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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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10月27日(土)

野口家住宅

都市のただ中に人知れず穿たれた、ちいさな庭を前にしばしの間たたずめば、頬に触れる風すら思いのほかやわらかい。

京の都を代表する町家として幾つか挙げるとすれば、その名を耳にする機会に事欠かない野口家は代々呉服商を生業とする家系で、住まいと商いがひとつ屋根の下、庭によって程よく分節され、親から子、そして孫へ… といった具合に、じっくりと、洗練に洗練を重ねた末、完成の域に到達した美の殿堂であるにもかかわらず、ビジネスなる横文字の台頭により、伝統や格式といった縦文字が古臭い過去の恥ずかしい遺物であるかのような風潮が確かにありました。
巷では、次々と四角いビルディングに建替える同業者も随分と多かったでしょうに、ご先祖様より受け継いだ、ややもすると時代遅れで古ぼけたようにも見受けられた住まいや慣習が、実はこの先ますます光り輝くタカラモノだったのだと確信したであろう当主の英断で、斜めお向かいに商いのための会社が移され、伝統を継承しつつ、奥の空間を住まいとして家族が関わり続けるというライフスタイルが実践されています。
それは、今どきの暮らしに比べると不便で面倒だったりするかもしれないけれど、博物館のなか、仮死状態で保存された つめたい文化 とは明らかに違う。 これこそが本当の意味での、ぬくもりのある 生きている文化 なのかもしれません。

実際、いにしえの匠たちの手で丹精こめてつくられた建物も、庭も、人間と同様に生きて呼吸しているため、住まい手がきちんと手をかけ育ててあげなければなりません。
もし、日々のこまやかな手入れを怠り、つい 「手間いらず」 や 「楽々」 といったお決まりの営業トークに踊らされ、ずぼらを決め込んでしまうと、次第に建物はかさかさし、庭の植物たちはおのが勝手に成長して、たちまち人間や街との均衡が崩れてしまうことでしょう。 あの、しっとりと繊細な京町家のしつらいは天然自然なものではなく、人の手を介した、人工とも自然ともつかない、独自の進化を遂げた庶民による庶民のための 理想的な住まい そのものであり、その代表例が野口家住宅なのですから。

野口家住宅

そもそも 住まい というものは、その規模に関わらず建物と庭が一体であるべきだと思うのです。 少なくとも数十年前までは日本でも、誰もがそのような知識を当たり前のように持ち合わせていたはずなのに、部品化された建物がどこかで知らないうちに製造され、地域性も風土もお構い無し、ただマニュアル通りに運ばれて組み立てられる時代になると、真っ当な知識の必要さすら薄れてしまい、あたかもクルマと同じような、クレームのない無難な売れ筋を意識した商品のような存在になってしまいました。

当然ながら、そこにはオプションというか、アクセサリーのような軽い感覚で植物が添えられることはあっても、建物とひとつになって呼吸している本来の庭と呼べるようなものではなく、第一、住まいの集合体である街そのものからして、かさかさとぬくもりの感じられないあり様なのが悲しいけれど現実です。 そこそこ無難でお手入れ不要、さしてクレームにもならいけれど何だかどこかで息苦しい気がしたら、きっとそれは、街も建物も呼吸していないからに違いありません。
対して、伝統の町家には大小や貧富に関わらず、必ず庭が組み込まれ一体になっているのをご存知でしょうか。 基本的に庭は座敷の奥に一箇所つくられますが、規模によっては二箇所、野口家のような大店になると全部で三箇所も庭があります。

一見したところ町家は、どれも同じような建物と庭で出来上がっているように思われがちですが、よくみるとひとつとて同じではありません。 全体として調和するように、周囲に気を配り、継承された知識や技術を活かしつつ、つくり手がおのおの創意工夫しているのがその理由で、どうやらそこに人々を惹きつけてやまない 魅力のひみつ が隠されているようです。
結局、ビジネス目的で合理的に建物を商品化したとしても、人々のこころは決して豊かにはならないように思えてしまいます。

