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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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02月16日(木)

スタウト スカラブ

とある海外の美術館で、1930年代にアール・デコ様式の影響を受けて製造された自動車に焦点をあてた企画展が開催されている。 そんな、興味深い内容の記事を拝見したことがあります。

この時代、欧米ではモノづくりの機械化によって効率に重きを置いた工場での大量生産がひろがる一方、工業製品に昔ながらの熟練した職人技を巧みに融合することで、芸術性の高い付加価値を与えるという、ある意味で産業革命後の文化的な成熟期に到達しており、そのようなデザインの流れを総称して アール・デコ(Art Deco) と呼んでいたのかな と、不案内ながら個人的に解釈している次第です。
ただし、一口にアール・デコといっても、有機的なデザインから幾何学的なデザインまで様々で、とりわけ自動車業界においては、塗装やメッキ処理によってきらびやかに彩られた鋼板製のボディが複雑な流線形を描く、スピード感のあるデザインを好んで取り入れる傾向にあったといえるでしょう。

記事に掲載されていた展示車両の画像を拝見するに、コンピュータによる解析は無論のこと、大掛かりな風洞実験によって導かれた有用性の高い流線形というよりも、視覚的な格好良さによってもたらされる優雅で流麗な造形美に基づいて創造された、あくまでも作品的な意味合いでの流線形のようで、アール・デコならではの豪華さや上品さに目を見張りつつも、恐ろしく手の込んだ芸術的なボディも、そこは用途が乗り物である限り、空気抵抗の効果以前に、ちょうど西洋の甲冑のような、分厚い鋼板の重さから生じる負荷ゆえの根本的な矛盾があるのでは? との疑問を抱いてしまうのも仕方のないことなのかもしれません。
ところが、いかにも クラッシック・カー然 とした重厚で彫りの深い顔立ちのコレクションが居並ぶなか、どういうわけか一台だけ、正面からみるとのっぺりと扁平顔で、横からみると意外なくらいにゅるりと間延びした、どこやら愛嬌あふれる不思議なデザインの車が紛れ込んでおりました。
ちょうど昔、マンガやアニメで人気だったゴマフアザラシの赤ちゃん、あの 「ゴマちゃん」 そっくりな風貌で。

スタウト スカラブ

流線形の自動車といえば、上質なレザーに包まれた、少々窮屈な2シーターのコクピットがいかにも似合いそうな、スポーツカーとしての血統を正しく受け継いだすこぶるレーシーな姿を想像するのに、こと スタウト スカラブ(SCARAB) の場合、もうほとんど車輪が前後にはみ出してしまいそうなくらい、たっぷりとした車室が でん と用意された、さしずめ今の日本でいうところのミニバンにも似た、6人乗りのファミリー・カー とでも形容すればよろしいでしょうか。

思うに西欧の自動車というのは、馬車の車体に(馬のかわりに)エンジンを載せたのがそもそものはじまりなのでしょうから、バランス的に車室の後方にトランクを、前方に縦長のエンジンを据え、車輪は車体の側面にはみ出してフェンダーとランニングボードで体裁を保つ というのが当時の定石に違いなく、真っ当なアール・デコ様式の車両は、どれもこれらの基本的要素をきちんと踏まえた上で芸術性の高い容姿の優劣を競っていたはずです。 それなのに、スカラブに関してはどうも、発想の根本からしてすっかり異なっているようなのです。

そこで、生みの親である ウィリアム・スタウト(William Bushnell Stout) について調べてみると、1880年、アメリカ・イリノイ州生まれのこの人物は、若い頃に新聞のコラムを執筆していたこともある発明家気質の優れた航空エンジニアとして、1918年にデルタ・ウィングを搭載した今日のステルス戦闘機に相当する軍用機を開発。 その数年後には機体にジュラルミンを採用した、世界ではじめてとなる金属製の航空機を実用化したほか、自らの設計による旅客機で1925年、アメリカ初の民間航空サービスを開拓する等、航空分野において重要な役割を果たしただけでなく、航空技術を応用して鉄道やバスのような大量輸送が求められる旅客車両の設計までを幅広く手がけ、1930年代、満を持して自ら スタウト・モーター・カー・カンパニー(Stout Motor Car Company) をデトロイトに設立、(馬車をルーツとしない)航空理論に裏付けられた次世代の乗用車 「スカラブ」 を販売するに到ったとのこと。

