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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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12月25日(火)

旧奈良監獄

監獄施設 と聞くと、とかく負の印象がつきまとう。 それはそうに違いありません。 古い建物 と聞くと、尚更、耐震不足を口実にたちまち解体されてしまう。 そんな例も少なくありません。
けれども、100年以上の長きにわたって機能し続け、地域の方々に惜しまれながら近年役割を終え、今なお竣工時の姿を色濃く留める旧奈良監獄は違っていました。 「老朽化したから」 の一言では片づけられない、何か特別な魅力があるようです。

公共建築物の近代化が求められた、19世紀末から20世紀初頭にかけての日本では、西欧ゆずりのレンガ造が積極的に採用されていました。 とりわけ、受刑者による放火のリスクにさらされる監獄施設においては、伝統の木構造では限界があり、頑丈で耐火性能に優れるレンガ造は、理想的な工法であったものと推察されます。
旧奈良監獄の建設には、実に7年もの歳月を要しています。 定員数650人、敷地面積約10万㎡という途方もない規模もあるのでしょうが、そもそもレンガ造というのは、レンガという規格化されたピースによって構成されているわけです。 当時の輸送環境からして、木材よりも遥かに重量のかさむレンガの製造を現地でおこなう という行為は、ごくごく自然な成り行きだったのかもしれません。 しかも、それらが当の受刑者たちによって製造されたというのですから、感銘を受けずにはいられません。

好むと好まざるにかかわらず、たとえ、単純でちっぽけなレンガであったとしても、何かをこの手で生み出す経験は、他の何物にも代え難く、加えて、自身でひとつひとつのレンガを積み上げ、構築する機会にも恵まれたのだとすれば、たとえそれが、不本意ながら監獄という かりそめの居場所 であったとしても、優れた建造物を創造する喜びを共有できたのだとすれば、何とも誇らしい、充実したひと時であったのではないでしょうか。 当然ながら、目に見えないところまで決して手を抜かないし、本質的に前向き思考でつくられているはずです。
それが、設計者である山下啓次郎によるアイデアと知るに到り、彼と数え切れないくらい多くの受刑者たちが、7年かけて築き上げた奈良監獄がどのような空間なのか、興味は尽きません。

旧奈良監獄 全体構成

監獄という施設の特性から、建物の大半は受刑者たちの居室によって構成されることになります。
一見すると複雑きわまりない奈良監獄も、基本は 独居舎 と呼ばれる独立した住まいがあって、その集合体が 収容棟 というひとまとまりの寮となり、第一寮から第五寮まで、全部で五棟の収容棟が管理棟を起点に放射状に配されている。
どれ程規模が大きかろうが、あくまでも基本単位はヒューマンスケールな独居舎であり、片手で持てるちいさなレンガを約束事に従って、こつこつと積み上げることで、確実に、現実の姿となって空間は建ち上がる。 愚直で地道な労働の積み重ねだけは、決して彼らを裏切らないのですから。

国家が近代化を目指し、純粋に、そして真っ当な道を歩む際の試金石でもあった明治五大監獄は、いずれも建物の顔となる表門に、その土地土地にあわせて、そこはかとない個性が与えられており、奈良監獄の場合、どこやらおっとりした、監獄施設らしからぬロマンティックな表情をしています。
しかし、唯一外部に開かれた表門ですら、建物を構成するポイントとなるパーツに自然石を用い、視覚的なアクセントにしているにすぎず、無意味な装飾などどこにもありません。
塀の内側であれば尚更、管理棟には威厳さを、医務所には清浄さを… といった具合に、巨大な施設ゆえくれぐれも単調にならないよう、全体の調和を損なわない範疇で細やかな性格づけはなされているものの、当時の西欧建築の潮流からすれば簡素そのもの、必要な機能を巧みに意匠化している様子がそこここに見受けられます。

