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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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08月25日(日)

明倫小学校

1990年代に一年余りをオーストラリア西海岸の、日本人どころかアジア人さえもいない街に暮らしていた頃のこと。 居候先の方から 「The Bridge of … っていう日本のドラマが放送されるから、みてみたら」 と。
当時は、人気のアニメーションですら日本の作品が流れること自体左程多くなかった時代でしたから、何か海外で高い評価でもあったのか。 とにかく、その番組はNHKで制作された単発ドラマらしく、京都の街を舞台に 一条戻り橋 の伝説になぞらえ、どこかおとぎ話めいた、日本的情緒にあふれた美しい物語で、とりわけ主役の男の子が通う小学校でのシ-ンは、今思えばせいぜい数分間くらいのものだったのでしょうが、なぜか強烈な印象として記憶の奥底に残っています。 ※ あらためて調べてみたところ、日本では1988年に放送された 「もどり橋」 というドラマでした。

それから数年後にたまたま訪れたのが、洛中のど真ん中にあり、祇園祭の鉾町が幾つも集積する、伝統と誇りにどっぷり浸かった京の町衆だからこそ具現化し得た としか表現しようのない、恐ろしく立派な小学校。 人口減少や少子化にともなう統合によって泣く泣く閉校を余儀なくされ、後に京都芸術センターとしてリノベーションされる運命にある元・明倫小学校でした。
かつての賑わいが噓のような、ひっそりとした通用門から一歩、また一歩と校内に踏み入り、歴史ある京都の学校建築でもたったの二例しか実現されず、唯一現存する校舎の1階から3階までをつなぐ、めくるめくスロープ(斜路)のある空間に身を置いた刹那、こころの奥深くにしっかと焼きついた あのドラマの撮影場所がここだった!と、気づかされたのです。

名刹と名高い寺社や庭園、あるいは伝統芸能や工芸だけが京都の文化ではない と、今ならいえそうな気がする。
都(みやこ)が東京へと移り、1100年近くもの長きにわたり日本の中枢を自負してきたプライドを踏みにじられた京の人々が 「このままでは終われない」 と、前代未聞の大工事によって琵琶湖より水を引き、アメリカに次いで二番目となる水力発電の技術を導入した上、その電力によって全国に先駆け電車を運行してみせた。 劇的な復興エピソードをご存知の方は数え切れぬくらいいらっしゃるでしょうが、そのような近代化を象徴する大事業だけがこの街の底力だと早合点してはいけません。
都市スケールの巨大なプロジェクトにとどまらない、ヒューマンスケールのコミュニティが育む 「地域発、地域の人々による、地域のための学び舎こそが、ベールに包まれた 素顔の京都 なのだ」 と、ようやく認識できたのは、明倫小学校という器(校舎)を通して肝心の料理(教育方針)にきちんと向き合った時でした。

室町時代の町組をルーツとし、およそ20ほどの町から構成される番組ごとに計64の小学校が京都に創設されたのが、明治維新直後の1869(明治2)年のこと。 他に類をみない実行力から察するに、町衆の小学校に対する想い入れようはただ事ではありません。 お役所に頼らず、教育の場は自分たちでつくってゆくのだという、至極真っ当な考え方で夢を実現しようと一致団結する、底知れぬ情熱と高い志にあふれていたのでしょう。
実際、下京三番組小学校として誕生した明倫小学校も、寄贈された校地はもとより、すべて地元の方々がお金を出し合って学校をつくったと聞いています。 何しろ、和装業の中心地で名だたる商家が建ち並ぶ好立地ですから、慎重に機会を見定め、段階を経ながら少しずつ敷地を買い足し、地道な増改築を重ねながら成長を遂げたらしく、当時の学校というのは子どもたちの学び舎であるのはむろん、今でいうところの治安維持のための交番や消防詰め所、役所の窓口や町組の事務所としての機能を複合した、すべての人々の拠り所だったのでしょうから、愛着を感じない者など一人として居ようはずもありません。

