまでもストーリーは単純に、キャラクターづくりや画面構成は複雑かつ緻密に と、繰り返し、繰り返し、自らの手でページを開くたび、何かしら新たな発見があります。
作品に登場するカレは、誰がみても、明らかに作者であるわたせせいぞうの分身。 では、チャーミングなカノジョは? それよりも、たびたび登場するあの丸っこいオジサマにはモデルがいるのだろうか? と、汲めども汲めども興味という名の泉は尽きることがない。 ゆったりとした時間のなかで手に取ってほしい、両の掌に収まるサイズからは想像できない、大切なタカラモノです。
 
08月17日(水)

ボロ

絵本のタイトル 「ボロ」 は、犬の名前。 灰色に汚れた毛並みがどうにも ぼろぼろのボロ雑巾 のようだったものですから、女の子 がそう名づけたのでした。
絵本に出てくる女の子は、小学校の2・3年生くらいでしょうか。 このくらいの子どもはみんな明るく無邪気で、模範的なよい子 などと、世の中のわけの分かったおとなたちはそんな風に思いたいのかもしれませんが、子どもだって人間関係に悩むこともあれば、悲しい思いもします。 時として(特に上から目線の)おとなの声や眼差しは彼らにとって、随分と遠く隔たって感じたりもするものなのです。 現実は。

ボロ
「ボ ロ」  いそみゆき 作 、長新太 画 (ポプラ社)


一編の児童文学としても十分に素晴らしい原作は磯みゆき 。 ひょっとしたら物語のなかの女の子は、幼い頃の作者自身なのかもしれません。
どこか遠い、けれどもひどく現実的で悲しいお話を、何となくぼやけた調子で、一見無造作に描いたかのようにも受け取れる絵は 長新太。 しかし、彼の絵はよくよく注意してみると、実に感心するくらい丁寧に描かれてあって、ぼやけてみえる理由は、ひろいひろいこころで物語を理解しているため、 普段は立ち入ることの出来ない、みる人の こころのずっとずっと奥深いところ に届けるためであって、大海のような彼の視点にはいささかのブレもあろうはずがありません。

絵本のなかのボロは、なぜかいつも悲しそうな目をしています。 そしてボロは、文学作品に登場するような名犬でもなければ、誰からも好かれる可愛らしい子犬でもありません。 すっかり年老いて行き場もなく、片目は白く濁っているのです。 だから悲しそうにみえるのでしょうか。 ボロは本当に悲しいのでしょうか。 それはちょっと違うと思います。 ボロの目が悲しそうなのは、ボロがいつもみつめている女の子が悲しそうにしているから、ボロも悲しいのです。 ボロの目は女の子のこころを映し出しているのではないでしょうか。

それでも物語のなかでたったひとつだけ、ボロが悲しそうにみえないシーンがあります。 女の子がボロの姿を描いたところ。 絵のなかのボロの表情です。
この幼い子どもが描いた絵も、もちろん絵本を描いた長新太自身の手によるわけですが、どうしておとなであるはずの彼に、これ程の表現が成し得たのか不思議なくらい、つくづく素直で素敵な絵だな と、ページを開く度に感心してしまいます。

きっと本当は誰もが皆、ちいさな頃は誰にはばかることなく思う存分、自身の気持ちを絵として表現していたはずです。 その絵はどれもこれも拙い出来に違いありませんし、お世辞にも上手な絵とはいえないでしょう。 しかし、そのような表現のなかにこそ、かえって人を感動させる 大切な何か があるはずなのです。 そして、それは誰よりも、描き手である彼らにとってかけがえのない大きな喜びに違いないのですから。

ところが、どの子も描けていた自由自在な表現も、小学校に上がって数ヶ月も経つと、とたんに影を潜めてしまいます。 なぜかというと、表現までもが点数で評価されるようになり、傍目に要領よく上手にできる子が 「よい子」 なのだ という 誤った仕組み を認識してしまうからではないのかな と、個人的には解釈しています。
こうなると要領のよい子は、いかにも人に褒められそうな上手な絵を描き、さぞやおとなたちに褒められることでありましょう。 それに引き替え、自身の気持ちを偽らず素直に表現した子は、傍目に未熟な技巧であればいつまでも評価されることはありません。 そうなってしまうと、もはや 絵を描くこと 自体が喜びではなくなってしまいます。

けれども、ボロを描いた時の女の子は、誰かに褒められるために絵を描いたのでもなければ、よい点数を望んだわけでもなくて、そばにいる たったひとりの友だち を、ただただ夢中で描いていただけだったのではないでしょうか。
そんな時の女の子はきっと、自由に気持ちを表現できる 喜び につつまれていたに違いありません。 だから、そんな女の子をみつめていたボロの目も悲しそうではなかった。
そのような絵を、絵本作品として描いてみせた長新太は、磯みゆきから託された物語のなかにこめられた女の子とボロの気持ちを、曇りのないこころで過たず受け止めることができた数少ないおとなだったんだ と、目立たない一冊の絵本を開くたび、しんみりと想像するのでした。
 
01月16日(土)