技術は決して嘘をつかない。 そう信じて疑わなかった(であろう)、生粋のエンジニアであるスタウトは、空中を飛行する航空機と地上を走行する自動車との空力的な特性の違いから、まず、自動車に求められる理想的な形態として、底面が平たく上面がなめらかに弧を描く 亀の甲羅 のような姿に着目し、古代エジプト時代に太陽をつかさどる神の化身としてあがめられた スカラベ(※ scarabe : 日本でいうところの フンコロガシ に相当する甲虫のこと) をモチーフに車両の開発をスタートします。
ご存知のように、甲虫類は硬い外皮を骨格として成り立っているのに対し、馬車をルーツとする自動車は底面のハシゴ状に組まれたシャーシ-を骨格としていて、上に載せられるボディは構造とは無縁の(馬車でいうところの)幌に近い存在であり、走行時の剛性や安定性を考慮すれば、前者の方がこれからの自動車としてのあるべき姿に違いなく、実は、車体の外皮全体で応力を負担する モノコック構造 こそ、まさに航空機の設計で培われた技術そのものだった というわけです。

モノコック構造を応用した自動車は、軽く、かつ強度があるために自ずと車体の重心が低くなり、安定した走行が可能となるばかりでなく、工夫次第で合理的な車室空間を得ることにもつながります。 そこで、ゆったりとした内部空間を確保するためにホイールベースを最大限にまで広げて、重くてかさ張るエンジンを運転の邪魔にならない後端下部に配置し、最短距離で後輪を駆動します。
エンジン前寄りにコンパクトに組み込まれた3速マニュアルのギアボックスは、二重構造になった薄い床下スペースを利用し、ロッドによって運転席にあるシフトレバーと接続されるため、車室内の床は完全なフラット状態となり、フェンダーもランニングボードもない、甲虫あるいは亀の甲羅にも似た、旧来の自動車らしからぬすっきりモダンな容姿を纏うことになったのは、決して奇をてらった行為などではなく、むしろ、理にかなった正常な進化であったといえるでしょう。

スタウト スカラブ

もうひとつ、スカラブの特徴を挙げるとしたら、乗り心地や操縦安定性を大きく左右するサスペンションのメカニズムでしょうか。
当時の自動車に用いられていたサスペンションは、(馬車時代より引き継がれてきた)左右の車輪を車軸で連結し、板ばねで吊られた 車軸懸架方式 が一般的であったのに対し、ウィリアム・スタウトは、現在みられるようなコイル状のばねに左右の車輪がそれぞれ独立して作動する 独立懸架方式 を、地上を走行する車両にいち早く導入します。
この恩恵によって、路面の追従性や安定性、静粛性に優れる結果となり、とりわけ高速時においては良好なハンドリングとハンモックのような快適な乗り心地がもたらされ、低くて平ら、しかも広々とした車室内に運転席以外のすべての座席が自在にレイアウト可能な居住性の高さから推察するに、ミニバンというよりもリムジンに近い、どこにでも移動可能な リビングルームのような乗り物 と評してみても、あながち的外れではないはずです。

古典的な馬車をルーツに粛々と歩みを進めてきた数多の自動車と、航空機の先進的なテクノロジーを惜しげもなく投じて彗星のごとく現れたスカラブでは、歴史上は アール・デコ という同一のカテゴリーにありながら、華やかに彩られたボディの中身は明らかに別次元のメカニズムで、それに伴うコストを反映すれば、そして、有名メーカーの流麗な容姿に身を包んだ高級乗用車が何台も購入できてしまう、恐ろしく高額な、(世間一般には)無名に等しいメーカーの、ゴマフアザラシみたいなのっぺりとした容姿の超高級車とをハカリにかければ(※ まだ 「ゴマちゃん」 のゴの字もなかった時代です)、いくら自動車王国アメリカの富裕層であっても、その隠された潜在能力をきちんと見抜くに値する確かな審美眼の持ち主はそれ程多くはなかったとみえて、スカラブは、わずか6台(9台とも伝えられています)の販売台数にとどまったのだそうです。

