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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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04月25日(水)

本願寺伝道院の石像

京の街の知られざる魅力を堪能いただく方法を、ひとつ披露することにいたしましょう。

観光地とは無縁の、さして広くはない油小路通を北から南へと縦断してみるのも一興 ということで、 かつては畑や野原が一面にひろがっていたであろう、いかにも家庭的で堅実なサラリーマンが好みそうな、昭和初期に造成されたであろう閑静な住宅地を抜けると程なく、何かの拍子で一筋東の小川通に吸収される頃合いに、茶の心得のない者にはいささか肩身の狭い、伝統を重んじる裏千家のお屋敷が発する厳格で底知れぬ奥行きに少々おののきつつも、いつの間にやら異世界から再び現実世界(油小路通)へと合流し、こちらも450年もの歴史を有する樂焼の窯元が代々住まいとする樂家の醸し出す、機転の利いた洒脱さにほっと一息き着きながら、ぽつぽつと庶民的な町家が点在するまにまに、オモテの大通りからでは到底うかがい知ることなどできない、ウラの通用口越しにちらちら垣間見る旧堀川会館のひどく洗練されたたたずまいから村野(藤吾)建築の真髄に触れ、かつては職住が理想的に調和した商いの中心地であり、現在は住み手の気配すらも感じられない(表面だけ)ゴージャスなマンションに埋め尽くされた感のある絶望的な四条通界隈からは、それでもいにしえの美学を頑ななまでに伝承する秦家や野口家といった第一級の京町家が、分かる人には分かる本物の輝きを発し続けていたりします。

さらに南へと歩みをすすめれば、次第に庶民的な町家と 「地域に親しまれているな」 と直感するに十分な愛情に満たされた、昔ながらの小学校と幼稚園とが織り成す情景から、お世辞にもゴージャスとはいい難い質素で棘のない下町ならではの飾らぬ素顔に出会うことも夢物語ではありません。 ところが、五条通を過ぎる頃合いになると下町情緒はそのままに、得もいわれぬマイナーな空気感を漂わせるようになり、なんの予備知識もなく通りがかると、いえ、たとえ十分な知識をもって精神鍛錬を怠らず、万全の態勢で通りがかったとしても驚嘆しないわけにはゆかない事態に直面することでありましょう。

西本願寺の総門へとつながる、仏具店が軒を連ねるいかにも門前町といった風情にあふれた正面通と、くだんの油小路通とが交差する角地に100年以上も前のある日、忽然と姿を現した としか表現しようのない ただならぬ光景 は、本願寺関係の由緒正しい建物であろうことは重々承知のうえでも、奇抜で斬新な建物がそこらじゅうにあふれかえっている21世紀の現代においても際立って個性的かつ孤高の存在として君臨し、それにしては異国の香りと(意外にも)お線香の香りが妙にしっくりと似合う、もともとは真宗信徒生命保険会社の社屋として生を受け、 本願寺伝道院 の名でおなじみの歴史的建造物なのでした。

実際、この世に二つと現存しない前代未聞の仏教関連施設を前にすると、どうにもへんてこな印象を抱かないわけにはゆきません。 それは、本願寺伝道院を語る際にしばしば用いられる西洋と(中東辺りまでを含む)東洋の様式をミックスした不可思議さだけではなく、ある種独特のスケール感の方にこそ、むしろ摩訶不思議な空気がみなぎっている と表現しても過言ではありますまい。

写真をご覧になっただけではなかなか伝わりにくいかもしれませんが、京の伝統的な街並みにふさわしくこじんまりとした通りのスケールに対し、伝道院は眼前に立ちはだかる巨大な壁のような印象を否めないのがその理由で。 そうか、これは都市計画的な視点から通りの向こう側にある西本願寺の境内から眺めた時のバランスで決定したのかと思いきや、建物のシンボルともいえるドーム屋根の塔屋が変に大きく重々しくて、やっぱり足元から見上げた時のバランスから求められたような気はするのだけれど、人間の目線からでは建物の窓下の(重厚なレンガ造なのにわざわざ表面に薄っぺらなレンガ風タイルを貼っている)壁や床下通気口しか視界に入らず、周囲に手彫りの石材をめぐらせた縦長の窓も、凝った装飾が施されたテラコッタ製の屋根飾りも遥か頭上にあるわけですから、普通の人間 というよりも身長が優に4mくらいはありそうな巨人の視点から計画された とでも説明しなければ到底合点がゆかない出来栄えで、その証拠に、きちんとした書籍に掲載されている一流のカメラマンの手による美しい写真を注意深く観察すれば、おしなべて近くの建物の2階あるいはそれ以上の階(つまり、人間よりもずっと高い視点)から工夫して撮影されてあるはずです。

