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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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03月25日(月)

魔法の輪

若くしてル・コルビュジエ(Le Corbusier)に才能を認められ、暮らしに身近な家具から設備、建築、環境に至るまで、曇りのない視点からあらゆるデザインを手がけたシャルロット・ペリアン(Charlotte Perriand)は、金属のように硬質な工業素材であれ、木や竹のように柔軟な天然素材であれ、それぞれの長所を自在に組み合わせ、モダンで普遍性の高い、独自の 軽み を体現することができた稀有なデザイナーといえるでしょう。
そんな、70年あまりにも及ぶ長く輝かしいキャリアのなかでも晩年期に、あたかも有終の美を飾るかのように、生まれ育ったパリの地に幻のように出現した作品が 茶室 であったことは、日本のデザイン界に多大な影響を与え、また、自身に対してもはかり知れない影響を受けたであろう日本という国が所有する文化の本質を、時に日本人以上に理解し、敬愛していた彼女にとって、ある意味とても自然で必然的な出来事だったのかもしれません。

20世紀末の日本は、豊かな経済力によって、もっぱら金銭的な面からの社会貢献においては国際社会から一定の評価を得ていたものの、こと文化的側面からの貢献度については必ずしも十分とはいえず、各国から批判の声が絶えませんでした。
そのような時代背景があったからでしょうか。 折りしも、日本の伝統文化を象徴する 茶 を通して、世界の人々との理解や絆を深め、新たな文化を創成することを趣旨としたイベントが企画され、草月流・勅使河原宏の総合演出により1993年5月3日から15日にかけて、ユネスコ本部のピアッザ広場内に(ペリアンを含めた)世界で活躍する4人の建築家がそれぞれ茶室を制作し、いわゆる 「パリ大茶会」 なる催しが実現されるはこびとなったのだそうです。

勅使河原の依頼により、立案時からプロジェクトに参加していたペリアンは、1930年代、20代後半の頃にコルビュジエのアトリエ時代の同僚であった坂倉準三から贈られた岡倉覚三(天心)著「茶の本」を通して、まだ見ぬ日本の伝統文化に触れ、その後、1940年から41年にかけて商工省からの招聘により輸出工芸アドバイザーとして来日したという経緯があります。
その際、全国の産地を訪ね歩いて交流、見識を深めましたし、大戦をはさんだ1953年から55年にかけては、夫の東京転勤にあわせて幼い娘と共に再来日を果たし、伝統的な日本家屋に暮らしながら、床に座る前提でつくられた重心の低い空間にも調和した様々なモダン家具を考案・制作。 失われつつあった日本の洗練された文化や生活習慣をひろく発信する、今でいうところの日本とヨーロッパとをつなぐ 親善大使 的な役割を担う存在だったのでしょうから、文化交流の橋渡しのための茶室制作は、たとえ、イベントを前提とした仮設の建物であっても、彼女にとって、想い入れの強い仕事であったに違いありません。

思うに、参加した建築家のうち唯ひとり、シャルロット・ペリアンのみが 「茶室という極小空間のなかに宇宙大の真理がある」 という、茶の精神、つまりは 禅の思想 に身をゆだねながら、師であるコルビュジエが理想とし追及し続けたモダニズムを、師とは異なる観点から彼女なりに表現しようと試みていたのではないでしょうか。

ユネスコ パリ日本文化祭の茶室

構想時のスケッチから拝察するに、「茶の本」の著者である天心いわく 「正統の茶室の広さは四畳半で、維摩(ゆいま)の経文の一節によって定められている… 」 に従って、まず茶室を四畳半と定め、そこから雁行するように縁側や水屋等を合理的に配しつつシンメトリーを崩す伝統の平面構成にはじまり、茶室に通じる露地庭との関係を模索するなか、亭主の席となる点前座を中心とした 円 を茶室と露地庭の周囲に描いて、外界とを別つ 結界 を張るアイデアを構想した段階で、おのずとその円(※ ペリアン自身は 「魔法の輪」 と表現しています)が建ち上がってドーム状の構造体を形成し、ドームによって切り取られた聖域のなかに茶室と露地庭とが一体となった、ペリアン流 茶の湯のスタイル を確立してしまったのだろうと、個人的に解釈しています。

