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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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01月26日(金)

ジン・ソファ

まだ20代だった オリヴィエ・ムルグ(Olivier Mourgue) が、フランスの家具メーカー エアボーン・インターナショナル(Airborne international)に在籍していた1965年頃にデザインした 「ジン(Djinn)」 と呼ばれる一連の家具があります。

ジン・シリーズ

もし、1968年に公開された映画 「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odysseye)」 をご覧になった方であれば、記憶の奥底にしっかと焼きついているかもしれない…。 そう、あのモダンに進化した巨大な観覧車みたいな宇宙ステーションのなかでのシーンです。
床と天井がゆるやかに湾曲する真っ白い、何もかもがつるつるぴかぴかのプラスティックで出来上がった無機質なホテルのロビーに ぽつ ぽつ ぽつ と、大気圏外では人類以外に唯一存在する生き物かと見紛うくらいに有機的なカタチをした、ちっちゃな背もたれ付きの赤いソファ。
宇宙空間で人間が身体をあずける家具はやっぱりこうでなくっちゃ と、宇宙のことなどちっとも分からなくても、誰もがそう納得するだけの不思議な説得力をもって、公開当時は間違いなく近未来だった2001年の更に十数年先に暮らす未来人(のはず)の僕たちにも、十分すぎるくらいに未来を夢見させてくれる、数少ない名作家具のひとつです。

劇場のスクリーンを通して鮮烈な印象で登場した ジン・ソファ も、製造メーカーの操業期間が1963年から76年と、意外に短命に終わったこともあり、実質製造されていたのはせいぜい10年あまりですから、残念ながら今ではめったにお目にかかる機会はありません。
実際、僕が拝見したオレンジ色のアーム付きソファも、当時のコンディションのまま大切に保管されている、いわゆる ミュージアム・ピ-ス でしたので、座ることはおろかこの手で触れることすら許されない。 けれども、実物をひと目見ればそれが単に斬新なだけの代物でなく、真っ当な考え方で存外素直にデザインされていることに気づくはずです。
ジン・シリーズに共通するのは、複雑な曲面を描きながら、いずれもメビウスの輪のごとく ひとつながりのカタチ として完結しており、それを一枚の縫製された(複雑極まりない)布地ですっぽりと袋状に包み込んでしまう 「張りぐるみ」 の手法が用いられていることです。 布というやわらかく肌触りのよい素材のみで、なおかつ極力床に接しないよう、合理的な思考方法を有機的な形態で解決しようとすると、おのずと導かれるように、このような浮遊感あふれるデザインになったのでしょう。

椅子づくりの基本とはすなわち 「身体との近しい関係を、いかに構造的に成り立たせるか」 のひと言に尽きるのではないかと常々考えていて、そのいずれかを放棄したり、あやふやに誤魔化したりしている不誠実なつくり手は決して評価しない方針にしている…。 そんな、厳しい視点から吟味しても、どれ程念入りに石橋をたたいても、このソファからはこれっぽっちの埃すら出ようはずもありません。 そのくらい、包み込むような愛情と、いささかの妥協をも許さないのだという、つくり手たちの真摯な姿勢がひしひしとこちらに伝わってきます。

ジン・ソファ

大切なくつろぎのひと時なのに、うっかりかかとやつま先をぶつけてしまう窮屈さなんて、誰にとっても不愉快な出来事に違いありませんから、たとえゆったりとした座り心地が求められるソファであっても、当然ながら足元には何もないにこしたことはありません。 そう考えると、座は薄くふわりと宙に浮かせ、支えとなる脚もできるだけ軽やかにした上で、邪魔にならないよう端に寄せつつ踏ん張るような形状にしておけば、構造的にも視覚的にも安定します。

人の表情に見立てるなら、さしずめ えくぼ に相当するであろう背や座の微妙なくぼみは、人のおしりや背中にしっくり馴染むために。 にょきっと湾曲しつつ伸びるアームは、自然と肘を下ろしたところで背後からの頼もしい支えとなり、敏感な指先が触れる先端には程よい丸みが与えられている… といった具合に、そもそも人間の身体そのものが有機的なわけですから、それにふさわしいカタチを捜し求めた末にたどり着いたであろう、若きオリヴィエ・ムルグがスペースエイジの時代に夢見た、張りぐるみデザインの最終到達点だったのかもしれません。

