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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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09月06日(水)

クルチェット邸

簡素で機能的、ほれぼれするほど美しいプロポーションの建物を創造させると、彼の右に出るものはいない。
20世紀を代表する建築家のひとりとして余りにも有名な ル・コルビュジエ(Le Corbusier) によって1949年に設計された住宅が、地球の反対側、アルゼンチンのラ・プラタという街にあります。
外科医の ペドロ・クルチェット(Pedro D.Curutchet) が、なぜパリを拠点に活動していたコルビュジエに自邸(※ 正確には診療所兼住宅)の設計を依頼したのかは定かではありません。 確か、コルビュジエは1929年にアルゼンチンで講演を行い、後にその内容が書籍として出版されていたようですから、その頃からひそかに胸のうちで 「この人しかいない」 と決めていたのかも。
いずれにしても、彼ほど芸術家的な品性を兼ね備えた志の高い建築家は、世界広しといえどそうそういるものではありません。

クルチェット邸の敷地は、いわゆる豪邸向けの広大な規模を誇るような、そんないやらしさなど微塵も感じさせない、間口が9メートル、奥行きが20メートル少々と、ささやかな暮らしを営むに十分なもので、あいにく市街地ゆえ三方向は隣家の壁に囲まれてはおりますが、そのかわり、唯一開かれた道路に面した方向が北向きで(※ アルゼンチンは南半球なので日当たりがよい方角)、おまけにその先は緑ゆたかな公園が透き通った青空の下、どこまでも続いているのですから、才能と情熱にあふれ、幾つになっても夢見ることを忘れない建築家の腕が鳴らないはずはありません。 むしろ、制約がある方が燃えるタイプなのでしょうか。
結果、伝統や様式とは縁遠い、コルビュジエ自身が常々提唱する独創的でモダンなスタイルを貫きながら、出しゃばることのない上品な容姿を纏った、詩的で、その土地の気候風土に逆らわないヒューマンスケールの建築を生み出したのでした。

クルチェット邸

クルチェット邸の空間構成をおおまかに説明すると、こんな感じでしょうか。
京町家のような、間口が狭く、奥行のある敷地ゆえ、道路に面した北西側に診療所を、プライヴァシーを守るのに都合のよい南東側に住居をおのおの配し、その中間に中庭を設けて双方に程よい間合いを置きます。 ただし、1階部分はできるだけ柱で持ち上げたオープンスペースとして開放し、診療所の下を抜け、中庭に架けられたスロープ(斜路)を半階上って住居のエントランスに、さらに折り返し半階上って診療所へとドラマティックに導く。
ぽっかりと開いた中庭は、この国ではお馴染みの存在のようですが、コルビュジエは中庭の上に住居や吊り庭園を立体的に重ねることで上方からの強烈な日差しを遮り、中庭には涼しげな日陰とすっかり成長した樹木からの木漏れ日に包まれる心地よさを、診療所には適度な公共性を、住居には公園への眺めと通風、プライヴァシーを無理なくスマートに確保している…。 といった具合に。
しかし、この建物の本当の魅力は、限られたスペースであるにもかかわらず、理にかなった機能的な個々の空間が、水平、垂直、斜めにと、内外を交錯しながら途切れることなく延々とつながり続け、まるで人間の身体じゅうを隈なく流れる血液のように複雑に、澱みなく循環していると感じる 無限のひろがり にあるのではないでしょうか。

正面の大通りからクルチェット邸を眺めると、西欧の入植を記念するかのような、19世紀頃の様式美を色濃く残した、実に堂々たるお隣の二階建ての建物と同じ背丈なのに、魔法のごとく四層分の空間が きゅっ とコンパクトにおさまっていることに驚かされます。 モダンで凛としたたたずまいでありながら、ひどく人間的で親しみやすいスケールだったりします。
なんと、クルチェット邸の居室の天井高さは2.26mに設定されています。 今どきの日本の住宅の天井よりも低い寸法ですが、この 低さ加減 が人間の身体にちょうどよいとコルビュジエは判断したのでありましょう。 無駄に広いことが豊かさではないことを証明するために、彼は伝統的にはあってしかるべき要素も、機能上必要でなければ躊躇なく排除してしまいます。 「引き算の美学」 というやつです。
たとえば、(真っ白い)壁と天井との取り合いに通常設けられるべき 見切り縁 を省略して、すっきりひとつながりにし、ドアや窓は天井まですとんと伸ばして小壁も省略することで、視界も空気も隣室や外へと自然に流れ、窮屈さを感じさせることなく、窓外の美しい景色のみ切り取ってみせてくれる。
ガラス窓ひとつとっても、開け閉めできる箇所のガラスは木材や金属で縁取らず一枚の板ガラスがスライドするようになっていて(※ 食器棚などでよくみられるガラス戸と同じ方法)、すべての部屋の窓とドアには赤や青の原色が与えられ、十全なプロポーションで分割された20世紀最良の抽象絵画のように、白い空間に違和感なく溶け込んでいます。