本願寺伝道院を設計したのは伊東忠太という人物です。 彼は辰野金吾(※ 東京駅の設計を手掛けた建築家です)を師とする近代建築の黎明期を支えた日本人建築家の第二世代に相当し、日本人としては初めてとなる建築史家であり、かつ大学教授と実務をこなすプロフェッサーアーキテクトでもあり、西欧のアーキテクチュア(architecture)という概念を輸入した際に 「建築」 という言葉(※ それ以前は「造家」という言葉をあてていたそうです)を用いるよう提唱した学者としての横顔からもお分かりのように、当時最新の西欧建築にとどまらず日本の伝統建築にも造詣の深い稀有な才能の持ち主でしたから、まだ20代の若さで 「平安遷都千百年記念祭」 の目玉事業である大内裏の復元プロジェクトに設計者として抜擢される、目もくらむような華々しい経歴をスタートさせました。
ただ、古都京都の威信をかけて取り組んだ大内裏の復元事業(※ 後に平安神宮の社殿となりました)も、用地取得や予算の関係から本来の平面計画を8分の5に縮小せざるを得ない現実社会の厳しい洗礼と机上の学問とのギャップが彼にとっていか程のものであったのか。 若き日の苦い経験がしこりとなって無意識のうちにも、後々手掛ける作品に対するスケール感に何らかの影響を及ぼしたのかもしれません。

裏千家の(良い意味での)厳格さがあるからこそ、樂家の洒脱さがこころの奥底に染み入るように、人間のちっぽけさを痛感しないわけにはゆかない伝道院の巨大なスケール感があるからこそ、つくり手の細やかな愛情がひしひしと伝わってくるのもなのか。 とにかく伊東忠太の功績を語るには、ちっぽけな人間の目線よりももっと低い場所で、テコでも動きそうにない小山のような建造物をしっかと護るように配された空想動物たちの存在を抜きにしてはいけないような気がするのです。

本願寺伝道院の石像

柵もしくは車止めのようなあんばいで、通りとの境界近くに てん てん てん と規則正しく並んだ子どもの背丈ほどの石柱のてっぺんには、これまた子どもの顔くらいの大きさの空想動物が彫られていて、秋祭りの獅子舞みたく子どもが泣き出してしまうような いかめしさ などこれっぽっちも所有しない、随分と親しみやすいユーモラスな姿をしています。

翼の生えた象や舌を出した狛犬、東南アジアあたりの神話にでも登場しそうな鳥もいれば 「となりのトトロ」 ばりにひどく歯並びのよい鳥がいる といった具合に、愛嬌あふれる空想動物をデザインしたのは、他ならぬ建物の設計者である伊東忠太その人で、もともと彼は画家を志していたものの、家族の反対によって(芸術に近い)建築の道に進んだ稀代の逸材は、単に機能をカタチにするにとどまらず、幼い頃から好きで好きで仕方がなかった妖怪(聖獣)たちの姿を想像し、その道の職人たちの力を借りることではじめて創造できる 建築 という手法でもって具現化する術に、歩むべき活路と使命を見出したからなのではないでしょうか。