タイムマシンに乗って未来に引越しでもしない限り、到底、現代の暮らしに調和しそうにもないなと観念せざるを得ない。 そのくらいに、時空を超越したかのようなデザインのソファ。 何しろつくられたのが1960年代から70年代にかけてですから、コンピュータ制御の高度な工作機械が自動的に生み出したのではない ということくらいは、誰の目にも明らかです。
そこでいろいろと調べてみると、ジン・シリーズは、まずスチールパイプ製のフレームが基本骨格となり、まわりは人間でいうところの筋肉に相当するウレタンフォームによってまんべんなく覆われ、そこに皮膚のようにぴったりと張りつくようにして布地でくるまれる という仕組みになっていて、家具というよりも、むしろ人間の身体を連想させるようなつくりになっているもよう。
複雑に曲がりくねったパイプの加工や、表面にはあらわれないけれど、適度な沈み込みを制御するために欠かせない下地の入念なテープ巻き、なめらかにうねるウレタンフォームの肉付けから、シワひとつなくフィットすることが大前提の布地による仕上げの過程に至るまで、流麗な姿からはとても想像できませんが、どれもこれも決して機械任せにはできない、熟練された手仕事なくしては実現不可能な、地道な作業によって支えられていたのです。

おそらく、同じ時代に制作された映画 「2001年宇宙の旅」 にしても、同じようなものだったのではないでしょうか。
今であれば、高度なコンピュータグラフィックスの技術を駆使して、非現実的な映像作品も比較的容易につくり出すことが可能なはずです。 しかし、便利さにおごって、それまでの過程のなかで端折ったり切り捨てたりしてしまった大切な 何か がいかに多いことか。 そこには膨大な時間や労力だけでなく、つくり手たちのあふれんばかりの想いや情熱、そして夢がつまっていたに違いありません。
彼らが夢見た本当の意味での21世紀は、実はおとずれてはいない。 まだまだ遥か遠い存在として、いまだに未来のままなのでした。
 
01月05日(金)

カドニカサイクル

モペッド(Moped) と呼ばれる乗り物をご存知でしょうか。
簡単に説明すると、自転車とオートバイの中間的な位置づけで、(少々重いかもしれないけれど)ペダルを踏んで自転車のように走行することもできれば、エンジンの力によっての走行も可能(こちらがメイン)という、どこやらギリシア神話に登場する、人と馬とが合体したかのような ケンタウロス(Kentaurs) を彷彿とさせる乗り物 とでも申しておきましょう。
日本ではごくごく稀に見かける程度ではありますが、ヨーロッパの国々では、免許がなくても運転が可能な 身近な生活の足 としてひろく親しまれていて、これがなかなかお洒落だったりします(※ 2013年からは法律の改正によって、EU加盟国でも免許が必要になったもよう)
ところが、今からさかのぼること半世紀近くも前に、日本のメーカーがエンジンではなく電気モーターを内蔵したモペッドを開発していたことは、いくら本場のお洒落な方々といえど、さすがにご存知ではありますまい。

「カドニカサイクル」 と名づけられた電気自転車は、かつて充電用の小型電池の分野において最先端の技術を所有していた三洋電機によって開発された、正真正銘の 電動モペッド で、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会の報道関係者用車両としてお披露目され、おおいに活躍したとのこと。
高性能の電池といえば、現在はハイブリッド車や電気自動車等でおなじみのリチウム・イオン電池のさらに一世代前にあたるニッケル・カドミウム電池を三洋電機の商標にしたのが カドニカ らしく、家庭用の100V電源からの繰り返し充電が可能な電池を搭載したクリーンな未来の乗り物、それが カドニカサイクル であったというわけです。
メーカーの経営陣も技術者も、誰もが夢と誇りを持って仕事をしていた、そんな時代だからこそつくり得た知られざる 隠れた名車 ではないかと、勝手に解釈しております。