これまで機能的で美しい近代建築からうかつにもすっかり抜け落ちていた、その土地の気候風土や住み手の感じる心地よさを、執拗なくらい丁寧に拾い集めた結果がクルチェット邸として花開いたとするなら、花のいのちが儚く短いように、クルチェット一家が暮らした時間はわずか10年余りと短命で、主を失った建物は(世界的には)ほとんど知られることがないまま荒廃してゆきました。
ただ幸いなことに、親族が手放さなかったことと、アメリカ大陸ではただひとつ実現した貴重なコルビュジエの住宅作品であることを惜しむ地元の専門家たちの熱意によって、1980年代後半に修復され、後に隠れた名作として次第に世界中に知られる存在となったようです。 しかし、どれ程素晴らしい建築であっても、住宅として人が自在に行き来し、食事をしたり、くつろいだり、眠ったりしない限り、血の通わない人形のようでどこか空々しい気がしてなりません。

普段は資料館として公開されている空っぽのクルチェット邸に、再びいのちが宿ったことがたった一度だけありました。 2009年に製作された 「ル・コルビュジエの家」 という映画のなかでのお話です。
むろん、スタジオのセットによる撮影ではなく、この建物にふさわしいダイニングセットやソファ、フロアスタンドが置かれ、寝室にはベッドが入り、かつての診察室はデザイナーである一家の主人の仕事場として再生せられ、本棚には本が、ドレッサーには化粧品が、壁には自国のアーティストの作品が掛かり、在りし日を彷彿とさせるかのように、住み込みのお手伝いさんが部屋の隅々までぴかぴかに掃除してくれる…。
正真正銘、本物のクルチェット邸のなかで、デザイナーとして成功をおさめた家族による(21世紀の)日々の暮らしぶりが丁寧に映し出されています(※ 作品は、ドキュメンタリーではなくフィクションです。 ちなみに脚本は、ラ・プラタ在住の建築家によって書かれています)
とりわけ印象深いシ-ンは、この一家といざこざを起こしていた(少々乱暴な)隣人がはじめてクルチェット邸に招かれた際、強面の彼が始終うれしそうに過ごしているところです。 そのとびきり素敵な笑顔を天国のコルビュジエがみたら、一体どんな顔するのでしょうか。
 
08月06日(日)

千本釈迦堂

鎌倉時代初期に建立され、応仁の乱をはじめ、数多の大火にも焼け落ちることなく、奇跡的に創建当時の姿をとどめる洛中最古の建造物。 もちろん国宝です。 この夢のようなお寺があるのは、きぬかけの路でも、哲学の道でも、ねねの道でもありません。
五辻(いつつじ)通り という、西陣と呼ばれる地域の、ごくごくありふれたつましい街並みの間を分け入ったか細い参道の奥にぽっかりと開く、ほんにささやかな境内のいちばん奥に、これまたひっそりと静かにたたずむ本堂がそうだよ といわれても、大胆でも、荘厳でも、きらびやかでもないその姿に 「なあんだ」 と、さしものあなたも拍子抜けして、妙にしゃちこばっていた肩の力がすっかり抜け、いつもの素直なあなたのまま、洛中最古のこじんまりした 素顔のお寺さん に接することができるでしょう。 千本釈迦堂は、そんな気負いのないお寺なのですから。

お寺の象徴である堂塔に威厳をもたせ、立派にみせるためには、やはり、何を差し置いても 屋根を強調させる必要がある といわなくてはなりません。
おおきな建物であれば尚のこと、当然ながら、前に立つ人の目線は随分と低い位置から見上げる格好になります。 そこで、かなり急勾配の巨大な屋根をどっしりと重石のように載せることで、てこでも動かないような安定感と、深い軒の水平ラインによる陰影が得もいわれぬ安心感を与え、それでも無骨になってしまっては元も子もありゃしませんから、おしまい、入念に てり・むくり と呼ばれる微妙な曲面を授けることでようやく、森林に恵まれ、しっとりしたこの国の気候風土にぴったり適した、荘厳な木造のお堂が成立する というわけです。

