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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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07月03日(月)

大阪女学院 ヘールチャペル

あれ程までに騒々しく、人混みであふれ返っていた大阪の街も、てくてくと歩くうちにゆっくりとよそ行きの仮面ははがれ、存外おっとりとした素顔を垣間見せる頃合い、静かな通りになかば開かれるようにして、巷にある公園とはちょっと違うし天然自然の森でもない、周囲を浄化するかのような、豊かな樹々に包まれた学校があります。

これ程道行く人を拒絶しない学び舎もそうはたんとはあるまいと、誰しもが認める大阪女学院のそれはそれは美しい校庭が、70数年前には一面焼け野原だったなんて、今ではとてもとても信じられません。
人類は、一瞬のうちに街そのものを粉々に破壊することもできるけれど、逆に、美しい街や環境をつくることだってできてしまう。 ただし、そのためには少なくとも数十年の歳月が必要で、理想の学び舎を本当の意味で完成させるのはひとりの著名な建築家ではなく、樹木の成長にも似て、学院に関わるありとあらゆる人々の力を借りながら時間をかけてゆっくりと育まれるもの。
「大切なのは、未来を信じて託すことなのですよ」 と、設計に携わったヴォーリズ(William Merrell Vories)は、微笑みながら答えるのではないでしょうか。

大阪城もほど近い市街地ゆえ、決して潤沢な敷地があるわけではありません。
都市のスケールからすればほんの猫の額くらいのささやかな校庭はしかし、無限のひろがりを予感させる。 この世界の中心の、キャンパスの中心にはすっかり成長した樹々に抱かれるようにして、全校生徒が集う毎朝の礼拝にはじまり、季節ごとに開催される様々な学院の行事、時には地域に開放されたイベントホールとしても機能する(※ 娯楽の少なかった時代には、映画の上映会も催されていたそうです)、 ヘールチャペル(HAIL CHAPEL) と呼ばれる建物があります。

ヘールチャペルは、1945(昭和20)年の大阪大空襲によって瓦礫と化したキャンパスに、1951(昭和26)年、戦後の復興を象徴するかのようにモダンな姿をまとって誕生しました。

モダンスタイルの近代建築 と聞くと、なんだか取り澄まして、しれっと冷酷そうなイメージを抱かれるやもしれませんが、ひとたびヴォーリズの手にかかると 「こんなに慈愛に満ちたやさしいモダン建築があったのか!」 と、ぱちぱち何度も瞬きしたり、ごしごし目をこすったり、しきりに頬っぺたをつねったりする方々が続出したとしても何ら不思議ではありますまい。
けれども、過度な装飾や高価な素材を好まない建築家にはもともと モダンな一面を持ち合わせていた という見方もできるわけで、余計な要素をそぎ落としながら、まだまだ物資も乏しいなか、単純な形態と限られた素材でもっていかにデザインするかが問われたものと想像されます。

冷たさとは無縁の、むしろ知的で洗練された印象を感じさせる。 なのに何だか不思議とほっとする。 ちっともいばらない。 戦前期に手掛けた一連の学校建築とは姿こそ違えど、新時代の幕開けを象徴する伝統校のチャペルはやはり、目には見えない ヴォーリズ色 に染まっているのでした。

人の手から生み出される建造物、特につるりと四角いモダン建築は、時を経るに従い数十年程度で朽ちてしまうのに対し、母なる大地から生み出される樹木が数十年をかけて成長し、遥かその数倍あるいはそれ以上の時を生き続ける。 つまり、ようやく樹木がその樹形を整えはじめた頃合いに建造物が取り壊される矛盾と背中合わせにある といえるでしょう。
このような、誰が考えたっておかしな矛盾を解消するには、人の手をかけ建造物を繕いながら愛情持って共生するのが人としての作法であり、実をいうと身近な植物たちも里山の例しかり、人が手を入れながら自然との微妙な均衡を保っているのですから。
もちろん、大阪女学院のヘールチャペルとて例外ではなく、戦地から帰還した職人たちが存分に腕を振るい、丹精込めてつくられた名建築にもあちらこちらほころびが生じ、(近・現代建築に不可欠な)設備の更新も差し迫っていたであろう背景から、学院創立100周年の節目にあたる1984(昭和59)年に全面的な改修工事がおこなわれました。