それでも、ウィリアム・スタウトは高い志を失うことなく、(市販化には到りませんでしたが)世界初のグラスファイバー製ボディを採用した 新型スカラブ や、まるでコンパクトカーと小型飛行機を融合したかのような スカイ・カー(Sky Car) と名づけた夢の空飛ぶ乗用車の開発に生涯かけて取り組み続けた、とことん乗り物好きな、そして、数少ない本物のエンジニアであったことだけは間違いありせん。 なぜなら、製造後80年あまりを経た現在でも5台ものスカラブが実動可能な状態で保管され、あの歴史に名を残すきらびやかなアール・デコ時代における自動車コレクションのなかで、ひと際まぶしく輝いているのですから。
 
01月27日(金)

栗原邸(旧鶴巻邸)

「コンクリートブロック」 と聞いて、目を輝かせる人はあまりいないでしょう。 あのどこにでもありそうな、何てことない建材です。 それでも、ひとたび建築家 本野精吾(もとのせいご) の手にかかると、日本の近代建築史に輝く名作にもなり得たのですから、世のなか何があるか分かったものではありません。
本野が手がけた数少ない建築作品のうち、現存するのはたったのよっつ。 しかも、そのうちふたつが住宅で、どちらもコンクリートブロック特有のざらざらっとした質感が大胆に用いられています。 建てられた時代はいずれも1920年代ですから、大正末期から昭和初期、コンクリートそのものが最先端の素材だった頃、その先頭を駆け抜けたのが本野精吾でした。

正真正銘、まるごとコンクリートブロックに彩られた 栗原邸(旧鶴巻邸) は、琵琶湖から京都市内へと引かれた疎水べりに1929年(昭和4年)に建てられた、お屋敷と呼んでみても差し支えない立派な邸宅です。 それでもやっぱり、外壁はあの何の飾りっ気もないコンクリートブロックそのまんまの仕上げだったりします。 なのに、どこかに美しく冒し難い品格を備えている。
かつて、建築家の吉村順三はこんなことをいっておりました。 「贅沢な材料や、必要以上に手間をかけた建築では、かえって品が出なくなる場合が多い」 と。
粗末な素材であっても、長所を見極め活かして使う。 その土地の特徴や気候風土を理解すること。 そして、何よりもプロポーションがよくなければならない。 本野の場合はどれも抜かりなく、きちんと満たしています。

栗原邸は、柱や梁といった線材による伝統的な日本の工法とはおよそかけ離れた、壁という面材によって構成される西欧の伝統的な工法、すなわち組積造の延長にあるといえるでしょう。
石やレンガを積み重ねた組積造は、重厚である反面しなやかさに欠け、地震には脆かったりします。 一般的なコンクリートブロック造もまた然りです。 ところが、本野が採用した 「中村式鉄筋コンクリート構造」 と呼ばれる工法は、L字型をした特殊なコンクリートブロックを型枠代わりに借用した上、空洞部の要所要所に、鉄筋で補強されたコンクリートを打ち込んで一体化することで、この脆さを克服しているようです。
ただ、がっしりと壁に護られた構造の住宅は、必ずしも高温多湿という、特殊な日本の環境にそのまま応用できるとは限りません。 何しろ日本の伝統的な住まいは、冬の寒さを犠牲にしても、すかすかで風通しのよい 「夏を旨としたつくり」 を身上としているのですから。 それに、あちこち堅固な壁だらけでは、窮屈で(精神的に)息が詰まりそうではありませんか。
間取り図をみたところ、栗原邸のプランは四隅を壁に護られた居室空間が囲い、中央に玄関やホール、階段室等の共用空間を配した合理的な、旧来からある西欧住宅の模範とも受け取れる提案がなされています。 では、実際の空間はどうなっているのでしょうか。