旧奈良監獄 独居舎

幾ら理想論を語ったところで、予算にもスペースにも限りがあるのが現実ですから、650人分もの居室を確保し、滞りなく刑期を全うしてもらうためには、まずは基本単位となる独居舎が、無駄なく、合理的でなければいけません。
では、最低限居住できる室面積さえ確保できれば、それでよいのでしょうか。 もちろん、答えは 「No」 です。 監獄が監獄として機能するためには、脱走できないよう、開口部は最小限に抑える必要があり、おのずと壁に囲まれた閉鎖的な環境にならざるを得ない。 構造上も耐火上も理にかなっており、そこは譲れないところです。
そこで、十分な天井高さを確保した上、ゆるやかな曲面を描くヴォールト天井とすることで、窮屈さを和らげるよう工夫されています。 天井のカーヴは、レンガをアーチ状に並べて荷重を分散させる意味があり、ひとつの室として、防火上も構造上も安全性が保障されるだけでなく、ひとつひとつの室が互いに隣り合い、重なり合うことで、更に堅固な構造体となるのです。

時として、制約があればあるほど、設計者が苦しめば苦しむほど、空間は美しくなる。

唯一のアクセントとなる、窓一つ挙げても油断は禁物、決して疎かにはできません。 手掛かりや足掛かりとなる凹凸は厳に慎み、面という面は斜めに振られてあるのはこのためです。
しかし、建築というのはそんなに単純ではなく、ちっぽけな窓ひとつであっても、自然採光を最大限取り込める角度や高さが吟味されなければなりません。 狭くて何もない、ストイックな空間だからこそ、遥か高みから時刻や季節の移ろいを嘘偽りなく届けてくれる、ちいさな窓が、これから歩むべき未来を暗示している といっても、あながち誇張ではありますまい。

ずらずらと二層にわたって独居舎が並び、しかも対になってひとつの住居単位が形づくられる、合理的な収容棟のレイアウトにも弱点はあります。 少なくともふたつ。
ひとつは、独居舎と独居舎によって挟まれた共用空間が、いわゆる 中廊下 の状態になってしまい、ただですら閉鎖的な空間が、ますます閉鎖的になってしまうのです。 しかも、一日中薄暗い。 これでは、受刑者も監守もやりきれません。
この問題を解決するため、中廊下の幅を十分に確保しておいて、2階の中央部をまるまる 吹き抜け状 にしてしまい、更に屋根頂部を部分的に天窓化して、上方から自然採光が降り注ぐよう工夫されています。

旧奈良監獄 収容棟 空間構成

天窓や吹き抜けを設けると、開放感を得られるかわり、今度は、収容棟全体としての強度が不足してしまいます。 それがふたつめの弱点です。
主要構造はご周知の通りレンガ造ですが、屋根の架構は一般的に木造のトラス構造が併用されます。 むろん、奈良監獄の施設全体にも木造トラスが採用されているものと想像されます。 しかし、設計者の山下啓次郎は、余程収容棟の共用空間が重要と考えたのでしょう。 木造トラスによる小屋組みは、天井裏に隠れる範囲に留めておいて、鉄筋材で補強する方法が採用されています。
この設計、明らかに、使う側の気持ちを最優先して判断されたとしか思えません。 他の公共施設と違い、閉じられた塀の中での世界で、見映えや恰好の良さなんて、ちっとも意味を為さないのですから。

最後にもうひとつ。 奈良監獄が奈良刑務所へ、そして戦後、奈良少年刑務所に改称されて後、管理棟の一角に クラブ活動室 なるスペースが設けられたのだそうです。
建築的には特筆すべき点など無いに等しい、もともとは会議室か何かに充てられていたと思しき一室。 それでも広さはむろん、独居舎の比ではありませんし、天井はさらに高く、おまけに窓が何倍も大きい普通の部屋。 そこで、ブラスバンドの練習が許されていた。 これも、学校のクラブ活動の感覚からすれば、ごくごく当たり前のお話です。
それでも、あのストイックな独居舎から自然採光が降り注ぐ光のコリドーを通って、ささやかなクラブ活動室へと至る、ほんの数十メートルの道のりが、素晴らしく満ち足りた瞬間のように思えてなりません。 決してまぶしくはないけれど、そこはかとなく明るい、未来へと続く道のように。
 
11月23日(金)

風の教会

その教会への道のりは遠い。 まるで自身のこれまで歩んできた、これから歩まねばならない道のりに重ねるにふさわしい、孤独で、静寂に満ちた、稀有な機会にたとえてみてもよいかもしれません。

