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アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

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06月23日(土)

ババグーリの蚊取り線香入れ

ヨーガン レール(Jurgen Lehl) というと、有名百貨店などに店舗展開している、主にレディスのブランドを手がけるテキスタイル・デザイナーといった印象があり、あまり詳しくは知りませんでした。 僕に限らず男性であれば、だいたいこんな感じだと思います。
2006年頃に、 「ババグーリ(Babaghuri:インドでとれる瑪瑙のこと)」 という手づくり色を高めた別ブランドを立ち上げ、衣類以外にも器や家具など生活用品の販売を本社倉庫ではじめたと聞いた時も、非凡な審美眼に感心しつつも、どこか西欧人が陥りがちなトロピカルなアシアの味付けが混在する作風には、気持ちは分からないでもないけれど、ちょっとついて行けないところがあって、まるで野生動物のように距離置いて恐る恐る眺めていた という具合でした。

ところが、ある専門誌で彼のモノづくりの根本に焦点をあてた興味深い記事を目にしてからは、隠されたベールの向こう側に見え隠れする、真摯なモノづくりの姿勢に遅ればせながら気がついた次第です。
その記事には、ババグーリ・ブランドで取り扱ってる製品の写真がいくつか掲載されていて、今ではすっかりお馴染みの、どこからかほんわかゆるーい空気が流れてくるような、自然界にあるモノたちから写し取った無国籍デザインたちに混じって、20世紀前半にドイツで誕生し、当時の建築や工業デザインの世界に多大な影響を与えた バウハウス(Bauhaus) の、合理的かつ機能的なデザインの流儀を汲んだかのような、およそヨーガン レールらしからぬ きりり とした面持ちの蚊取り線香入れが、鉄仮面みたく無表情に並んでいて、しかも、それが南部鉄器だというのですから驚きました。

普通 蚊取り線香入れ と聞くと、ぺらぺらのブリキ製であったり、あるいはブタを模した陶器製に象徴される、いかにも南向きの縁側が似合いそうな、気取りのない、のーんびりとしたイメージがあるのに、これは一体どういうことなのでしょう。
そもそも南部鉄器は、東北岩手で手がけられる伝統工芸で、茶釜や鉄瓶に使われるような、ずしりと重厚な印象があり、お世辞にも生産効率がよいとはいえない、工業製品とは程遠い存在です。 もちろん、近年では鍋やフライパンなどの調理器具にも応用されて、随分と現代的になってはおりますが、ババグーリの南部鉄器は、それらとは似ても似つかない 異質なモノ のように思われます。 こうなると、実際にこの手で使ってみるほかありません。

はじめて目の当たりにする南部鉄器は、とろとろに溶かされた鉄を鋳型に流し込んで成型される 鋳物製品 ですから、薄い鉄板を折り曲げて出来上がる板金加工と違ってがっしりと厚みがあり、表面は錆びないよう、実用性を考えて漆が焼き付けられています。 いかにも 鉄仮面 といった表情は、余計な装飾を良しとしない質実剛健なドイツ人の気質と(※ ヨーガン レールはドイツの出身です)、東北の厳しい寒さのなかで培われた寡黙な職人技が出合ったことで成し得た、ある意味偶然の産物なのでしょうか。

ババグーリの蚊取り線香入れ

分からず屋の頑固者といった、どうにも手ごわそうな雰囲気を醸し出している理由は、南部鉄器ということに加え、表面に開けられた穴が、普通の蚊取り線香入れに比べて相当に少ないからなのだということに気づきます。
蓋をされたなかで線香が燻るためには、酸欠にならないよう、常に新鮮な外気を取り込む必要があるので、当然ながら入れ物はそこそこスカスカしていることが大前提なわけなのに、意図的にそうなってはいません。 ある程度のリスクは承知の上で、かろうじて燃え続けるぎりぎりの空気を取り入れる穴と、煙が出てゆく穴を計算ずくで開けているのでしょう。
蓋をすると線香がまったくみえないくらいに閉鎖的な蚊取り線香入れなんて、史上初の試みかもしれません。 よっぽどの理由がなければ出来っこない、本気でモノづくりに取り組んだ証拠です。