騒々しい都会のただ中にありながら、森のただ中であるかのような静寂を得るために考案された ドーム状の結界 は、直径約7.5mの円形に並べられた計18本の竹竿のテンション構造によってもたらされる仕組みになっていて、根元近くに所々枝葉を残した竹竿の周囲をぐるりと鉢植えの竹が取り囲むことで、聖域である露地庭に足を踏み入れたとたん、カチッとスイッチが切り替わるように、それまで意識していた竹竿の構造体は頭のなかから消滅して、竹林の奥深く、人知れず結ばれた草庵にでも身を置いているかのような、静寂に包まれた環境がつくり出されたはず。
玉石が敷き詰められた露地庭には、壁も、柱も、それから建具すらも省略された、限りなくフラットな畳の間と縁側とが心持ち地面から浮き上がり、簡素な板張りのキューブとそこから片持ち構造でせり出した上下二本の貫と貫との間に和紙を張り渡しただけの浮遊する壁が、音もなくすっくと建ち上がって水屋と床の間の役割を担い、その上空に傘状の薄い天幕が 天女の羽衣 さながらにふわりと架かる。

連綿と受け継がれてきた伝統の木構造を巧みに応用しながら、本来なら建物に必要不可欠なはずの軒の深い勾配屋根を、(マリンスポーツ用に開発された新素材である)ポリエステル製の一枚布に置き換えることで、従来の些細な形式や約束事にとらわれず、ただし、くれぐれも数寄の本質だけは踏み外さないよう、最小限の材料で、茶の湯としての機能のみならず 茶の湯の精神 をも満たした上で、16世紀に極東の島国で発明された極小建築にすぎない茶室が、実はモダンで洗練された20世紀最良の近代建築にも匹敵する質と美しさを宿しているのですよ。 と、国際社会のハレの舞台で、ペリアンは見事に証明してみせたのです。

壁らしい壁も、屋根らしい屋根もない。 短期間のイベントに特化した仮設の空間だからこそ表現し得た、天空から淡い緑色に透かされ拡散した光の粒子が静かに降りそそぎ、五月の風がそよそよと頬なでながら通り過ぎてゆく、どこか懐かしく、すがすがしい感覚。 もはや、それは 茶室 というよりも、深い深い竹林のなか、ぽっかりと開けた陽だまりに、ほんの束の間催された 野点(のだて) のような儚い出来事だったのかもかもしれません。
だから、さらさらと小気味よく耳くすぐる笹の葉の擦れ合う音に、茶室がこの世に誕生するよりも遥か遠い昔、日本でも最古の物語と伝えられる 「竹取物語」 に登場する、竹取の翁や、かぐや姫の麗しい姿をふいに連想して物思いにふけるのは、おそらく、僕ひとりだけではありますまい。
 
02月25日(月)

ローズガーデン

神戸の魅力は、港にほど近い平坦な旧居留地からしばらく北上すると、ゆるやかに始まる、おだやかな瀬戸内海を望む南向きの坂道の絶妙な傾き加減にあるようです。 あの ゆるさ加減 がすこぶる住みやすく、日常的に歩いても左程苦にならない。 洋装や、袴+ブーツ姿で颯爽と行き来できる街のスケール感や地理条件からして、そもそも洗練されている。 明治の開港以来、異人館の建ち並ぶハイカラな土地柄も 「さもありなん」 と、納得するほかありません。

坂道の街・神戸を象徴する北野エリアは、そのハイカラさゆえに少々背伸びした大人(理想)のあなた自身に出会える、どこか特別な場所としての魅力も秘めている。 そんな、有数の観光地としての顔はむろん、長らく高級住宅地として愛されてきたこの街に、すっかり溶け込んでしまっている商業施設があります。 安藤忠雄の設計により、1977年に誕生したローズガーデンです。

