プロフィール

アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

検索フォーム

06月07日(水)

リバーサイド・パーク・プレイグラウンド

その道の達人と思しき方にお会いすると、静かな物腰のなかにオーラを感じ、少々戦慄することがあります。 どうにも曲げられない強い信念と誇り高い姿勢が、知らず知らずのうちに、目にみえない気配となってにじみ出てしまうからなのでしょうか。
そこでもし、この先二度と現れそうにない、類稀なふたつの才能が、同じ時代同じ場所でぶつかったとしたら、それは素晴らしい夢のような出来事かもしれないけれど、彼らの発する底知れぬオーラに気おされて、並みの精神力ではとても立ち会えないにきまっています。 ならばいっそ、夢まぼろしのままが幸せなのかもしれませんし、実際、そんなことがあったのです。

相性というのは、とことん悪い時は悪いようで、彫刻家のイサム・ノグチがかねてより想い描いていた 子どものためのプレイグラウンド の実現は、少なくともニューヨークのお役人にとっては理解の範疇を超えた受け入れがたい(つまり、前例のない、斬新で独創的な)内容だったとみえて、市の公園管理委員会からは1930年代、50年代と続けざまに拒絶されてきた経緯がありました。
その後、1960年代に入って、ある人物から、マンハッタンの西側を流れるハドソン川の河川敷にひろがる公園(リバーサイド・ドライブ・パーク)の一部に、子どものためのプレイグラウンドをつくりたい との打診を受けたイサムは、過去の苦い経験から、実現のためには実力のある建築家と一緒に仕事をするのが賢明と判断し、理想のパートナーとして選んだのがルイス・カーン(Louis I. Kahn)でした。

当時も既に、建築家側からの依頼により、協働で仕事をする機会は幾度もあったようですが、イサム自身がアプローチし、しかも、これまでのように堅実なタイプの建築家とは明らかに異なる、ある意味で正反対ともいえるカーンだったのは、後にも先にもこの時だけ。 そのくらいしなければ成し得ない覚悟で野心的に取り組んだ、(双方にとって)異色のプロジェクトであったものと想像されます。

少しでもよい仕事をするためならば、いばらの道さえも厭わない意志の強さと、天賦の才能を授かったという点においては、彫刻と建築、分野は違えど何ら遜色のない20世紀を代表するふたりの偉大な芸術家は、子どもたちだけに限らず、お年寄りを含むすべての人たちがのびのびと楽しく過ごすことのできる理想のプレイグラウンドを実現しようと考え、ゆったりとした公園の中心に児童館と野外劇場を複合した全天候型の施設を据え、周囲に敷地の高低差をいかした築山のすべり台や迷路状の砂場、スイミングプールやスケートリンク等を散りばめ、ひろびろとした既存の遊歩道に遊具彫刻が点々と配される という内容の提案にはじまり、5年間をかけ、全部で5つもの案を提出します。

それにしても、なぜ、こんなに多くの案を作成しなければならなかったかというと、最初は 敷地の設定が広すぎる という指摘に端を発し、児童館を複合しているために、公園関係のみならず、福祉や住宅、景観といった、立場の異なる部署からの様々な要望を満たさなければならなかったからなのでしょうが、それだけであれは、粘り強くアイデアを練り直し、高い志をもって変更や修正を繰り返せば必ずや克服できたはずです。
けれども、富裕層を中心とした地域住民からの反対が大きな障壁となって、イサムとカーンの前に立ちはだかったであろうことは、多民族で成り立っているアメリカという国の現実を考えると理解できなくもありません。 大都市の貴重な緑地に施設的な建造物はふさわしくない。 他の地域の子どもたちが集まってくるのは、正直ありがたくない。 そもそも裕福な彼らは、児童福祉施設を必要としないのですから。