明治期の学校教育といえば、過去と決別し、盲目的なくらいに西欧の進んだ教育法を取り入れる傾向にあったなか、美術教育と称して鉛筆によるデッサンを実施する他校に対し、毛筆によって伝統の日本画を学ぶ 「画学の時間」 をはじめて試みる一方で、時には伝統にとらわれず、そもそも日本では みんなで歌を歌う という習慣のなかった時代に 「唱歌の時間」 を採用したのも、やはり明倫小学校が最初だったのだそうです。
やがて大正期に入ると、どこよりも早く自由教育の考え方を導入していて、1・2学年においては基礎的な学習を、2・3学年では考え方を深め、5・6学年からは児童が自由に課題を選び、自ら研究課題を構築する といった具合に、現代の上から目線の画一的な指導よりはよっぽど好ましいどころか、何とも羨ましい限りの、理想的な教育が実践されていた事実には驚きの気持ちを禁じ得ません。 いかに地域の文化レベルが高く、かつ教育者が熱心であったかを後世に物語っているかのようです。

たとえ政治の中心は東京に移ろうとも、文化の中心は京都なのだ という揺るぎのない信念からか、あるいは御所を擁する立地ゆえか。 昭和に入ってからは 御大典記念事業 として近代的な鉄筋コンクリート造校舎への建て替えが提案され、とりわけ元・明倫小学校の校舎は、西欧で流行していたアール・デコ様式と日本的な様式を両立させて周辺の街並みとの調和を図りつつ、地域の象徴的存在となる斬新なデザインを具現化した成功例といえるでしょう。

明倫小学校

どれ程の大金を寄贈しようとも、決して個人の名前は表に出さない。 「俺が、俺が」 と自己アピールに余念のない、つくづく浅ましい世のなかで、どこまでも一町衆として学校を支えるのが美徳とされる街だけあって、堅固な構造に繊細な装飾、教育に必要なありとあらゆる機能に満たされた 東洋一 の呼び声高い学び舎にも、創設時から脈々と受け継がれてきた関係にいささかの乱れが生じるなど、金輪際あろうはずもありません。
ほんにささやかででこぼこっとした校地は、不規則なカタチではありますが、そこは京町家で培ってきた伝統の処方箋を近代建築に対しても応用し、アール・デコ様式がまぶしい正門から、お馴染みの石畳による路地庭で児童たちを奥深く招き入れ、ぽっかりと開けた、都心部には貴重な土の運動場をはさんで対になるよう 北校舎 と 南校舎 を配置して、双方を渡り廊下で行き来できるようにします。 ここが普段、児童たちが過ごす学び舎となるわけです。

これらの校舎に加え、明倫小学校ではオモテの通りに面し、石畳の路地庭に沿うようにして 本館 と称されるひと際豪華な建物が付属しています。 このなかに職員室や校長室、会議室といった学校の管理諸室がおさまるだけでなく、地域の人々の利用に配慮された自治連室も用意されてあります。
ことにすごいのは、児童用とは独立したステンドグラス入りのちいさな専用玄関を入って2階に上がると、そこだけは木造・78畳敷きの集会室になっていて、おめでたい日には、正面の床の間に地元出身の画家より寄贈された秘蔵の掛け軸を飾り、能が上演される ハレの場 として、時には子どもたちと地域住民との交流の場としても活用され、隣接する1階には児童のための屋内体操場、上階には学校での式典や催し、地域のコミュニティにも利用可能な講堂が設けられ、更に照明装置を完備した屋上体操場まであるという念の入れようで、日中は子どもたちが、夜間は地域の皆さんが利用する といった、幅広い使われ方を想定し、実際そのように使われていたようです。