下町の暮らしに相応しいヒューマンスケールの通りに面して、忠太の頭のなかで存分に想い描いた動物たちが建物を仏敵から護り、道行く人々の安全と幸せを100年以上にわたって静かに見守ってきたに違いありません。 その証拠に、買い物帰りのおばあさんが石柱のそばにちょこんと座って一休みしている姿をたびたび見かけますし、ちいさな子どもと前を通ろうものなら、まず間違いなく彼らとおんなじ目線に並んだ妖怪たちが気になって気になって仕方がなく、それはそれは熱心に会話してしまうものですから、お母さん方は時間に十分な余裕を持って出かけなければならなかったりもします。
では、どうしてこのような拠り所が成り立っているかというと… 、そう、建物のスケールを大きくすることで足元に人々がこころ許せる 隙 を生み出していたからなのです。
夢見るこころを失わない一流の建築家と、それをカタチにする術を身に着けた腕利きの職人とが心血注いでつくり上げた本願寺伝道院は、時間という名の試練を乗り越え、僕たちの心配などいとも軽々と吹き飛ばして、これからもこの街をしっかと見守り続けることでしょう。
 
03月26日(月)

ディスカバリー号の遠心室

「長く語り継がれる、優れたSF映画を撮りたい…」 まだ人類が月面に到達する以前、単純で痛快な娯楽作品としての宇宙映画が主流だった時代に、科学的信憑性に裏付けられた未来の姿を追い求めていた人がいました。 映画監督のスタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)です。

今からちょうど半世紀前の1968年に公開された映画 「2001年宇宙の旅(2001: A Spae Odyssey)」 は、SF小説家のアーサー・C・クラーク(Arthur Charles Clark)をはじめ、航空宇宙学に精通する科学者や技術者、デザイナーといった、映画づくりには直接関わりのない、その道のプロフェッショナルたちとの真剣勝負によって生み出された稀有な作品 とでも説明すればよろしいでしょうか。
完璧主義者として知られるキューブリックは、合理性を求めるゆえ、映画づくりそのものが分業化された感のあるハリウッドではなく、ロンドン郊外のスタジオを拠点にじっくりと、すべての工程に徹底して携わる方法を好んでいたようで、監督自身や撮影スタッフのみならず、重要な共同制作者である宇宙の専門家たちも家族ともどもイギリスに移り住み、完成までに3年余りを費やしたのだそうです。
それもそのはず、撮影現場を訪れたNASA関係者をして 「東のNASA」 といわせしめた。 映画ひとつのためにここまでやるのか! と驚嘆するくらいに、宇宙船の模型やセットづくりには妥協を許さず、考え得る限り最新の情報やテクノロジーが惜しみなく投入・検証され、いつ終わるとも知れない、気の遠くなるような地道な作業が日々繰り返されていたのでありましょう。

信じているものがある、表現したい世界がある…。 創作の世界に身を置く限り、夢と創造力を失わない姿勢がどれほど大切か。
公開当時は斬新で新鮮だったはずなのに、時間を経るごとに表面だけのきらびやかなメッキは確実にはがれ、色褪せてゆく宿命を背負った数多あるSF映画のなかで、2001年宇宙の旅 だけは半世紀を経ても一向に色褪せないどころか、むしろ、現実の21世紀以上に未来色に染まっているかのようです。
それは、監督であるキューブリック自身が、天才的ともいえるカメラの構図や非凡と認めざるを得ない音響センス、間合いを含めた比類のない構成力を持ち合わせていたこともありますが、もうひとつ、汲めども汲めども尽きることのない好奇心を持ち合わせていた点に注目しないわけには参りません。 とりわけ、リアリティの追及と美しさの共存に関しては尋常ならざるものを感じてしまいます。

リアリティを求めると、時としてプロの俳優では叶わないこともあるようです。
よく知られるところでは、国際宇宙評議会のフロイド博士が、月に向かう途中に立ち寄った宇宙ステーションから地球で暮らす幼い娘にテレビ電話を使って会話をするシーンに、キューブリックの愛娘が起用されている例が挙げられます。 通常であれば、演技のできる子役を採用すべきところですが、それではリアリティに欠けたのでしょう。
では、なぜ キューブリックの娘なのか というと、宇宙を駆け回るフロイド博士とスタジオに籠りきりのキューブリック監督は、(職種こそ違えど)ともに家族と過ごす時間が少ない多忙な境遇にあるため、撮影の際、カメラのそばに久しく会わない実の父親が立ち会うことで、ちょっとはにかんだ(演技ではない)素のままの親子の会話が成り立った と、想像しています。 ちなみに実際の撮影も、前もって収録した娘の映像に合わせて、フロイド役の俳優が会話を重ねていたとのこと。
もうひとつは(あまり知られていないかもしれませんが)、木星に向かう宇宙船のなかで、宇宙飛行士と交信をするシーンに登場するディスプレイ上の管制官は、実は米軍に所属する 本物の管制官 だったそうです。 これは、俳優の演じる管制官ではリアリティが感じられないため、急きょ幾名かの管制官を呼んでオーディションをおこなったのが理由というのも、ハリウッドの常識では考えられない、興味深いエピソードです。

