プロフィール

アトリエかわしろ一級建築士事務所

Author:アトリエかわしろ一級建築士事務所
「がま口から建築物まで」
日々の生活につながっている モノづくり・住まいづくりのためのデザイン事務所です。

検索フォーム

04月06日(木)

片岡橋

鴨川の上流、御園橋に程近い上賀茂神社は、以前から好きな場所のひとつで、時折ふらり訪ねては散策しています。
本来は、一の鳥居から二の鳥居へと、白砂敷きの参道を道しるべに堂々歩みをすすめるべきなのでしょうが、どうも僕の場合、子どもの頃から脇道にそれる性質が多分にあるようで、向こうでさわさわと耳をくすぐる、ならの小川の端っこの通用口みたいなところからぐるり分け入ってまでして、せせらぎに沿ったでこぼこ道を選んでしまう。
そこには目立たないけれど、末社のお社たちが行儀よく、木陰にてんてんてん とささやかな居を構えてあって、ふとした拍子にちいさな飾り金具がきらりと輝くさまをみるにつけ、もはやここは神域なのだと気づかされ、曲水の宴のためのせせらぎが役目を終えて、ならの小川に注ぐ手前のちいさな木橋を渡ると、しばし水の流れから離れた深い木立のなか。 そこを抜けると自然、ぽっかりと開けた、神事の舞台となる明るく清浄なひろばへとたどり着きます。

どんなに古色を帯びても、尚モダンな気品を漂わせる土屋(つちのや)のそばは、葵祭に先立ち、十二単姿の斎王代が身を清めるならの小川が幾分川幅を狭めゆるゆると、ひとしお近しい存在に思われる。 ふたたび出合った流れに架かる木橋を渡れば、か細い道は、かつてのでこぼこ道から箒目もまだ新しく、生まれたばかりのような瑞々しい白砂へと姿を変え、すこぶるのどかな水の流れは知らず知らず分岐し、いつしか水音すらも聞こえなくなって…。 そうか、御物忌(おものい)川と名を変えたのだと悟る頃合い、行く手には、なかば木立に遮られながら、朱塗りの太鼓橋のすぐ後ろに、ちいさな桧皮葺きの廊橋が控え目に横顔みせるのでした。

片岡橋

音もなく、おだやかに流れる小川のせせらぎの向こう側には、山の谷間のささやかな土地にふさわしく、朱塗りの楼門がつましくたたずんでいて、対岸へ渡るには、少々遠回りするように 片岡橋 と呼ばれる廊橋をくぐる約束になっております。 それは、片岡橋のそばにある第一摂社の片山御子神社に参拝して、対岸の楼門奥の本殿へと参拝する慣わしがあるからなのでしょう。
本殿の彼方の神山(こうやま)と、周囲の地形と、樹木や、岩や、水の流れのまにまにめいめい配された社殿たちは、当然ながら左右対称でも、一直線でもありません。 最短距離ではない、ぐるり回り道の歩み方こそが、ここ 加茂の社の正しき参拝法 というわけです。

本殿を訪れる方々は、とかく、緑の山々を背景に、朱色がまばゆい楼門とその前に架かる玉橋に目を奪われがちです。 けれども僕は、その奥で幾分伏目がちに横顔みせる片岡橋に、殊更な感慨を抱いてしまいます。
か細い参道から、かろうじて垣間見る片岡橋の素顔は、意外なことに格式高い 唐破風(からはふ)造 だったりします。 唐破風というと、皇室ゆかりの建物に代表される、高貴な身分にある人のための門や玄関などに用いられている印象が個人的にはあり、実際それらのつくりはどれも、技巧を凝らした彫刻や飾り金物があしらわれ、巨大で、遥か見上げるように高々と掲げられているものばかりでした。 だから、唐破風は、正面から堂々のぞめるように配することで効果を発揮するものだと勝手に決め付けていたふしがあります。
にもかかわらず、ふと見上げると目の前にある片岡橋の唐破風は、手を伸ばせば届きそうなくらい思いがけず近くに居て、拒絶することも、威圧することもなく、空気のようにただただそこにあるばかり。