だからでしょうか。 やがて、京都芸術センターとして第二の人生を歩み始めてからは、かつての教室が若く有望なアーティストたちのアトリエとなり、また、ある教室はギャラリーに、あるいは近隣の喫茶店が入居して各地から訪れる人々にひろく門戸を開く。 書院造りの集会室では茶会や伝統芸能が催され、屋内体操場ではワークショップが、講堂では名器とされるグランドピアノが現役で活躍しています。
そんななか、会場でボランティアをされていたり、(アートセンターなのに)運動場でテニスを楽しんだり、懐かしそうな様子でふらり訪ねている方々に出会ったとしたら、きっと彼らは、この学校を巣立った卒業生に違いありません。 なぜならば、ここにはまだ現代の学び舎が失ってしまった夢があり、今でも地域の人々の心の拠り所であり続けているのですから。
 
07月25日(木)

20年後のハートカクテル

わたせせいぞう初期の代表作に 「ハートカクテル」 があります。 これは、1983~89年にかけて週刊漫画雑誌に連載されていた、4ページの短編漫画。 いえ、漫画よりも コミック と呼ぶほうが、響きとしては似つかわしい。
ご存じのように、漫画雑誌は、基本的にざらざらした紙にモノクロで印刷されています。 わたせの場合も、最初はこれに倣っていたわけですが、ある日、彼の才能を引き出すためにカラー化の企画が持ち上がります。 ホチキスで中綴じされた、雑誌のちょうど真ん中のページに1枚分のフルカラー印刷を加える というもの。
当然ながら、予算や印刷工程の都合がありますから、オモテウラ 4ページ という、媒体上の制約が生じてしまうのは致し方ないこと。 その限られた条件のなかで創造力を育み、創意工夫しながら腕を磨くことで輝きを増し、創作世界を表現する彼独自のスタイルが確立されたのでありましょう。

わたせせいぞうの描き出すコミックの世界は、ロマンティックで、いささか浮世離れした感があります。 それは、宮沢賢治のいうところのイーハトーブ。 すなわち、こころのなかの理想郷のようなものだと個人的に解釈しております。
とりわけ、ハートカクテルは読者にとって、そして、何よりも作者であるわたせせいぞう自身にとって、永遠の理想郷であるべきだった。 いえ、あらねばならなかった。
わずか4ページの心象風景には、名作を鑑賞し終わった際に自然とにじみ出る、余韻のようなものが確かに漂っているようでした。 ただ、今振り返れば作者の若さゆえか、あるいは1980年代という時代の浮ついた空気に感化されたか、少々キザでこそばゆい表現が邪魔をしていたように思えなくもありません。
いずれにしても、作品を熟成させるにはそれ相応の時間が必要。 そのように考えたのか否か、知る由もありませんが、ハートカクテルから約20年後の2006年に満を持して 「ハートカクテル・イレブン」 が出版されます。

HEART COCKTAIL eleven
「 HEART COCKTAIL eleven 」  わたせ せいぞう 作 (講談社) 


縦横18cmのちいさな本。 しかし、どこかしら品があり上質。 隅から隅まで、つくり手たちの心がこもっている。 しかも、雑誌連載の書籍化ではなく、完全な書下ろし。 その上、160ページにわたってほぼイラストのみ。 コミックでお馴染みのフキダシによるセリフはなく、要所に二行程度の文章が添えられているだけの、いわゆる 絵本形式 が採用されています。
もはや絶大な安定感を誇る、誰もが親しみやすく、商業的にも堅実なコミック形式を放棄し、相当なエネルギーを費やし、採算を度外視してまでも、一冊の本のために人生の全てを捧げるかのような、そのくらい、作者の強い想い入れをひしひしと感じる作品です。
優秀な企業人としても活躍し、世の中の道理をわきまえたわたせせいぞうが、ここまでなりふり構わず、一人の作家としての創作姿勢を示すのは、おそらく後にも先にもこの時だけ。 だからこそ、それを知る出版社もサポートを惜しまなかったのではないのでしょうか。