車輪がふたつしかない自転車やオートバイは、人間が乗ってはじめて自立する バランスありき の乗り物ですから、当然ながら重量が軽く、コンパクトで、重心が低いほうが安定していて扱いやすいという理屈になります。 ただし、自動車と比べると積載スペースも重量も遥かに制限された厳しい条件下で、機能性とデザイン性を両立させることはそんなに簡単な話ではありません。
こと二輪車に関して、デザイナーよりむしろ、優れた感性と技術力を併せ持ったエンジニアの存在なくしては成り立たないであろうことは、この道の先進国であるヨーロッパのメーカーが生み出した数々の歴史的名車たちが、はっきりと物語っているのではないでしょうか。

カドニカサイクル

カドニカサイクルの主要なパーツは、当時 ミニサイクル と呼び親しまれた街乗り自転車との共通点が多いことに、ひょっとしたらお気づきになったかもしれません。
ミニサイクルは、それまでの自転車よりもちいさな径のタイヤを採用することで、ペダルの位置を低く抑え、かつ足つき性も向上させ、何よりもスカート姿での乗りやすさに配慮したことで、女性たちのハートを ぐっ とつかんで離さなかったに違いありません。 加えてフレームはもとより、前カゴからサドル、グリップまでを全部白色で統一したのもファッションとのコーディネートを前提とした、女性目線の乗り物であったといえそうです。

そもそも小径タイヤを持つミニサイクルは、それなりの重さとなるであろう電池やモーターといったパーツを搭載するには実に好都合だったのでしょう。
サドルとペダルとの間に きゅっ とコンパクトに収めてしまうと、要は乗り手のおしりの下にマス(重量物)が集中することによって車体がぐっと安定し、しかも、前輪側はあくまでも 自転車そのまんま ですからハンドリングは軽快そのもの。 もちろん スカート姿でも楽々 となれば、種々の技術的な問題も難なく解決され、これはもういうことなしですよね。
ただひとつ残された課題は、電池やモーターといったパーツのデザイン上の処理です。 真っ白いミニサイクルに 電気部品むき出し ではあまりにも無骨すぎますし、かといって自転車本来の持つ軽快感をスポイルしてしまっては、それこそすべてが台無しです。 そこでどう対処したかというと、 「グラスファイバー製のカウルでサドル下をすっぽり覆ってしまう」 という、かなり大胆な方法を試みているのですから驚くほかありません。

グラスファイバーといえば、軽く、強度の高いガラス繊維を樹脂で成形した当時最先端の素材のはずで、もうほとんど極限の速さを競う GPレーサー の次元です。 その素材でもって、全体的に角ばった印象のデザインを活かしながら、後輪の泥除けの機能も兼ねつつ、しかも、スイッチ類もソツなく組み込んでさらりとまとめてしまうところなど、どう見たって只者ではありません。
おまけに、側面がのっぺりしないよう、さり気なくリブで補強しつつメリハリをつけたり、 CADNICA(カドニカ) の文字をあしらったちいさなロゴ・ステッカーも入れる心憎い演出に抜かりがないのはまず当然としても、真っ白いなか、サドルとカウルに 青いストライプ を入れて完璧にコーディネートするなんて、ちょっと思いつかない唐突な発想ですが、なぜかこれがミニサイクルの軽やかでおとなしい雰囲気に、しっくりと馴染んでしまうのでした。

これ程までに高度なテクノロジーやデザイン力に満ちあふれながら、当のカドニカサイクルはゆるゆると、人が歩くのとさして変わらないくらいの速度で、来場者から羨望と憧れの眼差しを浴びながら、あのきらびやかな博覧会の会場をするすると音もなく走り回っていたのでしょう。
聞くところによると、三洋電機ではカドニカサイクルを漠然とした試作品ではなく、本当に市販化する前提で開発したそうですが、その後、かの 電動モペッド がその麗しい姿を世に知らしめた話は、ついぞ聞いた覚えがありません。
コスト上の問題があったのか、あるいは時代を先取りしすぎていたのか、とにかく世のなかは違った方向へと動き出して、結局、随分のちに満を持して発表され普及した期待の 電動アシスト自転車 といえば 木に竹を接いだような (個人的には)期待はずれのデザイン。 冷ややかなくらいに現実的で、もはや夢見ることを忘れたかのような今の時代、かつての夢の何もかもが本当の神話になって、夜空に輝く星座のように遥か遠く、手の届かないところに行ってしまったのでしょうか。
人間の頭脳と手、馬の脚という、異なるふたつの能力を併せ持つケンタウロスのように。
 