ところが、千本釈迦堂の本堂ときたら、平安時代の貴族たちの住宅を髣髴とさせる和様建築を伝える、とことん洗練された様式美ゆえ、 「威厳なんて、わたくしどもには関係ございません」 とでもいい出しかねないくらい、それはそれは優雅な物腰で、しかも桧皮葺きの屋根勾配が殊のほかゆるやかに、おまけに端っこが上品に ちょん と跳ね上がっているために、本当は随分と立派な建物のはずなのに、肝心の屋根がほとんど視界に入らず、これっぽっちも威張った感じがしません。
本来ならば、足元にたたえる池を鏡にみたて、その麗しき姿を映してこそしかるべき装い。 にもかかわらず、池はもとより、入念に刈り込まれた庭木も、苔も、飛び石すらもなく、ちいさな山門から伸びるたった一本の石畳と砂利を敷いただけの気取らない境内の奥にもったいぶらず、ふわり本堂が降り立っているのは、拝観料に頼らず、どなたも気軽に訪れてほしいからなのでしょう。
だからこそ僕も、あえてマイバッグ片手に近くのスーパーマーケットに買い物行くくらいの気さくさで、ふらりこの場所を訪ねるのを常とする。

すっかり擦り切れ、からだに馴染んだジーンズとスニーカー履いて、足取りも軽やかに訪ねる千本釈迦堂は、山門のある南側の参道からではなく、あえて遠回りしてでも、西側のちいさな町家たちが仲睦まじく肩寄せ合って居並ぶなかをそーっと抜け、決まってムクノキの大樹のそばの、何てことない通用門からお邪魔することにさせていただいております。
砂利敷きの境内で、しかも山門すら潜らないなんて、何だかつまらないように思われるかもしれませんが、正面からでは気づかず見落としてしまう、本堂の横顔ごしに眺める釈迦堂の境内ほど不思議な調和を保った景色は、これに代わるものがないくらい、どんな名勝庭園にも劣らぬ魅力に満ち満ちていたりするものなのです。

千本釈迦堂

千本釈迦堂の白眉 と断言しても差し支えない阿亀(おかめ)多福像は、わが国古来から美人の定義には欠かせない、ふっくらした頬の瓜実顔に、伏目がちに静かな微笑み浮かべていて、そんな慎み深い阿亀さんを、阿亀桜の深い深い緑の葉が涼しげな木陰をつくりつつ、さながらお姫さま隠す御簾(みす)のように、おしとやかに枝垂れ覆ってくださる。
その隣には、石塔やちいさなお堂が適度に朽ちながら、それでもしっかと大地に腰据えて、色とりどりの地味な木々たちに紛れつつ、阿亀さんとおんなじように出しゃばらず、伏目がちに静かな微笑み浮かべて、行儀よく並んでいらっしゃる。

当代随一の庭師が作庭したとは到底思えない、てんでんばらばらな 阿亀さんたちの行列 は、愚直と嘲笑せられても弁解の余地もない一直線な石畳からちょっとだけ退いて、めいめいそれとなく居心地よい席を見い出している姿が、国宝の本堂にも負けないくらいほんわかとした空気をつくり出しています。 実際、阿亀像は、どんなに素敵な観音さまよりもこころ清らかな微笑み届けてくれ、阿亀桜は、どんなに名高い桜の木よりもあたたかで、包み込まれるような心地よさを届けてくれるかのようです。
だから、通用門から幾分引き気味に本堂の横顔眺めると、阿亀桜の向こうにお姫さまみたく阿亀さんがいて、さらにその横にお堂やら石塔やら雑多な木々たちが、ただ一列にのっぺりと居並ぶさまが、たぶん 世界中でここだけ のような気がして、じんわりとほのかな幸せ感じるのです。