神戸市街はもとより瀬戸内海を一望できる六甲山の頂き近く、不規則に隆起する立地に建物を計画しなければならないとしたら、これまでの定石に従って、人為的に平坦な条件に整えてしまえば至極都合がよいわけです。 しかし、それではその場所だけが持つ個性は踏みにじられ、何もかもが帳消しにされてしまいます。
はた目には単純で、そっけないくらいに明快な人工物に対し、そこにあって然るべき意味を見出すのは想像以上に面倒で困難な作事に違いないはずなのに、出来上がった建物からはちっともそのような苦労は感じられないし、断じて悟られてはなりません。
周知のように造成された敷地ではないゆえ、一体どこまでが隣地なのかすら判然としない。 視覚的には途切れることのない広大な自然環境のスケールからすれば、あたかも両の掌にすっぽりと収まるかのような 「風の教会」 と名付けられた、詩的で、それはそれはちいさな建造物は、性質の異なる三つの空間によって構成されております。

人里離れた森のなか という特殊な立地からして、既に俗世間から隔絶されてはいるものの、そもそもがリゾートホテルに付属する ウェディングチャペル として誕生した生い立ちが物語るように、あくまでも常識に支配された、便利で快適なホテル本館からごてごてとまとわりついた一切合切を、きれいさっぱり拭い去るための装置として、教会へと至るためにはまず、長さにして40mあまり続くガラスのトンネル(コロネード)を通過する慣わしになっています。 さしずめ、茶室における露地庭のような存在 とでもお考えいただければよろしいでしょうか。
コロネードの壁面と屋根はすべてすりガラスで覆われているため、外光は適度にろ過され、視界はぼかされて均質な光に包まれながら、非日常の空間へと誘われる という趣向です。

すりガラスによって切り取られた歩む先にちらちら垣間見える、明るい現実世界へとつながる道はやがて潰え、右手に閉ざされたずしりと重い鉄の扉が本来のエントランスになっていて、扉の向こうは一転、コンクリートの壁と屋根によって護られた、ほの暗い極小空間(前室)になっています。
ただ、ここが閉塞的か というと、ちっともそんなことはなくて、意外にヒューマンスケールで、むしろ頼もしくさえ感じられる分厚いコンクリート壁の懐は不思議と心地よく、 くるりん と小気味よい弧を描きながら、眼前には礼拝堂へと続く目には見えない第二の扉 を介して、さながら額縁のなかに収まる一枚の絵画のように美しい空間が、どこまでも静かにたたずんでいらっしゃる。

風の教会

幾人もの確かなつくり手達によって過たず生命が吹き込まれ、コンクリートと、鉄と、ガラスと、石の、どれもこれも冷たく無機的な素材で出来上がった正真正銘20世紀の礼拝空間は、あちらこちらにうがたれたスリット状の開口部から届けられ、時々刻々と表情を変え続ける自然光の表情があまりに雄弁で、かつ皆目予測がつかないため、永遠に潰えることがないのではないか と錯覚してしまう有り様です。
ことに、正面向かって左手にたった一つ開かれた大きな開口部の向こう側で、さものびのびと気持ちよさそに枝葉をひろげる、もはや人の手の行き届かない、お世辞にも整った姿とはいい難い天然自然の樹木の落とす虚構のような影絵が、建築家によって描かれた一本一本の線がブレることなく具現化された空間を背景に、冷酷であればあるほど、厳格であればあるほど、生き生きと輝いて映る夢まぼろしのようなひと時を、一体どれだけの方が想像できたでしょうか。

やがて、現実世界へと戻る時がきて、帰り際、ふと目をやったスリット状の窓外の、幅にして1mにも満たない礼拝堂とコロネードによって切り取られたほんの隙間のような地面が、平坦ではなく、周囲の地形から連続するよう、さり気なく、実に入念に復元されてあることに気づきました。 それは、大地を傷つけコンクリートを打ち込む責任を背負わねばならぬ者達の、この土地に対する無言の礼節であると悟り、人里離れた六甲のちいさな教会が、いつまでも変わらずあり続けてほしいと願わずにはいられませんでした。
 
10月27日(土)