随分と数が減ったとはいえ、京の中心部に軒を連ねる伝統の町家のなかには、創業300年、あるいは400年といった老舗も少なくありません。 ところが、いずれの建物も土蔵を残して幕末の大火で消失してしまい、実のところ明治のはじめ頃に再建されたもので、昔ながらの店構えを今に伝える野口家住宅についても同様、四代目当主によって明治四年頃に再建されたと伝えられております。
呉服商の四代目は、仕事柄美術や工芸に造詣が深いことはむろん、茶人としても知られる人物であったようで、後年の調査によって奥座敷の書院と店の間の一角にある茶室が、伏見奉行を務め茶匠としても名高い小堀遠州が晩年に暮らしたとされ、とある人物によって保管されていた住まいの一部を購入・移築した経緯が明らかになったことからも、商いだけにとどまらない非凡な才能の持ち主であったと推察されます。

待庵、如庵と並び、たったの三例しかない国宝に指定された茶室のひとつ蜜庵(みったん)を手がけ、千利休や古田織部に続く茶人としても知られる遠州ゆかりの書院や茶室を、再建とはいえ新築の町家に組み込むなんて、そうそう簡単な話ではないはずですが、革新的ともいえる優れた茶室が、茶人と棟梁との二人三脚で生まれるのと同じように、確かな審美眼を持つ当主と、現在とは比較にならないくらいの高度な技量を有する職人の腕前を持ってすれば、はた目には難解そうでも、さぞや打ち込み甲斐のある仕事(普請)だったことでしょう。

主の居室であり、最上のもてなしの場に相当する奥座敷にこそ相応しい、十畳敷きの書院は、ここが市街地であることがにわかには信じがたいくらいに、町家としては法外な奥深さを醸し出す奥庭へと開かれ、商いの場である店の間とを程よく分かつ書院の手前側には、坪庭と呼ぶのがこれまたいかにも相応しい、ひょひょろーっとした一群のシュロチクの葉がかろうじて届く外光を反射してきらきらと輝く簡素さに、否応にもここが人里離れた山中ではなかったのだと自覚せざるを得ない、緩急織り交ぜたよどみのない空間構成に加え、さらにもうひとつ。 「こんなところに?」 と意表をつくように、うっかりすると見落としてしまいそうなくらい、通りに面して控えめに配された、それはちいさな 三番目の庭 があるのでした。

野口家住宅 表庭

緑深い奥庭を 第一の庭 、シュロチクの植えられた中庭を 第二の庭 とするなら、そのいずれもが茶の湯の露地を髣髴とさせる苔むす 土の庭 であるのに対し、通りに土塀ひとつ隔てた表庭(第三の庭)は緑を抑えた白い砂敷きで、まるで禅寺にある 枯山水の庭 といった趣です。

表庭には店の間から正面にあたる位置に手水鉢が据えられ、白砂のなか点々と飛び石が打たれて、目立たないよう、さながら ひみつ基地 のように周到に配された 三畳の茶室 へといざなう露地の役目を担っているようなのです (※ この三畳の茶室が、小堀遠州の屋敷から移築されたものと思われます)
一方で、茶室のちょうど反対側にあたる通りに面した塀には黒塗りの頑丈そうな引き戸が設けられ、店の間を通らず直接庭に出入りできる仕組みになっていて、これは商売の邪魔にならないよう、出入りの庭師が手入れの際に利用するのだろうかと想像してみましたが、簡素を旨とする老舗の勝手口にしては少々立派すぎるような気がします。

そこで、野口家住宅について今一度調べてみることにしました.。 野口家同様、杉本家や吉田家、秦家といった近隣の四条界隈に位置する名家に比べると、思いのほか資料が少ないようでしたが、限られた情報のなかでもとりわけ詳しく書かれている書籍が、吉岡幸雄による 「京都町家 色と光と風のデザイン(講談社)」 でした。
著者に直接面識があるわけではありませんが、代々染色を営む五代目にあたる方で、今でも良質の水に恵まれる伏見に工房を、天然の染料で染められた美しい製品を扱うショップを古美術店が建ち並ぶ新門前に構え、個人的にはショップにお邪魔し、一時期染料を分けていただいていたことがありました。 呉服商を営む野口家とは、染色を通して先代の頃よりお付き合いのある間柄ゆえ、町家を含めた京の伝統文化全般に対しても造詣が深いようです。

