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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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03月31日(火)

網代車

世のなかに流されれば流されるほど、知らぬ間に大切なものがほろほろとこぼれ落ちる。
幼い頃から変わり者扱いで、便利なものにはさして興味が湧かず、むしろ不便なものにこころ惹かれる性分なものですから、不便さの向こう側にちらちら見え隠れする、豊かで美しい何かに出会いたいと願いつつ、年甲斐もなくふらふらとさまよっている次第です。

「牛を動力とする乗り物」 と聞くだけで、ゆったり、おっとりとした時間が流れてゆく。
上御霊神社や車折神社の例祭、有名なところでは京都三大祭りのひとつに数えられる葵祭などを通し、かろうじてその姿を垣間見ることができる牛車(ぎっしゃ)は、今から遡ること千年前、平安時代の貴族たちの間で日常的に使われる、ある意味、みやびやかな王朝文化になくてはならない 暮らしの道具 だったというのですから、ますます興味は尽きません。
しかし、いくらいにしえの宮廷人とて急ぎの用もあったでしょうし、現代の道路事情と異なり、道がよくなければ車は通れませんから、迅速な移動手段としては馬を、車が通れないようなでこぼこ道では輿(こし)を、といった具合に、状況に応じ使い分けられていたようです。 つまり、牛車に乗るのは都市部において、しかもゆとりのある時に用いる、きわめて優雅な乗り物ということになります。

牛車は単なる移動手段ではなく、所有する人の身分や階層を表しており、なかでも最も高級とされる唐車(からぐるま)は、建物でいうところの唐破風のような、重厚な屋根形状が特徴で、太上天皇や皇后、摂政、関白のみが乗車できるのだそうです(※ 上御霊神社の所有する牛車が 唐車 に相当。 1600年頃に後陽成天皇より寄進されたもの)
次いで、車体に希少な材料を惜しげもなく用いた車両がランク付けされ、とりわけ中流以上の貴族たちにひろく利用されていたのが、檜や竹の薄板を編んだ網代製の網代車(あじろぐるま)とのこと。 平安時代の都では割合頻繁に見かけられたとされる網代車ですが、牛車のなかではいささか高級感には劣るものの、現代の大量生産される自動車と違って完全なハンドメイド、しかも所有者の個性やセンスを表現する衣装の延長とも受け取れる乗りこなし等、知れば知るほど魅了される、実に奥の深い乗り物なのでした。

牛車(網代車)

そもそも牛車は、一人きりで気軽に出掛けられるような乗り物ではありません。
ご存知のように動力は生きている牛ですから、肝心要となる牛の飼育はむろん、牛の世話や誘導を担当する専属の牛飼童(うしかいわらわ)がいなければ話になりませんし、たとえ動力があったとしても一人では乗降すら不可能です。

牛車と牛が一体となるのは走行時に限られ、お屋敷内の車寄せ、あるいは勝手のよい場所への取り回しは人力で行われ、乗降の際には踏み台となる榻(しじ)の用意や、車体が動かないように轅(ながえ)を支える、車室を水平に保つ、すだれの上げ下げ… 、といったサポートをおこなうための要員に相当する幾名かの車副(くるまぞい)の存在が必要不可欠となります。
当然ながら、走行時は牛のそばには常に牛飼童がいなければ機能しませんし、デリケートな天然素材でもって手間暇かけてつくられた車体を雨にさらすわけにもゆかず、天候によっては牛車専用の雨具を携行する等、きめ細やかな配慮の数々。 それから、降車時や車両の取り回しに必要な車副は安全確保や注意喚起も兼ね、陰ひなたなく随行し、外出先では牛も含め総勢その場に待機しなければならないわけですから、牛車を所有するに相応しい身分や階層はもとより、金銭的、精神的、時間的余裕がなければとてもとても乗りこなせそうにありません。

恐ろしいくらいのスピード感のなさに不思議とこころ安らぐ、独特の車体形状は、牛車の作法である 「後ろ乗り」 「前降り」 を前提とする乗降スタイルに、きわめて理に適ったつくりになっていて、こんなに美しい所作した乗り物は必竟、世界中探したってどこにもありますまい。 何しろ車内にシートはなく、限りなくフラットな畳敷きの空間なのですから。
実のところ、腰高な牛車の車室設定と日本の気候風土に適合した住まいにおける腰高の床設定には、明快な相関関係が成り立っているらしく、お屋敷の縁先に牛車を後ろ付けすれば、地面に降りることもなければ履物を履き替えることなく、すすっと摺り足のまま乗車が可能。 しかも、清潔な畳席に音もなく身を沈めるとたちまち着座が完了するという、便利という触れ込みに翻弄された、現代の薄っぺらな世界を見知るものからすれば驚愕のひとことに尽きる、非の打ち所のない、そんな宮廷人たちの洗練された所作をうっとりと想像してみるだけで、いつのまにやら時間が過ぎ去ってしまいます。