一見すると無表情な鉄仮面にも、僅かながらチャームポイントがあったりもします。 円形の上蓋に開けられた五つの丸い穴(※ この穴が煙の出るところ。一方、側面の縦長のスリット部が空気の取入れ口)が、大きさも間隔もてんでにばらばらで、意外にもとぼけた表情を垣間見せる、何とも不思議な魅力を放っているのです。
機能や効率を重視すれば、おのずと規則正しいデザインになるはずなのに… と、20世紀の工業デザインに慣れ親しんだ目からそんな解釈をしたとしても、別段おかしくはありませんが、モノづくりの奥深さというのは結局使ってみなければ分からないもので、試しに渦巻状の蚊取り線香に火を着けると、外側からじわじわ、ぐるぐると、昔のレコード盤のように円弧を描きつつ中心へと近づいてゆくことは、おそらく皆さんご周知のことでしょう。 つまり、煙の位置は時とともに移動し続けるわけで、 ひと所にじっとしているのではない という理屈になります。
不規則に開けられた(かのような)大小の穴は、その時刻、たまたま通りかかった最寄の開口が軌跡に一致すれば煙の出口となり、自然、煙の出る位置や量は時々刻々移ろい続ける という、まるで生きているかのような視覚的演出が仕掛けられている。 機能上不可欠な開口部と渦巻状になった線香の特徴を活かしきった、偶然でも見せかけでもない、高度なデザイン手法に裏づけされた 確信的な仕事 だったのではないかと。

モグラたたきの速度を数百分の一でスロー再生したみたいに、思わぬ位置から煙が顔出すすこぶるのどかな情景は、蚊取り線香入れが無表情であればあるほど、肝心の煙がひと際いきいきと、しかも驚くほど悠長に時間を刻む。 この ゆるーい感じ をヨーガン レールは、モノづくりを通して伝えてみたかったのかもしれませんね。

ババグーリの蚊取り線香入れ
 
05月26日(土)

ユネスコ庭園

ずっと気づかなかった…。

以前から、本棚の片隅に一冊の洋書がありました。 1958年にイサム・ノグチが手がけた、パリのユネスコ本部のための庭園のみに焦点をあてて執筆された本です。 数多あるイサム関連の書籍のなかでも、かなりマニアックな部類に含まれるといえるでしょう。

NOGUCHI IN PARIS: THE UNESCO GARDEN
「NOGUCHI IN PARIS: THE UNESCO GARDEN」 MARC TREIB 著 (
UNESCO PUBLISHING)

もし、日本の庭園に造詣の深い方々がユネスコ庭園を評するとしたら、多少なりとも困惑するに違いありません。 それどころか 「こんなの日本庭園じゃないよ」 といい出すやも知れません。 けれども、それは致し方ないことではあるのです。

イサムは日本各地の優れた庭園を訪ね歩き、作庭家として名高い重森三玲の助言を受けながら庭石を探し、パリに送り届けた上で京都の庭師と協働で二年余りをかけてこの庭をつくり上げたと聞いております。 サクラ等の主要な庭木も日本から苗木を送って植えているようですから、確かに日本庭園の血統は十分に受け継いであるはず。 それにもかかわらず、こころのどこかで 「これは日本庭園なのだろうか?」 と自問自答してしまう正直な自分が、どこかにいるような気がしてなりません。
やはり、日本の伝統を意識しすぎたイサムらしからぬ仕事なのだろうか と、後年、幾つものイサムらしい庭園を成し得た輝かしい功績を知るものとしては、彼のキャリアのなかでも初期のランドスケープ・デザインに位置づけられるユネスコ庭園の存在は、結局 芸術家ならではの難解な作品 といった煮え切らない解釈のまま、本棚の陰で身を潜め、いたずらに時間だけが過ぎてゆきました。

ところが何かの折に、ふと手に取った表紙カバーの一部がトレーシング・ペーパーのように透けていることに気づき、何気なくめくってみると、そこにはユネスコ庭園の魅力を余すところなく表現したグラフィカルな(本当の)表紙が隠されてあり、このひろい世界でイサムだけに表現し得る美しさと、唯一無二の独創性を驚きとともに再認識したのでした。