ややもすると見落としてしまいそうなくらい木陰にひっそりと建つ、本堂からちょっと離れた、ちいさなお堂の古びたガラス窓の向こうには、あのこころ安らぐ、阿亀さんのお面をあしらった 御幣(ごへい) がずらり並んで微笑んでいる光景に出会います。
ご存知ない方もおられるかもしれませんが、関西あたりでは住宅を上棟する際、家も、そこで暮らし営む家族も、末永く 幸あれかし との願いを込めて、屋根裏に御幣をお祀りする慣習があり、その流れをさかのぼってゆくと、800年近くも昔、千本釈迦堂の本堂を手がけた棟梁と、その細君の阿亀さんに行き着くのでした。
もはや伝説となってしまった 「阿亀さんの物語」 を、今さらしたり顔でお話しするよりも、先日訪ねた折の千本釈迦堂でのささやかな出来事を、ひとつ披露してみたいと存じます。

実はその時、ちいさな山門の向こうからやって来た地元の方にお会いしました。 ジーンズにTシャツという、気取りのない出で立ちでしたが、腰の据わった隙のない姿勢から、明らかに腕の立つ職人と思しき御仁。
この石畳とおなじように 「曲がったことを許さない性格」 といい切ってみても、まず間違いないであろう、いかにも頑固そうな初老の男性が、これまでの輝かしい職人としての人生をたどるかのように、迷いなく、振り返ることなく真っ直ぐに歩いて、いよいよどんつきとなる本堂の正面で、丁寧にお辞儀をされました。 たぶん、いつもそうしているように。 それから次に、あの桜の木の向こうの、阿亀さんの像の前に立ち止まり、深々とお辞儀をされたのです。 国宝として誉れ高い本堂よりもずっと丁寧に、こころを込めて。
 
07月03日(月)

大阪女学院 ヘールチャペル

あれ程までに騒々しく、人混みであふれ返っていた大阪の街も、てくてくと歩くうちにゆっくりとよそ行きの仮面ははがれ、存外おっとりとした素顔を垣間見せる頃合い、静かな通りになかば開かれるようにして、巷にある公園とはちょっと違うし天然自然の森でもない、周囲を浄化するかのような、豊かな樹々に包まれた学校があります。

これ程道行く人を拒絶しない学び舎もそうはたんとはあるまいと、誰しもが認める大阪女学院のそれはそれは美しい校庭が、70数年前には一面焼け野原だったなんて、今ではとてもとても信じられません。
人類は、一瞬のうちに街そのものを粉々に破壊することもできるけれど、逆に、美しい街や環境をつくることだってできてしまう。 ただし、そのためには少なくとも数十年の歳月が必要で、理想の学び舎を本当の意味で完成させるのはひとりの著名な建築家ではなく、樹木の成長にも似て、学院に関わるありとあらゆる人々の力を借りながら時間をかけてゆっくりと育まれるもの。
「大切なのは、未来を信じて託すことなのですよ」 と、設計に携わったヴォーリズ(William Merrell Vories)は、微笑みながら答えるのではないでしょうか。

大阪城もほど近い市街地ゆえ、決して潤沢な敷地があるわけではありません。
都市のスケールからすればほんの猫の額くらいのささやかな校庭はしかし、無限のひろがりを予感させる。 この世界の中心の、キャンパスの中心にはすっかり成長した樹々に抱かれるようにして、全校生徒が集う毎朝の礼拝にはじまり、季節ごとに開催される様々な学院の行事、時には地域に開放されたイベントホールとしても機能する(※ 娯楽の少なかった時代には、映画の上映会も催されていたそうです)、 ヘールチャペル(HAIL CHAPEL) と呼ばれる建物があります。

ヘールチャペルは、1945(昭和20)年の大阪大空襲によって瓦礫と化したキャンパスに、1951(昭和26)年、戦後の復興を象徴するかのようにモダンな姿をまとって誕生しました。

モダンスタイルの近代建築 と聞くと、なんだか取り澄まして、しれっと冷酷そうなイメージを抱かれるやもしれませんが、ひとたびヴォーリズの手にかかると 「こんなに慈愛に満ちたやさしいモダン建築があったのか!」 と、ぱちぱち何度も瞬きしたり、ごしごし目をこすったり、しきりに頬っぺたをつねったりする方々が続出したとしても何ら不思議ではありますまい。
けれども、過度な装飾や高価な素材を好まない建築家にはもともと モダンな一面を持ち合わせていた という見方もできるわけで、余計な要素をそぎ落としながら、まだまだ物資も乏しいなか、単純な形態と限られた素材でもっていかにデザインするかが問われたものと想像されます。