野口家住宅

都市のただ中に人知れず穿たれた、ちいさな庭を前にしばしの間たたずめば、頬に触れる風すら思いのほかやわらかい。

京の都を代表する町家として幾つか挙げるとすれば、その名を耳にする機会に事欠かない野口家は代々呉服商を生業とする家系で、住まいと商いがひとつ屋根の下、庭によって程よく分節され、親から子、そして孫へ… といった具合に、じっくりと、洗練に洗練を重ねた末、完成の域に到達した美の殿堂であるにもかかわらず、ビジネスなる横文字の台頭により、伝統や格式といった縦文字が古臭い過去の恥ずかしい遺物であるかのような風潮が確かにありました。
巷では、次々と四角いビルディングに建替える同業者も随分と多かったでしょうに、ご先祖様より受け継いだ、ややもすると時代遅れで古ぼけたようにも見受けられた住まいや慣習が、実はこの先ますます光り輝くタカラモノだったのだと確信したであろう当主の英断で、斜めお向かいに商いのための会社が移され、伝統を継承しつつ、奥の空間を住まいとして家族が関わり続けるというライフスタイルが実践されています。
それは、今どきの暮らしに比べると不便で面倒だったりするかもしれないけれど、博物館のなか、仮死状態で保存された つめたい文化 とは明らかに違う。 これこそが本当の意味での、ぬくもりのある 生きている文化 なのかもしれません。

実際、いにしえの匠たちの手で丹精こめてつくられた建物も、庭も、人間と同様に生きて呼吸しているため、住まい手がきちんと手をかけ育ててあげなければなりません。
もし、日々のこまやかな手入れを怠り、つい 「手間いらず」 や 「楽々」 といったお決まりの営業トークに踊らされ、ずぼらを決め込んでしまうと、次第に建物はかさかさし、庭の植物たちはおのが勝手に成長して、たちまち人間や街との均衡が崩れてしまうことでしょう。 あの、しっとりと繊細な京町家のしつらいは天然自然なものではなく、人の手を介した、人工とも自然ともつかない、独自の進化を遂げた庶民による庶民のための 理想的な住まい そのものであり、その代表例が野口家住宅なのですから。

野口家住宅

そもそも 住まい というものは、その規模に関わらず建物と庭が一体であるべきだと思うのです。 少なくとも数十年前までは日本でも、誰もがそのような知識を当たり前のように持ち合わせていたはずなのに、部品化された建物がどこかで知らないうちに製造され、地域性も風土もお構い無し、ただマニュアル通りに運ばれて組み立てられる時代になると、真っ当な知識の必要さすら薄れてしまい、あたかもクルマと同じような、クレームのない無難な売れ筋を意識した商品のような存在になってしまいました。

当然ながら、そこにはオプションというか、アクセサリーのような軽い感覚で植物が添えられることはあっても、建物とひとつになって呼吸している本来の庭と呼べるようなものではなく、第一、住まいの集合体である街そのものからして、かさかさとぬくもりの感じられないあり様なのが悲しいけれど現実です。 そこそこ無難でお手入れ不要、さしてクレームにもならいけれど何だかどこかで息苦しい気がしたら、きっとそれは、街も建物も呼吸していないからに違いありません。
対して、伝統の町家には大小や貧富に関わらず、必ず庭が組み込まれ一体になっているのをご存知でしょうか。 基本的に庭は座敷の奥に一箇所つくられますが、規模によっては二箇所、野口家のような大店になると全部で三箇所も庭があります。

一見したところ町家は、どれも同じような建物と庭で出来上がっているように思われがちですが、よくみるとひとつとて同じではありません。 全体として調和するように、周囲に気を配り、継承された知識や技術を活かしつつ、つくり手がおのおの創意工夫しているのがその理由で、どうやらそこに人々を惹きつけてやまない 魅力のひみつ が隠されているようです。
結局、ビジネス目的で合理的に建物を商品化したとしても、人々のこころは決して豊かにはならないように思えてしまいます。

随分と数が減ったとはいえ、京の中心部に軒を連ねる伝統の町家のなかには、創業300年、あるいは400年といった老舗も少なくありません。 ところが、いずれの建物も土蔵を残して幕末の大火で消失してしまい、実のところ明治のはじめ頃に再建されたもので、昔ながらの店構えを今に伝える野口家住宅についても同様、四代目当主によって明治四年頃に再建されたと伝えられております。
呉服商の四代目は、仕事柄美術や工芸に造詣が深いことはむろん、茶人としても知られる人物であったようで、後年の調査によって奥座敷の書院と店の間の一角にある茶室が、伏見奉行を務め茶匠としても名高い小堀遠州が晩年に暮らしたとされ、とある人物によって保管されていた住まいの一部を購入・移築した経緯が明らかになったことからも、商いだけにとどまらない非凡な才能の持ち主であったと推察されます。

