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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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07月21日(火)

ロッジア・ハウス

ジュリアス・シュルマン(Julius Shulman) という名の、伝説的な建築写真家がいます。 もともとシュルマンには、建築に関して特別知識があったわけでも、アート・スクールで審美眼を磨いたわけでも、誰かに師事して写真の技術を習得したわけでもありません。
「ちいさなレンズのなかに、コンポジションを構成する才能に恵まれていたのだろう」 と、自身の輝かしい半生を振り返っています。 また、こんなこともいっていたそうです。 「さあ、どこから始めようかと見渡した途端にいい構図がみえる」 と。
そんな写真家の前では、さして意味のない、表面だけのうすっぺらな建物は瞬く間に見破られてしまって、とても通用しないでしょう。 彼の目には建物の構図だけでなく、そこに接する人の気持ちまでもが過たず投影されているのですから。

シュルマンは、1945年から66年にかけて南カリフォルニアを舞台に展開された ケース・スタディ・ハウス(Case Study Houses) と呼ばれる一連の住宅を撮影したことでつとに知られています。 この実験的プログラムは アーツ&アーキテクチュア(Arts & architecture) という雑誌の企画であったことから、誌面を通じてその評判はアメリカ本国のみならず、近代建築発祥の地であるヨーロッパにまで影響を与えるほどだったそうです。
ところが、当時の建築家たちとの親交も深く、ケース・スタディ・ハウスを60年以上にわたってみつめ続けてきたアメリカ・モダン住宅の生き字引ともいえる写真家自らが、このなかば伝説と化したプロジェクトを 「成功しなかった」 と指摘していることは、それほど知られていないのではないでしょうか。

ケース・スタディ・ハウスは、鉄骨や木製の梁と柱で構成されたシンプルな空間にフラット・ルーフ、工場で生産された量産可能なパネル材や床から天井まで届く大きなガラス窓を組み込んだモダンかつ低コストな住宅で、庭につながるテラスがガラスを通してひとつながりになる、これ以上は望み得ない開放性の高さが南カリフォルニアの温暖でさわやかな気候に調和して、水平に抜ける視界の気持ちよさが存分に味わえる新しい生活のスタイルまでを提案してみせました。
このようなアイデアを提唱したのが、アーツ&アーキテクチュア誌の発行人である ジョン・エンテンザ(John Entenza) で、各プログラムを担当する建築家は彼の好みや感性で選ばれるのが慣例のようでした。 ただエンテンザの好む、透明感のある開放的な住まいは、壁に囲まれ、なかば閉ざされた空間にこころの安らぎを感じる多くのアメリカ人の目に、いささか冷たい姿に映ってしっまった現実も忘れてはなりません。

か細い柱のみで屋根の荷重を支え、柱と柱の間に引き違い戸を建て込んで、庭と室内をひとつながりの空間として自在に取り込む日本の伝統的な住まいの考え方と、ケース・スタディ・ハウスに代表されるアメリカ近代住宅の理想像との共通点は、多くの専門家が指摘するところですが、 スチール・パビリオン などと称される鉄骨とガラスによって構成された、有名な幾つかのケース・スタディ・ハウスは 「きれいで開放感に満ちてはいるが、詩的ではない」 と、ジュリアス・シュルマンは告白しています。
更に彼は 「日本の伝統建築は開放的な建物に違いないが、空間を開放できるだけでなく、逆に閉じることも可能という柔軟さも持ち合わせている。 そのひみつをアメリカ人は理解できていなかったのだ」 とも付け加えています。 つまり、ガラス張りの近代建築では、隣地まで数百メートル離れているような広大な敷地でもない限りプライバシーは守れない という決定的な矛盾を常にはらんでいる。
スチール・パビリオンは、才能ある写真家の手で撮影された作品として誌面を飾る という意味では歓迎されても、こころ安らぐあたたかい場所こそが住宅と考える大多数のアメリカ人にとっての住まい という意味では歓迎されない。 ゆえに 「ケース・スタディ・ハウスは成功しなかった」 と、シュルマンは指摘したかったのでしょう。