安藤忠雄ほど純粋に、その場所と建物との関係を大切にする建築家は、他にはいないのではないでしょうか。
創作の出発点はここにある と、確信せざるを得ない。 初期の代表作に数えられるローズガーデンは、神戸という特別な街に対する憧れや愛情を、 街づくり というひろい視点から、じっくりと時間をかけて向き合い、時に悩み、苦しみながら創造されたちいさな宝物。
巷にあふれる建物は、そのほとんどが敷地という境界線のなかだけで完結してしまっているのに対し、ことローズガーデンに関しては、ちまちまとした境界線などきれいさっぱり消滅し、あたかも ひとつの街 として成立したかのような印象を受けてしまいます。

普通、商業施設というのは、人通りが多く、視認性の高い主要な道路に面して入口を設けるのが鉄則といえるでしょう。
ところがローズガーデンの場合、驚くことに、メインの山本通から出入りできる店舗は通りに面した一部だけに限られていて、大半の店舗にアプローチするためには、わざわざ建物の側面に回り込むようにして坂道を下り、あたかも茶室における にじり口 のような、ちいさく目立たない入口を潜り抜け、建物中央にある広場を経由しなければならない仕組みになっているのでした。

ローズガーデン

この 「坂道を使う」 という、神戸の街の北野界隈でなければ到底成立し得ない、至極真っ当な発想が、決して広くはない限られた敷地のなか、上下方向へと空間が展開・拡張してゆく一種の 道しるべ として、1970年代当時の若き建築家を、豊かで奥深い創作世界へと誘うきっかけになったものと推察されます。

さすがに、ここまでは観光地化されてはいまい。 素顔の神戸 といっても差支えのない、勝手知ったる坂道をとことこ下って、商業施設というよりは、むしろ知人の住宅にでも訪問するくらいのさり気なさでもって、商業施設にしては存外知的な面持ちの建物ににじり入れば、ヒューマンスケールな屋外広場を取り囲むようにして、南北に半階ずつレベルを変えながら展開する屋外デッキと、双方をつなぐ二つの階段によってぐるぐる回遊しながら、上へ、上へ、不思議と足取りも軽やかに、するすると苦も無く行き来できてしまうスキップフロアの妙。

写真だけでは分からない。 頼もしい構造体でもある、レンガ仕上げのコンクリート壁がちょっと斜めに振れていたり、あるいは一旦視界が遮られることで、単調なはずの上下移動にめくるめくような体験が伴うだけでなく、壁と壁との間に切り取られた向こう側には、思いがけず 「神戸ならでは」 の風景が垣間見える という、気の利いた演出が用意されていたりします。
ことに、最上階の3階店舗へと至る道のりは、レンガ仕上げの壁と壁との狭間から見上げる視線の先、遮る何物もない、おだやかに晴れ渡った空の下、その先に続く路地状の通路を経てようようたどり着く、とっておきのペントハウス(離れ)になっていたり… という具合に、1階には1階の、2階には2階、地下には地下、最上階には最上階、それぞれの魅力を持ち合わせた、均一ではない、本来あるべき街の姿をひとつの建物として表現し得た、稀有な試みといえるでしょう。

たとえ商業施設といえども、時代のムードに安易に流されることなく、この街のために、相当に時間をかけて、工夫に工夫を重ね、隅々にまで細心の注意を払って設計・施工されたローズガーデンを訪ねた折、一か所だけ、どうにも腑に落ちない箇所がありました。
建物の肝ともいえる広場に面した、屋外階段の下の三角形した隙間に、あるじを失って久しいと思しき、広さにして一畳あまりにすぎない極小の店舗(らしき)空間が、ぽつりとしつらえてあるのですが、一体どのように使われるのか判然としません。
通常であれば、ついでのついで、せいぜい物入か何かに活用する程度の、ひどく使い勝手の悪いスペースではあるものの、ちょうど坂道からアプローチした目線の高さの、しかも真正面に位置しているものですから、実は計り知れない可能性を秘めているのではないかと確信させるだけの、ただならぬ存在感です。