21世紀の今日ですら、安直な破壊行為や誠実さに欠けるリノベーションがそこらじゅうで繰り返されるご時世に、まだまだ環境問題が世間一般に浸透していなかった1980年代のある意味能天気なこの国で、これまで建物に接してきた数えきれないくらい多くの生徒や関係者の気持ちにしっくりと寄り添いながら、これからのあるべき道筋を暗示する。
曇りのない視点から、愛情にあふれるきめ細やかな改修がなされ、変わることなく大切に使い続けている姿に共感しないわけにはまいりません。

大阪女学院 ヘールチャペル

モダン建築だけでは冷たい、かといって樹木だけでも物足らない。 どちらが欠けても成り立たたない、相思相愛のむつまじい関係を絵に描いたようなヘールチャペルの懐に踏み入れば、あふれんばかりの緑から一転、そこは白やグレーで塗り籠められた無彩色の世界がひろがっていました。
色彩を捧げた代償として授かったものは、限られた直線とわずかな曲線、窓から漏れ入る自然光と照明器具による間接光。 それから、もうひとつありました。 館内にそこはかとなく漂う、学院を愛し大切に接している人たちがつくり出す 目にみえない空気感 です。

ヘールチャペルの改修にあたってはとりわけ、おおきな変更点がふたつあります。 ひとつは、主要な採光窓となる両側面のステンドグラス、もうひとつはステージと客席との関係です。
シンプルな縦長の窓枠は当時一般的に用いられていたスチール製で、傷みが激しく交換することになりましたが、その際耐候性に優れるコールテン鋼製とし、頂部はアーチ状に変更されました。 デザインは現存する神戸女学院 講堂の窓を参考にしたものと思われます。
正面のステージは、これも一般的な直線主体の、垂直に腰壁が立ち上がり、両端部にちいさな階段が取りついたものから、頭上に架かるプロセニアムと同じような、ゆるやかな弧を描くアーチ状の全面階段へと刷新する、どちらもかなり思い切った変更内容であったといえるでしょう。
改修を担当した設計者のお話によると、窓については人の顔でたとえれば目に相当する箇所ですし、ステージについては客席とのつながりを大切にしたかったので、自由でのびのびとした女学院の学風に似合うよう、(こころのなかで)ヴォーリズに相談して了承を得、変更を決めたのだそうです。

「神は細部に宿る」 などと伝説のように語り継がれておりますが、市井に暮らす職人たちの誠実な手仕事に支えられ、神より選ばれし建物にのみ許された(であろう)美しい光を宿した清らかな箱に身を置けば、派手さもなく劇的でもないけれど空虚ではない。 空間全体がきらきらと輝き、こころがふんわり解き放たれるような心地よさ。
夕暮れ時、ほんのりヴォーリズ色に染まった校舎を振り向き振り向き後にする。 素顔の大阪にこそふさわしい、平和な風景は豊かな樹々の向こう側にありました。
 
06月07日(水)

リバーサイド・パーク・プレイグラウンド

その道の達人と思しき方にお会いすると、静かな物腰のなかにオーラを感じ、少々戦慄することがあります。 どうにも曲げられない強い信念と誇り高い姿勢が、知らず知らずのうちに、目にみえない気配となってにじみ出てしまうからなのでしょうか。
そこでもし、この先二度と現れそうにない、類稀なふたつの才能が、同じ時代同じ場所でぶつかったとしたら、それは素晴らしい夢のような出来事かもしれないけれど、彼らの発する底知れぬオーラに気おされて、並みの精神力ではとても立ち会えないにきまっています。 ならばいっそ、夢まぼろしのままが幸せなのかもしれませんし、実際、そんなことがあったのです。

相性というのは、とことん悪い時は悪いようで、彫刻家のイサム・ノグチがかねてより想い描いていた 子どものためのプレイグラウンド の実現は、少なくともニューヨークのお役人にとっては理解の範疇を超えた受け入れがたい(つまり、前例のない、斬新で独創的な)内容だったとみえて、市の公園管理委員会からは1930年代、50年代と続けざまに拒絶されてきた経緯がありました。
その後、1960年代に入って、ある人物から、マンハッタンの西側を流れるハドソン川の河川敷にひろがる公園(リバーサイド・ドライブ・パーク)の一部に、子どものためのプレイグラウンドをつくりたい との打診を受けたイサムは、過去の苦い経験から、実現のためには実力のある建築家と一緒に仕事をするのが賢明と判断し、理想のパートナーとして選んだのがルイス・カーン(Louis I. Kahn)でした。

当時も既に、建築家側からの依頼により、協働で仕事をする機会は幾度もあったようですが、イサム自身がアプローチし、しかも、これまでのように堅実なタイプの建築家とは明らかに異なる、ある意味で正反対ともいえるカーンだったのは、後にも先にもこの時だけ。 そのくらいしなければ成し得ない覚悟で野心的に取り組んだ、(双方にとって)異色のプロジェクトであったものと想像されます。