といっても、すべてのプログラムが必ずしも駄目だといっているわけではありません。 実際、シュルマンはケース・スタディ・ハウスを手がけた建築家の一人として知られる ラファエロ・ソリアーノ(Raphael Soriano) に自邸の設計を依頼していますし(※ シュルマン邸は鉄骨造のスチール・パビリオン。 ガラス張りの典型的なモダン住宅ですが、敷地には十分なゆとりがあり、 丘のてっぺん という立地のため、プライバシーが守られてあり、しかも、建築家とは設計の段階から気兼ねなく要望を伝えることのできる間柄であったそうです)、幾つかのケース・スタディ・ハウスについても高く評価しています。
たとえば、 ジュリアス・ラルフ・デイヴィッドソン(Julius Ralph Davidson) によって設計された #1 です。 この建物はガラスを多用しているものの、建物と周辺の敷地とをどのように統合させるかを理解した上でつくられているため、プライバシーも守られ、住み手が暮らしよい工夫がそこここに散りばめられている、優れた作品であるといえます。
そして、もうひとつが ホイットニー・スミス(Whitney R. smith) によって設計された #5 「ロッジア・ハウス」 です。

全部で36ものプロジェクトがつくられたケース・スタディ・ハウスのなかで、#5(※ 5番目に計画されたプロジェクト)は実現されることはありませんでしたし、これまでついぞ話題にのぼったこともありませんでした。 設計者のホイットニー・スミスも、地元カリフォルニアは別にしても、世界的には無名に近い存在と思われます。
にもかかわらず、かの著名な建築写真家は 「本当は、彼のような建築家の住宅こそ実現されるべきだった」 と発言しているのでした。

ケース・スタディ・ハウス#5 ロッジア・ハウス

大変な忘れ物でもしでかしたような気持ちで#5について調べてみると、1945年にアーツ&アーキテクチュア誌に発表された(であろう)平面図と数枚のイメージスケッチ、それに模型写真が記録されていました。
シュルマンの発言さえなければ、華やかな他の作品の陰で埋もれてしまっても仕方がないくらい、そのくらいしみじみ目立たない計画案は、平面図ひとつみても、どこか他のケース・スタディ・ハウスとは違っているようです。 透明感が感じられないような、むしろ不可思議な違和感 というか、瞬時に見抜くことのできない空間の奥深さが感じられます。
そんな場合はスミスが残したわずかな記録を元に、この手で空間を描いてみるに限ります。 そうすることで、なぜシュルマンが評価したのかがじわじわと伝わってくるような気がするからです。

プランニング(平面計画)の力量は、設計者の才能によるところが大きく、経験や努力だけではどうにもならないものだと常々思っています。 不具合の生じない設計上のテクニックや、上手なおさまりといったことは、才能よりも日々の積み重ねによって成し得るものに違いないけれど、ことプランニングだけはどうにもならないと観念せざるを得ない。 ホイットニー・スミスは、才能を所有する側の建築家であったと断言して差し支えないでしょう。

一見しただけでは分かりにくいかもしれませんが、#5はいわゆる 「入れ子状」 の空間構成になっています。
これは多くのアメリカ人が必要とする居心地のよさ(守られている安心感)と、かの国では近代建築にのみ許されれた水平方向へと視線が抜ける開放感という、相反する要素を融合するためのアイデアで、もし実現していれば、あの余りにも有名な チャールズ・イームズ(Charles Eames) の自邸 #8 と並んで、(スミス流の)最も南カリフォルニアらしいケース・スタディ・ハウスにもなり得たかもしれないのですから。

北から南に、ゆるやかに傾斜する敷地に計画された#5へのアプローチは、ユーカリの木々が影を落とす涼しげなレンガ敷きの通路です。 その先のテラスから階段をとことこ下りると、建物の中心に設けられた ロッジア(loggia) と呼ばれる空間に導かれます(※ この 階段を下りる という行為も大切なポイントです)
ロッジアの存在意味は非常に大きく、リビングも、ダイニングも、寝室も、ゲストルームも、すべての居室が一旦ロッジアを介してからメインの西側庭とつながっています。
家族だけでなく来客も利用するリビングとダイニングは、他のケース・スタディ・ハウスのように大きなガラス窓で直接庭とつながるのではなく、ロッジアに対して開かれているのが最大の特徴です。 ロッジアには軒の深い屋根(フラットルーフ)は架かっているものの、庭との間にガラス窓の類はなく 完全にオープン という、温暖な南カリフォルニアらしい半屋外の共有空間として位置づけられています。
ロッジアは、日本の 縁側 に近い存在ですが、建物の中心にあること、土足のまま居室にも庭にも行き来できること、玄関や廊下の機能も兼ね備えていること、家族の気配が感じられること 等、更に多目的に活用可能な、この建物に欠くことのできない魅力的空間であるといえます。 #5が 「ロッジア・ハウス」 と呼ばれる所以です。

