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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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03月07日(火)

神戸女学院 講堂

周囲はどこにでもあるような住宅街なのに、桜並木が続くあの坂道の向こう側だけは、ずっと変わらずあり続けています。 きっと、この先いつまでも。

堂々とした正門の正面に、これまた堂々とした校舎がどんと腰据えた立派な学校は、世のなかに数え切れないくらい存在するかもしれませんが、神戸女学院のここにしかない、この場所だけの持つどこか懐かしい感覚は、ふんわりと盛り上がった西宮の丘の麓の、深い深い緑のなか、ぽつんと開いた坂道の先の愛らしい正門をくぐってみれば、どなたもご理解いただけることでありましょう。
控えめな正門のアーチをくぐると、いよいよ緑は濃く、しばらく歩かねば建物すら視界に入ることはない、樹間の長い長いアプローチ。

確かこの丘は、どなたかのお屋敷が建つ広大な敷地だったものを、1933年(昭和8年)、神戸異人館街の一角から移転した女学院の新たなキャンパスとして、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories)の設計によって生まれ変わり、以後80年以上にわたって大切に使われ続けています。 その長い時間と記憶の蓄積は、もともと自生していた樹木も、お屋敷として使われていた頃に植えられたであろう樹木も、校舎建設と共に植えられた樹木までもがすくすくと成長し、何もかもがすっかり馴染んでしまって、そんななか、丘の中腹のぽっかり開けたささやかな平地に安住の場を得たかのように、さも居心地よさそに収まった音楽館が、清楚な微笑でもって学生たちを迎えてくださる。
その脇から、ちょうど人がすれ違えるくらいの程よい道幅の階段や坂道を、てくてくと歩くうちに、ざわざわしていたこころも知らず知らず落ち着いて、ふと気づくと丘のてっぺんの、中庭囲うようにして建てられた四つの校舎へとたどり着くのでした。
丘のてっぺん といっても、パルテノン神殿のように威風堂々、建物むき出しというわけではなく、丘の尾根筋に沿って割合素直に配されて、のびのびと枝葉をひろげた、もう元からあったのか、お屋敷の頃からなのか、あるいはそれ以降なのかすらも判然としない樹々たちと同じくらい、すっかりこの地に溶け込んで、古いとか新しいなどといった概念すらも通り越し、振り向けば 「あっ、そこにいたのですね」 といったさり気なさで、クリィ-ミースタッコ壁に手焼きのスクラッチタイルを組み合わせたヴォーリズ特有のあたたかみのある校舎が、ただただ変わらずそこにある。 そっと見守られている時の何ともいえない幸福感 とでも表現したらよろしいでしょうか。

神戸女学院は、キリスト教信仰に基づいたリベラルアーツ・カレッジを実践する学校ですから、数多くの学部を有する総合大学のように大規模なものではありません。 それでも、中高部から大学までの幅広い年齢層の女子学生のための学び舎ともなれば、随分と立派な規模ではあります。 なのに、ほかの大学のように巨大で、一種の威圧感を与えることなど皆無です。
それは、ヴォーリズによって設計された校舎や宿舎が、丘陵地の地形にふさわしいサイズに分節され、おのおのの用途や機能にあわせ適度な距離感で配されているからに他なりません。 主要な校舎の幾つかは回廊によって結ばれていて、どこか修道院のような雰囲気が漂っています。
校舎の中廊下は行き止まりになることなく、適度に折れ曲がりつつ、緑濃い樹々のなかを縫うように回廊を介してつながっています。 そこはアプローチの坂道同様、かなりの長さがあるにもかかわらず、決して単調になることなく、肝心な場所にはアーチの窓や出入り口があって、ひとつとして同じではない多彩な風景を、まるで絵画のように切り取ってみせてくれるのです。 それは幻想などではなく、扉を開けて踏み出せば美しい風景の一部になることだって許される。 どこをとっても均等ではない、あなただけの大切な居場所が、どこかに必ず用意されているはずなのですから。