少しでもよい仕事をするためならば、いばらの道さえも厭わない意志の強さと、天賦の才能を授かったという点においては、彫刻と建築、分野は違えど何ら遜色のない20世紀を代表するふたりの偉大な芸術家は、子どもたちだけに限らず、お年寄りを含むすべての人たちがのびのびと楽しく過ごすことのできる理想のプレイグラウンドを実現しようと考え、ゆったりとした公園の中心に児童館と野外劇場を複合した全天候型の施設を据え、周囲に敷地の高低差をいかした築山のすべり台や迷路状の砂場、スイミングプールやスケートリンク等を散りばめ、ひろびろとした既存の遊歩道に遊具彫刻が点々と配される という内容の提案にはじまり、5年間をかけ、全部で5つもの案を提出します。

それにしても、なぜ、こんなに多くの案を作成しなければならなかったかというと、最初は 敷地の設定が広すぎる という指摘に端を発し、児童館を複合しているために、公園関係のみならず、福祉や住宅、景観といった、立場の異なる部署からの様々な要望を満たさなければならなかったからなのでしょうが、それだけであれは、粘り強くアイデアを練り直し、高い志をもって変更や修正を繰り返せば必ずや克服できたはずです。
けれども、富裕層を中心とした地域住民からの反対が大きな障壁となって、イサムとカーンの前に立ちはだかったであろうことは、多民族で成り立っているアメリカという国の現実を考えると理解できなくもありません。 大都市の貴重な緑地に施設的な建造物はふさわしくない。 他の地域の子どもたちが集まってくるのは、正直ありがたくない。 そもそも裕福な彼らは、児童福祉施設を必要としないのですから。

イサムの理想とするプレイグラウンドは、鑑賞するための作品ではなく、大地の隆起によってかたちづくられた地形を、子どもたちが自ら発見して、よじ登ったり、すべり降りたり、思う存分駆け回ったりできることではないでしょうか。 そのためには、僕たちが想像するよりもたっぷりとした敷地の余白が必要で、児童館があれば尚さら、自身がデザインする遊具彫刻も所詮は脇役。 あくまでも主役は 子どもたち なのです。
そう考えると、こまごまとした安全上や衛生上の約束事よりも、プレイグラウンドのための敷地が、市の公園管理委員会から制限されるのは相当な痛手であったに違いなく、第1案から第2案、第3案… と、譲歩を繰り返し、最終的には十分の一くらいにまで敷地が狭められるなか、もともと 児童館を中心とした構造物をルイス・カーンが、全体のランドスケープや遊具をイサム・ノグチが担当する といった具合に、おのおのの役割が明確に分けられ、お互いを意識し、尊重し、高め合いながら案を完成させるデザイン手法が、次第に、役割の境界線があいまいにならざるを得ない厳しい現実のなかで、ふたりが活路を見出そうと試行錯誤してゆく過程が、残された図面や模型を通してうかがい知ることができます。

5年間に及ぶ、つらく苦しい旅の最後を飾った最終案に相当する第5案よりも、期待に胸ふくらませ、自信を持って発表された、理想形だったはずの第1案よりも、模型もパースも残らなかった第4案に、不思議とこころ惹かれるのはなぜなのでしょうか。

リバーサイド・パーク・プレイグラウンド 第4案

社会的、あるいは政治的圧力によって、じわじわと狭められる限られた敷地のなかで、日照や通風を確保した児童館と、野外劇場、地形の隆起を取り入れた遊び場をバランスよく、かつコンパクトにまとめなければならず、加えて、主要な出入り口となる幹線道路と公園内の既存遊歩道との間には、かなりの高低差がありますから、階段やスロープはむろんのこと、場合によっては擁壁も用いねばなりませんし、景観上の配慮から、構造物を公園のなかに違和感なく溶け込ませる必要もあります。