1980年代のハートカクテルは、ありていにいうとキラキラした印象があり、その眩しさが お洒落 として時代に受け入れられた。 別のいい方をすれば、時代によって消費されたため、時間の経過とともに色褪せる運命にあったようです。
それが、20年後のハートカクテル・イレブンでは、キラキラ感が抑えられて、しっとりと憂いを含んだ色調に変化し、時間という試練にも色褪せないどころか、ますます深みが増すばかり。
コミック形式では畢竟、限られたページ数のなかでのコマ割りに重きが置かれていましたが、ページ数にしがらみのない絵本形式への移行に伴い、見開きでまるまる1シーンのイラストに充てるパターンと、1ページにつき1シーンに充てるパターンの、二種を自在に組み合わせる手法が試みられています。
そうすると、全体の調子が単調になるのを防ぐことができますし、重要な場面を見開き1シーンにすればより強い印象を与えられ、演出効果が期待できる というメリットがあります。 ただし、これ自体、絵本の世界では珍しくも何ともありません。

ここでは、(赤い糸で結ばれた)カレとカノジョの行動を1ページ1シーンで並べ、対比して見せることで、双方の魅力を際立たせる内容になっていて、仮に日本語の文章が読めなかったとしても、むしろ素のままイラストに向き合うほうが、登場人物の服装の好みや、職場あるいは自宅でのインテリアやちょっとした暮らしの道具たちの違いに至るまで、それはもうわが子を慈しむかのように一筆一筆、真心こめて描き分け、キャラクターに対する想像力が広がる仕組みになっています。 あたかも、小津安二郎の映像作品を彷彿とさせるかのように。
見開き1シーンでは、横長の難しいレイアウトを逆手にとって、四季の変化、あるいは夜間の灯や自然光の違いによる時間の移ろい等、微妙な色彩の変化までもが過たず表現されているのです。 静止した印刷物であるにも関わらず、展開する様はまるで映画のように。

あくまでもストーリーは単純に、キャラクターづくりや画面構成は複雑かつ緻密に と、繰り返し、繰り返し、自らの手でページを開くたび、何かしら新たな発見があります。
作品に登場するカレは、誰がみても、明らかに作者であるわたせせいぞうの分身。 では、チャーミングなカノジョは? それよりも、たびたび登場するあの丸っこいオジサマにはモデルがいるのだろうか? と、汲めども汲めども興味という名の泉は尽きることがない。 ゆったりとした時間のなかで手に取ってほしい、両の掌に収まるサイズからは想像できない、大切なタカラモノです。
 
06月25日(火)

太田喜二郎邸

太田喜二郎邸ほど、物静かで気配を消した建物は、世の中にそうはたんとはありますまい。
といっても、人里離れた山の中にあるわけでも、路地奥の分かりにくい場所にあるわけでもありません。 京都でも名の知れた、大きな通りに ででん と面している。
ここにあるぞ と、余程意識していても知らず知らず、いつの間にやら通り過ぎてしまう。 藤井厚二の作品なのだ と、厳しく言い聞かせても、気づいたら通り過ぎていた。 そのくらい、つくづく目立たない存在なのです。

あらためて、建築家・藤井厚二の残した住宅のプランを振り返ってみると、どれも随分ぼこでこしていて、一つとして整形にまとまった試しがありません。
たぶんそれは、その土地の環境、あるいは地形であったり、陽の差し込み具合や風の流れ といった、固有の要素を注意深く読み取りながら、そこで立ち働く女中を含めた家族皆の幸せのために、外側(表層)からではなく内側(本質)から、あくまでも合理的に、偽りなく素直にカタチにしているからなのだと気づきます。
要領が悪い というよりも、生来、胡麻化すのが嫌いな性分なのでしょう。

材料は、基本的にその土地で当たり前に手に入るもの。 たとえば、屋根材であれば瓦や銅板、壁材であればしっくいや板材といった具合に。
実は、材料の選択は断熱性能の実験データに基づいていたり、目につかない部材同士の収まりに工夫が凝らされていたり、慎重には慎重を重ね、くれぐれも環境との調和を乱さぬよう、細心の注意を払ったうえで信頼に足る棟梁の手へと託され、入念に施工されている。 ぼこでこしていたって、ちっとも構わない。 公共建築と違い、個人の住まいである住宅が、殊更に人目を引く必要などないのですから。