イサムの理想とするプレイグラウンドは、鑑賞するための作品ではなく、大地の隆起によってかたちづくられた地形を、子どもたちが自ら発見して、よじ登ったり、すべり降りたり、思う存分駆け回ったりできることではないでしょうか。 そのためには、僕たちが想像するよりもたっぷりとした敷地の余白が必要で、児童館があれば尚さら、自身がデザインする遊具彫刻も所詮は脇役。 あくまでも主役は 子どもたち なのです。
そう考えると、こまごまとした安全上や衛生上の約束事よりも、プレイグラウンドのための敷地が、市の公園管理委員会から制限されるのは相当な痛手であったに違いなく、第1案から第2案、第3案… と、譲歩を繰り返し、最終的には十分の一くらいにまで敷地が狭められるなか、もともと 児童館を中心とした構造物をルイス・カーンが、全体のランドスケープや遊具をイサム・ノグチが担当する といった具合に、おのおのの役割が明確に分けられ、お互いを意識し、尊重し、高め合いながら案を完成させるデザイン手法が、次第に、役割の境界線があいまいにならざるを得ない厳しい現実のなかで、ふたりが活路を見出そうと試行錯誤してゆく過程が、残された図面や模型を通してうかがい知ることができます。

5年間に及ぶ、つらく苦しい旅の最後を飾った最終案に相当する第5案よりも、期待に胸ふくらませ、自信を持って発表された、理想形だったはずの第1案よりも、模型もパースも残らなかった第4案に、不思議とこころ惹かれるのはなぜなのでしょうか。

リバーサイド・パーク・プレイグラウンド 第4案

社会的、あるいは政治的圧力によって、じわじわと狭められる限られた敷地のなかで、日照や通風を確保した児童館と、野外劇場、地形の隆起を取り入れた遊び場をバランスよく、かつコンパクトにまとめなければならず、加えて、主要な出入り口となる幹線道路と公園内の既存遊歩道との間には、かなりの高低差がありますから、階段やスロープはむろんのこと、場合によっては擁壁も用いねばなりませんし、景観上の配慮から、構造物を公園のなかに違和感なく溶け込ませる必要もあります。

そこで、児童館を半地下にしてなかば地中に埋め込みつつ、ある壁は土圧を支える擁壁を兼ね、屋根は階段やスロープ、時には野外劇場の観覧席の役割を果たし、なだらかに続く芝生の丘の一部になったりして…。 ただし、それだけでは児童館に求められる十分な窓が確保できませんから、プランと整合し、なおかつ窮屈にならざるを得ない絶望的な環境を、逆に、狭くても魅力的な中庭や階段状の路地空間をつくって各部屋を巧みに結びつけ、楽しい あそびの空間 に変えてしまう。 当初のランドスケープ的発想だけでなく、建築的発想で公園としての機能を融合させるというデザイン手法への転換。
これは、イサムひとりでも、カーンだけでも決して成し得ない、ランドスケープと建築という、分担されていたそれぞれの役割の境界線が、イサム寄りに傾いていた第1案から、徐々にカーン寄りへと移行する過程での危うい協働作業のはざ間で、奇跡のように一瞬、きらりと美しい輝きを垣間見せたのが第4案だったように思えてなりません。

第4案に設けられた中庭や階段状の路地は、決してひろいものではありませんが、地中に埋め込まれ、複雑に組み合わされた児童館の室内に十分な自然光と通風をもたらすよう、開口部のカタチとバランスに細心の注意が払われています。
開口部はちいさな円形窓を基本にしつつ、逆台形や鼓形のような変形窓が天井近くに配置され、斜め上方から照射する太陽光を最大限部屋の奥まで取り込める仕組みになっています。 このような、理にかなった独自のデザイン理論を展開することで、等間隔に規則正しく設けられた、日常の、決まりきった四角い窓からの均質で無感動な光とはぜんぜん違う効果を紡ぎ出す。 ひとたび光を扱わせると、彼の右に出る者はまずいないでしょう。
カーンだけに許された、ありがたくも神々しい光が時々刻々、表情を変えながら届けられる至福の体験は、子どもたちにこそ体感してほしいものです。