過去の資料によると、雑誌に掲載された竣工時の写真からは既にそれらしき存在が認められるものの、あいにくサイズがちいさすぎるため、やはり、どのような用途に用いられたのかまでは分かりません。 何しろ、人が立って行動できるのはドアのある手前側半分までで、それより奥は頭がぶつかって、まともに機能しないような有り様なのですから。

更に調べるうち、オープンから10年ほど後の1980年代にローズガーデンを撮影した、数枚の写真に出会いました。 そこには、からりとした晴天の下、レンガ貼りの外壁にはところどころツタが絡まり、既に北野の風景の一部になっている街並みの様子と、それから、広場を階段の途中から俯瞰した様子がはっきりと記録されておりました。
あのちいさな店舗のドアはすっかり開け放たれ、赤レンガとコンクリートで出来上がった簡素な広場には一面、色とりどりの花で彩られ、人々がくつろぎ、行き交う光景が…。 そうか、お花屋さんが入っていたのですね。
遅ればせながら、その時、この建物の名付けられた意味にようやく気付いたのでした。
 
01月25日(金)

祈りの部屋

「祈りの部屋」 と呼ばれる小部屋に通された時は、本当に運がよかった。 案内に立った方がついうっかりしていたのか、それとも、単に電気代を節約したかったのか、あるいは、たぐい稀な審美眼を持ち合わせていたのか。
親切心で後から天井に取り付けられた蛍光灯に照らされるはずだった10畳くらいの居室はほの暗いまま、奥につながる4畳ほどのささやかなスペースを、北向きの窓から忍び入るおだやかな自然光のなかで目の当たりにすることができたのですから。
そこには、ちょっと経験したことのない、濃密な空気が流れていました。

滋賀県近江八幡の、伝統的な町家が建ち並ぶ狭い通りをふらふらさまよっていると、十字路の角っこに、からりとした表情の教会がいい按配で街並みに溶け込んで、その隣に木造二階建ての西洋館が、控えめな容姿で静かにたたずんでいる様子に気づくことでしょう。
この西洋館は 「アンドリュース記念館」 と呼ばれ、通りをはさんで向かいに建つ、これまた物静かな牧師館ともども、 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories) によって昭和初期に設計されたと伝え聞いております。
ところが、アンドリュ-ス記念館の解説にはしばしば、1907(明治40)年に竣工した ヴォーリズ建築第一号 といった紹介がされているのです。 教会のそばに、YMCA(基督教青年)会館があったということは知っています。 確か、ヴォーリズに関する書籍に記された年譜では、現存しないことになっているのに…。
これはもう、普段からヴォーリズさん、ヴォーリズさんと呼び親しんでいる地元の皆さんに聞くしかないな ということで、実際そうしてみました。 すると、訳あって、もともとあった建物を東の方向に移動しているが、移築にあわせて、ヴォーリズさんによっていろいろと手が加えられたのではないか。 火災で失われたという話もあるようだが、大した火事ではなく、当時の部材は残されている。 最初のヴォーリズ建築というのは確か とのことでした。 これでひと安心です。

館内を拝見したところ、日当たりのよい南半分を集会のためのスペース(※ 1階は板張りの西洋間、2階は畳敷きの日本間)に、北半分は1・2階とも個室に充て、中央の階段室とホールを介してつながっているという、用途と機能に応じて明快な部屋割りが成されています。 ただし、完全に当時の姿をとどめているのは、1階の北東角にあるひと間続きの居室と小部屋のみのようです。
ここは、ヴォーリズが建設当初から7年間を過ごし、まだ来日間もないヴォーリズと、彼の活動に共感する人たちが祈りを捧げた思い出深い場所なのだそうです。

残された資料によると、一番最初の平面プランと現在の平面プランではかなり様変わりしていて、まったく同じ状態なのは、記念室として保存されている前述の二部屋のみのようです。 しかも、その二部屋はもともとは2階の東北角にあったものを、なにもかも、そっくりそのまま1階に移設しているらしいのです。
変更点は平面プランだけにとどまらず、仕上げにまで及んでいます。 ちなみに、はじめ1階は集会場として外部にひろく解放され、親しみやすい雰囲気とし、逆に2階は、ヴォーリズの住まいと寄宿生たちの部屋が設けられたプライベートな空間として設計されており、眺めのよい窓が踊り場に顔みせる、あのゆったりとした階段室も影を潜めているようでした。