宇宙でのシーンを描くためにはなくてはならない、宇宙船や宇宙ステーション、月面基地等の構想や製作には、現代では当たり前のデジタル技術など皆無に等しい時代ですから、人間の知恵と手作業だけが唯ひとつ残された手段となります。 むろん、航空宇宙業界では一流の名をほしいままにするプロ集団も、映画の世界に精通しているわけではありません。
キューブリックは近未来のリアリティに加え、スクリーンに映し出された際に説得力のある機能美をも求めるため、有能な彼らをもってしても潜在能力のすべてを出し切らねば要求に応じられない、相当厳しい状況に追い込まれていたものと推察されます。
常に鑑賞者の想像する世界の上を行かなければ、本当の創造力は働くはずもなく、 「なぁんだ、そうか!」 と、すぐに合点してもらっても、眼前の世界がひろがるはずはないのですから。
辛く苦しい、けれども十分に手ごたえのある作業の数々は、創作に携わる者にとって、ある意味、一生に一度あるかないかの至福のひと時であったに違いありません。 その功績を雄弁に物語るかのような、どれもこれも目を見張る映像のなかでも、とりわけ個人的に興味深いのが、宇宙船・ディスカバリー号(Discovery One)の存在です。

地球と宇宙ステーションとを結ぶ流麗なオリオン号。 宇宙ステーションを経て月面基地へと着陸するずんぐりとしたアリエス号。 ぼこでこした月面上空を音もなく(当然空気がないので)滑走する通好みのムーンバス といった、観る者の期待を裏切らない未来の乗り物からバトンを託され、8億km離れた木星を目指すディスカバリー号は、地球という名の惑星に暮らす、ありとあらゆる人々の思い描く宇宙船の概念をいともやすやすと飛び越える、特異な、けれども極めて理にかなった姿をしております。
全長520フィート(約158m ※ 諸説あります)という長大な船体のうち、乗員たちが活動できるのは先っぽにある、直径にしてわずか52フィート(約16m ※ 諸説あります)の球形をした司令船モジュールのみ。 5名の定員のうち、3名は木星探査を任務とするため人工冬眠の状態で乗船し、残る2名の乗員が片道1年間の航行に携わる という設定です。

ディスカバリー号には、6番目のスタッフというべき、人工知能を搭載したコンピュータ・ HAL9000 によって制御された環境下に置かれ、宇宙飛行士として選び抜かれた若く優秀なエリート乗員たちが共生してゆくわけですが、エリートといえど生身の人間ですから、そこは抜かりなく、漆黒の宇宙空間での長期滞在に配慮された居住スペースとして 「遠心室」 なる部屋が用意されております。

ディスカバリー号 遠心室

ドーナツ状をした巨大な宇宙ステーションを、あたかも ぎゅぎゅっ とコンパクトに縮小したかのような遠心室は、その名の示す通り、室そのものが回転することによってもたらされる遠心力を活用し、宇宙船内に人工的な重力空間をつくり出す仕組みです。
回転イメージは、遊園地でいうところのメリーゴーランドではなく観覧車のような縦廻りの状態。 しかも、外周の湾曲したところがぐるり床面で一周出来る エンドレス空間 になっています。