書籍には、ざっとこんな内容が記されてありました。 野口家は御所に出入りを許されていた家柄で、普段の生活あるいは商用で利用する玄関(※ 正確には内部で家人用と来客用で分かれていたりします)とは別に、宮中に赴く際に利用する玄関が設けられており、その玄関が実は白砂敷きの表庭につながるあの 黒塗りの出入り口 なのだそうです。 当主は清浄な空間に身を置き、そこにひざまずいて火打ちみそぎをし、宮中に出向いたのだと… 。
遠州ゆかりの茶室に通じる、厳かで清浄な空間はしかし、京の町家らしくこじんまりとしとやかに、頬なでる風すら不思議とやわらかい。
 
09月24日(月)

大阪教会

日本でも最古級のプロテスタント教会として知られる大阪教会の、1922(大正11)年に建設されて間もない頃と思しき、周辺の街並みとともにおさまった写真を拝見したことがあります。
明治から大正期にかけて流行したレンガ造の建物としては最後の時代に相当する、ヴォーリズ(William Merrell Vories)設計の建物にしては意外なくらい、ある意味、無骨といえなくもない堂々としたいでたちの会堂は、今でこそつるぴかの高層ビルディングに周囲を取り囲まれ、異彩を放っているようにも見受けらるやもしれませんが、かつての土佐堀界隈は隣接する船場と同様、切妻屋根のがっしりとした骨太の商家のまにまにしっくいで塗りこめられた土蔵がそこかしこにそびえ建つ、いかにも商いの都 「大大阪」 の名に恥じない重厚で落ち着いた街並みに調和するよう配慮された、どっかと大地に腰を下ろしたかのような切妻風のフォルムにすらりとした鐘楼の組み合わせから、この地にふさわしい教会として生を受けたであろう成り立ちが手に取るように伝わってきて、長年の風雪や空襲、震災にも耐え抜いてきた、あのごつごつっとした印象のレンガ壁ですら、いつのまにやら懐かしくも頼もしい存在となって、いつの時代も変わることなく、この街の人々をあたたかな眼差しで見守ってくれているかのようです。

商家の作法に倣ってか、それとも敷地との兼ねあいか、大きな教会にもかかわらず、通りに面して間髪容れず積み上げられた表情ゆたかなレンガ壁の中央にエントランスが設けられ、けれども、その向こうがすぐさま 礼拝堂 というわけではなく、限られた奥行きのなか、一旦左右に振り分けられた、あのヴォーリズ建築に特有の 「いつまでも上り下りしていたい」 と誰もが願わずにはいられない、疲れとは無縁の、幅広のどっしりとした、ひどく手触りのよい手すりのある めくるめく階段 を体感してから、2階レベルの礼拝堂へと導かれる仕組みになっていて、このわずかな 間 をはさむうちに、しばし呼吸を整え、静かに居ずまいを正せば、ややもすと忘れがちだった素直なままの あなた自身 に出会えることでありましょう。

名だたる企業や銀行、文化施設にいたるまで、あり余る財力と上方の威信をかけて、贅の限りを尽くした目もくらむような建築はこの街に星の数ほどあれど、信仰心ある人々の献金によって地道にこつこつと積み上げられた大阪教会には、やはり素朴な レンガ積み こそふさわしいとの信念からか、ちょっとした装飾や化粧材はアプローチとなる階段室まわりと講壇のみにとどめ、驚くほどに質素な礼拝堂の大空間はしかし、空虚さなど微塵も入り込む余地さえないくらいの みずみずしい生気 に満ち満ちているのでした。