洋画家である太田喜二郎が、自邸兼アトリエの設計を藤井厚二に依頼した理由。 それは、双方が同じ職場で働いていたから。
京都帝国大学に建築学科が新設されたのが1920(大正9)年。 建築の専門家である藤井が建築学科の講師へと着任し、後進の育成に携わっていた同じ学び舎で、太田もまた絵画教育に携わっていた。 しかも、同じ建築学科の学生に対してです。
定規や製図台を使った工学系の実習と並行して、芸術的な素養を身に着ける目的からフリーハンドによるデッサンや油彩画の実習が行われていた都合上、お互い顔見知りとなったのがきっかけとなり、その後、職場を離れても家族ぐるみで付き合うほど仲の良い間柄に発展したとのこと。

おそらく、設計を依頼した当初は、職場の同僚だし年齢も近いから… といった、ごくごくありふれた理由だったものと思われます。そこはお互い、分野は違えど創作の世界を生業とする身ですから、建築のことは万事、藤井に任せる方針でプロジェクトが始まったのでしょう。
第一期工事では、将来の増築も視野に入れながら(肝心の)住居空間に加え、仕事場となる必要最小限の画室、そして双方をつなぐように接客スペースを組み込んだ、慎ましいながらも椅子座と床座が仲睦まじく融合する、西欧の模倣ではない、日本人のためのモダンで快適な建物が姿を現します。 ちなみに、画家のアトリエを手掛けたのは、藤井のキャリアの中でも太田喜二郎邸が最初で最後の機会だったそうです。

藤井が最初に設計した画室は、三方向に窓が設けられた、自然採光や通風に優れる、すこぶる居心地よい空間で、庭への眺望から視覚的な広がりを、隣接する応接間との間の建具を開放すれば空間的な広がりをも得られる。 それはそれは非の打ち所のない、秀逸な出来栄えだったものと推察されます。
これも単なる推測にすぎませんが、実際出来上がった建物に暮らし始めて以降、施主と建築家という立場を超え、創作者同士が腹を割った、今でいうところのコラボレーションが繰り広げられる、本当の意味での創造的な出発点に立ったのではなかろうか と。

あたたかな障子窓から漏れ入る、やわらかな光に満たされた画室空間を見事に実現してみせた、光線こそが精神的な安らぎの源と主張する藤井に対し、光そのものに意味を見出し、色彩に置き換えようと試みる太田との二人三脚による、新画室棟のための第二期増築計画が始まるべくして始まり、その道を究めようとするプロ同士、お互いを尊重しながらも更なる高みに到達しようとしのぎを削る… 。 苦しいながらも、さぞや充実した、夢のようなひと時であったに違いありません。

太田喜二郎邸

太田が望んだのは、天井高さが4mを超える空間にたった一か所、北向きの腰高なガラス窓から音もなく光が降り注ぐ、どこまでも静謐に、ピンと張りつめた空気を孕んだアトリエ。
そのアイデアを、藤井が最大級の敬意をもって嘘偽りなく具現化し、その背後に、あたかも二人の友情を記念するかのように、庭に面しておおらかに開かれた、しごく暢気で肩ひじ張らぬ茶室を併設することで、ささやかなプロジェクトに自ら終止符を打ったのではないでしょうか。

吹き抜けというほど仰々しくはない。 切妻屋根によって切り取られた天井の高い新画室棟は、平屋建てよりは幾分上背はあるけれど、二階建てには及ばない。 図らずも、伝統的な京町家でいうところの厨子(つし)二階の背丈。
ちょうど、日本人が最も心安らぐ絶妙なスケール感を授かり、大半がしっくい壁と板壁とに覆われた無愛想さ加減が功を奏して、しみじみと心地よいくらいに目立たない。 いえ、きっとこんなのを 端正 とでもいうのでしょう。
だから、太田喜二郎邸ほど、物静かで気配を消した建物は、この世の中にそうはたんとはありますまい。