数多い扉の向こう側の風景のなかでも、とりわけまばゆい場所に中庭が挙げられます。
街の喧騒から深い樹々によって護られたキャンパス、さらに四つの校舎によって護られる という入れ子状の、芝生敷きの中庭を取り巻く長円形の散策路。 その中心にはささやかながら噴水とベンチがしつらえてあって、ひろびろした空間に身をゆだねるだけで何だか気持ちがすっとする。 それでいて、なぜかしっくりとした居心地のよさも残されています。 すべてが度を越さない。 こんなのを ヒューマン・スケール とでもいうのでしょうか。
実際、校舎へと続く坂道も、回廊も、中廊下も、ゆったりとした階段も、講義室も、どれもが必ず、人が心地よいと感じる適度なスケールに保たれています。 それでも、アーチ窓の向こう側には、深い緑やぬくもりのある校舎たちがちらりと横顔みせて、なにかしら視界が開けていたりするものですから、ちっとも窮屈に感じることはありません。 ほの暗い木陰や中廊下があるからこそ、中庭の芝生や噴水がひと際きらきらと輝いて目に映る。
しかし、クラス単位の比較的少人数であればこそ、心地よいヒューマン・スケールが成り立つわけですが、学校であれば当然、全学生が集まるような大空間も必要になるはずです。 そんな大空間を、ヴォーリズはどのようにして設計したのでしょう。

中庭を取り囲む校舎のひとつに総務館があります。 この建物はキャンパスの中枢機関にあたり、配置計画全体においても要の位置に相当しますが、同時に学生たちにとっても想い出深い特別な空間になっているのです。 総務館には、事務関連の部屋とは中廊下を隔ててチャペルと講堂が配されてあり、大学側、中高部側のどちらからも回廊を使って容易にアクセスできるよう考えられています。
チャペルは、純粋に祈りのための空間で、規模はちいさいものの、片側だけに設けられた側廊とその上部に穿たれた乳白ガラス製(※ おそらく)のアーチ窓からは、すーっと西日が差し込んで、ひんやりとした空気をあたたかくも神々しい、黄色い光へと染めてしまいます。 あたかも森のなかにぽつんと建てられたかのように、包み込まれるような小空間は、クラス単位での礼拝を想定して設計されたものなのでありましょう。
一方で、チャペルに隣接する講堂は、学院内でも(体育館を別にすれば)最も大きな空間になります。 床面積はチャペルの6倍くらいになるでしょうか。 専用のホワイエ(ロビー)、プロセニアム・アーチに縁取られたステージと各所に組み込まれたスチーム暖房設備(※ 現在は冷暖房空調機)、それに、二階席も備えた劇場にも劣らぬ立派な仕様は、全学生による礼拝や式典、講演等、多目的に利用されているものと思われます。

神戸女学院 講堂

講堂の壁は、一見したところ石を積み上げたように思われがちですが、少なくとも室内に石材は使われておりません。
誰かに指摘されないとなかなか気づかない仕上がりは、実のところ、天然自然の石ではなく左官職人の腕前によるもので、鉄筋コンクリートの構造体に、地元で調達できる良質の砂を応用した左官材でもって、手作業で石を積んだかのような表情にしているのだそうです。 石積みの目地だけでなく、表面の微妙な凹凸まで表現し、ベージュ系の塗装で仕上げてあるとのこと。
そのように説明しただけでは、あるいは安直なコピーのように受け止められるやもしれません。 本物を使わず、楽して誤魔化しているのだろうか… といった具合に。 けれども、それは間違っています。

教会など、西欧の伝統的な建造物には石を積み上げて構築された、重厚なイメージがあります。 それはそれで事実に違いありません。 ただし、そのような事例は、その土地に材料となるだけの石材がふんだんに調達できる環境にあってこそのお話です。 石が調達できない土地では、レンガ積みによる建物が発達したでしょうし、森林に恵まれた日本には、高度な木造建築の文化があるのです。
もちろん、莫大な財力をもってすれば、石に恵まれない土地でもはるばる遠方から運び込むことで、石を随所に使った校舎を実現することは可能でしょう。 ただ、神戸女学院の建設資金は、尊い募金によって得られたのだと聞いています。 贅沢な建物を好まなかったヴォーリズは、教育のための施設には何よりも品性が大切と考えていた人ですから、ほとんど石を用いなかったのもうなずけます。
そこで、モルタルやコンクリートのような、簡単に調達可能で安価な左官材をふんだんに用い、そのかわり、思う存分人の手を掛け、技術の限りを尽くしたのです。 当時、日本の左官技術は世界一の水準にあったらしく、ヴォーリズは西欧のよいところだけにとらわれず、日本のよいところにもきちんと目を向ける、柔軟な考え方ができる人物だったのでしょう。