振り返った後姿こそ麗しい。
閉ざされたすだれの下から、幾重にも重ねられた衣の裾がゆらめきながら、ゆるり、ゆるり、宮中に仕える女房を乗せた網代車が夢のように通り過ぎる。
顔の平たい、のっぺりとした日本人の姿・かたちによく似合う、(けれども富と権力に支えられた)世にも美しい乗り物文化がいつまでも続くはずもなく、質実剛健な武家社会の到来とともに徐々に姿を潜め、同じ時代に綴られたであろう、月の国へと昇天した光り輝くかぐや姫の物語のように、どうにも手の届かない遠い存在になってしまいました。
 
01月28日(火)

南台の家(吉村順三邸)

数多くの優れた住宅を手がけた建築家として知られる吉村順三の代表作として、繰り返し取り上げられる作品がいくつかあります。 当然、そこには著名人の住まいや豪邸も含まれるでしょう。
けれども、なんといっても吉村の自邸を挙げないわけにはゆきません。

「南台の家」 の愛称でおなじみの吉村邸が、数多ある他の住宅作品と違っているのは、そもそもがぴかぴかの新築ではなく、戦後間もない東京の焼け野原にぽつんと建てられた、お風呂もない、和室ふた間っきりのちいさな建売住宅だったということ。
夫婦二人から始まって、やがて子どもを授かり、家族が成長してゆく過程のなかで、幾度もの増改築を繰り返しながら10年以上をかけて完成の域に到達し、日々の暮らしのために本当に必要な機能を、誰にはばかるでもなく素直に表現した、等身大の心地よい住まいなのです。

仮に、あなたが手元にある吉村順三の作品集をめくるとします。 しばらくすると、どーんと見開きページで登場する、高さを抑えたラワン合板の控えめな天井に落ち着いたカーペット敷きの、1950年代の個人住宅にしては随分とゆとりのある面積が与えられた居間空間。
そこには、簡素な暖炉からさも暖かそうな炎がゆらめき、華奢で大ぶりな格子の障子戸を両袖に引き分けた南向きの掃き出し窓の向こうに、誰いうでもなく自然と視界が開かれて、縁側のような木製のテラスとすれすれに、色とりどりの鯉が優雅に行き来する、かすかに波たゆたう涼しげな池が静かに横たわり、背後にのびのびと枝葉をひろげた緑ゆたかな庭木を幻のようにしっとりと水面に映し出す。 そんな、誰もがうっとりと憧れる、建築家の暮らしのワンシーンを垣間見ることができるでしょう。

もはや、自邸を紹介するにあたっての定番になってしまった感のある居間と庭とを取り込んだ構図は、ここにしか建物の個性が見出せないからではなく、本当はあらゆる場所が見所なのにも関わらず、写真としてサマになる場所がここくらいしかないから というのがその理由だったりします。
当然ながら、写真の構図からはみ出した先には、お隣さんやお向かいさんの住まいがあり、それぞれの家庭の暮らしが営まれているのですから、現実に建物としてあり続けるためには、切り取られた塀の中だけでなく、周りとの関係から既に住まいづくりははじまっていて、住まいの内と外とは決して無関係なのではなく、ゆるやかにつながっているのが良いに決まっています。
たぶん、そのような関係がそこはかとなく感じられる建物こそが理想の住宅像であり、その集まりが本来あるべき街の姿なのだと吉村は考えていたのではないでしょうか。
だから、写真の構図を意識して建物を設計した というよりは、ひとりの父親であると同時に建築家であり、大学教授でもあった吉村の住まいは、自身の考え方を直接空間として体感してもらうために、依頼主や学生たちを招く機会も少なくなかったはずです。 そのために、大切な家族だけでなく、より多くの人たちが気持ちよく過ごすのにふさわしい空間を想定して居間やしつらいをつくったら、たまたま写真の構図にも都合よく仕上がっていた。 といったところでしょうか。