そこで、児童館を半地下にしてなかば地中に埋め込みつつ、ある壁は土圧を支える擁壁を兼ね、屋根は階段やスロープ、時には野外劇場の観覧席の役割を果たし、なだらかに続く芝生の丘の一部になったりして…。 ただし、それだけでは児童館に求められる十分な窓が確保できませんから、プランと整合し、なおかつ窮屈にならざるを得ない絶望的な環境を、逆に、狭くても魅力的な中庭や階段状の路地空間をつくって各部屋を巧みに結びつけ、楽しい あそびの空間 に変えてしまう。 当初のランドスケープ的発想だけでなく、建築的発想で公園としての機能を融合させるというデザイン手法への転換。
これは、イサムひとりでも、カーンだけでも決して成し得ない、ランドスケープと建築という、分担されていたそれぞれの役割の境界線が、イサム寄りに傾いていた第1案から、徐々にカーン寄りへと移行する過程での危うい協働作業のはざ間で、奇跡のように一瞬、きらりと美しい輝きを垣間見せたのが第4案だったように思えてなりません。

第4案に設けられた中庭や階段状の路地は、決してひろいものではありませんが、地中に埋め込まれ、複雑に組み合わされた児童館の室内に十分な自然光と通風をもたらすよう、開口部のカタチとバランスに細心の注意が払われています。
開口部はちいさな円形窓を基本にしつつ、逆台形や鼓形のような変形窓が天井近くに配置され、斜め上方から照射する太陽光を最大限部屋の奥まで取り込める仕組みになっています。 このような、理にかなった独自のデザイン理論を展開することで、等間隔に規則正しく設けられた、日常の、決まりきった四角い窓からの均質で無感動な光とはぜんぜん違う効果を紡ぎ出す。 ひとたび光を扱わせると、彼の右に出る者はまずいないでしょう。
カーンだけに許された、ありがたくも神々しい光が時々刻々、表情を変えながら届けられる至福の体験は、子どもたちにこそ体感してほしいものです。

光はむろん、各部屋のカタチもひとつとして同じではなく、限られた空間ゆえ、少しでも窮屈さを回避したいとの意図から、暖房・換気のための装置をコンパクトにまとめたキューブ状のユニットが、部屋どうしをゆるやかに分節するよう巧みに配されています。
実はこれが、中庭につながる縦長の給排気口として姿を現し、丸窓や逆台形、鼓形の窓たちとあいまって絶妙なバランスでうがたれ、ちいさいながらも表情ゆたかで機能性にあふれる中庭や路地階段そのものが、イサムからの おくりもの である彫刻遊具にも引けをとらない、子どもたちの ひみつの遊び場 となったに違いありません。
ところが、最終案となる第5案は、(おそらく、市当局や地域住民に対する景観上や安全上の配慮から)ピラミッド形や円錐形の巨大な遊具彫刻が姿を消し、いかにも 子ども向け といった小ぶりな遊具彫刻に置き換えられ、(衛生上の配慮からか)児童館の開口は、後にカーンが手がけるインドの大学やバングラデシュの国会議事堂を彷彿とさせるような、巨大な円形窓が執拗に加えられ、当初想い描いていた 子どものためのプレイグラウンド のイメージからは、随分とかけ離れたものになっていました。

もはや二度と戻ることのない、稀有なふたつの才能がほんの一瞬だけ獲得し得た、創造世界の微妙な均衡は夢まぼろしのように脆くも崩れ去り、それを見届けるかのように政治的判断からプロジェクトに終止符が打たれ、リバーサイド・パークはのびのびと大樹が枝葉をひろげる、緑ゆたかな姿のまま、今も静かに時を刻んでいます。
では、イサム・ノグチとルイス・カーンの 想い は、永遠にカタチとして残らなかったのでしょうか。 いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、テキサス州のフォートワースにある、カーンの代表作として知られる キンベル美術館 のすぐそばに、彼の死後、イサムは 「星座(Constellation)」 と名づけた四つの石彫作品を捧げたのですから。
それは、イサムの作品のなかでも最も純粋で、作為がなく、詩的で美しい。 限りなく静謐なカーンの建物を背景に、たっぷりとした余白のあるひろびろした芝生のなか、誰にも邪魔されず、これっぽっちの束縛もなく、ぽつ ぽつ ぽつ と思い思いに据えられて、きっと本当は、こんなプレイグラウンドをつくりたかったのだと。
 
05月16日(火)

旧グッゲンハイム邸

車では分からないかもしれませんが、オートバイに乗って京都から神戸方面へ向かっていると、武庫川に架かる橋を渡り西宮に入ったとたん 「おやっ」 と思うくらい、同じ関西でも明らかに空気の質が変わります。 目にもみえないし、地図にも記載できないけれど、頬っぺただけが知っている。 どこかほんわかゆるーいこの空気の違いを、瀬戸内で生まれ育った僕が気づかないはずはありませんから。

