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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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05月18日(月)

うさぎ幼稚園

少々堅苦しい話になりますが、幼稚園というところは法律上 学校 として扱われるのだそうです。 それでも幼稚園の理想は 「おおきな家」 であってほしいと個人的に願っていますし、実際、そのような建物がこの国にも存在しておりました。 今よりも物質的にはずっとずっと貧しく、のんびりとした時代のお話です。

戦後間もない1950年の春に出版された建築の専門誌のなかで、ほんの3ページきりスペースがあてがわれた、それはそれはちいさな園舎の記事。
「うさぎ幼稚園」 という名がいかにもふさわしい。 愛らしい建物は余程資金繰りが厳しかったと見えて、計画された教室や保母室は未完のまま、遊戯室とトイレ、手洗い所だけしか完成していないにもかかわらず、そして、設計者も当時はまだ無名のはずなのに…。
それでも、何とか誌面をやり繰りしてでもこの建物を世の中に知らしめたいと願った、編集部の気概がひしひしと痛いくらいに伝わってくる、不思議な魅力に満ち満ちているのでした。

都心の閑静な住宅街の一角。 園児たちがのびのびと走り回るに十分な広さの園庭とひとつながりになるようにして、まるで縁側で日向ぼっこする猫(兎?)みたく、まったりとたたずむ園舎は、世知辛い今の時代からすれば信じ難いことに木造平屋建て。
規模もご近所の住宅と変わらない、ほんにささやかなもので、軒高なんて地面から3メートルちょっとです。 しかも、使われている材料ときたら、ごくありふれた規格ものの柱や板材がメイン。 施工も、おそらくは地元で住宅を手掛ける大工さんであったと推察されます。
では、遊戯室はさぞ窮屈で息苦しいだろう と懸念される方もいらっしゃるかもしれませんが、ご心配なく。 ちっとも、そんなことはありません。

うさぎ幼稚園

遊戯室に弧を描く虹のように架かるのは、かまぼこ型したヴォールト屋根。 通常、木造屋根の下には 小屋組み と呼ばれる構造フレームが用いられるのが定石なのに、室内の写真を見る限りすっきり広々としていて、それらしきものはありません。

設計者である清家清の解説によると、仮設の母屋を定規代わりにして松の板材を半ば強引に湾曲させ、斜め45度の方向にくぎ打ちしながら屋根の構造体となる野地板を成形したとのこと。 むろん、すべては現地での施工となり、現場加工で無垢の松板を曲げるわけですから、当然ながら板厚は可能な限り薄くしなければならず、結局、12mm厚の板材を交互に4枚重ねにして、必要最低限の強度を確保しています。
それでも全体の屋根厚さはわずか48mmにすぎませんから、6間(約11m)×4間(約7.3m)の遊戯室からすればひどく薄っぺらで、随分と心許ないものがあります。 従って、ここでは湾曲する屋根板が荷重や復元力で開かないよう、壁の両端部で屋根を受ける役割を担う軒桁を、鉄筋で繋ぎ止める工法が採用されました。

すこぶる軽やか。 そこはかとなく知的でモダンな香りすら漂う園舎には、なぜか木造の建物になくてはならない 軒の出 が見当たりません。 これでは、雨が多く湿度の高い日本の気候で園児たちが快適に過ごせるのか、甚だ疑問です。
かといって、ペラペラなヴォールト屋根の軒を不用意に出してしまうと、見栄えの良い悪い以前に、強風にあおられると簡単に吹き飛ばされてしまうでしょう。 それ故、ちょっとした積雪荷重に耐えられる程度の実用性を想定し、予算を切り詰めたぎりぎりの設計がなされているはずなのですから。
これら種々の問題を解消するため、あえて軒桁のある南北方向の外壁を外側に傾けてしまうことで、壁の上方にたっぷりとした厚みを与え、窓上に小庇の役割を担いつつ、実は薄い屋根材を頑丈に固定する役割も果たしていたのだ と気づかされます。

理屈では分からないかもしれないし、別に分からなくっても構わない。 もとより、そんな気配さえ周囲には微塵も感じさせない。 何もかもまるごと受け入れてくれる、おおらかな園舎。
きっと、園児たちは羽毛のような浮遊感と言いようのない安心感に抱かれながら、かけがえのない豊かな時間を過ごしたのだろう と。 そして、この建物をつくった張本人はそのまんま、飾り気のないあたたかな人柄だったのだろう と確信した次第です。
 