日本基督教団大阪教会 礼拝堂

空間を立体的に活用した多層構造ゆえ、礼拝堂を支える床スラブや梁材、基礎等に鉄筋コンクリートを併用してはおりますが、ひとつ、またひとつ… と、西欧の伝統に従い、あたたかな人の手で積み重ねられたおびただしい数のレンガによって教会としての骨格がかたちづくられ、すべての外壁はおろか、室内においても人の目線に近い腰壁や正面の講壇を縁取るプロセニアム・アーチ、側廊との間を程よく分かつ柱どうしをつなぐアーチといった、要所要所にレンガそのものの構造を臆せずあらわにする。

嘘偽りのない正直な表現方法は、どこか日本の柱・梁を隠さず見せる木造の伝統工法に通じる美学すら漂い、この国の土地に根を下ろす限り避けては通れない地震からの恐怖に、古民家も顔負けの図太い木材を、これまた西欧の小屋組みではすっかりお馴染みのキング・ポスト・トラスで分厚いレンガの壁をがっちりとつなぎ止め、 金輪際倒壊させはしないぞ! という、強靭な意志の強さが無言のうちに伝わってくるかのような建物は、つくり手たち、そして会堂に集い祈りを捧げる人たちのぬくもりが感じられる場所 とでも表現すればよろしいでしょうか。 ここには、壁にうがたれたちいさな窓ひとつ挙げても、ひとつひとつがそこに存在する意味がちゃんとあるのです。
永遠に交わるはずのない(と誰しも思っていた)、西欧と東洋の文化や思想がこれっぽっちも矛盾することなく、ただただ純粋な祈りの空間となって同調し、教会という名の建築物として何も変わらず、90余年にわたって存続し続けている事実には驚くほかありません。

かくまでも厳格に、直線と半円を巧みに組み合わせながら、いささかたりとも無駄のない(無駄にできない)、正直で力強い空間を創造し、人が直接からだを触れる礼拝堂の長椅子にのみ、微妙に曲率の異なるゆるやかなカーヴを与えながら、それとなく全体が講壇を包み込むようにひとつになっている。 決して完璧ではなく、どこかに弱さもあり、 「あたたかな血の流れる人間がつくったんだな」 ということが、手づくりの座布団を通して、おしりの下からやんわりじんわりと伝わってきて、きっと、こんな気持ちにさせてくれるのが ヴォーリズ建築 なのかな と。
 
08月20日(月)

ゴルコンデ(スリ・オーロビンド・ゴーズ僧院宿舎)

1930年代中頃、チェコ出身の建築家 アントニン・レーモンド(Antonin Raymond)の東京事務所に、いずれもまだ20代後半の若かりし前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマといった、後の建築界や工芸界に偉大な足跡を遺す、そうそうたるメンバーが三人同時に在籍するという、にわかには信じ難い奇跡的な建築家集団を形成していた時期があり、別荘から教会に至るまで、規模の大小や用途にかかわらず優れた建築物を矢継ぎ早に発表していた輝かしい時代のなかでも、とりわけ異彩を放つ作品があります。

マドラス(現在のチェンナイ)の南方、インド南部のベンガル湾に面したポンディシェリ(Pondicherry)に、聖人 スリ・オーロビンド・ゴーズ(Sri Aurobindo Ghose)から現代的な僧院宿舎設計の依頼を受け、現地に滞在するレーモンド事務所のスタッフとして選ばれたのが、各地を旅し、かねてよりインドに魅力を感じていたジョージ・ナカシマでした。

混沌とした様相を呈するインドの都市部における概念をやすやすと覆す、当時フランス領下にあったポンディシェリの、レンガ積みスタッコ壁にちいさな縦長の窓が配された、18~19世紀の古典的なフランス様式の建物が醸し出す小奇麗な街並みの一角に、より熱帯地方にふさわしい最新の建物を自力で建設する という使命を担って赴任したナカシマは、持ち前の好奇心旺盛な性格からか、あるいは士族の血統ゆえ、高い精神性を生まれながらに持ち合わせていたためか、異国・異教の地での暮らしに割合すんなりと馴染むにとどまらず、もらって然るべき俸給すらも謹んで辞退して、かの地の人々と同じ食事をし、同じ衣類を身にまとい、サンスクリット語で 「美を楽しむ者」 を意味するサンドラナンダ(Sundarananda)という名をスリ・オーロビンドより授かり、修道僧の生活共同体の一員として施設の設計や工事に携わったのだそうです。