光はむろん、各部屋のカタチもひとつとして同じではなく、限られた空間ゆえ、少しでも窮屈さを回避したいとの意図から、暖房・換気のための装置をコンパクトにまとめたキューブ状のユニットが、部屋どうしをゆるやかに分節するよう巧みに配されています。
実はこれが、中庭につながる縦長の給排気口として姿を現し、丸窓や逆台形、鼓形の窓たちとあいまって絶妙なバランスでうがたれ、ちいさいながらも表情ゆたかで機能性にあふれる中庭や路地階段そのものが、イサムからの おくりもの である彫刻遊具にも引けをとらない、子どもたちの ひみつの遊び場 となったに違いありません。
ところが、最終案となる第5案は、(おそらく、市当局や地域住民に対する景観上や安全上の配慮から)ピラミッド形や円錐形の巨大な遊具彫刻が姿を消し、いかにも 子ども向け といった小ぶりな遊具彫刻に置き換えられ、(衛生上の配慮からか)児童館の開口は、後にカーンが手がけるインドの大学やバングラデシュの国会議事堂を彷彿とさせるような、巨大な円形窓が執拗に加えられ、当初想い描いていた 子どものためのプレイグラウンド のイメージからは、随分とかけ離れたものになっていました。

もはや二度と戻ることのない、稀有なふたつの才能がほんの一瞬だけ獲得し得た、創造世界の微妙な均衡は夢まぼろしのように脆くも崩れ去り、それを見届けるかのように政治的判断からプロジェクトに終止符が打たれ、リバーサイド・パークはのびのびと大樹が枝葉をひろげる、緑ゆたかな姿のまま、今も静かに時を刻んでいます。
では、イサム・ノグチとルイス・カーンの 想い は、永遠にカタチとして残らなかったのでしょうか。 いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、テキサス州のフォートワースにある、カーンの代表作として知られる キンベル美術館 のすぐそばに、彼の死後、イサムは 「星座(Constellation)」 と名づけた四つの石彫作品を捧げたのですから。
それは、イサムの作品のなかでも最も純粋で、作為がなく、詩的で美しい。 限りなく静謐なカーンの建物を背景に、たっぷりとした余白のあるひろびろした芝生のなか、誰にも邪魔されず、これっぽっちの束縛もなく、ぽつ ぽつ ぽつ と思い思いに据えられて、きっと本当は、こんなプレイグラウンドをつくりたかったのだと。
 
05月16日(火)

旧グッゲンハイム邸

車では分からないかもしれませんが、オートバイに乗って京都から神戸方面へ向かっていると、武庫川に架かる橋を渡り西宮に入ったとたん 「おやっ」 と思うくらい、同じ関西でも明らかに空気の質が変わります。 目にもみえないし、地図にも記載できないけれど、頬っぺただけが知っている。 どこかほんわかゆるーいこの空気の違いを、瀬戸内で生まれ育った僕が気づかないはずはありませんから。

神戸の市街地を過ぎてしばらく西に行くと、どこまでもおだやかな海とやさしい起伏の山々に抱かれた、塩屋という町にたどり着きます。
もともと神戸に住む外国人の別荘地として明治のはじめ頃に開発された塩屋は、きらきらと輝く水面が手を伸ばせば届きそうなくらい近くにあって、町全体があまねくうららかな陽射しを受け、しかも、どこかしら瀬戸内の人たちに共通するのんびりとした性格も手伝って、ぽつぽつと洒落た西洋館が顔みせていても、これっぽっちも気取った感じがなく、商店や住宅などが肩寄せ合い、こじんまりと並んだ庶民的なやさしさあふれる独特の風景と不思議な調和を保ちながら、今なおその魅力を失わずにいるのでした。 そんななかにひときわ、この地にしっくりと馴染んだ西洋館がたたずんでいます。