12月12日(火)

下閑室

天王山の麓、大山崎にひっそりたたずむ聴竹居をはじめて訪れたのは、今から7・8年くらい前のこと。
建築家 藤井厚二の自邸としてつとに知られる聴竹居は、皆さんご存知の本屋(母屋)に加え、北隣に閑室、南東側に少し斜面を下がった所にある下閑室の計三棟で構成されております。 閑室 という聞きなれない言葉は、おそらくは藤井自身の発明らしく、和敬清寂を愉しむための 「離れ」 的な位置づけ、椅子座と床座、あるいは茶室と書斎をミックスした小空間 とでも説明すればよろしいのでしょうか。
当時、どなたかがお住いの様子だった閑室と、一般見学が可能になったばかりの本屋が、建設された昭和初期の面影をいまだ色濃くとどめているのに対し、誰も気づかない隅っこのほうで打ち捨てられたかのように屋根をシートで覆われた下閑室は、廃墟かと見紛うような惨憺たる有り様だったのが強く印象に残っていて、大雨が降れば雨漏りしていないだろうか、台風が来れば土砂に埋もれてしまわないだろうかと、気が気ではありませんでした。

けれどもつい最近、聴竹居が重要文化財に指定されたとの報道を目にし、そこには本屋だけでなく閑室、そして下閑室までがしっかり含まれていたものですから、あんなにもちっぽけで目立たない建物にも真っ当な評価が下されるこの国も、まだまだ捨てたものではないぞ と、気持ちを持ち直し、ただただ一目、下閑室見たさに大山崎へと赴いた次第です。

故郷に帰るよりも懐かしい。 少なくともここにいる間は、人間らしい扱いを受けているな と首を垂れ、誰にともなく感謝しつつ足触りのよい石段を上り、定石としては100人中99人が右側に折れ、お約束の本屋へと向かうべきところを、左手にぽっかりと開けた、藤井が好んで植えたとされるイロハモミジに囲まれた南庭の尽きるあたり、くれぐれも視界を妨げないよう、クマザサの茂みの陰にうずくまるようにしてたたずむ下閑室の、なんと奥ゆかしいことか。
こんなにもちいさな建物に、こんなにも丹精込めるのかと、覆いが取り払われてしみじみ目の当たりにする、ゆるやかな勾配屋根の奏でる旋律に、うっとりと聴き惚れるばかり。

日本 ―タウトの日記― 1933年
「日本 ―タウトの日記― 1933年」 篠田英雄 訳 (岩波書店)


かねてより、日本インターナショナル建築会から招待されていた建築家のブルーノ・タウト(Bruno Taut)が、政治上の切迫した事情もあって日本を訪れたのが1933(昭和8)年のこと。 三年半におよぶ滞在期間中、最初の半年近くは京都で過ごすことが多かったようで、特に来日翌日に訪れた桂離宮を称賛するくだりは、もはや伝説化されてしまった感さえあります。
タウトの書き残した日記によると、桂離宮の五日後(※1933年5月9日)に講演のため向かった京都帝国大学で、教授の職にあった藤井より学内を案内され、講演後に自邸へと招かれた様子がつづられていて、たぐい稀な審美眼を有するドイツ人建築家の視点から、今ではうかがい知れない 聴竹居での暮らしの一端 を垣間見ることが可能です。