片岡橋

片岡橋は、門でもなければ玄関でもありません。 だから、固く閉ざされた扉はなく、この神域を訪れたいと願うすべての人々に、等しく行き来することが許される。 橋は閉ざすものではなく、つなぐために存在するのですから。
まわりは、本殿は無論、いかなる社殿の屋根もおしなべて優美で、ゆるやかな 反り を備えています。 すぐそばの片山御子神社もまたしかりです。 ふっくらとした山々を背景に、桧皮葺きの持つ反りのラインは、数多ある人工物のなかで、最も調和を成し得ている好事例といっても過言ではありません。 その山々のライン、更にきりりと反りのある屋根のラインを背景に、反った軒先よりもさらに低い位置で、たったひとつ、まろやかな むくりのライン を与えることで、その存在を限りなく抑えようと、いにしえの人々は考えたのでありましょうか。

なぜ唐破風なのか。 それは、この橋を渡ってみるとすぐに分かります。
廊橋のひろさは、間口二間弱、桁行き二間半といったところでしょうか。 川幅が3mにも満たない橋ですから、唐破風屋根の下を通り抜けるのは、ほんの数秒間に過ぎません。 それでも、唐破風特有のふんわりとした天井には、低さゆえ、独特の 包み込まれるような心地よさ があるのです。
その、包み込む感覚を損なわないよう、川の流れに面した開口部は、あえて大人の背丈よりも低くなるように抑えられています。 そうすると、おのずと視線は目線よりも低くなり、よどみなく、音もなく、ゆるゆるとした御物忌川のせせらぎがみえてくる。 水の音は聞こえなくても、目を閉じると、そばの拝殿の鈴がしゃらしゃらと軽やかに耳をくすぐる。 風が頬を撫でるのが分かります。 人も風も水も、鳥も虫も、桜の花びらさえも通り抜けてゆく。
何もかもが停滞せず、あらゆるものがゆるやかに流れてゆく。 これは日本の建築空間の持つ、最も優れた特徴に違いなく、 それが包まれる心地よさをも満たし得ることを、ちいさくて目立たない片岡橋から教わりました。

片岡橋
 
03月07日(火)

神戸女学院 講堂

周囲はどこにでもあるような住宅街なのに、桜並木が続くあの坂道の向こう側だけは、ずっと変わらずあり続けています。 きっと、この先いつまでも。

堂々とした正門の正面に、これまた堂々とした校舎がどんと腰据えた立派な学校は、世のなかに数え切れないくらい存在するかもしれませんが、神戸女学院のここにしかない、この場所だけの持つどこか懐かしい感覚は、ふんわりと盛り上がった西宮の丘の麓の、深い深い緑のなか、ぽつんと開いた坂道の先の愛らしい正門をくぐってみれば、どなたもご理解いただけることでありましょう。
控えめな正門のアーチをくぐると、いよいよ緑は濃く、しばらく歩かねば建物すら視界に入ることはない、樹間の長い長いアプローチ。

確かこの丘は、どなたかのお屋敷が建つ広大な敷地だったものを、1933年(昭和8年)、神戸異人館街の一角から移転した女学院の新たなキャンパスとして、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories)の設計によって生まれ変わり、以後80年以上にわたって大切に使われ続けています。 その長い時間と記憶の蓄積は、もともと自生していた樹木も、お屋敷として使われていた頃に植えられたであろう樹木も、校舎建設と共に植えられた樹木までもがすくすくと成長し、何もかもがすっかり馴染んでしまって、そんななか、丘の中腹のぽっかり開けたささやかな平地に安住の場を得たかのように、さも居心地よさそに収まった音楽館が、清楚な微笑でもって学生たちを迎えてくださる。
その脇から、ちょうど人がすれ違えるくらいの程よい道幅の階段や坂道を、てくてくと歩くうちに、ざわざわしていたこころも知らず知らず落ち着いて、ふと気づくと丘のてっぺんの、中庭囲うようにして建てられた四つの校舎へとたどり着くのでした。
丘のてっぺん といっても、パルテノン神殿のように威風堂々、建物むき出しというわけではなく、丘の尾根筋に沿って割合素直に配されて、のびのびと枝葉をひろげた、もう元からあったのか、お屋敷の頃からなのか、あるいはそれ以降なのかすらも判然としない樹々たちと同じくらい、すっかりこの地に溶け込んで、古いとか新しいなどといった概念すらも通り越し、振り向けば 「あっ、そこにいたのですね」 といったさり気なさで、クリィ-ミースタッコ壁に手焼きのスクラッチタイルを組み合わせたヴォーリズ特有のあたたかみのある校舎が、ただただ変わらずそこにある。 そっと見守られている時の何ともいえない幸福感 とでも表現したらよろしいでしょうか。