それにしても、講堂のひろさと存在意義は学院内でも別格ですから、壁や柱の造作すべてを左官仕事だけでやりきってしまうなんて、とても尋常の沙汰ではありません。 一人や二人の職人で間に合うような規模ではないのは明らかで、限られた工期のなか、かなりの数の職人が高いレベルでもって、一糸乱れぬ行動をする必要があるわけですから、当の職人たちも内心は不安で仕方がなかったのではないでしょうか。
しかし、そんな気持ちとは裏腹に、未知なる仕事に対する前向きな姿勢と、困難に直面しても挫けない誇り高い職人魂がむくむくと頭をもたげ、 「腕が鳴るぜ」 などと粋なセリフすら飛び出したとしても、当然といえば当然です。 何しろ世界一の技術なのですから。
(専門の建築教育を経ていない)ヴォーリズのデザインは西欧の伝統だけでなく、日本からの影響も臆せず取り込んで、単なる他所からの借り物ではない、この場所でしか成し得ない、この場所のために捧げらたかのような素直で柔軟な発想に満ち溢れていました。 一見すると西欧的なまとめ方のようであっても、窓下にさり気なく波の模様を取り込んであったり、ふくよかなカーブを描くヴォールト天井はよくみると網代模様になっていたりで、さすがの職人たちも、こころのなかでは 「してやられたな」 などとつぶやいていたかもしれません。

講堂にもチャペルとまったく同じ、乳白色の特別な型板ガラスが用いられていますが、そこから導かれる光の様相は驚くほどに異なっています。 色がついていないステンドグラス と説明すればよいのでしょうか。 透明のガラスであれば、外光はほぼそのまま差し込むのに対し、どうも、乳白ガラスを透過する光は色温度の差によって色彩が変化するらしいのです。
講堂の北側にある縦長の大きなアーチ窓からの光は、(季節や時刻等によって異なるのかもしれませんが)僕の目にはほの白く、やわらかに映りました(※ 左右対称プランの講堂のアーチ窓は、北側と南側にそれぞれ設けられていますが、南側の窓は中廊下に接しており、間接光を取り入れているため、メインの採光は北側からとなります)
清浄な明かりによってほんのり照らされた室内は、重厚な石積みの建物とはやっぱりどこか違っていて、不思議と軽みすら感じさせる、ほんのりあたたかな空間だったのです。 それは人のスケールではなく、人の手による、あたたかな質感からつくり出された、どこか人間的な手技のにおいがしていました。
 
02月16日(木)

スタウト スカラブ

とある海外の美術館で、1930年代にアール・デコ様式の影響を受けて製造された自動車に焦点をあてた企画展が開催されている。 そんな、興味深い内容の記事を拝見したことがあります。

この時代、欧米ではモノづくりの機械化によって効率に重きを置いた工場での大量生産がひろがる一方、工業製品に昔ながらの熟練した職人技を巧みに融合することで、芸術性の高い付加価値を与えるという、ある意味で産業革命後の文化的な成熟期に到達しており、そのようなデザインの流れを総称して アール・デコ(Art Deco) と呼んでいたのかな と、不案内ながら個人的に解釈している次第です。
ただし、一口にアール・デコといっても、有機的なデザインから幾何学的なデザインまで様々で、とりわけ自動車業界においては、塗装やメッキ処理によってきらびやかに彩られた鋼板製のボディが複雑な流線形を描く、スピード感のあるデザインを好んで取り入れる傾向にあったといえるでしょう。