また、当時の記録によると、外部は柱、梁をむき出しにしっくい壁で塗りこめた、いわゆる 真壁造 で、地面に近い腰まわりのみ羽目板が張られている、当時の一般的な住宅の仕様にならっていること。 屋根は、入母屋のゆるやかな瓦葺きでやはり伝統に従い、レンガ積みの煙突が立ち上がっているのと一部西洋風の開き窓があることを除けば、ヴォーリズ建築でお馴染みの西洋館スタイルには、まだまだ程遠いように見受けられます。
内部も、柱をそのまま現しに土壁で仕上げた伝統の仕様ながら、使い方は完全に西欧スタイルで、床は板張りに、出入り口のドアは開き戸に統一されていたものと想像されます。
これは、仲間の建築技師たちとともに建築事務所を設立する2年あまり前の、建築家への夢よりもキリスト教の伝道者としての道を選び、商業学校の英語教師として来日した(建築界では)アマチュアとしての時代に、ヴォーリズと町家大工との二人三脚で成し遂げた、まだまだ 手探りの段階 であったことを物語っています。

事実、1935(昭和10)年、建築家としてのキャリアを積み、既に自身のスタイルを確立していたヴォーリズは、移築にあわせて、残された資材を再利用しながらも、プランや内外の仕様に大幅な変更を加えて、アンドリュース記念館に 第二の命 を吹き込みました。 ゆえに、年譜によっては、新たな作品として記録されていたとしても別段おかしくはなかったのでしょう。
ある意味、未熟な仕事でもあったアマチュア時代の作品を、その気になれば完全に修正させることも可能であったはずなのに、ヴォーリズはわざわざ1階に移設までして、部分的ではあっても当時のままの部屋を隠さず残そうとした。 その気持ち、人工照明の灯らない 「祈りの部屋」 の前に立ってみると、なんだか分かり合えるような気がします。

もともと、建築家としての素養は持ち合わせていたにしろ、なぜ一英語教師の身で、会館の建設に情熱を注いだのでしょうか。
資料によると、記念館名にもなっている ハーバート・アンドリュース という方は、ヴォーリズの学生時代からの親友であり、彼に導かれてキリスト教に入信した人物であったそうです。 しかし、若くして命を失い、愛する家族から託された資金に自らの財産を捧げて、近江八幡の若者たちが集い、学ぶ場所(YMCA会館)をつくりたいと願った という経緯があったからなのでした。
この建物は、後に建築設計や伝道活動にとどまらず、医薬品の輸入販売、医療福祉施設、教育施設を運営するために創設された近江兄弟社の出発点であり、夢の第一歩でした。 だから、わずか数名の創設者たちが祈りを捧げた部屋だけは、当時のまま、ありのままの姿で残したかったのでしょう。

祈りの部屋

祈りの部屋に身を置けば、建築の専門教育を受けていなかった26歳の青年ヴォーリズが、どのようにしてこの空間をつくり上げたのか、想像せずにはいられません。
専門教育を受けなかったことは、決して不幸でも、不利でもありません。 時として、勝手に植えつけられた知識はかえって邪魔にすらなるもので、本質が伴わないのに表面ばかり取り繕った、理屈っぽい建築ほど無意味でつまらないものはありません。 だから、知識や理屈に縛られず、ありのままの自分として建築に接し、アイデアを素直にカタチにできる人はとても幸せなのです。