旧グッゲンハイム邸は、1909年(明治42年)にドイツ系貿易商だったグッゲンハイムさんの住まいとして建てられたそうですから、今やこの町ではすっかり長老格。 でも、 長老 などと表現しては失礼かもしれません。 どこかしら品のよいご婦人の姿を彷彿とさせる、それは素敵な建物なのですから。
ほんのり薄化粧といった面持ちの貴婦人(建物)は、英国人建築家を父として生を受けた生粋の西洋館です。 したがって、玄関で靴を脱ぐといった作法はなく、天井高3.3mは余裕であろうかと思われる豊かな空間に、しゃきんと背筋伸ばして椅子に腰掛け食事をし、そばにはあたたかな炎がゆらめく暖炉があって、その上にはお約束の肖像画や風景画がうやうやしく飾られる。 応接室の出窓状にせり出したとっておきのコーナーには、その場にふさわしく流麗なピアノが、さも居心地よさそに据えてあったりすものですから、ちょっとした音楽会を兼ねたホームパーティーやサロンなど、在りし日の暮らしの情景が目に浮かぶようです。

そんな風に説明すると、なんだか別世界のことのように思われるやもしれませんが、ちっともそんなことはありません。 それどころか、旧グッゲンハイム邸は地域の人たちに愛され親しまれる、かけがえのない存在になっているといってもよいくらいです。 どうしてなのでしょう。 そのひみつは、どうも バルコニー に隠されているように思われます。

旧グッゲンハイム邸

2階建ての旧グッゲンハイム邸は、1階にも、2階にも、南側(つまり瀬戸内海に面した方向)がほぼ全面バルコニー状になっていて、反対方向の北側にも一部ですが、やはり同じ仕様のバルコニーがあります。
これを専門家の人たちは、ついついしたり顔で 「コロニアル様式だね」 などと表現しがちです。 けれども、そんなこといわれたって普通、分からないにきまっていますし、そうそう、様式、様式などと声高に叫ばなくっても 「日本の建物でいうところの 縁側 がバルコニーにあたる存在で、縁側をめぐらせたかのような気持ちのよい住まい」 とでも説明するほうが、よっぽどこの住宅本来の飾らぬ雰囲気をお伝えできるのではないでしょうか。

頂部に控えめなアーチをあしらい、心持ち抑揚を与えられた木製の柱が軽やかに旋律奏でるバルコニーは、2階にはガラス窓が入れられ (※ もともとガラス窓はなく、所有者が日本人に替わってから付け加えられたとも考えられます)、冬の季節は絶好の陽だまりの場になるに違いないのですから、これはもう、まるっきり縁側ですし、1階のテラス風バルコニーは、芝生の庭に開放された濡れ縁そのもの… という具合に、外部でもなければ内部でもない、あいまいな中間領域が存在することで、住み手も来客も意識するでもなく、ふとした拍子に ふらり とバルコニーへ足を運んでしまう。 これだけで、がぜん暮らしの豊かさ、親しみやすさが違ってくるはずです。

庭との関係があって、はじめて成り立つ日本の伝統的な縁側空間は、当然のように庭に近しい間柄である1階部分に限られることになりますが、どうやら旧グッゲンハイム邸に限って、その図式はあてはまりそうにありません。 なぜなら、広大な瀬戸内海の風景を 第二の庭 と見立て、2階にも縁側を成立させてしまったのですから。
高温多湿な気候のなかでの住まいを前提に考案されたコロニアル様式の建物を参考に、日本の伝統的な 縁側のひみつ に気づいた(であろう)一人の英国人建築家が試みた、塩屋というほんわかゆるーい場所のためにつくられた西洋館は、1世紀あまりの時を超え、地域の人々に愛され慈しまれて、控えめな輝き失わず、この町の風景を支え続けてゆくことでしょう。
 
04月28日(金)