記事に掲載されていた展示車両の画像を拝見するに、コンピュータによる解析は無論のこと、大掛かりな風洞実験によって導かれた有用性の高い流線形というよりも、視覚的な格好良さによってもたらされる優雅で流麗な造形美に基づいて創造された、あくまでも作品的な意味合いでの流線形のようで、アール・デコならではの豪華さや上品さに目を見張りつつも、恐ろしく手の込んだ芸術的なボディも、そこは用途が乗り物である限り、空気抵抗の効果以前に、ちょうど西洋の甲冑のような、分厚い鋼板の重さから生じる負荷ゆえの根本的な矛盾があるのでは? との疑問を抱いてしまうのも仕方のないことなのかもしれません。
ところが、いかにも クラッシック・カー然 とした重厚で彫りの深い顔立ちのコレクションが居並ぶなか、どういうわけか一台だけ、正面からみるとのっぺりと扁平顔で、横からみると意外なくらいにゅるりと間延びした、どこやら愛嬌あふれる不思議なデザインの車が紛れ込んでおりました。
ちょうど昔、マンガやアニメで人気だったゴマフアザラシの赤ちゃん、あの 「ゴマちゃん」 そっくりな風貌で。

スタウト スカラブ

流線形の自動車といえば、上質なレザーに包まれた、少々窮屈な2シーターのコクピットがいかにも似合いそうな、スポーツカーとしての血統を正しく受け継いだすこぶるレーシーな姿を想像するのに、こと スタウト スカラブ(SCARAB) の場合、もうほとんど車輪が前後にはみ出してしまいそうなくらい、たっぷりとした車室が でん と用意された、さしずめ今の日本でいうところのミニバンにも似た、6人乗りのファミリー・カー とでも形容すればよろしいでしょうか。

思うに西欧の自動車というのは、馬車の車体に(馬のかわりに)エンジンを載せたのがそもそものはじまりなのでしょうから、バランス的に車室の後方にトランクを、前方に縦長のエンジンを据え、車輪は車体の側面にはみ出してフェンダーとランニングボードで体裁を保つ というのが当時の定石に違いなく、真っ当なアール・デコ様式の車両は、どれもこれらの基本的要素をきちんと踏まえた上で芸術性の高い容姿の優劣を競っていたはずです。 それなのに、スカラブに関してはどうも、発想の根本からしてすっかり異なっているようなのです。

そこで、生みの親である ウィリアム・スタウト(William Bushnell Stout) について調べてみると、1880年、アメリカ・イリノイ州生まれのこの人物は、若い頃に新聞のコラムを執筆していたこともある発明家気質の優れた航空エンジニアとして、1918年にデルタ・ウィングを搭載した今日のステルス戦闘機に相当する軍用機を開発。 その数年後には機体にジュラルミンを採用した、世界ではじめてとなる金属製の航空機を実用化したほか、自らの設計による旅客機で1925年、アメリカ初の民間航空サービスを開拓する等、航空分野において重要な役割を果たしただけでなく、航空技術を応用して鉄道やバスのような大量輸送が求められる旅客車両の設計までを幅広く手がけ、1930年代、満を持して自ら スタウト・モーター・カー・カンパニー(Stout Motor Car Company) をデトロイトに設立、(馬車をルーツとしない)航空理論に裏付けられた次世代の乗用車 「スカラブ」 を販売するに到ったとのこと。

技術は決して嘘をつかない。 そう信じて疑わなかった(であろう)、生粋のエンジニアであるスタウトは、空中を飛行する航空機と地上を走行する自動車との空力的な特性の違いから、まず、自動車に求められる理想的な形態として、底面が平たく上面がなめらかに弧を描く 亀の甲羅 のような姿に着目し、古代エジプト時代に太陽をつかさどる神の化身としてあがめられた スカラベ(※ scarabe : 日本でいうところの フンコロガシ に相当する甲虫のこと) をモチーフに車両の開発をスタートします。
ご存知のように、甲虫類は硬い外皮を骨格として成り立っているのに対し、馬車をルーツとする自動車は底面のハシゴ状に組まれたシャーシ-を骨格としていて、上に載せられるボディは構造とは無縁の(馬車でいうところの)幌に近い存在であり、走行時の剛性や安定性を考慮すれば、前者の方がこれからの自動車としてのあるべき姿に違いなく、実は、車体の外皮全体で応力を負担する モノコック構造 こそ、まさに航空機の設計で培われた技術そのものだった というわけです。