神戸女学院は、キリスト教信仰に基づいたリベラルアーツ・カレッジを実践する学校ですから、数多くの学部を有する総合大学のように大規模なものではありません。 それでも、中高部から大学までの幅広い年齢層の女子学生のための学び舎ともなれば、随分と立派な規模ではあります。 なのに、ほかの大学のように巨大で、一種の威圧感を与えることなど皆無です。
それは、ヴォーリズによって設計された校舎や宿舎が、丘陵地の地形にふさわしいサイズに分節され、おのおのの用途や機能にあわせ適度な距離感で配されているからに他なりません。 主要な校舎の幾つかは回廊によって結ばれていて、どこか修道院のような雰囲気が漂っています。
校舎の中廊下は行き止まりになることなく、適度に折れ曲がりつつ、緑濃い樹々のなかを縫うように回廊を介してつながっています。 そこはアプローチの坂道同様、かなりの長さがあるにもかかわらず、決して単調になることなく、肝心な場所にはアーチの窓や出入り口があって、ひとつとして同じではない多彩な風景を、まるで絵画のように切り取ってみせてくれるのです。 それは幻想などではなく、扉を開けて踏み出せば美しい風景の一部になることだって許される。 どこをとっても均等ではない、あなただけの大切な居場所が、どこかに必ず用意されているはずなのですから。

数多い扉の向こう側の風景のなかでも、とりわけまばゆい場所に中庭が挙げられます。
街の喧騒から深い樹々によって護られたキャンパス、さらに四つの校舎によって護られる という入れ子状の、芝生敷きの中庭を取り巻く長円形の散策路。 その中心にはささやかながら噴水とベンチがしつらえてあって、ひろびろした空間に身をゆだねるだけで何だか気持ちがすっとする。 それでいて、なぜかしっくりとした居心地のよさも残されています。 すべてが度を越さない。 こんなのを ヒューマン・スケール とでもいうのでしょうか。
実際、校舎へと続く坂道も、回廊も、中廊下も、ゆったりとした階段も、講義室も、どれもが必ず、人が心地よいと感じる適度なスケールに保たれています。 それでも、アーチ窓の向こう側には、深い緑やぬくもりのある校舎たちがちらりと横顔みせて、なにかしら視界が開けていたりするものですから、ちっとも窮屈に感じることはありません。 ほの暗い木陰や中廊下があるからこそ、中庭の芝生や噴水がひと際きらきらと輝いて目に映る。
しかし、クラス単位の比較的少人数であればこそ、心地よいヒューマン・スケールが成り立つわけですが、学校であれば当然、全学生が集まるような大空間も必要になるはずです。 そんな大空間を、ヴォーリズはどのようにして設計したのでしょう。

中庭を取り囲む校舎のひとつに総務館があります。 この建物はキャンパスの中枢機関にあたり、配置計画全体においても要の位置に相当しますが、同時に学生たちにとっても想い出深い特別な空間になっているのです。 総務館には、事務関連の部屋とは中廊下を隔ててチャペルと講堂が配されてあり、大学側、中高部側のどちらからも回廊を使って容易にアクセスできるよう考えられています。
チャペルは、純粋に祈りのための空間で、規模はちいさいものの、片側だけに設けられた側廊とその上部に穿たれた乳白ガラス製(※ おそらく)のアーチ窓からは、すーっと西日が差し込んで、ひんやりとした空気をあたたかくも神々しい、黄色い光へと染めてしまいます。 あたかも森のなかにぽつんと建てられたかのように、包み込まれるような小空間は、クラス単位での礼拝を想定して設計されたものなのでありましょう。
一方で、チャペルに隣接する講堂は、学院内でも(体育館を別にすれば)最も大きな空間になります。 床面積はチャペルの6倍くらいになるでしょうか。 専用のホワイエ(ロビー)、プロセニアム・アーチに縁取られたステージと各所に組み込まれたスチーム暖房設備(※ 現在は冷暖房空調機)、それに、二階席も備えた劇場にも劣らぬ立派な仕様は、全学生による礼拝や式典、講演等、多目的に利用されているものと思われます。