淳風小学校

去年の夏のことです。 いつの間にやら日付が変わり、地下鉄の終電も間に合わず、歩くと一時間以上かかる上、翌朝は早くに出かけなければならないためタクシーで帰ることにいたしました。
ご年配の運転手さんに 「○○小学校の手前で」 と告げると、我が意を得たり といった様子で車を走らせながら 「私は淳風(学区)なんですよ」 と、幾分胸を張り、穏やかな眼差しでさも誇らしげに出身校を語る。 まるでついこの間まで通っていたかのような口ぶりの御仁は紛れもなく生粋の京都人に違いなく、やっぱり淳風じゃなくっちゃ! との絶対的な自信はいったいどこからやってくるのかといえば、結局は学び舎に尽きるわけで、後で念のために確認してみると、前々から大宮通ごしにうっとりと眺め憧れていたモダン建築だったのですから、さもありなん と納得するほかありません。

下京のほぼ中央、京都駅も徒歩圏の立地ゆえ、中心部の空洞化等による児童数の減少に伴って効率の良い学校運営に支障をきたしているからなのでしょう。 かねてより隣接する学区と統合し移転される話が取りざたされていたらしく、むろん、1869(明治2)年に創設された伝統校の淳風小学校とて例外ではなく、惜しまれつつも今年の3月いっぱいで閉校されると知ったのは、つい最近のことでした。
肝心の主役である子どもたちのため というよりも、むしろ おとなたちの都合 で、しかも、銀行や大企業の経営と同じ感覚で、地域の拠り所でもあり、人格を形成する大切な6年間をはぐくむ小学校を無くしてしまうのは、致し方ないとはいえ、ぽっかりとこころのどこかに穴のあくような寂しさを感じてしまいます。

一時期は古式ゆかしい本願寺の奥御殿を学び舎としていたとも語り継がれる淳風校が、やがて境内のお隣に移り、少しずつ校地を拡張して現在みられる立派な建物に生まれ変わったのが1930(昭和5)年から31年のこと。
折りしも京都の小学校が近代化を夢み、自治体と地域とがひとつになって理想の教育施設を具現化していた黄金時代にぴったり当てはまる、最も良質な一連の学校建築に数えられ、効率化がどうとか、したり顔している生半可な心構えやマニュアル化された現代の技術では到底再現できないレベルにある と指摘しても、あながち誇張ではありません。

当時最先端の鉄筋コンクリート造が採用された淳風小学校の正面玄関には、伝統校の名に恥じぬよう、立派なアーチと上部にせり出す庇まわりにレリ-フが施され、傍目には少々着飾った印象があるやもしれませんが、装飾らしい装飾といえばここくらいのもので、実のところ、児童たちが日常的に出入りする昇降口は別にあって、素顔の淳風校は飾りっ気のない素直で健康的な性格だったりします。 それでいて、どこやら侵し難い優美さをまとっているようにも見受けられます。
素直で健康的なのは、姿こそ違えど伝統の木構造から変わることなく継承されてきた、構造を隠さずデザインとして活かしている真っ当な思考が浸透し共有できるだけの文化レベルに到達していたから。 翻って今日では、 古い建物=老朽化=危険→取り壊して建て替え という画一的な考え方が世間一般に浸透しているようですが、丹精込めてつくられた建物は、相応の時を経ても定期的にきちんと修繕がおこなわれていれば必ずしも危険とは限らないどころか、むしろ長期的な視点から相当に堅牢な設計がなされているのでは? と、疑問を抱くことが個人的にはあります。

かつて、昭和初期に建設された中京のとある小学校が統合後まもなく解体されている光景を目の当たりにした経験があります。
重機を使って強引に壊そうとしても構造が恐ろしく頑丈で思うようにならず、ひどく手間取っている様子をみるにつけ、当時の小学校を設計していたお役所も、工事を請け負う建設会社も、それから地域の方々も、誰もが当然のように百年後まで使うんだ! という気概のようなものがひしひしと伝わってきて、ウェイトの低い設備の老朽化はともかく、構造的な寿命にあるとはにわかに信じられず、何でも古いものはダメ、建て替えるとよくなる といった考えが常に正しいとは限らないのではないかと。
(すべてがそうではありませんが)コンクリートそのものの品質面においても、技術面においても、当時をピ-クに低下し続けているような気がしてなりません。