モノコック構造を応用した自動車は、軽く、かつ強度があるために自ずと車体の重心が低くなり、安定した走行が可能となるばかりでなく、工夫次第で合理的な車室空間を得ることにもつながります。 そこで、ゆったりとした内部空間を確保するためにホイールベースを最大限にまで広げて、重くてかさ張るエンジンを運転の邪魔にならない後端下部に配置し、最短距離で後輪を駆動します。
エンジン前寄りにコンパクトに組み込まれた3速マニュアルのギアボックスは、二重構造になった薄い床下スペースを利用し、ロッドによって運転席にあるシフトレバーと接続されるため、車室内の床は完全なフラット状態となり、フェンダーもランニングボードもない、甲虫あるいは亀の甲羅にも似た、旧来の自動車らしからぬすっきりモダンな容姿を纏うことになったのは、決して奇をてらった行為などではなく、むしろ、理にかなった正常な進化であったといえるでしょう。

スタウト スカラブ

もうひとつ、スカラブの特徴を挙げるとしたら、乗り心地や操縦安定性を大きく左右するサスペンションのメカニズムでしょうか。
当時の自動車に用いられていたサスペンションは、(馬車時代より引き継がれてきた)左右の車輪を車軸で連結し、板ばねで吊られた 車軸懸架方式 が一般的であったのに対し、ウィリアム・スタウトは、現在みられるようなコイル状のばねに左右の車輪がそれぞれ独立して作動する 独立懸架方式 を、地上を走行する車両にいち早く導入します。
この恩恵によって、路面の追従性や安定性、静粛性に優れる結果となり、とりわけ高速時においては良好なハンドリングとハンモックのような快適な乗り心地がもたらされ、低くて平ら、しかも広々とした車室内に運転席以外のすべての座席が自在にレイアウト可能な居住性の高さから推察するに、ミニバンというよりもリムジンに近い、どこにでも移動可能な リビングルームのような乗り物 と評してみても、あながち的外れではないはずです。

古典的な馬車をルーツに粛々と歩みを進めてきた数多の自動車と、航空機の先進的なテクノロジーを惜しげもなく投じて彗星のごとく現れたスカラブでは、歴史上は アール・デコ という同一のカテゴリーにありながら、華やかに彩られたボディの中身は明らかに別次元のメカニズムで、それに伴うコストを反映すれば、そして、有名メーカーの流麗な容姿に身を包んだ高級乗用車が何台も購入できてしまう、恐ろしく高額な、(世間一般には)無名に等しいメーカーの、ゴマフアザラシみたいなのっぺりとした容姿の超高級車とをハカリにかければ(※ まだ 「ゴマちゃん」 のゴの字もなかった時代です)、いくら自動車王国アメリカの富裕層であっても、その隠された潜在能力をきちんと見抜くに値する確かな審美眼の持ち主はそれ程多くはなかったとみえて、スカラブは、わずか6台(9台とも伝えられています)の販売台数にとどまったのだそうです。

それでも、ウィリアム・スタウトは高い志を失うことなく、(市販化には到りませんでしたが)世界初のグラスファイバー製ボディを採用した 新型スカラブ や、まるでコンパクトカーと小型飛行機を融合したかのような スカイ・カー(Sky Car) と名づけた夢の空飛ぶ乗用車の開発に生涯かけて取り組み続けた、とことん乗り物好きな、そして、数少ない本物のエンジニアであったことだけは間違いありせん。 なぜなら、製造後80年あまりを経た現在でも5台ものスカラブが実動可能な状態で保管され、あの歴史に名を残すきらびやかなアール・デコ時代における自動車コレクションのなかで、ひと際まぶしく輝いているのですから。
 
01月27日(金)

栗原邸(旧鶴巻邸)

「コンクリートブロック」 と聞いて、目を輝かせる人はあまりいないでしょう。 あのどこにでもありそうな、何てことない建材です。 それでも、ひとたび建築家 本野精吾(もとのせいご) の手にかかると、日本の近代建築史に輝く名作にもなり得たのですから、世のなか何があるか分かったものではありません。
本野が手がけた数少ない建築作品のうち、現存するのはたったのよっつ。 しかも、そのうちふたつが住宅で、どちらもコンクリートブロック特有のざらざらっとした質感が大胆に用いられています。 建てられた時代はいずれも1920年代ですから、大正末期から昭和初期、コンクリートそのものが最先端の素材だった頃、その先頭を駆け抜けたのが本野精吾でした。