神戸女学院 講堂

講堂の壁は、一見したところ石を積み上げたように思われがちですが、少なくとも室内に石材は使われておりません。
誰かに指摘されないとなかなか気づかない仕上がりは、実のところ、天然自然の石ではなく左官職人の腕前によるもので、鉄筋コンクリートの構造体に、地元で調達できる良質の砂を応用した左官材でもって、手作業で石を積んだかのような表情にしているのだそうです。 石積みの目地だけでなく、表面の微妙な凹凸まで表現し、ベージュ系の塗装で仕上げてあるとのこと。
そのように説明しただけでは、あるいは安直なコピーのように受け止められるやもしれません。 本物を使わず、楽して誤魔化しているのだろうか… といった具合に。 けれども、それは間違っています。

教会など、西欧の伝統的な建造物には石を積み上げて構築された、重厚なイメージがあります。 それはそれで事実に違いありません。 ただし、そのような事例は、その土地に材料となるだけの石材がふんだんに調達できる環境にあってこそのお話です。 石が調達できない土地では、レンガ積みによる建物が発達したでしょうし、森林に恵まれた日本には、高度な木造建築の文化があるのです。
もちろん、莫大な財力をもってすれば、石に恵まれない土地でもはるばる遠方から運び込むことで、石を随所に使った校舎を実現することは可能でしょう。 ただ、神戸女学院の建設資金は、尊い募金によって得られたのだと聞いています。 贅沢な建物を好まなかったヴォーリズは、教育のための施設には何よりも品性が大切と考えていた人ですから、ほとんど石を用いなかったのもうなずけます。
そこで、モルタルやコンクリートのような、簡単に調達可能で安価な左官材をふんだんに用い、そのかわり、思う存分人の手を掛け、技術の限りを尽くしたのです。 当時、日本の左官技術は世界一の水準にあったらしく、ヴォーリズは西欧のよいところだけにとらわれず、日本のよいところにもきちんと目を向ける、柔軟な考え方ができる人物だったのでしょう。

それにしても、講堂のひろさと存在意義は学院内でも別格ですから、壁や柱の造作すべてを左官仕事だけでやりきってしまうなんて、とても尋常の沙汰ではありません。 一人や二人の職人で間に合うような規模ではないのは明らかで、限られた工期のなか、かなりの数の職人が高いレベルでもって、一糸乱れぬ行動をする必要があるわけですから、当の職人たちも内心は不安で仕方がなかったのではないでしょうか。
しかし、そんな気持ちとは裏腹に、未知なる仕事に対する前向きな姿勢と、困難に直面しても挫けない誇り高い職人魂がむくむくと頭をもたげ、 「腕が鳴るぜ」 などと粋なセリフすら飛び出したとしても、当然といえば当然です。 何しろ世界一の技術なのですから。
(専門の建築教育を経ていない)ヴォーリズのデザインは西欧の伝統だけでなく、日本からの影響も臆せず取り込んで、単なる他所からの借り物ではない、この場所でしか成し得ない、この場所のために捧げらたかのような素直で柔軟な発想に満ち溢れていました。 一見すると西欧的なまとめ方のようであっても、窓下にさり気なく波の模様を取り込んであったり、ふくよかなカーブを描くヴォールト天井はよくみると網代模様になっていたりで、さすがの職人たちも、こころのなかでは 「してやられたな」 などとつぶやいていたかもしれません。

講堂にもチャペルとまったく同じ、乳白色の特別な型板ガラスが用いられていますが、そこから導かれる光の様相は驚くほどに異なっています。 色がついていないステンドグラス と説明すればよいのでしょうか。 透明のガラスであれば、外光はほぼそのまま差し込むのに対し、どうも、乳白ガラスを透過する光は色温度の差によって色彩が変化するらしいのです。
講堂の北側にある縦長の大きなアーチ窓からの光は、(季節や時刻等によって異なるのかもしれませんが)僕の目にはほの白く、やわらかに映りました(※ 左右対称プランの講堂のアーチ窓は、北側と南側にそれぞれ設けられていますが、南側の窓は中廊下に接しており、間接光を取り入れているため、メインの採光は北側からとなります)
清浄な明かりによってほんのり照らされた室内は、重厚な石積みの建物とはやっぱりどこか違っていて、不思議と軽みすら感じさせる、ほんのりあたたかな空間だったのです。 それは人のスケールではなく、人の手による、あたたかな質感からつくり出された、どこか人間的な手技のにおいがしていました。
 
02月16日(木)

スタウト スカラブ

とある海外の美術館で、1930年代にアール・デコ様式の影響を受けて製造された自動車に焦点をあてた企画展が開催されている。 そんな、興味深い内容の記事を拝見したことがあります。