本野は、20代の後半に2年半ほどヨーロッパに留学していた(※ 主にドイツと思われます)経験から、様式に重きをおいた異国の伝統のみならず、機能性や合理性といった建築界に芽生えつつあった最先端の息吹をいち早く感じ取っていたと考えて、まず間違いないでしょう。 そのためか、栗原邸には畳の敷かれた、いわゆる 「日本間」 は存在しません。 床の間はおろか、縁側のような中間領域すらもきれいさっぱり排除されています。
そうであれば、この近代建築は別に京都でなくっても、ベルリンあたりにあったとしても、ちっともおかしくないのでしょうか。 確かに表面上の様式は国境を跳び越えてはいますが、僕にはむしろ、設計者にも工法にも技術にも、不思議と 日本 を感じてしまうのでした。

栗原邸(旧鶴巻邸) 2階寝室

住み手の趣味や好みを反映したと思われる1階の食堂や客間といった華やかで社交的な場よりも、むしろ左程人の目を気にする必要のない2階の寝室や書斎といった私的で地味な空間にこそ、つくり手の素養や感性が問われるもので、ひとたび上階に上がろうものなら、その場にいつまでも居続けたくなるような離れがたいこの魅力に、はたしてあなたは気づくことができるでしょうか。
といってはみても、当時の西洋館ではごくごく当たり前の、板張りの床や、しっくい塗りの壁天井、木製のドアや家具といったしつらえで、取り立てて豪華というわけではなく、かといって貧相でもなく、斬新でもありません。 もちろん西欧の方々がひそかに憧れる 日本趣味 とも無縁。 栗原邸の居室(特に2階)についてはっきりいえることは、(素材ではなく)空間にただよう精神性がきわめて 日本的 だということです。

この建物の重要な装置のひとつに暖炉があげられます。
日本でも、お金持ちの邸宅の応接間などに暖炉が据えられている例は、それほど珍しいことではありません。 しかしそれは、暮らしの中心にある かけがえのない拠り所 とは程遠い、一種のステイタスにすぎなかったりするのが、悲しいけれど現実です。 ところが、この家にはほとんどの居室の、しかも肝心な場所に、振り向けば必ず暖炉があるのです。 数えてみると全部で6箇所もありました。
なぜ暖炉だらけなのか。 理由は簡単です。 ひとつは、おのおのの部屋が構造上分割されているので、それぞれにきちんと暖炉を設けた。 京都の冬は存外冷え込むので、こころもからだもあったかく過ごしてほしかったから。
ふたつは、敷地が山林の一角にあり、燃料となる薪が身近に存在するのですから、これを使わない手はありません。 きわめて合理的かつ経済的な発想です。
みっつは、寒冷地であるドイツに滞在していた本野は、暖炉の有用性とともに、暮らしから切り離すことのできない 精神的な存在である と、理解していたのではないかと。
日本人が暖炉を設計すると、おかしなことになりそうなものですが、本野はそこを気負わず乗り越えることができたのだろうと思います。 きっと、座敷に床の間をつくる気構えで、割合素直に すっ と入っていったのではないでしょうか。 過剰でもなく、素材も活かして、浮つかず腰の据わったプロポーションは、日本人だったらその良さを理解できるはずです。 正座の美学みたいなもの とでも表現しておきましょう。

暖炉と同様に、それぞれの居室に共通している装置がもうひとつあります。 窓の存在です。
何しろ構造が壁によって成り立っているものですから、日本の伝統工法のように、どこでも自由に窓が設けられるわけではありません。 全体の構造バランスのなかで、 ここぞ! という場所にこそ設けなければいけませんから、窓ひとつといえども疎かにはできません。
こちらもやはり、縁側の位置や奥行きを決めるくらいの覚悟が必要だったものと想像されます。 山林と疎水を背に、なだらかに南にひらけている敷地の特性からいっても、陽のあたり具合からいっても、南向きの部屋であれば南側の中央あたりに、両脇に適度に壁を残しつつ、感心なくらいすぱっと窓を切り開けた。 その高さが実に良いのです。
普通西洋館であれば、少なくとも床から90cm以上の高さに窓を設けるはず。 なぜならば、椅子に腰掛けて生活するため、意識はもっぱら腰から上に向けられるからです。 それなのに、栗原邸では床からわずか53cmで窓がはじまっています。 椅子座と床座の中間くらいの、絶妙なさじ加減にしてあります。