何も知らずに前を通ったとしたら、著名な建築家の自邸であることなど、誰一人気づかずに素通りしてしまうであろう南台の家は、プランをひと目みただけでも無駄のない、合理的考えに基づいて設計された素晴らしい作品であることは、プロでなくてもある程度までは理解できるはず。
それでも、玄関へのアプローチ脇に、きちんと行儀よくおさまった水まわりのために費やされたエネルギーと、その完成度の高さは、プロですらややもすると見落としてしまうくらいに目立たない。
つくづく地味な存在であるにもかかわらず、知れば知るほどその奥深さに驚き、ほーっとため息漏らし、次第に引きこまれて、格好よい写真など必要ないくらいに、そこで暮らし、立ち働く姿がひしひしとこちらに伝わってくることでしょう。 頭のなかで思い描けるくらいにはっきりと、鮮明に。

南台の家(吉村順三邸)

20世紀に登場した近代建築は、そのモダンな容姿だけにとどまらず、それ以前の伝統建築と違って、設備と建物をひとつのものとして設計されているところに最大の特徴があるといえるでしょう。

吉村自身の説明によると、近代的な生活は、設備を上手に取り入れることで、かえってそれまでの仕組みを単純化し、より快適な暮らしを実現できるはずだと。 加えて、設備と建物を別々なものとして設計したなら、どんどん複雑になり、余計なことをしなければならなくなってしまうとも。
そのように解釈すれば、かつて、設備らしい設備を所有しなかった時代に伝統建築を手がけた棟梁に対して、設備と一体となった近代建築を手がけるのが新たに求められる建築家の姿なのだ と、今更ながら気づかされます。 そして、吉村はいつ何時もその姿勢を貫いていたのだということも、自邸の水まわりを注意深く観察すれば、どなたも納得できるはず。

照明や冷暖房、換気設備の技術が進歩し、住宅にも取り入れられるようになると、大抵は見苦しい姿になり、たとえ便利さは享受できたとしても、かえって余計なエネルギーを浪費したり、場合によっては不健康になることだってあり得るわけです。
吉村邸の場合は1階部分において、廊下のない、合理的で使い勝手に優れたプランを実現するだけでなく、水まわりの部屋を、隣接する階段を巧みに利用しながら立体的に配置して、裏方にあたる家事動線までをも完璧に満たしながら、採光、通風、換気といった機能のほとんどが、そばにある窓だけで事足りるくらいに、高度な設計がなされています。

南台の家の特徴といえる、ひっそり奥まった、玄関へとつながる細長い石畳のアプローチは、すぐ隣に便所、洗面所、浴室が並んでいるにもかかわらず、そんな気配はまるで感じられない、控えめながら静謐で落ち着いた雰囲気に包まれています。
階段下に設けられた便所は、外壁を二重にふかしてアプローチの屋根上から間接的に採光と換気を取り込み、洗面所と浴室は階段の踊り場から出入りできるよう地面から持ち上げられているため、2階の寝室からも使いやすく、懸念される湿気対策にも有効ですし、(アプローチの屋根上に)対角線上に窓を配して通風も確保、目隠しルーバーを設置し、アプローチまわりに植えられた樹木によって、さり気なく、お隣や道路側からの視線も遮るよう配慮されていることから、来訪者はもちろん、親しくお付き合いしているご近所の方々でさえ、その存在には気がついていないのかもしれません。
洗面所には、背後の洗濯室からも梯子段で容易に出入りが可能な仕組みで、浴槽の残り湯を無駄なく上手に使って掃除や洗濯も苦にならず、取り込んだ洗濯物は、とんとんと梯子段を上がって洗面所に備え付けの収納棚に入れるだけ。 おまけに、洗濯室に隣接して、ささやかながら女中室としても使える、庭に面した南向きの畳の部屋が用意され、ちょっとした家事仕事や、つかの間ほっと一息つける寛ぎの場にもなるなんて、経験豊富な主婦でもここまでのきめ細やかな心配りは、とてもとても及ばないのではないでしょうか。

来客への速やかな対応や、調理から配膳、後片付け、それから掃除や洗濯にも便利な位置にある台所は、計画上、直接外気に面しない、いわゆる 「あんどん部屋」 にならざるを得なかったようです。 しかし、家事動線の中心にあるのはむろん、明るく衛生的で気持ちよく立ち働ける場所でなければ意味がない。
そう考えたであろう吉村は、来客を迎える玄関も、最大の見せ場である居間ですら頑なに天井高さを抑えながら、ただひとつ、来客も、一家の主人も立ち入らない台所にだけ吹抜けを設け、真っ白いしっくい壁の遥か上方から、東向きの自然光をやわらかく受け入れて、すこぶる快適な空間に仕上げてみせたのです。