ゆきがやんだら

願わくば、さんさんと降り注ぐまぶしいお日様の下でも、隅から隅までこうこうと照らされたあかるい室内でもなく、窓辺から奥まったほの暗さに自然光がようよう届く昼下がり、もしくは夜の帳がおりた後、ぼんやり灯された白熱電球のあかるさのなかで、こころ静かに読んでいただきたい絵本です。

THE SNOW DAY
「THE SNOW DAY」 酒井駒子 作  (ARTHUR A. LEVINE BOOKS)


酒井駒子の 「ゆきがやんだら」 は、2005年に日本で出版された絵本作品で、2009年にはアメリカの出版社から英訳版も販売され、僕の手元にあるのは、後者の初版本になります。
オリジナルの日本語版をお持ちの熱心な絵本好きの方でしたら、英訳版 「THE SNOW DAY」 の表紙の絵が、左右反転で印刷されていることにお気づきになったかもしれません。 これは別に、出版社がいい加減だったり、担当者がついうっかりしていたからではなく、三度の飯よりも絵本が、そして酒井駒子の生み出す世界が大好きで、少しでもこの作品の素晴らしさを多くの子どもたち、いえ、全てのおとなたちにも届けたい という一心での判断に違いなく、本来なら原画から反転させるなんて非礼な行為やもしれませんが、 「この作品の表紙には、これしかあり得ない!」 という、確かな審美眼を持つ担当者(おそらくプロのブック・デザイナー)からの真摯な提案を、作者は一目みて快諾したのだろうと想像するのです。 ここに、絵本を愛して止まない同志がいると。

とにかく、効率よく速やかに。 ちまたでは、インターネットやテレビ番組はもちろん、漫画、小説にいたるまで、何もかもがテンポよく流れてゆくメディアたちに囲まれ、分刻みで時間が過ぎてゆく、つくづくせわしない世のなかで、せめて、絵本だけはそうあってほしくない。
「ゆきがやんだら」 は、よくある おとぎ話 ではなく、紛れもない現代の、それも、どこの市街地にでもありそうな家庭を舞台とした雪の日のお話です。 登場するのは、幼稚園児の男の子とおかあさんのふたりだけ。 そして、男の子もおかあさんも、確かにウサギのはずなのに、ちゃんと洋服を着て現代の暮らしを営んでいます。 なぜかというと、絵本は想像(創造)の産物で、作者の幼いころの記憶が過たず投影されているから。 絵のタッチがところどころ霞んで、幾分ぼんやりしているのは、記憶がぼんやりしているのを割合正直に表現しているからなのかもしれません。

雪の日の、しかも、ウサギの母子のお話 といっても、そこは美しい森のなかとも、むかしむかしののどかな物語ともおよそかけ離れた、コンクリートで出来上がった団地での出来事ですし、あいにく降りしきる雪にお日様はすっかり遮られているものですから、全体的にしずんだグレーを基調とした絵でもって構成されています。
物語にこれといって劇的な展開はなく、音らしい音もなく、ただただゆっくりとふたりの時間が流れてゆきます。 だからでしょうか、こちらもいつの間にか、ゆーっくりとした時間の流れに身を任せ、かといって物語に完全に没入しているわけではなく、現実と夢のはざ間をふわふわさまよいながら、時折りぼーっとしたまま時間の経つのを忘れてしまう感じ とでも表現したらよろしいでしょうか。
オリジナルの日本語版については存じませんが、英訳版はふっくらとやや色味のついたマットな質感の紙に印刷されていて、普通は絵本といえば、カラフルな配色が映えるよう真っ白い紙に印刷され、光沢のあるコーティングが施された、てかてかっとした印象があるはずです。 もちろん、ちいさな子どものことを考えて、汚れにくいよう配慮されているからなのでしょう。 けれども、それは 子どものため というよりも、むしろ、消費者からのクレームを避けたい おとなの都合 にすぎないようにも思えてしまいますし、第一、どうしたってこの絵本の作風にはそぐわないではありませんか。

ウサギを擬人化する という表現方法は、一見したところ可愛いらしく、いかにも 子ども受け しそうですが、動物は人間のように表情を持たないために、微妙な心境の変化を絵だけで伝えるのは容易ではなく、ややもすると単なる 子どもだまし にもなりかねません。 ところが、この絵本の作者は、顔だけの表情に頼らず、からだ全体のしぐさや構図によって、視覚的にきちんと伝える術を心得ているように見受けられます。 その証拠に、たとえ後姿や遠景からであっても、不思議と読者は絵本のなかの親子としっくり分かり合えるのですから。
これっぽっちも派手さはないけれど、当たり前に紙のにおいのする(コーティングしていないから)絵本は、触れる手にもやさしく、実は視覚だけでなく、触覚を通しても何かが確かに伝わっているのかもしれません。 もし、そうであれば、大好きな、汚れやすい本ほど大切に扱わなければいけないのだと、理屈ではなく直感的に理解できるのは、誰よりも 子どもたち自身 のはずです。
「絵本とは、そういうものなのよ」 という、作者の、英訳版にたずさわった担当者の、それから子どもたちの声がどこからともなく聞こえてきたような気がして…。 そうか、実は、一番分かっていなくて、本当に絵本を必要としているのは僕たち おとな の方なのかもしれないと。