建具はガラス戸と網戸と雨戸が揃っていて、上のほうが座敷におけるランマのように、わざわざ背の低い窓に分割されています。 これは日本では見慣れたスタイルであっても、西欧の建築ではまず用いない手法です。 近代建築であれば尚更のこと、一枚のガラスで下から上まで すかっ と通すか、もし無理な場合でもきれいに2分割とか3分割とかしたくなるところを、本野はあえて、西欧の作法を差し置いてまでしてもランマ状の窓を譲りませんでした。
それは、少々強い雨が降っても、高い位置にある背の低い窓なら安心して開けていられる という実用性が、雨が多く夏場に湿気の高い日本の住宅には必要不可欠との判断からなのでありましょう。
さらに、窓の上には抜かりなく、コンクリート製の庇をきちんと設けてあるところも見逃せません。
雨が降っても開けられない窓など用を成さないのですから、当然のことのように思われますが、勾配屋根のない、コンクリートの四角い近代建築に庇が取り付くなど、降雨量の少ない西欧のセオリーからはとてもとても考えられないけれど、これだけは譲れない! と考えた本野の判断は正しかったと、90年ちかくが経過した今、僕たちは胸を張って主張できます。 傷みはあるものの、当時の木製建具がすべてそのまま残っているのですから。

つるりとフラットな外観にこだわらず、あえて庇をつけたのならばいっそ戸袋も…。 ということで、本野はしっかり雨戸を格納するための戸袋(※ 驚くことに、工場で製作された厚さ7cmのコンクリート板です)を、コンクリートブロックむきだしの外壁に、こちらもコンクリートむきだしで取り付けてしまいます。
普通雨戸というものは、ガラス窓の外側に取り付けるものですが、ここではもう一段戸袋の外側に出っ張るようにして ガラス戸と網戸の入った窓をコンクリートブロックの枠内にまとめてしまう という、前代未聞の離れ業に及ぶのでした(※ ガラス戸を閉めたまま雨戸の開け閉めができるため、熱損失も抑えられ機能的といわけです)
常識を打ち破ったその姿は、意外にも水平に伸びた庇の下に品よくおさまって、すこぶる端正な顔立ちで、周囲の山林やすっかり成長した庭木に見え隠れしつつ、疎水べりの風景に静かに溶け込んでしまっています。

栗原邸の特筆すべき点を、もうひとつお伝えしなければなりません。 それは、建物にあわせて家具まですべて本野自身がデザインしていること。 その家具が建物と同じく、ほぼそのままのコンディションで維持されていることです。

栗原邸(旧鶴巻邸) 子ども椅子

畳敷きの日本間では、室内に何も置かれていなくてもそれなりに絵になりますが、西洋間にきちんとした家具が然るべき場所に置かれていないのは、実に空虚で寂しいものです。
椅子座の暮らしを営む空間をつくるのであれば、そこは建築家が、建物も家具も責任をもってデザインなりコーディネートすべきはずなのに、どうして疎かにするのか不思議でなりません。 畳の座敷には必ず庭を、同じくらいにこころを込めてつくってきた日々を忘れてしまったのだろうか と、いぶかしく感じることもたびたびあります。
けれども、本野は違っていました。 建物も照明も家具も分け隔てなく、そこに本当に必要なモノを、手間隙惜しまずデザインしていることが、その場に身を置くと分かりあえる気がするからです。 実際本野は、この住宅に必要とされるすべての家具を自らデザインし、ほとんどがオリジナルの状態で残されているのですから、驚きを隠せません。 つくり手も立派なら、住み手も立派です。

本野のデザインした家具は、建物同様、装飾を廃した簡潔なもので、壁に護られた環境ゆえ、重苦しくならないように配慮されています。 そして、どの部屋にも共通していえることは、いずれもが重心を低く抑えてあることです。
こと住宅においては、日本では椅子座の住まいであっても、必ず玄関で靴を脱いでから利用する約束になっているはずで、日本間のまったく存在しない栗原邸も、この点では同じです。 無意識のうちにも清潔な床を尊ぶ国民性は、たとえ椅子に座っていても、床に近しい暮らしが結局落ち着くのだということを、本野自身も承知していたらしく、椅子やテーブルの高さは意図的に低く設定されています。
これが低い窓台や暖炉とあいまって、まるで武道家の歩行姿勢みたく、ぐっと腰が据わった独特の安定感を醸し出すことに成功していて…。 だからでしょうか。 理屈抜きに居心地良いと感じ、ついつい長居してしまうのも致し方ないことではあります。