そういえば、吉村はこんな意味のこともいっていたようです。 「品のいい家をつくると、そこに住む人の性格をよくすることだってできる。 このような精神的な点が、現代の建築では無視されているのではないか」 と。
 
08月25日(日)

明倫小学校

1990年代に一年余りをオーストラリア西海岸の、日本人どころかアジア人さえもいない街に暮らしていた頃のこと。 居候先の方から 「The Bridge of … っていう日本のドラマが放送されるから、みてみたら」 と。
当時は、人気のアニメーションですら日本の作品が流れること自体左程多くなかった時代でしたから、何か海外で高い評価でもあったのか。 とにかく、その番組はNHKで制作された単発ドラマらしく、京都の街を舞台に 一条戻り橋 の伝説になぞらえ、どこかおとぎ話めいた、日本的情緒にあふれた美しい物語で、とりわけ主役の男の子が通う小学校でのシ-ンは、今思えばせいぜい数分間くらいのものだったのでしょうが、なぜか強烈な印象として記憶の奥底に残っています。 ※ あらためて調べてみたところ、日本では1988年に放送された 「もどり橋」 というドラマでした。

それから数年後にたまたま訪れたのが、洛中のど真ん中にあり、祇園祭の鉾町が幾つも集積する、伝統と誇りにどっぷり浸かった京の町衆だからこそ具現化し得た としか表現しようのない、恐ろしく立派な小学校。 人口減少や少子化にともなう統合によって泣く泣く閉校を余儀なくされ、後に京都芸術センターとしてリノベーションされる運命にある元・明倫小学校でした。
かつての賑わいが噓のような、ひっそりとした通用門から一歩、また一歩と校内に踏み入り、歴史ある京都の学校建築でもたったの二例しか実現されず、唯一現存する校舎の1階から3階までをつなぐ、めくるめくスロープ(斜路)のある空間に身を置いた刹那、こころの奥深くにしっかと焼きついた あのドラマの撮影場所がここだった!と、気づかされたのです。

名刹と名高い寺社や庭園、あるいは伝統芸能や工芸だけが京都の文化ではない と、今ならいえそうな気がする。
都(みやこ)が東京へと移り、1100年近くもの長きにわたり日本の中枢を自負してきたプライドを踏みにじられた京の人々が 「このままでは終われない」 と、前代未聞の大工事によって琵琶湖より水を引き、アメリカに次いで二番目となる水力発電の技術を導入した上、その電力によって全国に先駆け電車を運行してみせた。 劇的な復興エピソードをご存知の方は数え切れぬくらいいらっしゃるでしょうが、そのような近代化を象徴する大事業だけがこの街の底力だと早合点してはいけません。
都市スケールの巨大なプロジェクトにとどまらない、ヒューマンスケールのコミュニティが育む 「地域発、地域の人々による、地域のための学び舎こそが、ベールに包まれた 素顔の京都 なのだ」 と、ようやく認識できたのは、明倫小学校という器(校舎)を通して肝心の料理(教育方針)にきちんと向き合った時でした。

室町時代の町組をルーツとし、およそ20ほどの町から構成される番組ごとに計64の小学校が京都に創設されたのが、明治維新直後の1869(明治2)年のこと。 他に類をみない実行力から察するに、町衆の小学校に対する想い入れようはただ事ではありません。 お役所に頼らず、教育の場は自分たちでつくってゆくのだという、至極真っ当な考え方で夢を実現しようと一致団結する、底知れぬ情熱と高い志にあふれていたのでしょう。
実際、下京三番組小学校として誕生した明倫小学校も、寄贈された校地はもとより、すべて地元の方々がお金を出し合って学校をつくったと聞いています。 何しろ、和装業の中心地で名だたる商家が建ち並ぶ好立地ですから、慎重に機会を見定め、段階を経ながら少しずつ敷地を買い足し、地道な増改築を重ねながら成長を遂げたらしく、当時の学校というのは子どもたちの学び舎であるのはむろん、今でいうところの治安維持のための交番や消防詰め所、役所の窓口や町組の事務所としての機能を複合した、すべての人々の拠り所だったのでしょうから、愛着を感じない者など一人として居ようはずもありません。