正真正銘、まるごとコンクリートブロックに彩られた 栗原邸(旧鶴巻邸) は、琵琶湖から京都市内へと引かれた疎水べりに1929年(昭和4年)に建てられた、お屋敷と呼んでみても差し支えない立派な邸宅です。 それでもやっぱり、外壁はあの何の飾りっ気もないコンクリートブロックそのまんまの仕上げだったりします。 なのに、どこかに美しく冒し難い品格を備えている。
かつて、建築家の吉村順三はこんなことをいっておりました。 「贅沢な材料や、必要以上に手間をかけた建築では、かえって品が出なくなる場合が多い」 と。
粗末な素材であっても、長所を見極め活かして使う。 その土地の特徴や気候風土を理解すること。 そして、何よりもプロポーションがよくなければならない。 本野の場合はどれも抜かりなく、きちんと満たしています。

栗原邸は、柱や梁といった線材による伝統的な日本の工法とはおよそかけ離れた、壁という面材によって構成される西欧の伝統的な工法、すなわち組積造の延長にあるといえるでしょう。
石やレンガを積み重ねた組積造は、重厚である反面しなやかさに欠け、地震には脆かったりします。 一般的なコンクリートブロック造もまた然りです。 ところが、本野が採用した 「中村式鉄筋コンクリート構造」 と呼ばれる工法は、L字型をした特殊なコンクリートブロックを型枠代わりに借用した上、空洞部の要所要所に、鉄筋で補強されたコンクリートを打ち込んで一体化することで、この脆さを克服しているようです。
ただ、がっしりと壁に護られた構造の住宅は、必ずしも高温多湿という、特殊な日本の環境にそのまま応用できるとは限りません。 何しろ日本の伝統的な住まいは、冬の寒さを犠牲にしても、すかすかで風通しのよい 「夏を旨としたつくり」 を身上としているのですから。 それに、あちこち堅固な壁だらけでは、窮屈で(精神的に)息が詰まりそうではありませんか。
間取り図をみたところ、栗原邸のプランは四隅を壁に護られた居室空間が囲い、中央に玄関やホール、階段室等の共用空間を配した合理的な、旧来からある西欧住宅の模範とも受け取れる提案がなされています。 では、実際の空間はどうなっているのでしょうか。

本野は、20代の後半に2年半ほどヨーロッパに留学していた(※ 主にドイツと思われます)経験から、様式に重きをおいた異国の伝統のみならず、機能性や合理性といった建築界に芽生えつつあった最先端の息吹をいち早く感じ取っていたと考えて、まず間違いないでしょう。 そのためか、栗原邸には畳の敷かれた、いわゆる 「日本間」 は存在しません。 床の間はおろか、縁側のような中間領域すらもきれいさっぱり排除されています。
そうであれば、この近代建築は別に京都でなくっても、ベルリンあたりにあったとしても、ちっともおかしくないのでしょうか。 確かに表面上の様式は国境を跳び越えてはいますが、僕にはむしろ、設計者にも工法にも技術にも、不思議と 日本 を感じてしまうのでした。

栗原邸(旧鶴巻邸) 2階寝室

住み手の趣味や好みを反映したと思われる1階の食堂や客間といった華やかで社交的な場よりも、むしろ左程人の目を気にする必要のない2階の寝室や書斎といった私的で地味な空間にこそ、つくり手の素養や感性が問われるもので、ひとたび上階に上がろうものなら、その場にいつまでも居続けたくなるような離れがたいこの魅力に、はたしてあなたは気づくことができるでしょうか。
といってはみても、当時の西洋館ではごくごく当たり前の、板張りの床や、しっくい塗りの壁天井、木製のドアや家具といったしつらえで、取り立てて豪華というわけではなく、かといって貧相でもなく、斬新でもありません。 もちろん西欧の方々がひそかに憧れる 日本趣味 とも無縁。 栗原邸の居室(特に2階)についてはっきりいえることは、(素材ではなく)空間にただよう精神性がきわめて 日本的 だということです。