ゴルコンデ(スリ・オーロビンド・ゴーズ僧院宿舎)

ゴルコンデ(Glconde)と呼ばれる僧院宿舎は、1930年代のインドでは前例のなかった鉄筋コンクリート造を採用するにあたり、まずコンクリートの調合や強度試験をおこなうための研究室を開設するところから始め、入手困難な鉄筋ははるばるフランスから取り寄せ、ほぼ修道僧たちの人力のみで打ち放し仕上げによる高度な施工を成し遂げてしまったのですから、驚異的といわざるを得ません。

西欧諸国とは異なり夏季は雨が多く気温・湿度とも上昇する、熱帯地方ならではの特殊な環境に近代的な建物を違和感なく溶け込ませ、簡素で清潔、快適な暮らしが営めるよう、ゴルコンデには様々な工夫がなされています。
従来のレンガ積みでは、構造上壁が多くを占め開口部が極端に限られてしまうため、室内は薄暗く風通しも十分ではありません。 そこで、鉄筋コンクリートの柱によって南北方向をすっかり開放した上で、軽量かつ単純な機構の可動式の水平ルーバーで日中の強烈な日差しを制御しつつ涼風を取り込む 「呼吸する建物」 となるよう、主要階の南および北側は同形状のアスベスト板ルーバーで規則正しく覆い尽くされ、個々が必要に応じて操作することで建物の顔ともいえる窓(間戸)に無限の表情が生まれ、無機的な素材の集まりに命が吹き込まれる。

初期の段階では、モダン建築の象徴的存在であるコンクリートのフラットルーフを計画していたものの、さすがに尋常ならざる熱射に防水層が耐えられず、多量の降雨に対して懸念が残ること。 そして、高温に熱せられたコンクリートスラブの熱が直接室内に伝わることだけは避けたいとの思惑から、フラットルーフの上に巨大な瓦を彷彿とさせるヴォールト状の薄いプレキャストコンクリート板をリズミカルに並べて二重構造の屋根とし、中間層に空気の通り道を確保して天空からの熱を遮断する方法が考案されました。
西欧の安直な受け売りでも、日本の伝統美の模倣でもない、インドの気候風土にふさわしい機能性と景観の創出を、一切の装飾を用いず、勤勉で真摯な修道僧たちの手仕事と近代のありふれた素材であるコンクリートだけでやってのけるなんて、一体誰が想像できたでしょうか。

ゴルコンデの建物構成は、片廊下に修道僧の寝室が水平方向に規則正しく並んだ地上三層(+半地下ユーティリティ)東西二棟の 住居部 と、その中間を垂直方向につなぐ階段室と水まわりの機能を集約した 共用部 のふたつによって成り立っています。

ゴルコンデ(住居部)

西欧の明朗さと日本の奥ゆかしさとを融和させたかのような、芝生と石灯籠と蓮池とが織り成す南庭と北庭に挟まれた住居部は、ふわり中空に持ち上げられながら、日本家屋の二階座敷の窓高さとの関連を模索したくなる屋外との親密さに加え、縁側のような気安さで思わず知らず腰かけて瞑想にふけること間違いなしの、ゆったりとしたベンチ状の窓台が、家具と建具との境界を曖昧にぼかしつつ空間に溶け込み、(あたかも10年後の未来を予見するかのような)ナカシマ自身によってデザインされ、インドの職人たちによって手づくりされた非の打ち所がないチーク材の家具を、かの地の気候風土にさり気なく順応させた(同じくナカジマのデザインであろう)チ-ク材の引き違い戸が共用廊下すらも我が住まいの一部になり得ることを立証し、レバーひとつで自在に調整可能な水平ルーバーの繊細さとあいまって、ここに起居する誰もがその日の気候と自身の心持ちに最も寄り添った快適な住環境を手中にするのに、ややこしいシステムや小難しい理論などこれっぽっちも必要ありません。