気候もよろしく、木津川、桂川、宇治川の三川が合流し、淀川へと名を変える、ゆったりとした水面に満月がゆらめく宵の口。 樹木も今ほど生い茂ってはいない山麓で仲睦まじく、ほんのりと月色に染まる三棟の建物のうち、まずは下閑室へと招かれ、二畳中板敷の茶室にて壽子夫人の点前によりお茶を頂き、隣接する閑室(※ 下閑室の主室ですが、タウトは 「控えの間」 と記しています)で藤井が創作した陶磁器を鑑賞。 その後、本屋北側にある閑室へと移動し、床の間をしつらえた上段の間と一体となるよう設計された下段の間のテーブル席にて、やはり藤井自身の工夫による漆器に盛られた夕食のもてなしを受けたとのこと。
閑室や下閑室が藤井の 私的な空間 であるのに対し、本屋はあくまでも 家族のための空間 と聴竹居では位置づけられており、仕事柄来客の多い環境ゆえ、通常の接客は本屋の玄関脇にある客室にて対応し、親しい友人は仕事場にしている閑室で、大切な客人は下閑室で… と、いった使い分けがされていたものと想像されます。

藤井もタウトも、建築の世界に身を置く人間ですから、当然のことながら本屋内、少なくとも椅子座と伝統の床の間を共存させた客室は体感していることでしょう。 しかしながら、本屋の内部空間は、過去に視察した欧米での経験を源とする(であろう)アールデコ調のデザイン要素が巧みに織り交ぜられていることから、藤井本来の持ち味である清らかな空間に 「一点の曇りのようなもの」 をタウトは見抜いてしまったのではないか と、個人的には推察しています。 つまり、 こころがざわざわしてしまったのではないか と。
これも私的な意見にすぎませんが、 本屋よりも閑室、閑室よりも下閑室 と、建設された順番に、自身の感覚に素直に創作すればするほど、空間そのものが浄化されているように思えてならないのです。
依頼者の要望、家族のしあわせ、大学での指導や研究、書籍の発表といった重責を背負う、きわめて優等な建築家である藤井厚二が、後にも先にもこの時だけはリミッターが外れ、他者の目を気にすることなく、純粋な表現者として建築に向き合った証しが閑室であり、下閑室であったのかもしれません。

聴竹居 下閑室

力み なんてものは微塵も感じられない。 格好良い建物をつくろう などとはゆめゆめ思っちゃいない。 土地のかたちに素直に従ったぼこでこの、しかも伝統の真壁造の外壁と、そのぼこでこさゆえ複雑な構成にならざるを得ない勾配屋根の重なりと、内と外との関係から導き出された幾種もの開口を授かった、小屋といってもまず差し支えない、それはそれはちいさな建物が、巷で シンプルモダン なぞともてはやされる四角い箱よりも遥かにモダンなのは、いにしえの茶人が棟梁と二人三脚でつくった茶室が生まれながらにして侘びているのに対し、藤井厚二が棟梁と二人三脚でつくった茶室は90年近くが経過してもいっこうに侘びない。 きっとそれは、藤井が茶人ではなく建築家だからに違いありません。 そう考えると、なぜ自ら設計した茶室をあえて 閑室 と呼ぶのか、下閑室に向き合った今なら少しは分かるような気がします。

下閑室の玄関には意外にも 片開きのドア が採用されていますし、茶室への にじり口 にはガラス戸と紙障子が用いられています。
これは、片開きドアの方がプラン上コンパクトに収まり、ガラス戸と紙障子の組み合わせは温熱環境に優れるからですし、形式上は茶室に隣接して水屋を設けるべきところを、一段床を下げた板の間にしておいて、そのコーナーはコクピットのようにさも居心地よさそな書斎コーナーにしてしまっているところなんか、さらさらと耳をくすぐる小滝の奏でる旋律を背景に、至極くつろいで思う存分読書したり、時には ふいっ と手元の方眼紙に構想中のアイデアを描き止めたりする、形式ばらない(素顔のままの)藤井の姿が目に浮かぶようです。
もしかしたら、ブルーノ・タウトを招いた時などは(※ タウトの夫人も同行していたものと思われます)機転を利かせ、畳の作法では不自由だからとフスマをささっと取り払い、月明かりとほのかにともる電灯の下、板の間に椅子を置いてお互い、目線が揃うようにして和やかな雰囲気のなか、笑顔で茶事が執り行われたのかもしれませんね。