この建物の重要な装置のひとつに暖炉があげられます。
日本でも、お金持ちの邸宅の応接間などに暖炉が据えられている例は、それほど珍しいことではありません。 しかしそれは、暮らしの中心にある かけがえのない拠り所 とは程遠い、一種のステイタスにすぎなかったりするのが、悲しいけれど現実です。 ところが、この家にはほとんどの居室の、しかも肝心な場所に、振り向けば必ず暖炉があるのです。 数えてみると全部で6箇所もありました。
なぜ暖炉だらけなのか。 理由は簡単です。 ひとつは、おのおのの部屋が構造上分割されているので、それぞれにきちんと暖炉を設けた。 京都の冬は存外冷え込むので、こころもからだもあったかく過ごしてほしかったから。
ふたつは、敷地が山林の一角にあり、燃料となる薪が身近に存在するのですから、これを使わない手はありません。 きわめて合理的かつ経済的な発想です。
みっつは、寒冷地であるドイツに滞在していた本野は、暖炉の有用性とともに、暮らしから切り離すことのできない 精神的な存在である と、理解していたのではないかと。
日本人が暖炉を設計すると、おかしなことになりそうなものですが、本野はそこを気負わず乗り越えることができたのだろうと思います。 きっと、座敷に床の間をつくる気構えで、割合素直に すっ と入っていったのではないでしょうか。 過剰でもなく、素材も活かして、浮つかず腰の据わったプロポーションは、日本人だったらその良さを理解できるはずです。 正座の美学みたいなもの とでも表現しておきましょう。

暖炉と同様に、それぞれの居室に共通している装置がもうひとつあります。 窓の存在です。
何しろ構造が壁によって成り立っているものですから、日本の伝統工法のように、どこでも自由に窓が設けられるわけではありません。 全体の構造バランスのなかで、 ここぞ! という場所にこそ設けなければいけませんから、窓ひとつといえども疎かにはできません。
こちらもやはり、縁側の位置や奥行きを決めるくらいの覚悟が必要だったものと想像されます。 山林と疎水を背に、なだらかに南にひらけている敷地の特性からいっても、陽のあたり具合からいっても、南向きの部屋であれば南側の中央あたりに、両脇に適度に壁を残しつつ、感心なくらいすぱっと窓を切り開けた。 その高さが実に良いのです。
普通西洋館であれば、少なくとも床から90cm以上の高さに窓を設けるはず。 なぜならば、椅子に腰掛けて生活するため、意識はもっぱら腰から上に向けられるからです。 それなのに、栗原邸では床からわずか53cmで窓がはじまっています。 椅子座と床座の中間くらいの、絶妙なさじ加減にしてあります。

建具はガラス戸と網戸と雨戸が揃っていて、上のほうが座敷におけるランマのように、わざわざ背の低い窓に分割されています。 これは日本では見慣れたスタイルであっても、西欧の建築ではまず用いない手法です。 近代建築であれば尚更のこと、一枚のガラスで下から上まで すかっ と通すか、もし無理な場合でもきれいに2分割とか3分割とかしたくなるところを、本野はあえて、西欧の作法を差し置いてまでしてもランマ状の窓を譲りませんでした。
それは、少々強い雨が降っても、高い位置にある背の低い窓なら安心して開けていられる という実用性が、雨が多く夏場に湿気の高い日本の住宅には必要不可欠との判断からなのでありましょう。
さらに、窓の上には抜かりなく、コンクリート製の庇をきちんと設けてあるところも見逃せません。
雨が降っても開けられない窓など用を成さないのですから、当然のことのように思われますが、勾配屋根のない、コンクリートの四角い近代建築に庇が取り付くなど、降雨量の少ない西欧のセオリーからはとてもとても考えられないけれど、これだけは譲れない! と考えた本野の判断は正しかったと、90年ちかくが経過した今、僕たちは胸を張って主張できます。 傷みはあるものの、当時の木製建具がすべてそのまま残っているのですから。