21世紀の今日でも十分にモダンと感じる一連のケース・スタディ・ハウスは、ガラス、金属、合板、プラスティック等の均質な工業建材をふんだんに採用する といった特徴が見受けられます。
一方、#5にはそれらとは正反対ともいえる素朴な建材、 日干しレンガ を多用している点が注目に値します。 木材に恵まれた日本では馴染みがありませんが、日干しレンガは南カリフォルニアでは伝統的な建材なのだそうです。

いかにもビーチ・ボーイズのサウンドがよく似合う、からりと晴れ渡った空からさんさんと降り注ぐ強烈な日差しから身を守る術がこの地の住まいの作法であるなら、遮熱性の高い日干しレンガは実に好都合といえますし、ふんだんに手に入る土が原料とあれば、これはもういうことありません。 けれども、フラットルーフにガラス張りのモダン住宅に日干しレンガという取り合わせは何だか照れくさい…。 そんな時代だったのかもしれません。
ところがホイットニー・スミスときたら、華奢な鉄骨の柱・梁構造に分厚い日干しレンガの壁を事も無げに融合させて、大きなガラス窓も難なく組み入れてしまいます。 ただし、さすがにそれだけでは少々違和感があるため、その中間的な位置づけの建材として、木質のパネル材(おそらく合板)を適所に配して中和してしまう という離れ業を考案したのでありましょう。

#5 ロッジア・ハウスは、その土地の伝統的な素材と工業材料を等しく用い、近代建築の持つ合理性を昇華させたプランニングを駆使すれば、住み手のプライバシーを犠牲にすることなく開放感のある住まいを実現できるはずだ! と、当のスミス自身はそう確信していたに違いありません。
しかし、この計画案が実際に姿を現すことはありませんでした。 プログラムの企画者であり、責任者でもあったジョン・エンテンザの好みに合わなかったのが、その理由なのかもしれません。
ちなみに、ジュリアス・シュルマンはこんなこともいっていました。 「エンテンザ氏が却下したもののなかに 本当のモダン・ハウス があったかもしれない」 と。
 
10月23日(水)

旧山邑家住宅

芦屋川沿いに見上げる旧山邑家住宅(※ 現在のヨドコウ迎賓館)は、1世紀近くの時を経てすっかり成長した大樹たちに囲まれ、摩訶不思議な台形状をした遺跡のような容貌の屋根がふたつ、ちらちら見え隠れするばかりで、その全容がつまびらかにされることはありません。
急な上り坂を歩いて邸内に至ってもなお、でこぼこっとした六甲山の麓の地形をそのまんま、素直に建物を配しているものですから、秘められた空間の本質をしっくりと思い浮かべることすら容易ではありますまい。

この一風変わったお屋敷は、20世紀を代表する偉大な建築家のひとり、フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)によって1918(大正7)年に設計され、彼の愛弟子にあたる遠藤新らの手で1924(大正13)年に実現した住宅作品です(※ ちなみに、北米大陸以外で実現されたライト作品は、日本のみであるといわれております)
ライトは、有機的建築(Organic Architecture)を提唱し、自ら実行していましたが、旧山邑家住宅を含めた多くの作品には幾何学が多用されていて、一見すると有機的ではないように思われるやもしれません。 それは、単に 有機的なカタチの建物を意識している というよりも、ひろい視点で 思考方法そのものが有機的だからなのだ ということが、あの坂道を登り、ゆたかな樹々に囲まれた空間にしばしの間、こころ静かに身をゆだねれば、じんわりとお分かりいただけることでしょう。

平坦な場所のきわめて少ない複雑な地形ゆえ、旧山邑家住宅はひろびろとしたワンルーム空間とは無縁の部屋部屋が、わずかな起状も疎かにしないよう注意深く配されていることもあり、たとえ居室のひろさも天井高さも制限される環境下にあったとしても、何てことないような空間のコーナー(角)であっても、ひとたびライトの手にかかれば、ある種 神がかり的 な才能によって家具と建具と建物との境界をいともたやすく飛び越えてしまうのですから敵いません。
依頼主からの要望によって畳敷きのお座敷が用意されてはいても、日本らしい素材や工法、伝統の空間構成へと安易に頼ることなく、かくまでも ライト流 を貫きつつ、それでも、敷地と建物と建具と家具とが一糸乱れずシンクロしているさまを目の当たりにするにつけ、どこか深いところで日本の精神につながっているのではないかと感じるのは、さして長くはない日本での滞在時に骨董品だけを蒐集していたわけではなく、土地と建物と人間との本来あるべき姿を直感的に理解していた としか説明しようのない、さすがに 巨匠 と褒め称えられるだけのことはあります。