そんな栗原邸のなかでも、(個人的に)とりわけこころ安らぐ場所が2階東南角の寝室です。
もともとは子ども用の寝室として設計されたであろうこの部屋の、暖炉と南向きの大きな窓とに挟まれた とっておきのコーナー に、まるで安住の地を見い出したかのように、一脚の子ども用の椅子がしっくりとおさまっていることに気づきます。
1階の食堂に置かれたテーブルにあわせてつくられたであろう、ちっとも目立たない木製の、一見何てことない子ども椅子は、よくよくみると最小限の材料で、完璧な機能性と比類のない安定感を併せ持った、非の打ちどころのない暮らしの道具でした。
か細い角材は重みのかかる脚部と、幾分負荷の少ない背やアームとでは、微妙に太さを違えてあることは無論、どれもこれも角度が垂直ではなく荷重のかかる方向へ傾けられ、破綻することなく全体がまとめられています。 座枠の継ぎ目ひとつとってみても、目につきにくい箇所を選んであるところなど、子ども用の椅子一脚に ここまで丹精込めるのか と天を仰ぎたくなるような仕事ぶりは、紛れもなく、日本のデザイナーと日本の職人だったからこそなし得たものに違いありません。
どうやら、無骨なコンクリートブロックの壁にも、ちっぽけな子ども椅子にも、同質の気韻がただよっているようです。
 
01月05日(木)

日本橋の家

こんなこというと叱られるかもしれませんが、利便性を追求しただけの住まいに起居することが本当の幸せとは限らないのではないか と、ふと考えてしまいます。
住まいとしての機能を満たすため、ごてごてと取りついていた余計な附属物が取り払われた時にこそ空間の本質がつまびらかになる。 何よりも、美しい空間に身を置き暮らす幸せに漠然と憧れる自分がどこかにいて、こういうのも一種の芸術なのでしょうか。

食事やショッピングを楽しむために、世界中の人々が押し寄せ、ごった返す。 雑然さを極めた感さえする大阪・ミナミの目抜き通りから一筋だけ横道それた、相も変わらずまとまりのない街並みの、ビルとビルとの狭間にようよう膝をいるるの席を見出したかのような、つくづく目立たない建物の主な用途が住宅であったなら、さすがに一筋縄では参りそうにはありません。 けれども、手掛けた建築家が安藤忠雄であれば話は別です。
ウナギの寝床 と揶揄される京町家どころではありません。 間口にしてせいぜい3.5m!といったところののっぴきならない敷地環境ゆえ、人並みな価値観をどこかで振り切らねば到底太刀打ちできない極限の状況下において、住まいにひろがりを生み出す方法はたぶんひとつだけ。 いにしえの茶人が極小空間に用いたにじり口のように、あえて窮屈な空間を強いることで本来狭かったはずの空間に無限の宇宙を創造し、天空へと立体的に展開させる。 しかも、差し迫った状況下で伝統の素材に一切頼らず、コンクリートや鉄、ガラスといったありふれた近代建築の共通言語だけで具現化してしまったところに最大の功績があります。

安藤建築に普通のマンションやハウスメーカーの提供する住宅のような快適さを要求するのは論外として、大規模な商業施設や公共施設とはおよそ対極にある、こじんまりとした住宅は意外にもしっとりとしたやさしさと、ひどく人間的なスケール感とに満ち満ちていて、目先にちらつく便利さよりも、そこはかとなく漂う四季のうつろいを全身で感じていたい。 この偽らざる気持ちを、世間では誰も分かってくれない。 そんな、繊細な感性に応えてくれる稀有な存在 とでも申しましょうか。