つるりとフラットな外観にこだわらず、あえて庇をつけたのならばいっそ戸袋も…。 ということで、本野はしっかり雨戸を格納するための戸袋(※ 驚くことに、工場で製作された厚さ7cmのコンクリート板です)を、コンクリートブロックむきだしの外壁に、こちらもコンクリートむきだしで取り付けてしまいます。
普通雨戸というものは、ガラス窓の外側に取り付けるものですが、ここではもう一段戸袋の外側に出っ張るようにして ガラス戸と網戸の入った窓をコンクリートブロックの枠内にまとめてしまう という、前代未聞の離れ業に及ぶのでした(※ ガラス戸を閉めたまま雨戸の開け閉めができるため、熱損失も抑えられ機能的といわけです)
常識を打ち破ったその姿は、意外にも水平に伸びた庇の下に品よくおさまって、すこぶる端正な顔立ちで、周囲の山林やすっかり成長した庭木に見え隠れしつつ、疎水べりの風景に静かに溶け込んでしまっています。

栗原邸の特筆すべき点を、もうひとつお伝えしなければなりません。 それは、建物にあわせて家具まですべて本野自身がデザインしていること。 その家具が建物と同じく、ほぼそのままのコンディションで維持されていることです。

栗原邸(旧鶴巻邸) 子ども椅子

畳敷きの日本間では、室内に何も置かれていなくてもそれなりに絵になりますが、西洋間にきちんとした家具が然るべき場所に置かれていないのは、実に空虚で寂しいものです。
椅子座の暮らしを営む空間をつくるのであれば、そこは建築家が、建物も家具も責任をもってデザインなりコーディネートすべきはずなのに、どうして疎かにするのか不思議でなりません。 畳の座敷には必ず庭を、同じくらいにこころを込めてつくってきた日々を忘れてしまったのだろうか と、いぶかしく感じることもたびたびあります。
けれども、本野は違っていました。 建物も照明も家具も分け隔てなく、そこに本当に必要なモノを、手間隙惜しまずデザインしていることが、その場に身を置くと分かりあえる気がするからです。 実際本野は、この住宅に必要とされるすべての家具を自らデザインし、ほとんどがオリジナルの状態で残されているのですから、驚きを隠せません。 つくり手も立派なら、住み手も立派です。

本野のデザインした家具は、建物同様、装飾を廃した簡潔なもので、壁に護られた環境ゆえ、重苦しくならないように配慮されています。 そして、どの部屋にも共通していえることは、いずれもが重心を低く抑えてあることです。
こと住宅においては、日本では椅子座の住まいであっても、必ず玄関で靴を脱いでから利用する約束になっているはずで、日本間のまったく存在しない栗原邸も、この点では同じです。 無意識のうちにも清潔な床を尊ぶ国民性は、たとえ椅子に座っていても、床に近しい暮らしが結局落ち着くのだということを、本野自身も承知していたらしく、椅子やテーブルの高さは意図的に低く設定されています。
これが低い窓台や暖炉とあいまって、まるで武道家の歩行姿勢みたく、ぐっと腰が据わった独特の安定感を醸し出すことに成功していて…。 だからでしょうか。 理屈抜きに居心地良いと感じ、ついつい長居してしまうのも致し方ないことではあります。

そんな栗原邸のなかでも、(個人的に)とりわけこころ安らぐ場所が2階東南角の寝室です。
もともとは子ども用の寝室として設計されたであろうこの部屋の、暖炉と南向きの大きな窓とに挟まれた とっておきのコーナー に、まるで安住の地を見い出したかのように、一脚の子ども用の椅子がしっくりとおさまっていることに気づきます。
1階の食堂に置かれたテーブルにあわせてつくられたであろう、ちっとも目立たない木製の、一見何てことない子ども椅子は、よくよくみると最小限の材料で、完璧な機能性と比類のない安定感を併せ持った、非の打ちどころのない暮らしの道具でした。
か細い角材は重みのかかる脚部と、幾分負荷の少ない背やアームとでは、微妙に太さを違えてあることは無論、どれもこれも角度が垂直ではなく荷重のかかる方向へ傾けられ、破綻することなく全体がまとめられています。 座枠の継ぎ目ひとつとってみても、目につきにくい箇所を選んであるところなど、子ども用の椅子一脚に ここまで丹精込めるのか と天を仰ぎたくなるような仕事ぶりは、紛れもなく、日本のデザイナーと日本の職人だったからこそなし得たものに違いありません。
どうやら、無骨なコンクリートブロックの壁にも、ちっぽけな子ども椅子にも、同質の気韻がただよっているようです。