長きにわたり、連綿と受け継がれてきたこの国の伝統を踏襲しても、建設会社のマニュアルどおりに従ったとしても対処不能な芦屋の傾斜地に、たったひとりの天才建築家(と優れた弟子たち)によって完璧なくらいに対応してしまった歴史的建物をめぐる行為は、どこやらこの土地に宿る精霊によって記されたひとつの物語を読みすすめるのにも似て、階段を上がる という動作そのものがページをめくる感覚に限りなく近い。
そのクライマックスに相当するのが、最上階に用意された 食堂 の存在ではないでしょうか。

旧山邑家住宅 食堂

天井高さが抑えられた、ほの暗い下階から階段を上がるや否や、すぐさま視界が開ける食堂は、これ程の邸宅にしては決してひろいとはいい難い一室。
例外的にピラミッド状のカタチをした天井が与えられ、コーナーから対角線に、しかも下方から誘導することによって、ヒューマンスケールでありながら思いのほかゆたかに感じられる空間の妙。 さらに、ふと振り返れば、大空と対話できそうな奥行きのあるバルコニーから果てしなく、どこまでも視界が抜けてゆく という劇的な演出。
といっても、巷にありがちなモダン住宅のような、格好はよいかもしれないけれど、どうにも落ち着かない透け透けのガラス張りとは程遠い、むしろ、開口部は最小限に、堅固な壁と天井によって護られた 巣のような心地よさ とでも説明したらよろしいでしょうか。

暖炉を中心とした典型的な西欧のダイニング・スタイルでありながら、コーナーには床の間的な解釈の飾り棚が巧妙に組み込まれ、季節ごと、こころばかりのしつらいがしみじみ嬉しい趣向は、紛れもなく日本流 おもてなしの作法 です。
それなのに、それらの境目が判然としないくらい、にわかには信じ難い高度なテクニックをおくびにも出さない謙虚な姿勢。
「こんなの、意味あるのかな?」 といった風情の、か細い天井の切れ込みからつましく漏れ入る外光は、視覚的にはほとんど認識できないくらいの、ほんにささやかな創造の産物であっても、その心地よさといったら、森のなかの木漏れ日を連想させ、たとえ視界は遮られていても、壁の向こうでさわさわそよぐ大樹の木の葉のささやきや小鳥のさえずりが、この身をふんわりと包み込む。 それを、ライトという建築家は、厳格な幾何学のデザインのみでやってのけてしまうのでした。

暖炉の向こう側には、灘で代々酒造業を営む名家の当主とそのご家族、訪れるゲストの方々へ、真心こめて料理を提供するための厨房が用意されていて、当然ながら、家事全般は専属の使用人がおこなう前提できめ細やかな設計がなされているわけです。
それにしても、常識的に当主の立ち入らない裏方、サービス・スペースに該当する厨房が、この建物のなかで最も重要なはずの食堂に対して何ら遜色を感じないのは、一体どうしてなのでしょう。

旧山邑家住宅 厨房

一体、どこでどう道を踏み外してしまったのやら、技術の進歩によって確かに便利になった(かもしれない)昨今の調理空間は、生身の人間がけっこうな時間立ち働く場所にしてはいささか冷たすぎて、何だか機械の歯車のような存在にでも陥ってしまった錯覚すら招きかねないのが正直な感想です。
それに引き換え、大正時代に設計された旧山邑家住宅の厨房は、どこからか 人のぬくもり が感じられるような、そんな、ほんわかやわらかな空気が漂っていて、同じ料理でも、そこは 住宅 なのですから、当主にとっても、ご家族にとっても、招かれた客人にとっても、やっぱり人間らしい空間でつくられたほうが嬉しいに決まっています。
むろん 人間らしい といっても、昔の古くさい設備がよい などとは思っていません。
当時はまだ、土間の台所にしゃがみこみ、竈を使って調理をおこなうのがごくごく当たり前の時代。 下準備にしろ、煮炊きにしろ、洗い物にしろ、不自然な中腰での作業が随分と多かったのではないでしょうか。 それが、ここでは現代と同じ、無理せず自然に立ったままの姿勢で、しかも複数の人たちで合理的に働くことができるように、隅々にまで配慮がされています。