待庵、如庵と並び、たったの三例しかない国宝に指定された茶室のひとつ蜜庵(みったん)を手がけ、千利休や古田織部に続く茶人としても知られる遠州ゆかりの書院や茶室を、再建とはいえ新築の町家に組み込むなんて、そうそう簡単な話ではないはずですが、革新的ともいえる優れた茶室が、茶人と棟梁との二人三脚で生まれるのと同じように、確かな審美眼を持つ当主と、現在とは比較にならないくらいの高度な技量を有する職人の腕前を持ってすれば、はた目には難解そうでも、さぞや打ち込み甲斐のある仕事(普請)だったことでしょう。

主の居室であり、最上のもてなしの場に相当する奥座敷にこそ相応しい、十畳敷きの書院は、ここが市街地であることがにわかには信じがたいくらいに、町家としては法外な奥深さを醸し出す奥庭へと開かれ、商いの場である店の間とを程よく分かつ書院の手前側には、坪庭と呼ぶのがこれまたいかにも相応しい、ひょひょろーっとした一群のシュロチクの葉がかろうじて届く外光を反射してきらきらと輝く簡素さに、否応にもここが人里離れた山中ではなかったのだと自覚せざるを得ない、緩急織り交ぜたよどみのない空間構成に加え、さらにもうひとつ。 「こんなところに?」 と意表をつくように、うっかりすると見落としてしまいそうなくらい、通りに面して控えめに配された、それはちいさな 三番目の庭 があるのでした。

野口家住宅 表庭

緑深い奥庭を 第一の庭 、シュロチクの植えられた中庭を 第二の庭 とするなら、そのいずれもが茶の湯の露地を髣髴とさせる苔むす 土の庭 であるのに対し、通りに土塀ひとつ隔てた表庭(第三の庭)は緑を抑えた白い砂敷きで、まるで禅寺にある 枯山水の庭 といった趣です。

表庭には店の間から正面にあたる位置に手水鉢が据えられ、白砂のなか点々と飛び石が打たれて、目立たないよう、さながら ひみつ基地 のように周到に配された 三畳の茶室 へといざなう露地の役目を担っているようなのです (※ この三畳の茶室が、小堀遠州の屋敷から移築されたものと思われます)
一方で、茶室のちょうど反対側にあたる通りに面した塀には黒塗りの頑丈そうな引き戸が設けられ、店の間を通らず直接庭に出入りできる仕組みになっていて、これは商売の邪魔にならないよう、出入りの庭師が手入れの際に利用するのだろうかと想像してみましたが、簡素を旨とする老舗の勝手口にしては少々立派すぎるような気がします。

そこで、野口家住宅について今一度調べてみることにしました.。 野口家同様、杉本家や吉田家、秦家といった近隣の四条界隈に位置する名家に比べると、思いのほか資料が少ないようでしたが、限られた情報のなかでもとりわけ詳しく書かれている書籍が、吉岡幸雄による 「京都町家 色と光と風のデザイン(講談社)」 でした。
著者に直接面識があるわけではありませんが、代々染色を営む五代目にあたる方で、今でも良質の水に恵まれる伏見に工房を、天然の染料で染められた美しい製品を扱うショップを古美術店が建ち並ぶ新門前に構え、個人的にはショップにお邪魔し、一時期染料を分けていただいていたことがありました。 呉服商を営む野口家とは、染色を通して先代の頃よりお付き合いのある間柄ゆえ、町家を含めた京の伝統文化全般に対しても造詣が深いようです。

書籍には、ざっとこんな内容が記されてありました。 野口家は御所に出入りを許されていた家柄で、普段の生活あるいは商用で利用する玄関(※ 正確には内部で家人用と来客用で分かれていたりします)とは別に、宮中に赴く際に利用する玄関が設けられており、その玄関が実は白砂敷きの表庭につながるあの 黒塗りの出入り口 なのだそうです。 当主は清浄な空間に身を置き、そこにひざまずいて火打ちみそぎをし、宮中に出向いたのだと… 。
遠州ゆかりの茶室に通じる、厳かで清浄な空間はしかし、京の町家らしくこじんまりとしとやかに、頬なでる風すら不思議とやわらかい。