日本橋の家

1994年に竣工した 日本橋の家 は、ただただ途方に暮れるしかない間口の狭さゆえ、1mmたりとも疎かにはできない厳しい選択を余儀なくされるなか、それでもあきらめず、地道な設計の過程を経て実現にこぎ着けているはず。
並みの建築家であれば怖くて腰が引ける、相当な勇気を持って決断したに違いない、1階から3階につながるメイン階段からして既に人が利用するぎりぎりの寸法が吟味され、けれども歩む先には明るい希望があるのだと予感できるから、しかも、どんなに狭くてもちゃんと住居になっているのはさすがというほかなく、一段、また一段、踏みしめるように奥へ奥へと進む遥か上方には本当にささやかな中庭がぽっかりと天空に開けていて、(設計時にはなかったであろう)開閉式のガラス屋根でもって雨天時の移動に配慮しているところなんか、 雨の日に濡れるのもまた一興 と、この場に居合わせた誰もが納得するだけの成果が証明されているにもかかわらず、 それでは大変だから との人情味あふれる気配りに、つくづく親切だなあと感心することしきりです。

「そんなの知ってるよ」 と、初期安藤建築の代表作に数えられる極小住宅・ 住吉の長屋 をご存知の方はしたり顔でおっしゃるやもしれません。 そこで、屋外に計画された 中庭という名の余白 とは別に、屋内に計画された もうひとつの余白 についてお話することにいたしましょう。

京町家の精神を正統に受け継ぐ、現代の都市型高密度住宅と評しても過言ではない日本橋の家には家族が集う場として、天井高さにしてわずか225cmのこじんまりとした居間に加え、隣接して天井高さ701cmを誇る三層吹き抜けの(こちらも)居間空間が抜かりなく用意され、双方の居室が階をずらしながらメイン階段とは別にデザインされた秘蔵の専用階段によって中空で結ばれ、外部からはとても想像できない壮大な立体構成を展開しているものですから、訪れる者はついつい我を忘れ、階段を上り下りして意図された空間の妙を体感しないわけにはゆきません。
ところが、ぐるぐると何度行ったり来たりを繰り返してはみても、どうも意図するところが判然としません。 第一、個人の暮らしを受け止める住宅にダイナミックな空間構成なんて本当に必要なのだろうか? という至極真っ当な疑問をそろそろ抱き始めた頃合い、そういえば、ちいさな居間空間の片隅に造り付けられた細長いコンクリート製のベンチがあったことに気づき、かつて作品集で幾度か目にしたことのある、ぴしっと角が立った、あたたかな血の通った人間を真っ向から拒絶するような、さも冷たそうなベンチに座りたい人がいるのか前々から甚だ疑問だったこともあり、ついでに頭も冷やそうかと、渋々ながらも試しにちょっと座ってみることにしたのです。

するとどうでしょう。 これまで窮屈だっただけの空間が、すーっと体に馴染むような心地と共に音もなく転換して、コンクリートの壁にうがたれたガラス窓の向こうにひろがる吹き抜け空間とをつなぐ秘蔵っ子の階段が、実は階段の名をかたる真の美術作品であるかのように、あれほど騒々しかったミナミの街からガラス一枚隔てた吹き抜け空間が、現代アートを鑑賞するために特別に用意されたガラスケースであるかのような、いえ、空間そのものが現代アートの領域に到達している。
一切の不純物がろ過され、やわらかな自然光にくるまれて辺り一面、限りなく静謐な光景に様変わりしておりました。 まるで、時の流れすらも静止してしまったかのように。

かつて、ありふれた材料でもって創造された、限りなく単純な、どこまでも静かにこころ安らぐ ドナルド・ジャッド(Donald Judd) の作品に、それが鑑賞を前提とした純粋な現代アートであるにもかかわらず、どこかで草庵茶室にも通じる無限の奥深さを察し、ジャッドが紡ぎ出す空間のなかに身をゆだねることができたら… などと、ありもしない夢物語みたいなことを空想していたおぼろげな感覚が、日本橋の家のベンチに腰下ろした途端に不思議とぴたり一致して。
そうか、やみくもに動き回るよりも、静かに身をゆだねる接し方がこの建物に対する誠の作法なのだと悟り、移動する「動」ではなく、たたずむ「静」の空間こそが安藤建築の本質だったと、ようやく気づいたのでした。