NOGUCHI IN PARIS: THE UNESCO GARDEN

この表紙、 ナスカの地上絵 ではないけれど、単純な(しかも、自然界には存在しない人工的な)線のみの組み合わせで表現された庭の輪郭からは、はっきりとした意思(あるいは作為)を感じられ、日本庭園が身上とする曖昧にぼかされた捉えどころのない輪郭とは根本から表現方法が違っています。

ユネスコ庭園は、パリの市街地の、しかも近代建築の粋を尽くしたビルディング(※ 8階建ての本館+5階建ての別館)に囲まれた特殊な条件下にあるわけですから、そもそも伝統の日本庭園を忠実に再現すること自体意味を成さない と、そのように考えた(であろう)イサムは、生来表面的なしがらみからは自由な人ゆえ、日本庭園の精神を彼なりに咀嚼して、日本の材料と職人の技術、それに西欧の材料と職人の技術をミックスするという、国際的な視点とたぐい稀な感性を兼ね備えた芸術家だけに許される型破りな手法でもって、文化を通じて世界をひとつにする というユネスコの考え方にふさわしい空間を創り出そうと意図したのではないだろうかと、おぼろげながら気づいた次第です。 この庭は、イサムの空間芸術への長い長い旅の出発点であると。

ユネスコ本部

職員たちが働く、モダンなガラス張りの本館や別館のオフィス内から庭を眺めると、自ずと上方から見下ろすことになりますが、このような近代的なビルディングに切り取られた環境下においては、輪郭のぼやけた日本庭園よりも全体構成のはっきりした西欧庭園の方が 作品 という意味では優れているといえるでしょう。 だから、自然石と苔に覆われた土とがやわらかなラインを描く日本庭園の定石を、ここではあえて放棄して、かわりに近代建築のありふれた素材であるコンクリートで翻訳され描かれた、芸術家ならではの一見不可思議なラインを 良し とした。 そう、あの隠された表紙のデザインです。

驚くことにユネスコ庭園は、ナスカの平面的なそれとは違い、高低差を駆使した立体造形に基づいて構成されていたのです。
ナスカの地上絵は、地面に立った状態ではその存在に気づく人は皆無ですが、ユネスコ庭園は、庭に身を置くことではじめて、地面のうねりが生み出す表情や絶え間なく流れる水の音を感じ、ぐるり回遊することで20世紀を代表する芸術家の作品を体感できる。 しかも、時とともにうつろう樹々たちを味方に季節ごと、 たった一度きりの空間芸術を垣間見せてくれるはず。

この庭は、全体を見下ろす 「上方からの視点」 と、回遊する 「人の視点」 という、相反する二つの視点から成立しているといえます。
強いて例を挙げるとすれば、西欧に対して日本。 それぞれの国の持つ良いところ。 つまり、異なる個性をひとつのカタチに融合することで生まれた…。 それはアメリカ人の母と、日本人の父を持ち、日本に住めばアメリカ人と呼ばれ、アメリカに帰れば日本人とささやかれ、本当のふるさとを捜して終わりのない旅を続けながら、結局帰る場所を 芸術のなか にしか見い出せなかった彼だからこそ成し得た、たったひとつの庭。 日本とか西欧とか飛び越えたそのまたずっと先の世界で、イサムは大地をまるごと彫刻していたのではないでしょうか。

ユネスコ庭園
 
04月25日(水)