極限の空間が要求される宇宙船という特殊な環境下で、限られた気積のなか、ひろがりのある住空間を確保しようとすると 「成る程、こうなるのだな」 と、妙に納得してしまう革新的な遠心室を映像化するにあたり、キューブリックはなんと、スタジオ内に実物大のセットをつくってしまったのです。
内径約11m、内幅約3m(推定)のリアリティを観客に伝えるため、映画ではハチャトゥリアンのバレエ組曲とともに、気の遠くなるような長大なディスカバリー号の外観をじっくりと見せた後、いきなり無機質な純白の遠心室内をぐるぐるとジョギングする宇宙飛行士の姿を詳細に映し出しています。 このシーンを実現するため、巨大なセットは電気モーターによってまるまる回転し、ジョギング中の俳優が転倒することなく、常に安全なドラムの底面を維持できるよう、慎重にタイミングを見計らった上で撮影がおこなわれたそうです。

2001年宇宙の旅では、個性的な宇宙船の外観デザインもさることながら、それぞれの内部デザインに対し、各々工夫が凝らされているのも、大きな見どころのひとつといえるでしょう。
航空機スタイルのオリオン号の客席は、縦列状で照明もまず一般的であるのに対し、まんまるいアリエス号の客席は中央の円筒エレベータを基点に放射状に配した上、エレベータ周りの床面を明るく、座席はほの暗く落ち着いた照明計画。 宇宙ステーションの室内は床も壁もつるり真っ白とし、低く、かつ、ゆるやかに弧を描く天井全体が発光する建築化照明を採用して、陰翳のない均一な照度を確保しているのに対し、ディスカバリー号の遠心室は、天井が高く(というようりも天井という概念が成立しない)、円盤状の壁の狭間にある逆境を活かしつつ、円盤をスライドさせた隙間にスリット状の間接照明を仕込む… といった具合に、こちらもさり気なく、それとなく、照明の建築化をやってのけています。
そんななか、壁の円盤となかば一体化した各種制御デスクやダイニング・コーナー、睡眠カプセルや洗面台等が、適切な動線計画に基づき配されて、惑星間を航行する乗員たちの暮らしをサポートする環境が過不足なく整えられているようです。

ディスカバリー号は、未来の宇宙船らしく、金属ではなく樹脂やセラミック素材によって完璧なまでにシステム化された真っ白な内装デザインのなかで、ひときわ目を引くのが、所々黒く塗装された制御パネルに組み込まれた色とりどりの操作ボタンとディスプレイではないでしょうか。
今であれば、フラット・パネルにCGを表示させることなど造作もないのでしょうが、背後のあちらこちらで続々と情報を提供する、なんてことないグラフィックスは、すべてが手描きのアニメーション手法による労作で、セットの背後にはひとつひとつプロジェクターを並べて投影させる、単純かもしれないけれど実は奥深い。 クールなのにどこかあたたかい。 血のにじむような努力の積み重ねが、この映画がいつまでも色褪せない秘密なのかもしれません。

すべてのシーンを諳んじるくらい、繰り返し繰り返しこの作品を観つくした方であれば、おそらくは 遠心室の床のパターン について、いささか疑問を抱かれたものと思われます。
床のプラスティックタイル(あるいはゴムタイル)は、よくよく観察すると遠心室の特性上、結構湾曲していることもあって格子状に滑り止めの加工が施されておりますが、なぜか、その中心に 黒く丸い模様のようなもの が規則正しく並んでいます。 これが真っ白い空間の中で程よいアクセントになる上に、床と壁の違いも分かりやすく、視覚的に意味のあるものには違いないけれど、果たしてそれだけなのだろうか?。
そんなことを思いながら、撮影風景を記録したものと思しき写真をぱらぱら眺めていると、遠心室のなかに何やら大きなカメラや照明器具などの撮影機材が置かれてあったりします。 映画ですから当然といえば当然ですが、更に注意してみると、床の一部がぽっかりと黒く抜け落ちている様子が見受けられるのです。
これは、あらかじめパネル状に分割された床板を取り外したところで、どうやら、そこから機材を運び込んだりスタッフや俳優が出入りするらしく(※ 緊急用の脱出口としても機能している)、黒い丸にみえた模様(実は床のちいさなくぼみ)は、床板を開け閉めする際の 指掛かり として用いられていたのでした。