中央にはがっしりとしたつくりの配膳台があり、周囲には、深さの異なる三つのシンクと調理スペースも備えた人造大理石研ぎ出しの流し台と(※ まだ、ステンレス製の流し台など存在しなかった時代です)、アメリカ製の電気式のオーブンや炊飯器が並ぶ煮炊きの台(※ まだ、日本製の電気調理器具など存在しなかった時代です)とがL字に配され、残りの壁面にはカウンターや食器棚が比較的小柄な女性でも使いやすいよう、過不足なく造りつけられていて、おまけに床はフローリングで食堂との間の段差もなく(※ 土間床のような底冷えの心配がないだけでなく、食堂との行き来もスムーズ)、煮炊きによる蒸気やにおいが室内にこもらないよう、排気口もきちんと用意されている という念の入れようです。
ちいさいながら、二方向の壁面上部には幾つもの小窓が設けられ、実はすべての窓が開閉式の網戸とガラス窓との二段構えになっていて、実用面においても何ら抜かりがありません。

しかし、それよりも、窓外から樹々の緑色を透かして室内に染み入る自然光の美しさもさることながら、ガラス窓と、大小の食器棚の扉、それに流し台前の壁を見切る枠の割付が、いずれも モンドリアン(Piet Mondrian)の絵画 を髣髴とさせるデザインで統一され、食堂の裏側で、裏方の方々がきびきびと小気味よく立ち働く厨房のなかの小宇宙に、あらゆる空間の秩序があって。 そうか、これがライトの理想とした本当の意味での 有機的建築 だったのだ… と。
 
01月25日(金)

祈りの部屋

「祈りの部屋」 と呼ばれる小部屋に通された時は、本当に運がよかった。 案内に立った方がついうっかりしていたのか、それとも、単に電気代を節約したかったのか、あるいは、たぐい稀な審美眼を持ち合わせていたのか。
親切心で後から天井に取り付けられた蛍光灯に照らされるはずだった10畳くらいの居室はほの暗いまま、奥につながる4畳ほどのささやかなスペースを、北向きの窓から忍び入るおだやかな自然光のなかで目の当たりにすることができたのですから。
そこには、ちょっと経験したことのない、濃密な空気が流れていました。

滋賀県近江八幡の、伝統的な町家が建ち並ぶ狭い通りをふらふらさまよっていると、十字路の角っこに、からりとした表情の教会がいい按配で街並みに溶け込んで、その隣に木造二階建ての西洋館が、控えめな容姿で静かにたたずんでいる様子に気づくことでしょう。
この西洋館は 「アンドリュース記念館」 と呼ばれ、通りをはさんで向かいに建つ、これまた物静かな牧師館ともども、 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories) によって昭和初期に設計されたと伝え聞いております。
ところが、アンドリュ-ス記念館の解説にはしばしば、1907(明治40)年に竣工した ヴォーリズ建築第一号 といった紹介がされているのです。 教会のそばに、YMCA(基督教青年)会館があったということは知っています。 確か、ヴォーリズに関する書籍に記された年譜では、現存しないことになっているのに…。
これはもう、普段からヴォーリズさん、ヴォーリズさんと呼び親しんでいる地元の皆さんに聞くしかないな ということで、実際そうしてみました。 すると、訳あって、もともとあった建物を東の方向に移動しているが、移築にあわせて、ヴォーリズさんによっていろいろと手が加えられたのではないか。 火災で失われたという話もあるようだが、大した火事ではなく、当時の部材は残されている。 最初のヴォーリズ建築というのは確か とのことでした。 これでひと安心です。

館内を拝見したところ、日当たりのよい南半分を集会のためのスペース(※ 1階は板張りの西洋間、2階は畳敷きの日本間)に、北半分は1・2階とも個室に充て、中央の階段室とホールを介してつながっているという、用途と機能に応じて明快な部屋割りが成されています。 ただし、完全に当時の姿をとどめているのは、1階の北東角にあるひと間続きの居室と小部屋のみのようです。
ここは、ヴォーリズが建設当初から7年間を過ごし、まだ来日間もないヴォーリズと、彼の活動に共感する人たちが祈りを捧げた思い出深い場所なのだそうです。