明治期の学校教育といえば、過去と決別し、盲目的なくらいに西欧の進んだ教育法を取り入れる傾向にあったなか、美術教育と称して鉛筆によるデッサンを実施する他校に対し、毛筆によって伝統の日本画を学ぶ 「画学の時間」 をはじめて試みる一方で、時には伝統にとらわれず、そもそも日本では みんなで歌を歌う という習慣のなかった時代に 「唱歌の時間」 を採用したのも、やはり明倫小学校が最初だったのだそうです。
やがて大正期に入ると、どこよりも早く自由教育の考え方を導入していて、1・2学年においては基礎的な学習を、2・3学年では考え方を深め、5・6学年からは児童が自由に課題を選び、自ら研究課題を構築する といった具合に、現代の上から目線の画一的な指導よりはよっぽど好ましいどころか、何とも羨ましい限りの、理想的な教育が実践されていた事実には驚きの気持ちを禁じ得ません。 いかに地域の文化レベルが高く、かつ教育者が熱心であったかを後世に物語っているかのようです。

たとえ政治の中心は東京に移ろうとも、文化の中心は京都なのだ という揺るぎのない信念からか、あるいは御所を擁する立地ゆえか。 昭和に入ってからは 御大典記念事業 として近代的な鉄筋コンクリート造校舎への建て替えが提案され、とりわけ元・明倫小学校の校舎は、西欧で流行していたアール・デコ様式と日本的な様式を両立させて周辺の街並みとの調和を図りつつ、地域の象徴的存在となる斬新なデザインを具現化した成功例といえるでしょう。

明倫小学校

どれ程の大金を寄贈しようとも、決して個人の名前は表に出さない。 「俺が、俺が」 と自己アピールに余念のない、つくづく浅ましい世のなかで、どこまでも一町衆として学校を支えるのが美徳とされる街だけあって、堅固な構造に繊細な装飾、教育に必要なありとあらゆる機能に満たされた 東洋一 の呼び声高い学び舎にも、創設時から脈々と受け継がれてきた関係にいささかの乱れが生じるなど、金輪際あろうはずもありません。
ほんにささやかででこぼこっとした校地は、不規則なカタチではありますが、そこは京町家で培ってきた伝統の処方箋を近代建築に対しても応用し、アール・デコ様式がまぶしい正門から、お馴染みの石畳による路地庭で児童たちを奥深く招き入れ、ぽっかりと開けた、都心部には貴重な土の運動場をはさんで対になるよう 北校舎 と 南校舎 を配置して、双方を渡り廊下で行き来できるようにします。 ここが普段、児童たちが過ごす学び舎となるわけです。

これらの校舎に加え、明倫小学校ではオモテの通りに面し、石畳の路地庭に沿うようにして 本館 と称されるひと際豪華な建物が付属しています。 このなかに職員室や校長室、会議室といった学校の管理諸室がおさまるだけでなく、地域の人々の利用に配慮された自治連室も用意されてあります。
ことにすごいのは、児童用とは独立したステンドグラス入りのちいさな専用玄関を入って2階に上がると、そこだけは木造・78畳敷きの集会室になっていて、おめでたい日には、正面の床の間に地元出身の画家より寄贈された秘蔵の掛け軸を飾り、能が上演される ハレの場 として、時には子どもたちと地域住民との交流の場としても活用され、隣接する1階には児童のための屋内体操場、上階には学校での式典や催し、地域のコミュニティにも利用可能な講堂が設けられ、更に照明装置を完備した屋上体操場まであるという念の入れようで、日中は子どもたちが、夜間は地域の皆さんが利用する といった、幅広い使われ方を想定し、実際そのように使われていたようです。

だからでしょうか。 やがて、京都芸術センターとして第二の人生を歩み始めてからは、かつての教室が若く有望なアーティストたちのアトリエとなり、また、ある教室はギャラリーに、あるいは近隣の喫茶店が入居して各地から訪れる人々にひろく門戸を開く。 書院造りの集会室では茶会や伝統芸能が催され、屋内体操場ではワークショップが、講堂では名器とされるグランドピアノが現役で活躍しています。
そんななか、会場でボランティアをされていたり、(アートセンターなのに)運動場でテニスを楽しんだり、懐かしそうな様子でふらり訪ねている方々に出会ったとしたら、きっと彼らは、この学校を巣立った卒業生に違いありません。 なぜならば、ここにはまだ現代の学び舎が失ってしまった夢があり、今でも地域の人々の心の拠り所であり続けているのですから。