本願寺伝道院の石像

京の街の知られざる魅力を堪能いただく方法を、ひとつ披露することにいたしましょう。

観光地とは無縁の、さして広くはない油小路通を北から南へと縦断してみるのも一興 ということで、 かつては畑や野原が一面にひろがっていたであろう、いかにも家庭的で堅実なサラリーマンが好みそうな、昭和初期に造成されたであろう閑静な住宅地を抜けると程なく、何かの拍子で一筋東の小川通に吸収される頃合いに、茶の心得のない者にはいささか肩身の狭い、伝統を重んじる裏千家のお屋敷が発する厳格で底知れぬ奥行きに少々おののきつつも、いつの間にやら異世界から再び現実世界(油小路通)へと合流し、こちらも450年もの歴史を有する樂焼の窯元が代々住まいとする樂家の醸し出す、機転の利いた洒脱さにほっと一息き着きながら、ぽつぽつと庶民的な町家が点在するまにまに、オモテの大通りからでは到底うかがい知ることなどできない、ウラの通用口越しにちらちら垣間見る旧堀川会館のひどく洗練されたたたずまいから村野(藤吾)建築の真髄に触れ、かつては職住が理想的に調和した商いの中心地であり、現在は住み手の気配すらも感じられない(表面だけ)ゴージャスなマンションに埋め尽くされた感のある絶望的な四条通界隈からは、それでもいにしえの美学を頑ななまでに伝承する秦家や野口家といった第一級の京町家が、分かる人には分かる本物の輝きを発し続けていたりします。

さらに南へと歩みをすすめれば、次第に庶民的な町家と 「地域に親しまれているな」 と直感するに十分な愛情に満たされた、昔ながらの小学校と幼稚園とが織り成す情景から、お世辞にもゴージャスとはいい難い質素で棘のない下町ならではの飾らぬ素顔に出会うことも夢物語ではありません。 ところが、五条通を過ぎる頃合いになると下町情緒はそのままに、得もいわれぬマイナーな空気感を漂わせるようになり、なんの予備知識もなく通りがかると、いえ、たとえ十分な知識をもって精神鍛錬を怠らず、万全の態勢で通りがかったとしても驚嘆しないわけにはゆかない事態に直面することでありましょう。

西本願寺の総門へとつながる、仏具店が軒を連ねるいかにも門前町といった風情にあふれた正面通と、くだんの油小路通とが交差する角地に100年以上も前のある日、忽然と姿を現した としか表現しようのない ただならぬ光景 は、本願寺関係の由緒正しい建物であろうことは重々承知のうえでも、奇抜で斬新な建物がそこらじゅうにあふれかえっている21世紀の現代においても際立って個性的かつ孤高の存在として君臨し、それにしては異国の香りと(意外にも)お線香の香りが妙にしっくりと似合う、もともとは真宗信徒生命保険会社の社屋として生を受け、 本願寺伝道院 の名でおなじみの歴史的建造物なのでした。

実際、この世に二つと現存しない前代未聞の仏教関連施設を前にすると、どうにもへんてこな印象を抱かないわけにはゆきません。 それは、本願寺伝道院を語る際にしばしば用いられる西洋と(中東辺りまでを含む)東洋の様式をミックスした不可思議さだけではなく、ある種独特のスケール感の方にこそ、むしろ摩訶不思議な空気がみなぎっている と表現しても過言ではありますまい。

写真をご覧になっただけではなかなか伝わりにくいかもしれませんが、京の伝統的な街並みにふさわしくこじんまりとした通りのスケールに対し、伝道院は眼前に立ちはだかる巨大な壁のような印象を否めないのがその理由で。 そうか、これは都市計画的な視点から通りの向こう側にある西本願寺の境内から眺めた時のバランスで決定したのかと思いきや、建物のシンボルともいえるドーム屋根の塔屋が変に大きく重々しくて、やっぱり足元から見上げた時のバランスから求められたような気はするのだけれど、人間の目線からでは建物の窓下の(重厚なレンガ造なのにわざわざ表面に薄っぺらなレンガ風タイルを貼っている)壁や床下通気口しか視界に入らず、周囲に手彫りの石材をめぐらせた縦長の窓も、凝った装飾が施されたテラコッタ製の屋根飾りも遥か頭上にあるわけですから、普通の人間 というよりも身長が優に4mくらいはありそうな巨人の視点から計画された とでも説明しなければ到底合点がゆかない出来栄えで、その証拠に、きちんとした書籍に掲載されている一流のカメラマンの手による美しい写真を注意深く観察すれば、おしなべて近くの建物の2階あるいはそれ以上の階(つまり、人間よりもずっと高い視点)から工夫して撮影されてあるはずです。