わずか4畳ほどの小部屋は、当時どこでも目にするような、特別高価というわけでもない、ごくごく一般的な杉材の柱と、同じく杉板の棹縁天井、建具の上部に揃えて通された付け鴨居といった、典型的な日本間の仕様になっています。
これは、普請を請け負ったのが町家大工ということもあったのでしょうが、まだヴォーリズ自身、頭のなかで想い描いた空間のイメージを、具体的に伝える術を知らなかったということが、その理由として考えられます(※ ヴォーリズは後に、帰米の折に建築を視察し、専門書を取り寄せ独学することで、これを克服しています)
ただ、いくら床が板張りで暖炉が設けられていたにしても、ちゃんと西欧スタイルになっているのはさすがとしかいいようがありません。 そのわけは、建具の背の高さと天井高さが、椅子座の暮らしにふさわしい適切な寸法に設定されているからなのでしょう。 おそらく、いまだに日本の洋間がへんてこなのは、表面ばかり真似ていても、寸法設定が中途半端に和風していることに、設計者自身が気づいていないからではないでしょうか。

椅子座の生活に板張りということですから、床と壁との取り合いには、抜かりなく巾木が取り付けられています。 これも、普通の感覚では 「変だな」 となってしまうわけですが、不思議と違和感なく収まっています。
なるほど、実用性を考えると巾木はあって然るべきで、柱に付け鴨居が取り付くのと同じ考え方を巾木にも応用し、しかも、寸法設定が適切なので成功しています。 何のしがらみもなく、素直に建築に接する気持ちを失わず、もともとこの国にある材料、与えられたものをきちんといかす設計ができている証拠です。

けれども、ヴォーリズにも失敗がないわけではありません。 これは単なる想像にすぎませんが、設計の時点で、彼は暖炉の据えられた祈りの部屋と隣の居室とを、引き違いの建具で仕切れるようにしたいと考えていたのだろうと思うのです。
いくら暖炉があるとはいえ、冬は琵琶湖からの風が吹き付けて寒さが身にしみる土地柄ゆえ、建具で仕切って部屋の気積をちいさくしたほうが暖かく過ごせるに決まっていますから、考え方としては理にかなっています。 暖炉を使わない時は、建具を開け放ってひろびろ使うことも可能となる、日本の作法を取り込んだ、柔軟で機知に富んだアイデアであったといえます。
しかし、いざ室内の造作がはじまり、二部屋の間に鴨居が取り付けられた段階で完全に建具で仕切ってしまうと、空間がいささか窮屈に感じてしまうことに気づいたのではないでしょうか。 そこで、出来上がった鴨居はそのままにしておいて、敷居はすぐさま取りやめる方針とし、基本的に二部屋をひと間続きとして利用することに決めたのだろうと推察されます。
これにより窮屈さは解消され、建具を入れなくても鴨居の上には小壁が、両端は柱があるために、空間としてはなかば分節されることになり、小部屋特有の包まれるような心地よさは残されたのでした。
当時の暮らしを撮影した写真によると、寒さに対しては居室側に薪ストーブを置いてしのいでいたようですし、必要に応じ、二部屋の間にカーテンを取り付けて軽く仕切る、といった使われ方がされていたようです。

アンドリュース記念館が夜の帳に包まれる頃、しんしんと冷え込む冬の日。 あたたかな暖炉の炎に誘われるようにして、ヴォーリズを慕う青年たちが寄宿室から一人、二人と、祈りの部屋を訪れる姿が目に浮かびます。
4畳ほどの小部屋には、居室側からだけでなく廊下からも直接出入りすることができ、設計者のこころ遣いから、がっしりとしたドアには透明のガラスが入れられてあるので、暗がりのなか、ゆらぐ炎の明かりを頼りに、誰言うでもなく自然とこの部屋に集まってくることができたのでしょう。
暖炉脇のコーナーには、簡素ながら、さも居心地のよさそうなベンチが造り付けられてあって、寒さを忘れ読書にいそしむことができる。 ベンチの上と、それから暖炉の上にもずらり洋書が並んでいて、まだ知らぬ多くの知識に授かることが許される至福の場所。 そして、そこには必ずヴォーリズのやさしい笑顔があった。
暖炉を囲うようにして、夜が更けるまでヴォーリズとこの地の青年たちは聖書など朗読していたのでしょうか。 だから祈りの部屋は、この青年たちによって名付けられたのだろうと、僕は想像しています。