漆黒の宇宙空間のなかで、長期間滞在せねばならないという任務。 しかも、宇宙船の制御は基本的に人工知能を搭載したコンピュータによって支配されているのであれば、楽しみなのはジョギングと食事くらいでしょうか。
そのせいか、映画のなかでは食事のシーンが頻繁に登場しています。 ディスカバリー号も例に漏れず、(NASAより提供された本物の)ペースト状の宇宙食を、ボタン操作により ささっ とメニューから選ぶや否や瞬時に暖め、ガラスの取り出し口が次から次へ すすっ と開閉して速やかに調理が完了する。
無駄のない一連の動作と、隣接するダイニング・コーナーのテーブル上に置かれたタブレット端末で地球から配信されるニュースを観ながら食事をおこなう。 すべてが自動化され、効率化された未来感満載な世界において、400万年前の人類創成期から変わらない、日々のささやかな食事がいかに幸せか。
そして、ダイニング・コーナーの向かいで何かの拍子にちらっと目に映るのが、宇宙船とも木星探査とも唯一、まったく関係のないキーボード(ピアノ鍵盤)なのは、どれだけテクノロジーが進歩しても、どれだけ遠く地球から離れても結局、人間らしい営みは必要なのだというメッセージを、キューブリックはこの映画を通して語っているのかもしれません。
 
02月25日(日)

丼池繊維会館

「都市の角地に建つ建物たるものかくあるべし」 との気概がひしひしと伝わってくる、ひどく生真面目でどこか武士道にも通じるような近代建築が、1920年代から30年代の大阪には芽生えていたとみえて、伏見ビルしかり、芝川ビルしかり、大阪ガスビルしかり。 いずれも新しい時代の波に触発され出現したかと思しき、くるりんと流麗な丸みをおびたコーナーを生まれながらに持ち合わせています。
かつて町人文化の華開いた船場エリア。 繊維問屋が軒を連ねる角地に人知れず、ひっそりとうずもれていた丼池繊維会館が近年、永年にわたってごてごてとまとわりついていた鋼鉄の仮面からすっかり解き放たれ、往時を彷彿とさせる軽やかな素顔でもって、 こんなところにも丸いコーナーがあったのか!と、近代建築ファンの目をくぎ付けにすることまず間違いなしです。

自由というのは、実のところ傍から見るほど楽ではない。 それでも、(ギリシャ神話のパンドラの箱ではないけれど)その片隅には必ずきらきらとした夢や希望があったはずです。
どこか堅苦しいクラシックからつるりと無表情なモダンへと移行する、瞬きするくらい、ほんのわずかな時空の狭間で、豊かな経済力と、確かな審美眼と、新たな文化をすんなり受け入れる度量を持ち合わせた町衆と、連綿と受け継がれてきた高度な技量を有する数多の職人衆が、めぐり会うべくしてめぐり会った稀有な時代に創造された、無名の、けれども宝石のような輝きを放つ建造物が90数年後、まわりまわって脚光を浴び、きちんと手を加え次代へと継承される。 今はそんな転換期にあるのでしょう。

世界の最先端を具現化するに足る、滋味豊かな土壌に恵まれた1920年代の大阪は、現代ほど情報があふれ返っているわけではありません。
何だかぼんやりとした空想世界を試行錯誤するような、曖昧で不確定な境遇がかえって個性や想像力をはぐくみ、ひとくちに 角の丸い建物 といっても、ひとつとして同じ表情にはならなかった事例が雄弁に物語るように、もともとが銀行建築として生を受けた丼池繊維会館も、平滑なタイルとぼこでこした左官仕事という、常識からすれば相いれない要素を、さらりと難なく共存させています。
今みてもどこやら近未来的な風格を漂わせているくらいですから、当時はさぞかし銀行らしからぬ斬新な容姿だったものと推察されます。