本願寺伝道院を設計したのは伊東忠太という人物です。 彼は辰野金吾(※ 東京駅の設計を手掛けた建築家です)を師とする近代建築の黎明期を支えた日本人建築家の第二世代に相当し、日本人としては初めてとなる建築史家であり、かつ大学教授と実務をこなすプロフェッサーアーキテクトでもあり、西欧のアーキテクチュア(architecture)という概念を輸入した際に 「建築」 という言葉(※ それ以前は「造家」という言葉をあてていたそうです)を用いるよう提唱した学者としての横顔からもお分かりのように、当時最新の西欧建築にとどまらず日本の伝統建築にも造詣の深い稀有な才能の持ち主でしたから、まだ20代の若さで 「平安遷都千百年記念祭」 の目玉事業である大内裏の復元プロジェクトに設計者として抜擢される、目もくらむような華々しい経歴をスタートさせました。
ただ、古都京都の威信をかけて取り組んだ大内裏の復元事業(※ 後に平安神宮の社殿となりました)も、用地取得や予算の関係から本来の平面計画を8分の5に縮小せざるを得ない現実社会の厳しい洗礼と机上の学問とのギャップが彼にとっていか程のものであったのか。 若き日の苦い経験がしこりとなって無意識のうちにも、後々手掛ける作品に対するスケール感に何らかの影響を及ぼしたのかもしれません。

裏千家の(良い意味での)厳格さがあるからこそ、樂家の洒脱さがこころの奥底に染み入るように、人間のちっぽけさを痛感しないわけにはゆかない伝道院の巨大なスケール感があるからこそ、つくり手の細やかな愛情がひしひしと伝わってくるのもなのか。 とにかく伊東忠太の功績を語るには、ちっぽけな人間の目線よりももっと低い場所で、テコでも動きそうにない小山のような建造物をしっかと護るように配された空想動物たちの存在を抜きにしてはいけないような気がするのです。

本願寺伝道院の石像

柵もしくは車止めのようなあんばいで、通りとの境界近くに てん てん てん と規則正しく並んだ子どもの背丈ほどの石柱のてっぺんには、これまた子どもの顔くらいの大きさの空想動物が彫られていて、秋祭りの獅子舞みたく子どもが泣き出してしまうような いかめしさ などこれっぽっちも所有しない、随分と親しみやすいユーモラスな姿をしています。

翼の生えた象や舌を出した狛犬、東南アジアあたりの神話にでも登場しそうな鳥もいれば 「となりのトトロ」 ばりにひどく歯並びのよい鳥がいる といった具合に、愛嬌あふれる空想動物をデザインしたのは、他ならぬ建物の設計者である伊東忠太その人で、もともと彼は画家を志していたものの、家族の反対によって(芸術に近い)建築の道に進んだ稀代の逸材は、単に機能をカタチにするにとどまらず、幼い頃から好きで好きで仕方がなかった妖怪(聖獣)たちの姿を想像し、その道の職人たちの力を借りることではじめて創造できる 建築 という手法でもって具現化する術に、歩むべき活路と使命を見出したからなのではないでしょうか。

下町の暮らしに相応しいヒューマンスケールの通りに面して、忠太の頭のなかで存分に想い描いた動物たちが建物を仏敵から護り、道行く人々の安全と幸せを100年以上にわたって静かに見守ってきたに違いありません。 その証拠に、買い物帰りのおばあさんが石柱のそばにちょこんと座って一休みしている姿をたびたび見かけますし、ちいさな子どもと前を通ろうものなら、まず間違いなく彼らとおんなじ目線に並んだ妖怪たちが気になって気になって仕方がなく、それはそれは熱心に会話してしまうものですから、お母さん方は時間に十分な余裕を持って出かけなければならなかったりもします。
では、どうしてこのような拠り所が成り立っているかというと… 、そう、建物のスケールを大きくすることで足元に人々がこころ許せる 隙 を生み出していたからなのです。
夢見るこころを失わない一流の建築家と、それをカタチにする術を身に着けた腕利きの職人とが心血注いでつくり上げた本願寺伝道院は、時間という名の試練を乗り越え、僕たちの心配などいとも軽々と吹き飛ばして、これからもこの街をしっかと見守り続けることでしょう。