鉄筋コンクリート打ち放しの技術を習得する一方、構造や機能との好ましいバランスのなかで隣接する寝室どうしを別つ東西の壁には、当地で確立されたレンガ積みの上に石灰岩に貝殻や卵白をブレンドした純白のしっくい壁を塗り込み、日本の木造建築における真壁にも似た効果を加味することで、しっくい壁が 余白 の役割を果たし、清楚な空間に構造材であるコンクリートの柱梁や床に貼られた漆黒の天然石、チーク材の家具や引き違い戸、ルーバー窓から漏れ入る自然光までがくっきりと引き立つ心憎い演出もゴルコンデの見どころのひとつといえるでしょう。

ベンガル湾へとつながる大通りに沿って、色とりどりの花咲く植物たちに縁取られたスタッコ塀にうがたれた、すらりと背の高い木製扉を開けると、そこは乱張り石が敷き詰められたささやかなエントランスホールになっていて、ちょうど日本でいうところの沓脱石でそっとサンダル脱いで一段上がれば、さも素足にひんやりと心地よさそうな丁寧に磨かれた黒石張りの床が、さながら庭園を臨む静謐なステージのように上階へと来館者を誘う、垂直方向へと展開する階段室になっております。

ゴルコンデ(共用部)

「これぞナカシマ流!」 と、称賛せずにはいられない。
チークの一枚板を手すり代わりに渡しただけの、支柱ひとつとてない、大胆さと繊細さが同居したかのようなメイン階段を手がかりに、背後に隠されたサービス用階段との間のわずかなスペースを変幻自在に操って、修道僧たちの暮らしに必要な水まわりの諸室が周到かつ巧妙に組み込まれていて、寝室のある1~3階レベルにはシャワー室を、階段踊り場のある1.5階および2.5階レベルにはトイレ、サービス用階段を経由した3.5階レベルには洗濯室、屋上レベルには物干し場… といった具合に、千鳥状に無駄なく小気味よく、立体的に空間が連続するスキップフロアの考え方が試みられています。

ただし、ここで肝心なのは、水まわりには少なくとも給排水の配管設備が必要となること。 更に、においや湿気を排出し新鮮な外気を導入する換気設備もほしいところですが、快適さを求めれば求めるほど設備は複雑になり、長く使い続けるためにはメンテナンスの作業が不可欠になってしまいます。 そうであれば、やはりメンテナンスは修道僧たちが自力で行える単純で最小限の内容にとどめたい等々、課題は山積みです。
そこで、階段室はもとより、トイレやシャワー室の開口部には居住部と同じように可動式の水平ルーバーを取り付けて外部からの視線を遮りつつ外気や採光を取り込み、(レベルの異なる)シャワー室とトイレとの間に煙突状の換気塔を確保し、ここに面してガラリ窓さえ設ければ、重力差によって上方へと空気が流れ、換気扇のような機械に頼らなくても自然の力で循環させることが可能ですし、換気塔の一部を設備配管のスペースとして有効活用すれば、後々のメンテナンスにも対応できて 良いことづくめ ではありませんか。

ナカシマの記した回想記(※ 「木のこころ ― 木匠回想記」 鹿島出版会)によれば、僧院の生活では厳しい修行を強いることはなく、様々な才能を持った人々がそれぞれの才能を惜しまず、個のためではなく皆のために提供することでひとつの共同体が営まれていたそうです。
そんな 精神的な拠り所 としてゴルコンデは自力建設され、ジョージ・ナカシマもその拠り所を探し求めてたどり着いた一人だったのではないでしょうか。 その証拠に、僧院宿舎は80年後の今日も当時と同じまま引き継がれ、変わらぬ輝きを放ちながら大切に使われ続けているのですから。