この時代、欧米ではモノづくりの機械化によって効率に重きを置いた工場での大量生産がひろがる一方、工業製品に昔ながらの熟練した職人技を巧みに融合することで、芸術性の高い付加価値を与えるという、ある意味で産業革命後の文化的な成熟期に到達しており、そのようなデザインの流れを総称して アール・デコ(Art Deco) と呼んでいたのかな と、不案内ながら個人的に解釈している次第です。
ただし、一口にアール・デコといっても、有機的なデザインから幾何学的なデザインまで様々で、とりわけ自動車業界においては、塗装やメッキ処理によってきらびやかに彩られた鋼板製のボディが複雑な流線形を描く、スピード感のあるデザインを好んで取り入れる傾向にあったといえるでしょう。

記事に掲載されていた展示車両の画像を拝見するに、コンピュータによる解析は無論のこと、大掛かりな風洞実験によって導かれた有用性の高い流線形というよりも、視覚的な格好良さによってもたらされる優雅で流麗な造形美に基づいて創造された、あくまでも作品的な意味合いでの流線形のようで、アール・デコならではの豪華さや上品さに目を見張りつつも、恐ろしく手の込んだ芸術的なボディも、そこは用途が乗り物である限り、空気抵抗の効果以前に、ちょうど西洋の甲冑のような、分厚い鋼板の重さから生じる負荷ゆえの根本的な矛盾があるのでは? との疑問を抱いてしまうのも仕方のないことなのかもしれません。
ところが、いかにも クラッシック・カー然 とした重厚で彫りの深い顔立ちのコレクションが居並ぶなか、どういうわけか一台だけ、正面からみるとのっぺりと扁平顔で、横からみると意外なくらいにゅるりと間延びした、どこやら愛嬌あふれる不思議なデザインの車が紛れ込んでおりました。
ちょうど昔、マンガやアニメで人気だったゴマフアザラシの赤ちゃん、あの 「ゴマちゃん」 そっくりな風貌で。

スタウト スカラブ

流線形の自動車といえば、上質なレザーに包まれた、少々窮屈な2シーターのコクピットがいかにも似合いそうな、スポーツカーとしての血統を正しく受け継いだすこぶるレーシーな姿を想像するのに、こと スタウト スカラブ(SCARAB) の場合、もうほとんど車輪が前後にはみ出してしまいそうなくらい、たっぷりとした車室が でん と用意された、さしずめ今の日本でいうところのミニバンにも似た、6人乗りのファミリー・カー とでも形容すればよろしいでしょうか。

思うに西欧の自動車というのは、馬車の車体に(馬のかわりに)エンジンを載せたのがそもそものはじまりなのでしょうから、バランス的に車室の後方にトランクを、前方に縦長のエンジンを据え、車輪は車体の側面にはみ出してフェンダーとランニングボードで体裁を保つ というのが当時の定石に違いなく、真っ当なアール・デコ様式の車両は、どれもこれらの基本的要素をきちんと踏まえた上で芸術性の高い容姿の優劣を競っていたはずです。 それなのに、スカラブに関してはどうも、発想の根本からしてすっかり異なっているようなのです。

そこで、生みの親である ウィリアム・スタウト(William Bushnell Stout) について調べてみると、1880年、アメリカ・イリノイ州生まれのこの人物は、若い頃に新聞のコラムを執筆していたこともある発明家気質の優れた航空エンジニアとして、1918年にデルタ・ウィングを搭載した今日のステルス戦闘機に相当する軍用機を開発。 その数年後には機体にジュラルミンを採用した、世界ではじめてとなる金属製の航空機を実用化したほか、自らの設計による旅客機で1925年、アメリカ初の民間航空サービスを開拓する等、航空分野において重要な役割を果たしただけでなく、航空技術を応用して鉄道やバスのような大量輸送が求められる旅客車両の設計までを幅広く手がけ、1930年代、満を持して自ら スタウト・モーター・カー・カンパニー(Stout Motor Car Company) をデトロイトに設立、(馬車をルーツとしない)航空理論に裏付けられた次世代の乗用車 「スカラブ」 を販売するに到ったとのこと。