残された資料によると、一番最初の平面プランと現在の平面プランではかなり様変わりしていて、まったく同じ状態なのは、記念室として保存されている前述の二部屋のみのようです。 しかも、その二部屋はもともとは2階の東北角にあったものを、なにもかも、そっくりそのまま1階に移設しているらしいのです。
変更点は平面プランだけにとどまらず、仕上げにまで及んでいます。 ちなみに、はじめ1階は集会場として外部にひろく解放され、親しみやすい雰囲気とし、逆に2階は、ヴォーリズの住まいと寄宿生たちの部屋が設けられたプライベートな空間として設計されており、眺めのよい窓が踊り場に顔みせる、あのゆったりとした階段室も影を潜めているようでした。

また、当時の記録によると、外部は柱、梁をむき出しにしっくい壁で塗りこめた、いわゆる 真壁造 で、地面に近い腰まわりのみ羽目板が張られている、当時の一般的な住宅の仕様にならっていること。 屋根は、入母屋のゆるやかな瓦葺きでやはり伝統に従い、レンガ積みの煙突が立ち上がっているのと一部西洋風の開き窓があることを除けば、ヴォーリズ建築でお馴染みの西洋館スタイルには、まだまだ程遠いように見受けられます。
内部も、柱をそのまま現しに土壁で仕上げた伝統の仕様ながら、使い方は完全に西欧スタイルで、床は板張りに、出入り口のドアは開き戸に統一されていたものと想像されます。
これは、仲間の建築技師たちとともに建築事務所を設立する2年あまり前の、建築家への夢よりもキリスト教の伝道者としての道を選び、商業学校の英語教師として来日した(建築界では)アマチュアとしての時代に、ヴォーリズと町家大工との二人三脚で成し遂げた、まだまだ 手探りの段階 であったことを物語っています。

事実、1935(昭和10)年、建築家としてのキャリアを積み、既に自身のスタイルを確立していたヴォーリズは、移築にあわせて、残された資材を再利用しながらも、プランや内外の仕様に大幅な変更を加えて、アンドリュース記念館に 第二の命 を吹き込みました。 ゆえに、年譜によっては、新たな作品として記録されていたとしても別段おかしくはなかったのでしょう。
ある意味、未熟な仕事でもあったアマチュア時代の作品を、その気になれば完全に修正させることも可能であったはずなのに、ヴォーリズはわざわざ1階に移設までして、部分的ではあっても当時のままの部屋を隠さず残そうとした。 その気持ち、人工照明の灯らない 「祈りの部屋」 の前に立ってみると、なんだか分かり合えるような気がします。

もともと、建築家としての素養は持ち合わせていたにしろ、なぜ一英語教師の身で、会館の建設に情熱を注いだのでしょうか。
資料によると、記念館名にもなっている ハーバート・アンドリュース という方は、ヴォーリズの学生時代からの親友であり、彼に導かれてキリスト教に入信した人物であったそうです。 しかし、若くして命を失い、愛する家族から託された資金に自らの財産を捧げて、近江八幡の若者たちが集い、学ぶ場所(YMCA会館)をつくりたいと願った という経緯があったからなのでした。
この建物は、後に建築設計や伝道活動にとどまらず、医薬品の輸入販売、医療福祉施設、教育施設を運営するために創設された近江兄弟社の出発点であり、夢の第一歩でした。 だから、わずか数名の創設者たちが祈りを捧げた部屋だけは、当時のまま、ありのままの姿で残したかったのでしょう。

祈りの部屋

祈りの部屋に身を置けば、建築の専門教育を受けていなかった26歳の青年ヴォーリズが、どのようにしてこの空間をつくり上げたのか、想像せずにはいられません。
専門教育を受けなかったことは、決して不幸でも、不利でもありません。 時として、勝手に植えつけられた知識はかえって邪魔にすらなるもので、本質が伴わないのに表面ばかり取り繕った、理屈っぽい建築ほど無意味でつまらないものはありません。 だから、知識や理屈に縛られず、ありのままの自分として建築に接し、アイデアを素直にカタチにできる人はとても幸せなのです。