神戸の市街地を過ぎてしばらく西に行くと、どこまでもおだやかな海とやさしい起伏の山々に抱かれた、塩屋という町にたどり着きます。
もともと神戸に住む外国人の別荘地として明治のはじめ頃に開発された塩屋は、きらきらと輝く水面が手を伸ばせば届きそうなくらい近くにあって、町全体があまねくうららかな陽射しを受け、しかも、どこかしら瀬戸内の人たちに共通するのんびりとした性格も手伝って、ぽつぽつと洒落た西洋館が顔みせていても、これっぽっちも気取った感じがなく、商店や住宅などが肩寄せ合い、こじんまりと並んだ庶民的なやさしさあふれる独特の風景と不思議な調和を保ちながら、今なおその魅力を失わずにいるのでした。 そんななかにひときわ、この地にしっくりと馴染んだ西洋館がたたずんでいます。

旧グッゲンハイム邸は、1909年(明治42年)にドイツ系貿易商だったグッゲンハイムさんの住まいとして建てられたそうですから、今やこの町ではすっかり長老格。 でも、 長老 などと表現しては失礼かもしれません。 どこかしら品のよいご婦人の姿を彷彿とさせる、それは素敵な建物なのですから。
ほんのり薄化粧といった面持ちの貴婦人(建物)は、英国人建築家を父として生を受けた生粋の西洋館です。 したがって、玄関で靴を脱ぐといった作法はなく、天井高3.3mは余裕であろうかと思われる豊かな空間に、しゃきんと背筋伸ばして椅子に腰掛け食事をし、そばにはあたたかな炎がゆらめく暖炉があって、その上にはお約束の肖像画や風景画がうやうやしく飾られる。 応接室の出窓状にせり出したとっておきのコーナーには、その場にふさわしく流麗なピアノが、さも居心地よさそに据えてあったりすものですから、ちょっとした音楽会を兼ねたホームパーティーやサロンなど、在りし日の暮らしの情景が目に浮かぶようです。

そんな風に説明すると、なんだか別世界のことのように思われるやもしれませんが、ちっともそんなことはありません。 それどころか、旧グッゲンハイム邸は地域の人たちに愛され親しまれる、かけがえのない存在になっているといってもよいくらいです。 どうしてなのでしょう。 そのひみつは、どうも バルコニー に隠されているように思われます。

旧グッゲンハイム邸

2階建ての旧グッゲンハイム邸は、1階にも、2階にも、南側(つまり瀬戸内海に面した方向)がほぼ全面バルコニー状になっていて、反対方向の北側にも一部ですが、やはり同じ仕様のバルコニーがあります。
これを専門家の人たちは、ついついしたり顔で 「コロニアル様式だね」 などと表現しがちです。 けれども、そんなこといわれたって普通、分からないにきまっていますし、そうそう、様式、様式などと声高に叫ばなくっても 「日本の建物でいうところの 縁側 がバルコニーにあたる存在で、縁側をめぐらせたかのような気持ちのよい住まい」 とでも説明するほうが、よっぽどこの住宅本来の飾らぬ雰囲気をお伝えできるのではないでしょうか。

頂部に控えめなアーチをあしらい、心持ち抑揚を与えられた木製の柱が軽やかに旋律奏でるバルコニーは、2階にはガラス窓が入れられ (※ もともとガラス窓はなく、所有者が日本人に替わってから付け加えられたとも考えられます)、冬の季節は絶好の陽だまりの場になるに違いないのですから、これはもう、まるっきり縁側ですし、1階のテラス風バルコニーは、芝生の庭に開放された濡れ縁そのもの… という具合に、外部でもなければ内部でもない、あいまいな中間領域が存在することで、住み手も来客も意識するでもなく、ふとした拍子に ふらり とバルコニーへ足を運んでしまう。 これだけで、がぜん暮らしの豊かさ、親しみやすさが違ってくるはずです。

庭との関係があって、はじめて成り立つ日本の伝統的な縁側空間は、当然のように庭に近しい間柄である1階部分に限られることになりますが、どうやら旧グッゲンハイム邸に限って、その図式はあてはまりそうにありません。 なぜなら、広大な瀬戸内海の風景を 第二の庭 と見立て、2階にも縁側を成立させてしまったのですから。
高温多湿な気候のなかでの住まいを前提に考案されたコロニアル様式の建物を参考に、日本の伝統的な 縁側のひみつ に気づいた(であろう)一人の英国人建築家が試みた、塩屋というほんわかゆるーい場所のためにつくられた西洋館は、1世紀あまりの時を超え、地域の人々に愛され慈しまれて、控えめな輝き失わず、この町の風景を支え続けてゆくことでしょう。