技術は決して嘘をつかない。 そう信じて疑わなかった(であろう)、生粋のエンジニアであるスタウトは、空中を飛行する航空機と地上を走行する自動車との空力的な特性の違いから、まず、自動車に求められる理想的な形態として、底面が平たく上面がなめらかに弧を描く 亀の甲羅 のような姿に着目し、古代エジプト時代に太陽をつかさどる神の化身としてあがめられた スカラベ(※ scarabe : 日本でいうところの フンコロガシ に相当する甲虫のこと) をモチーフに車両の開発をスタートします。
ご存知のように、甲虫類は硬い外皮を骨格として成り立っているのに対し、馬車をルーツとする自動車は底面のハシゴ状に組まれたシャーシ-を骨格としていて、上に載せられるボディは構造とは無縁の(馬車でいうところの)幌に近い存在であり、走行時の剛性や安定性を考慮すれば、前者の方がこれからの自動車としてのあるべき姿に違いなく、実は、車体の外皮全体で応力を負担する モノコック構造 こそ、まさに航空機の設計で培われた技術そのものだった というわけです。

モノコック構造を応用した自動車は、軽く、かつ強度があるために自ずと車体の重心が低くなり、安定した走行が可能となるばかりでなく、工夫次第で合理的な車室空間を得ることにもつながります。 そこで、ゆったりとした内部空間を確保するためにホイールベースを最大限にまで広げて、重くてかさ張るエンジンを運転の邪魔にならない後端下部に配置し、最短距離で後輪を駆動します。
エンジン前寄りにコンパクトに組み込まれた3速マニュアルのギアボックスは、二重構造になった薄い床下スペースを利用し、ロッドによって運転席にあるシフトレバーと接続されるため、車室内の床は完全なフラット状態となり、フェンダーもランニングボードもない、甲虫あるいは亀の甲羅にも似た、旧来の自動車らしからぬすっきりモダンな容姿を纏うことになったのは、決して奇をてらった行為などではなく、むしろ、理にかなった正常な進化であったといえるでしょう。

スタウト スカラブ

もうひとつ、スカラブの特徴を挙げるとしたら、乗り心地や操縦安定性を大きく左右するサスペンションのメカニズムでしょうか。
当時の自動車に用いられていたサスペンションは、(馬車時代より引き継がれてきた)左右の車輪を車軸で連結し、板ばねで吊られた 車軸懸架方式 が一般的であったのに対し、ウィリアム・スタウトは、現在みられるようなコイル状のばねに左右の車輪がそれぞれ独立して作動する 独立懸架方式 を、地上を走行する車両にいち早く導入します。
この恩恵によって、路面の追従性や安定性、静粛性に優れる結果となり、とりわけ高速時においては良好なハンドリングとハンモックのような快適な乗り心地がもたらされ、低くて平ら、しかも広々とした車室内に運転席以外のすべての座席が自在にレイアウト可能な居住性の高さから推察するに、ミニバンというよりもリムジンに近い、どこにでも移動可能な リビングルームのような乗り物 と評してみても、あながち的外れではないはずです。

古典的な馬車をルーツに粛々と歩みを進めてきた数多の自動車と、航空機の先進的なテクノロジーを惜しげもなく投じて彗星のごとく現れたスカラブでは、歴史上は アール・デコ という同一のカテゴリーにありながら、華やかに彩られたボディの中身は明らかに別次元のメカニズムで、それに伴うコストを反映すれば、そして、有名メーカーの流麗な容姿に身を包んだ高級乗用車が何台も購入できてしまう、恐ろしく高額な、(世間一般には)無名に等しいメーカーの、ゴマフアザラシみたいなのっぺりとした容姿の超高級車とをハカリにかければ(※ まだ 「ゴマちゃん」 のゴの字もなかった時代です)、いくら自動車王国アメリカの富裕層であっても、その隠された潜在能力をきちんと見抜くに値する確かな審美眼の持ち主はそれ程多くはなかったとみえて、スカラブは、わずか6台(9台とも伝えられています)の販売台数にとどまったのだそうです。

それでも、ウィリアム・スタウトは高い志を失うことなく、(市販化には到りませんでしたが)世界初のグラスファイバー製ボディを採用した 新型スカラブ や、まるでコンパクトカーと小型飛行機を融合したかのような スカイ・カー(Sky Car) と名づけた夢の空飛ぶ乗用車の開発に生涯かけて取り組み続けた、とことん乗り物好きな、そして、数少ない本物のエンジニアであったことだけは間違いありせん。 なぜなら、製造後80年あまりを経た現在でも5台ものスカラブが実動可能な状態で保管され、あの歴史に名を残すきらびやかなアール・デコ時代における自動車コレクションのなかで、ひと際まぶしく輝いているのですから。