冷たさとは無縁の、むしろ知的で洗練された印象を感じさせる。 なのに何だか不思議とほっとする。 ちっともいばらない。 戦前期に手掛けた一連の学校建築とは姿こそ違えど、新時代の幕開けを象徴する伝統校のチャペルはやはり、目には見えない ヴォーリズ色 に染まっているのでした。

人の手から生み出される建造物、特につるりと四角いモダン建築は、時を経るに従い数十年程度で朽ちてしまうのに対し、母なる大地から生み出される樹木が数十年をかけて成長し、遥かその数倍あるいはそれ以上の時を生き続ける。 つまり、ようやく樹木がその樹形を整えはじめた頃合いに建造物が取り壊される矛盾と背中合わせにある といえるでしょう。
このような、誰が考えたっておかしな矛盾を解消するには、人の手をかけ建造物を繕いながら愛情持って共生するのが人としての作法であり、実をいうと身近な植物たちも里山の例しかり、人が手を入れながら自然との微妙な均衡を保っているのですから。
もちろん、大阪女学院のヘールチャペルとて例外ではなく、戦地から帰還した職人たちが存分に腕を振るい、丹精込めてつくられた名建築にもあちらこちらほころびが生じ、(近・現代建築に不可欠な)設備の更新も差し迫っていたであろう背景から、学院創立100周年の節目にあたる1984(昭和59)年に全面的な改修工事がおこなわれました。

21世紀の今日ですら、安直な破壊行為や誠実さに欠けるリノベーションがそこらじゅうで繰り返されるご時世に、まだまだ環境問題が世間一般に浸透していなかった1980年代のある意味能天気なこの国で、これまで建物に接してきた数えきれないくらい多くの生徒や関係者の気持ちにしっくりと寄り添いながら、これからのあるべき道筋を暗示する。
曇りのない視点から、愛情にあふれるきめ細やかな改修がなされ、変わることなく大切に使い続けている姿に共感しないわけにはまいりません。

大阪女学院 ヘールチャペル

モダン建築だけでは冷たい、かといって樹木だけでも物足らない。 どちらが欠けても成り立たたない、相思相愛のむつまじい関係を絵に描いたようなヘールチャペルの懐に踏み入れば、あふれんばかりの緑から一転、そこは白やグレーで塗り籠められた無彩色の世界がひろがっていました。
色彩を捧げた代償として授かったものは、限られた直線とわずかな曲線、窓から漏れ入る自然光と照明器具による間接光。 それから、もうひとつありました。 館内にそこはかとなく漂う、学院を愛し大切に接している人たちがつくり出す 目にみえない空気感 です。

ヘールチャペルの改修にあたってはとりわけ、おおきな変更点がふたつあります。 ひとつは、主要な採光窓となる両側面のステンドグラス、もうひとつはステージと客席との関係です。
シンプルな縦長の窓枠は当時一般的に用いられていたスチール製で、傷みが激しく交換することになりましたが、その際耐候性に優れるコールテン鋼製とし、頂部はアーチ状に変更されました。 デザインは現存する神戸女学院 講堂の窓を参考にしたものと思われます。
正面のステージは、これも一般的な直線主体の、垂直に腰壁が立ち上がり、両端部にちいさな階段が取りついたものから、頭上に架かるプロセニアムと同じような、ゆるやかな弧を描くアーチ状の全面階段へと刷新する、どちらもかなり思い切った変更内容であったといえるでしょう。
改修を担当した設計者のお話によると、窓については人の顔でたとえれば目に相当する箇所ですし、ステージについては客席とのつながりを大切にしたかったので、自由でのびのびとした女学院の学風に似合うよう、(こころのなかで)ヴォーリズに相談して了承を得、変更を決めたのだそうです。

「神は細部に宿る」 などと伝説のように語り継がれておりますが、市井に暮らす職人たちの誠実な手仕事に支えられ、神より選ばれし建物にのみ許された(であろう)美しい光を宿した清らかな箱に身を置けば、派手さもなく劇的でもないけれど空虚ではない。 空間全体がきらきらと輝き、こころがふんわり解き放たれるような心地よさ。
夕暮れ時、ほんのりヴォーリズ色に染まった校舎を振り向き振り向き後にする。 素顔の大阪にこそふさわしい、平和な風景は豊かな樹々の向こう側にありました。