12月28日(土)

エキスポタワー

樹上で過ごすことを目的に、おおきな樹木の幹や枝を頼りに小屋のような建物をつくる ツリーハウス なるものがあります。
チンパンジーの祖先と分かれ、二足歩行をはじめた人間の祖先も、少なくとも四百万年前頃までは樹上で眠っていたそうですから、眺めの良い、あるいは樹々に護られたこころ安らぐ中空の居場所を求めて、無意識のうちに遠い遠い過去へと回帰しようとする行為なのかもしれません。
一方で、未来をみつめながら、現代のテクノロジーでもって中空の居場所を実現しようとしていた人たちがいたことをご存知でしょうか。 人類の長い長い歴史のなかではつい最近、ほんの50年ほど前のお話です。

1950年代の終わり頃、日本の若手建築家や都市計画家らによって メタボリズム と呼ばれるムーヴメントが起こりました。 メタボリズム(metabolism)とは新陳代謝を意味していて、当時の急速な社会の変化や科学技術の発展、人口の過密にあわせて有機的に成長する都市や建築の姿を、積極的かつ具体的に提案していました。
しかし、あまりにも壮大なスケールゆえ、都市計画としては実現にいたりませんでしたが、建築単体では黒川紀章の設計によって1972年に完成した銀座の中銀カプセルタワービルが、代表作としてつとに知られるところですし、大谷幸夫の設計で1966年に開館した宝ヶ池の国立京都国際会館も、メタボリズムとの共通点の多い稀有な実例といって差支えないでしょう。 ただ、ほんの短期間でしたが、まるで夢物語のような、彼らの提唱する理想都市の片鱗をきらり垣間見せる機会が一度だけありました。 1970年に開催された日本万国博覧会です。

苦しい敗戦を乗り越えて、技術も、経済も、労働意欲も、何もかもが右肩上がりの、誰もが漠然と 「今よりも未来は明るいのだ」 と夢見ることが許された、時代を象徴する国家プロジェクトだった大阪万博において、77か国に及ぶ国際館や名だたる企業が威信をかけて建設するきらびやかなパヴィリオンが林立するなか、とりわけ突き抜けて未来感を放っていたのが銀色に輝くエキスポタワーでした。
メタボリズムの主要メンバーであった建築家・菊竹清訓の設計によるエキスポタワーは、あの余りにも有名な岡本太郎の作品、 太陽の塔 と対になるよう配されて、会場のランドマークとして機能するだけでなく、実は未来の住宅都市モデルとして提案されていたことをご存知の方は、一体どれだけいらっしゃるでしょう。

どのようなプロジェクトにも変更はつきもので、ましてや世界に前例のない新陳代謝する高層住宅ですから、いくら博覧会といえど、そうやすやすと具現化するはずもありません。 何でも、当初は四本の主柱に支えられた450mの超高層タワーが構想されていたのですから驚きです。
結局、建設費の高騰により主柱を三本に減らし、高さは120mに抑える方向で最終調整がおこなわれたようです。

資料によると、エキスポタワーが着工されたのが1968年7月のことで、約一年半を費やし70年の2月に竣工しています(博覧会の開催期間は、1970年3月15日から9月13日でした)
ところが、最後の設計は1968年3月に第一案が作成され、次いで8月に第二案、最終案が作成されたのが12月と、最終案が確定する以前に着工に踏み切っているため、かなり厳しいスケジュールのなか作業が進められていたものと推察されます。

当初は 「未来の住宅都市におけるモデル」 と位置付けられていたエキスポタワーも、最終案では無難な展望塔へと用途が変更され、もちろん、それでも過去に例のない斬新な建造物であることに変わりなく、相当な注目を集めたのは容易に想像がつきます。
けれども、1997年のCOP3において京都議定書採択の舞台となる等輝かしい功績をおさめ、職場に誇りを持つ有能なスタッフに恵まれて、半世紀余りを経た今なお美しい姿のまま新陳代謝を繰り返す国立京都国際会館に対し、時代の変化に応じて新陳代謝しない、遊戯施設の延長線上で無難に落ち着いてしまった建造物は自ずと朽ち果てる運命にあったのか、わずか30年余りで解体されてしまいました。
だからこそ、住居モデルとしての姿を色濃く残す、実現されなかった第一案に不思議と後ろ髪を引かれるのかもしれません。