経済性が… なんて言い訳ははなから度返しした、がっしりとした柱も梁もこの地にしっかと根を下ろした母なる大樹にも似て、安心してこの身をゆだねていたい気持ちにさせてくれます。
それは、堅固なコンクリートだけに頼らず、児童の手の届くところには大工さんたちの手腕が惜しげもなく投入されたあたたかな手触りの木材が、輝かしい未来における理想的な調和を暗示するかのようにふんだんに使われていて、つくり手の人柄を映し出す階段の一段目のふっくらまんまるい手すりからして手を伸ばして触れていたい。 その気持ちが知らず知らず作用して足取りも軽やかに上階へと誘い、ふと見上げると、手の届かない遥か上方の柱や梁には左官職人によるモールディングが流麗なラインを描き、木材と対比させることで純白に彩られた上質な構造美を際立たせる創意工夫の数々。
何気ない日々の体感を通し 「誇り高いおとなたちの背中をみて学べ!」 とでも物語っているかのようです。 実のところ、そういうのが 理想の学び舎 なのかもしれません。

とことこと小気味よく階段を駆け上がり、柱の林立するほの暗い廊下の角を幾たびか曲がると、安定した自然光が降り注ぐなか、児童たちが一日の大半を過ごし、かけがえのない幼少時の想い出の場となる教室が行儀よく並んでいて、あの日出会ったタクシーの運転手さんも半世紀以上も前に制服着てここに通っていたのだろうか。 その時、ちいさな瞳はどんな光景をみていたのか知りたくて、しばしの間、教室で過ごすことにいたしました。

淳風小学校 2階教室

泣いても笑っても、二度とあの日には戻れない。
時折り遠くからぽーっという汽笛やごーんという鐘の音がかすかにこだまする、からっぽの教室にはつい一か月あまり前まで使われていた備品がぽつりぽつりと残されていて、継ぎはぎだらけの床板も、ぷっくりと丸みを帯びた黒板の枠も、長い長い時間の蓄積のなかで使われ磨かれてきた傷や艶が、はじめてなのに懐かしい。
僕自身幼い頃、古い木造校舎で過ごしてきたからか、あるいはもっと根源的なものなのか、とにかく、ここには訪れる誰をも拒絶しない懐の深さがあることだけは確かです。 教壇の角という角は大工さんの手で丹念に削られた上、数えきれないくらいの教師や児童たちの足や雑巾がけで程よいあんばいにすり減って、すっかりこの場の空気に馴染んでしまっています。

だからでしょうか。 とてもとてもそんな資格はないのだけれど、そんなの承知の上、この際だからと恥を忍びつつふらふらと教壇に立ってみることにしたのです。 するとそこは、ちいさな座席からみた子ども目線のおおきな教室とは裏腹の、隔たりのない、ひとりひとりの表情さえ手に取るように分かる、親密さにあふれた世界でした。
クラスというのは、ひとつの家族のようなものだったのですね。

賑やかだった時には気づかなかったかもしれません。 こころおだやかに、静謐さにつつまれた教室にひとりたたずめば、どこからか建物の声なき声が聞こえてくるかのようです。 ただし、どうも何だか、ちょっと室内が息苦しいようにも感ぜられます。
運動場に面したスチール製の両開き窓も、廊下に面した木製の上げ下げ窓も、八十数年前の竣工時からそのまま使われてきたもので、さすがに随分と古びてはおりますが、時代時代できちんと手入れされ、大切に扱われてきたことが伝わってきます。 真鍮製のハンドルを握り、そっと窓を開けるとほんわかした春の風がすーっと入ってきて、人間と同じように建物が呼吸をはじめたのでした。 「私はまだ生きていますよ」 と。