繊維産業がこの上なく発展した戦後復興期のこと。 そもそも主を失って久しい銀行建築を近隣の旦那衆らが買い取り、サロンや福利厚生施設として再生したのが丼池繊維会館のはじまりなのだそうです。
その頃撮影されたセピア色の外観写真を拝見するに、背筋のしゃんとした 20世紀のモダン侍 とでも評せばよいのか。 どうやら地下室までも備えているらしく、足元に明り取りをあつらえたやや腰高な石積みの上に三層分、平滑なタイルを纏った外壁がコーナーだけ堅固な壁の厚み分、奥ゆかしくセットバックしてからくるりんと優雅に弧を描く。 強度を損なわないよう慎重に、かつ規則正しく穿たれた窓は1階のみアーチ状とし、端っこに押しやられた階段室のところだけさり気なくアーチの位置を違えてあります。
知性と気品を持ち合わせた頂に、王冠というよりも貴婦人が身に着けるティアラを彷彿とさせる軒の出は、適度に雨をしのぎ日射をさえぎる。 その水平ラインと意図的に欠き取られ天空に突き刺さるペントハウスとが織り成す好対比が、まるでこれから先の理想的な都市景観の在りようを暗示するかのように…。

そんな、偉大な先人たちの示唆する教訓なぞお構いなしに時は流れ、繊維産業が衰退するなか、賃貸スペースとしての在りように活路を見出し、時代の波に乗り遅れまいと化粧の上塗りのような改修を繰り返した末にたどり着いたのは、地層のように堆積した厚塗りの化粧を取りはがし、1920年代の匠たちの仕事と向き合いながら、創造することの楽しさ、苦しさを噛みしめ分かち合う、地道で謙虚な リノベーション という選択でした。
リノベーションと聞いて、安直な before - after を想像してはいけません。 ここでいうリノベーションとは表面的なイメージのお仕着せではなく、傷だらけの建物と会話をしながら繕い、かつ前に進む行為のことなのですが、こんなにも拙い説明ゆえ、何のことだか訳の分からない方は実際の丼池繊維会館に身を置いてみれば、きっとすぐに分かります。

丼池繊維会館 空間構成

(おそらく)クライアントと施工者と設計者との間には、いつも傷だらけの建物があって、何かを判断しなければならない時、彼らはきまって建物の声にそっと耳傾けていたのではないでしょうか。
見苦しいところこそ、綺麗にフタしておざなりにしない。 継ぎはぎだらけの空間には、元のままのところと(失って)金輪際二度と戻ってこないところ、繕ったところと(やむなく取り壊されてしまった)他の建物から移植されたところ、現代の感覚で最低限付加されたところが嘘偽りなく表現されていて、出来合いのパーツをマニュアル通りに組み立てる昨今の時流とはおよそかけ離れた、辛くて、苦しくて、先も見えず、しかも終わってみると何だかさみしい。 けれども、やっぱり満たされているのだな と、誰しもが共感できるのは、こと切れそうだった建物に新たな命が吹き込まれたからなのでありましょう。

元来が商業目的の建物な上、ただですら限られた、しかも、営業空間でもない階段室なぞは端っこのほんのわずかなスペースしか割り当てられない。 悲しいけれど、これが現実です。
「それじゃ仕方ないよね」 と早々に諦めるのか、 「だからこそ豊かな空間にするのだ」 と逆境から想像の翼をひろげるのか。 明らかに後者に該当する、丼池繊維会館の階段室は、狭い幅員によって得られたほんにささやかな吹き抜けを頼りに、コの字状に旋回しながら昇り降りする仕組みになっていて、堅固な鉄筋コンクリート造だからこそ温もりが大切 と、身体が触れる手すりや腰壁に木材を、外部に面した開口部から自然採光を招き入れお友達にしてしまうことで、来る人来る人 魔法にでもかかったか と、思わず知らず頬っぺたつねってしまう素敵な出来ばえで、上へ、また上へと続く階段はとうとう屋上にまでつながり、頭のぶつかりそうなくらいちいさな鉄の扉の向こう側には大大阪の、おおきなおおきな青空が待っていてくれた。

あれから90数年もの月日が流れ、随分と周りが建ち込めて少々窮屈になった21世紀。 いつまでも変わらない、ちいさな階段室の、ちいさな扉の向こう側にはちょっとした仕掛けが施してあります。 それをここでお話しするよりも、実際に足を運んで体感してみるのがよろしいかと存じます。 建築とは、そういうものなのですから。