わずか4畳ほどの小部屋は、当時どこでも目にするような、特別高価というわけでもない、ごくごく一般的な杉材の柱と、同じく杉板の棹縁天井、建具の上部に揃えて通された付け鴨居といった、典型的な日本間の仕様になっています。
これは、普請を請け負ったのが町家大工ということもあったのでしょうが、まだヴォーリズ自身、頭のなかで想い描いた空間のイメージを、具体的に伝える術を知らなかったということが、その理由として考えられます(※ ヴォーリズは後に、帰米の折に建築を視察し、専門書を取り寄せ独学することで、これを克服しています)
ただ、いくら床が板張りで暖炉が設けられていたにしても、ちゃんと西欧スタイルになっているのはさすがとしかいいようがありません。 そのわけは、建具の背の高さと天井高さが、椅子座の暮らしにふさわしい適切な寸法に設定されているからなのでしょう。 おそらく、いまだに日本の洋間がへんてこなのは、表面ばかり真似ていても、寸法設定が中途半端に和風していることに、設計者自身が気づいていないからではないでしょうか。

椅子座の生活に板張りということですから、床と壁との取り合いには、抜かりなく巾木が取り付けられています。 これも、普通の感覚では 「変だな」 となってしまうわけですが、不思議と違和感なく収まっています。
なるほど、実用性を考えると巾木はあって然るべきで、柱に付け鴨居が取り付くのと同じ考え方を巾木にも応用し、しかも、寸法設定が適切なので成功しています。 何のしがらみもなく、素直に建築に接する気持ちを失わず、もともとこの国にある材料、与えられたものをきちんといかす設計ができている証拠です。

けれども、ヴォーリズにも失敗がないわけではありません。 これは単なる想像にすぎませんが、設計の時点で、彼は暖炉の据えられた祈りの部屋と隣の居室とを、引き違いの建具で仕切れるようにしたいと考えていたのだろうと思うのです。
いくら暖炉があるとはいえ、冬は琵琶湖からの風が吹き付けて寒さが身にしみる土地柄ゆえ、建具で仕切って部屋の気積をちいさくしたほうが暖かく過ごせるに決まっていますから、考え方としては理にかなっています。 暖炉を使わない時は、建具を開け放ってひろびろ使うことも可能となる、日本の作法を取り込んだ、柔軟で機知に富んだアイデアであったといえます。
しかし、いざ室内の造作がはじまり、二部屋の間に鴨居が取り付けられた段階で完全に建具で仕切ってしまうと、空間がいささか窮屈に感じてしまうことに気づいたのではないでしょうか。 そこで、出来上がった鴨居はそのままにしておいて、敷居はすぐさま取りやめる方針とし、基本的に二部屋をひと間続きとして利用することに決めたのだろうと推察されます。
これにより窮屈さは解消され、建具を入れなくても鴨居の上には小壁が、両端は柱があるために、空間としてはなかば分節されることになり、小部屋特有の包まれるような心地よさは残されたのでした。
当時の暮らしを撮影した写真によると、寒さに対しては居室側に薪ストーブを置いてしのいでいたようですし、必要に応じ、二部屋の間にカーテンを取り付けて軽く仕切る、といった使われ方がされていたようです。

アンドリュース記念館が夜の帳に包まれる頃、しんしんと冷え込む冬の日。 あたたかな暖炉の炎に誘われるようにして、ヴォーリズを慕う青年たちが寄宿室から一人、二人と、祈りの部屋を訪れる姿が目に浮かびます。
4畳ほどの小部屋には、居室側からだけでなく廊下からも直接出入りすることができ、設計者のこころ遣いから、がっしりとしたドアには透明のガラスが入れられてあるので、暗がりのなか、ゆらぐ炎の明かりを頼りに、誰言うでもなく自然とこの部屋に集まってくることができたのでしょう。
暖炉脇のコーナーには、簡素ながら、さも居心地のよさそうなベンチが造り付けられてあって、寒さを忘れ読書にいそしむことができる。 ベンチの上と、それから暖炉の上にもずらり洋書が並んでいて、まだ知らぬ多くの知識に授かることが許される至福の場所。 そして、そこには必ずヴォーリズのやさしい笑顔があった。
暖炉を囲うようにして、夜が更けるまでヴォーリズとこの地の青年たちは聖書など朗読していたのでしょうか。 だから祈りの部屋は、この青年たちによって名付けられたのだろうと、僕は想像しています。