エキスポタワー 第一案

未来都市を先取りしたかのようなエキスポタワーは、単なるムードで発想されたのではなく、厳格な幾何学によって体系的に構成されています。

まず、タワーの骨格となる主柱は、一辺2mの正三角形状をした配列で垂直に立てられた三本の鋼管を一体接合します。 さらに、この主柱どうしが一辺10.8mの正三角形を形成し、樹木でいうところの幹の役目を担います。
次に、一辺10.8mの正三角形を正四面体として立体的に換算すると、ワンフロアあたりの高さが8.818mとなり、主柱との接点を基点に垂直および水平方向に正四面体の鋼管トラスフレームを展開させることで、あたかも樹木の枝のような役割を果たし、必要に応じて拡張することも撤去することも(理論的には)可能となります。
最後に、正四面体の鋼管フレームに内接して、たわわに実る果実のように正20面体の住戸ユニットを吊り下げ、必要に応じて連結あるいは交換することで、様々な家族構成に適した中空の住まいが完成する というわけです。

主柱に囲まれた幹の中心には ひし形状 をしたエレベーターが二基と、インフラとなる配管・配線類がむき出しのまま上下に貫かれ、将来の増設や交換に対応できるよう、周到な計画がなされています。
完成形はあるようでいて、実はない。 純粋な幾何学だけ用いて建築工学的に導き出されているため、一見するとそうとは気づかないかもしれませんが、これは20世紀のテクノロジーが具現化した ツリーハウス そのものではありませんか。

華やかな万博の舞台となった北大阪(吹田市)の千里地域は、もともとが辺り一帯、なだらかに傾斜する丘陵地だったはずです。 それがパヴィリオン建設のため広大な平坦地が必要となり、なかば強引に丘を削り谷を埋める、当時としては当たり前の造成工事が行われたものと想像されます。
ただ、エキスポタワーだけはどいういわけか、他のパヴィリオン群からちょっと離れた小高い丘の上に建てられていて、わざわざ階段を延々と上がらなければたどり着けない計画になっていましたから、恒久的な展望施設としては、集客面からしてそもそも分が悪かったのかもしれません。

それでも万博の閉幕後、パヴィリオンの跡地が公園として整備され、さんさんと陽射しが降りそそぐ、ゆったりのどかな芝生のひろばや、さも気持ち良さそにのびのびと枝葉をひろげる大樹をみるにつけ、豊かな森林に囲まれ、平坦な敷地の少ないこの国で、人口増加著しいあの時代、地形そのままに住宅都市をつくるとしたら、自然とあのツリーハウスのようなかたちになったのではないか。 そのためには、やっぱりあの丘の上でなければならなかったのかな と、当時の人々が夢見たであろう21世紀の今日、ぼんやりともの想うことがあります。
 
02月25日(月)

ローズガーデン

神戸の魅力は、港にほど近い平坦な旧居留地からしばらく北上すると、ゆるやかに始まる、おだやかな瀬戸内海を望む南向きの坂道の絶妙な傾き加減にあるようです。 あの ゆるさ加減 がすこぶる住みやすく、日常的に歩いても左程苦にならない。 洋装や、袴+ブーツ姿で颯爽と行き来できる街のスケール感や地理条件からして、そもそも洗練されている。 明治の開港以来、異人館の建ち並ぶハイカラな土地柄も 「さもありなん」 と、納得するほかありません。

坂道の街・神戸を象徴する北野エリアは、そのハイカラさゆえに少々背伸びした大人(理想)のあなた自身に出会える、どこか特別な場所としての魅力も秘めている。 そんな、有数の観光地としての顔はむろん、長らく高級住宅地として愛されてきたこの街に、すっかり溶け込んでしまっている商業施設があります。 安藤忠雄の設計により、1977年に誕生したローズガーデンです。

安藤忠雄ほど純粋に、その場所と建物との関係を大切にする建築家は、他にはいないのではないでしょうか。
創作の出発点はここにある と、確信せざるを得ない。 初期の代表作に数えられるローズガーデンは、神戸という特別な街に対する憧れや愛情を、 街づくり というひろい視点から、じっくりと時間をかけて向き合い、時に悩み、苦しみながら創造されたちいさな宝物。
巷にあふれる建物は、そのほとんどが敷地という境界線のなかだけで完結してしまっているのに対し、ことローズガーデンに関しては、ちまちまとした境界線などきれいさっぱり消滅し、あたかも ひとつの街 として成立したかのような印象を受けてしまいます。

普通、商業施設というのは、人通りが多く、視認性の高い主要な道路に面して入口を設けるのが鉄則といえるでしょう。
ところがローズガーデンの場合、驚くことに、メインの山本通から出入りできる店舗は通りに面した一部だけに限られていて、大半の店舗にアプローチするためには、わざわざ建物の側面に回り込むようにして坂道を下り、あたかも茶室における にじり口 のような、ちいさく目立たない入口を潜り抜け、建物中央にある広場を経由しなければならない仕組みになっているのでした。

ローズガーデン

この 「坂道を使う」 という、神戸の街の北野界隈でなければ到底成立し得ない、至極真っ当な発想が、決して広くはない限られた敷地のなか、上下方向へと空間が展開・拡張してゆく一種の 道しるべ として、1970年代当時の若き建築家を、豊かで奥深い創作世界へと誘うきっかけになったものと推察されます。

さすがに、ここまでは観光地化されてはいまい。 素顔の神戸 といっても差支えのない、勝手知ったる坂道をとことこ下って、商業施設というよりは、むしろ知人の住宅にでも訪問するくらいのさり気なさでもって、商業施設にしては存外知的な面持ちの建物ににじり入れば、ヒューマンスケールな屋外広場を取り囲むようにして、南北に半階ずつレベルを変えながら展開する屋外デッキと、双方をつなぐ二つの階段によってぐるぐる回遊しながら、上へ、上へ、不思議と足取りも軽やかに、するすると苦も無く行き来できてしまうスキップフロアの妙。

写真だけでは分からない。 頼もしい構造体でもある、レンガ仕上げのコンクリート壁がちょっと斜めに振れていたり、あるいは一旦視界が遮られることで、単調なはずの上下移動にめくるめくような体験が伴うだけでなく、壁と壁との間に切り取られた向こう側には、思いがけず 「神戸ならでは」 の風景が垣間見える という、気の利いた演出が用意されていたりします。
ことに、最上階の3階店舗へと至る道のりは、レンガ仕上げの壁と壁との狭間から見上げる視線の先、遮る何物もない、おだやかに晴れ渡った空の下、その先に続く路地状の通路を経てようようたどり着く、とっておきのペントハウス(離れ)になっていたり… という具合に、1階には1階の、2階には2階、地下には地下、最上階には最上階、それぞれの魅力を持ち合わせた、均一ではない、本来あるべき街の姿をひとつの建物として表現し得た、稀有な試みといえるでしょう。

たとえ商業施設といえども、時代のムードに安易に流されることなく、この街のために、相当に時間をかけて、工夫に工夫を重ね、隅々にまで細心の注意を払って設計・施工されたローズガーデンを訪ねた折、一か所だけ、どうにも腑に落ちない箇所がありました。
建物の肝ともいえる広場に面した、屋外階段の下の三角形した隙間に、あるじを失って久しいと思しき、広さにして一畳あまりにすぎない極小の店舗(らしき)空間が、ぽつりとしつらえてあるのですが、一体どのように使われるのか判然としません。
通常であれば、ついでのついで、せいぜい物入か何かに活用する程度の、ひどく使い勝手の悪いスペースではあるものの、ちょうど坂道からアプローチした目線の高さの、しかも真正面に位置しているものですから、実は計り知れない可能性を秘めているのではないかと確信させるだけの、ただならぬ存在感です。

過去の資料によると、雑誌に掲載された竣工時の写真からは既にそれらしき存在が認められるものの、あいにくサイズがちいさすぎるため、やはり、どのような用途に用いられたのかまでは分かりません。 何しろ、人が立って行動できるのはドアのある手前側半分までで、それより奥は頭がぶつかって、まともに機能しないような有り様なのですから。

更に調べるうち、オープンから10年ほど後の1980年代にローズガーデンを撮影した、数枚の写真に出会いました。 そこには、からりとした晴天の下、レンガ貼りの外壁にはところどころツタが絡まり、既に北野の風景の一部になっている街並みの様子と、それから、広場を階段の途中から俯瞰した様子がはっきりと記録されておりました。
あのちいさな店舗のドアはすっかり開け放たれ、赤レンガとコンクリートで出来上がった簡素な広場には一面、色とりどりの花で彩られ、人々がくつろぎ、行き交う光景が…。 そうか、お花屋さんが入っていたのですね。
遅ればせながら、その時、この建物の名付けられた意味にようやく気付いたのでした。